今週の説教「平和を実現する人々は幸い」(新約聖書・マタイによる福音書5章9節)

📅今週の予定

10/8(月・祝)大会(8日[水]まで)

10/11()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

10/12()それぞれの置かれた場所での祈り(9:00-9:1021:00-21:10)

10/14()奉仕前祈祷(受付以外の奉仕者、10:15-10:25)、礼拝(江古田・高島平・光が丘の三教会講壇交換、10:30-12:00)、お茶会(12:00-13:00)、ゴスペル練習(13:00-14:30)、掃除

 

🎤10/14()の説教:新井主一牧師(高島平)

聖書・ルカによる福音書1831-43

説教題「盲人の信仰」

賛美歌・120323845853665-12740-5

 

📅来月までの教会の行事

11/18()クリスマス飾りつけ

 

📅来月までの中大会の行事

11/3(土・祝)近隣三教会一日交流会

11/11()東部中会教会教育研修会

11/18()埼玉西部地区運営委員会

11/23()東部中会第二回定期中会

 


第12回 凪ゆうこチャリティー・ゴスペル・ライブ

 

2018年10月28日(日)14時30分から16時30分

 

 

 

凪ゆうこ

 

ハロージャンボ音楽祭全国大会でグランプリを受賞。

 

NHKテレビアニメ、「未来少年コナン」の主題歌を歌う。

 

第三回NHK子どもの歌コンクールに入賞。

 

現在、全国の少年院、刑務所、児童養護施設や東日本大震災の被災地で慰問活動をしながら、学校、病院、教会などでも弾き語りを行っている。

 

当教会のゴスペル・スクールの講師。

 

 

 

収益は被災地に全額寄付されます。

チケット/予約1,000円・当日1,500円・小学生以下500

 

 

 

凪ゆうこゴスペル・スクール

生徒募集中!!

受講料

3ヶ月3,000円・トライアル1回500

第2日曜13:0014:30

第4日曜14:0015:30


「平和を実現する人々は幸い」

 

マタイによる福音書59

 

平和を実現する人々は、幸いである、

 

その人たちは神の子と呼ばれる。

 

 

 

 

 

今日は初めて、何かをする人々が幸いであると言われていますね。

 

今までは、どういうような人が幸いであると言われていたんですが、今日は初めて、何かをする人が幸いであると言われています。

 

「平和を実現する人々」と聞きますと、皆さんはどういう人をイメージしますか。

 

何だかはっきりとはイメージしにくい感じがします。

 

この「平和を実現する人々」という言葉は、他の翻訳では「平和を作り出す人々」となっています。

 

自分の手で平和を作り出していくこと。

 

何だかすごい感じですね。

 

これは気を付けたいですが、「平和を求める人々」ではないんですね。

 

「平和を求める人々」だったら私たちは皆当てはまります。

 

けれども、ここではそういうことが言われているわけではないんです。

 

「平和を実現する」というのは、自分の手で平和を作り出すことです。

 

そして、平和を作り出さなければならないということは、そもそもそこに平和がないということになりますね。

 

争いの中にあるわけなんです。

 

けれどもそこで、問題を解決して、良い関係を作り出す人。

 

悪い関係を良い関係に変える人。

 

それが「平和を実現する人」なんですね。

 

「平和を求める人」というのも結構なことですよね。

 

でも、平和を求めるだけで、平和が実現するかどうかは分かりません。

 

今日は、「平和を実現する人」について言われているんです。

 

これは、「平和を守る人」のことでもありません。

 

もちろん、平和を守るために動くのは結構なことです。

 

けれども、平和を守る、と言ったら、とりあえず平和がそこにあるんですよね。

 

それが続くように守る。

 

それは、今日の話とは違います。

 

今日の話は、「平和を実現する」ということです。

 

とりあえず今はそこに平和がないんです。

 

その中で、平和を作り出す。

 

それが今日の話です。

 

 

 

争いの中に置かれて、平和を作り出すということ。

 

これは大変に難しいことです。

 

争いというのは、お互いが自分の正しさを主張するところから起こってきます。

 

「自分が正しい。相手が間違っている。だから、相手が自分の言っていることを受け入れればいい。そうすれば平和が実現する」とお互いに思っているんですね。

 

それで、争いになるんです。

 

国と国でも、人と人でもそうですね。

 

お互いがお互いに自分が正しい、相手が間違っている。

 

その相手をやっつけてやろう。

 

そうすれば平和になる。

 

そう思っていると、争いが起こります。

 

自分が正しいと思っていればいるほど、争いは激しくなります。

 

最後にはどちらかが相手を打ちのめして決着がつくわけです。

 

ここで争いは終わります。

 

しかし、それは平和と言えるでしょうか。

 

平和を作り出したと言えるでしょうか。

 

自分が勝ったら勝ったで、最初から自分が正しいと思っているわけですから、なんでこんなことで争わなければならなかったんだろうと思いますね。

 

自分が負けたら負けたで、でもやっぱり自分が正しいと思っていますから、考えが変わるわけではありませんから、納得できないですよね。

 

決着がついたら争いは止むんです。

 

ですけれども、争いが止んだら平和かというとそういうわけではないですよね。

 

心の中は全然平和ではありません。

 

それでは、いつまた争いが起こるか分かりません。

 

 

 

それなら、最初から争わないというのはどうでしょうか。

 

しかし、そうなりますと、大変な我慢をすることになりますね。

 

何しろ、相手は自分が正しいと思っているんです。

 

どんどん要求してきますよ。

 

それに、自分だって自分が正しいと思っているんです。

 

相手が間違っていると思っているんです。

 

それを我慢するのは大変なことです。

 

全然平和じゃないですね。

 

 

 

では、私たちは一体どうすればいいのでしょうか。

 

争って、決着をつけるのはダメですね。

 

争いは止んでも、それだけでは平和とは言えないわけです。

 

争わずに我慢するというのもダメですね。

 

最初からどこにも平和がないわけです。

 

 

 

では、自分も相手もお互いに納得できるところで折り合いをつけるというのはどうでしょうか。

 

しかしこれも難しいですね。

 

争いがあるということは、お互いに自分が正しくて相手が間違っていると思っているということですから、どちらも納得できるところというのはないんですね。

 

例えば、自分と相手の真ん中あたりで折り合うということにしますと、それは、自分も相手もどちらも、我慢したくないところで我慢しなければならないということですね。

 

それは平和とは言わないんです。

 

そこで争いが止んだとしても、緊張は同じように続いているんですから。

 

 

 

一体どうすれば平和を作り出せるんでしょうか。

 

イエス様は言っています。

 

平和を実現する人々は神の子と呼ばれる。

 

神の子なんですね。

 

ただの人ではないんです。

 

ただの人では無理だとイエス様は言っているんです。

 

そうなるともう、あきらめそうになるし、あきらめてもいいんじゃないかとも思えてきます。

 

しかし、イエス様は私たちをあきらめさせるためにこんなことを言ったのではないはずですね。

 

何しろイエス様は「幸いである」と言っているじゃないですか。

 

イエス様は私たちが幸いであってほしいんですね。

 

あきらめて絶望してほしいのではないんです。

 

イエス様は私たちの幸いを願ってくださっているんです。

 

 

 

これは、ただの人には無理なことです。

 

でも、イエス様ならどうでしょうか。

 

イエス様こそ、神の子ですね。

 

そして、イエス様は平和を実現した方じゃないですか。

 

イエス様は、私たちと神様との間に平和を実現してくださったんです。

 

イエス様が来てくださる前、私たちはどうだったでしょうか。

 

神に逆らう者だったんですね。

 

聖書には、生まれながらの人は神に従うことができないと書かれています。

 

それが聖書で言う罪と言うことですが、そんなこと聖書に書かれていなくたって分かります。

 

人間は神に逆らうものです。

 

私たちは神の敵なんですね。

 

そこでイエス様は何をしてくださったか。

 

十字架にかかってくださったんです。

 

神の敵である私たちに代わって罰を受けてくださったんです。

 

十字架の周りにいた人たちは、イエス様に罪はないと知っていました。

 

それなのに、十字架につけろと叫んだんですね。

 

ある人は、自分の立場を守るために。

 

ある人は、勝手に期待していた期待を裏切られたと感じたために。

 

皆、同じことを叫んだんです。

 

自分は正しい。

 

イエスは間違っている。

 

その罪をイエス様は引き受けてくださったんです。

 

そして、十字架の上でも罪の赦しを祈ってくださったんですね。

 

私たちのために祈ってくださったんです。

 

自分は正しい。

 

相手が間違っている。

 

十字架につけろ。

 

これは全部、争いの中にある時の私たちの言葉です。

 

でもその罪を、神の子が引き受けてくださったんですね。

 

そして、それによって、神と人との間に平和が実現します。

 

神の子が代わりに罰を受けてくださったんですから、私たちにはもう、罰が下されることはない。

 

私たちはもともとは神の敵だった。

 

裁きを受けるはずなのは本当はイエス様ではなく私たちです。

 

けれども、神の子の十字架によって、人が罪をゆるされて神と共に生きていく道が開かれたんです。

 

これが神の子のやり方だったんですね。

 

神の子が平和を実現する仕方は、人の罪を引き受けるという仕方だったんです。

 

 

 

これは私たちの方法とは違いますね。

 

争って決着をつけるのではありません。

 

争わないで我慢するのでもありません。

 

話し合って折り合いをつけるのでもありません。

 

自分から人の罪を引き受けて、その中で赦しを祈って、そして、その後に復活した。

 

罪を引き受けて、それを赦し、最後には乗り越えたんです。

 

神の子はそのようにして、神様と私たちの間に平和を実現してくださっています。

 

そして、イエス様は、私たちのことを、家族であると、つまり、私たちも神の子なのだと呼んでくださる方ですね。

 

聖書にそういう言葉があります。

 

そして、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださる方ですね。

 

私たちは神の子とされているんです。

 

そして、すべてを乗り越えた神の子が共にいてくださっているんです。

 

 

 

マーティン・ルーサー・キングという牧師がいます。

 

黒人の牧師です。

 

1950年代、60年代のアメリカで、黒人の権利のために戦った人ですね。

 

ご存知の方も多いでしょう。

 

そのキング牧師は言いました。

 

「われわれは苦難を負わせるあなた方の能力に対し、苦難に耐えるわれわれの能力を対抗させよう。あなたがたのしたいことをわれわれにするがいい。そうすればわれわれはあなたがたを愛し続けるだろう。われわれはきわめて良き良心のゆえに、あなたがたの不正な法律に従うことはできない。なぜなら、悪と協力しないということは、善と協力するということと同じように道徳的義務だからである。われわれを刑務所に放り込むがいい。それでもわれわれはあなたがたを愛するだろう。われわれの家庭に爆弾を投げ、われわれの子供らを脅すがいい。それでもわれわれはあなたがたを愛するだろう。覆面をした暴徒どもを真夜中にわれわれの社会に送り込み、われわれを打って半殺しにするがよい、それでもわれわれはなおあなたがたを愛するだろう。しかし、我々は耐え忍ぶ能力によってあなたがたを摩滅させることをはっきり覚えておくがいい。いつの日かわれわれは自由を勝ち取るだろう。しかし、それはわれわれ自身のためだけではない。われわれはその過程であなたがたの心と良心に強く訴えて、あなたがたを勝ち取るだろう。そうすればわれわれの勝利は二重の勝利となろう」(『汝の敵を愛せよ』)。

 

キング牧師は、最初から乗り越えるつもりなんですね。

 

最初から乗り越えるつもりだから、こういうふうに言うことができるんです。

 

キング牧師がこのことを語った時、そんなことはできないと思った人もいたでしょう。

 

白人はこれを聞いて笑ったでしょう。

 

しかし、キング牧師はこれをやり通しました。

 

神の子だったからです。

 

神の子だけが、そうしようとすることができます。

 

神の子だけが、自分の敵に対して、「わたしはあなたを打ち倒す」ではなく、「わたしはあなたを勝ち取る」と言うことができるんです。

 

あなたを友として勝ち取る、と言うことができるんです。

 

自分自身が、十字架によって、神の子として勝ち取られたことを知っているから、神の子だけが、そうするんです。

 

そうでなかったらこんなことは考えもしない。

 

自分の罪も相手の罪も乗り越えて、平和を目指すことができるのは、神の子にだけ与えられた特別の権利です。

 

もちろんそれは楽なことではありません。

 

キング牧師のことで言うと、今も、黒人に対する差別がなくなったとは言えません。

 

しかし、一人の神の子が立ち上がったことによって、どうなりましたか。

 

60年前と今とでは、同じではないんですね。

 

いえ、まったく違うでしょう。

 

60年前、誰が、いつの日か黒人が大統領になると考えましたか。

 

世界のすべてではないかもしれませんが、彼は確かに世界を勝ち取ったんです。

 

神の子にはそれくらいの力があるんです。

 

力が与えられているんです。

 

神の子イエス様が一緒にいるんですから。

 

キング牧師にはできて、私たちにできないことがありますか。

 

条件は同じです。

 

神の子なんです。

 

そして、私たちの身の回りに起こる困難は、60年前のアメリカの黒人たちに比べれば、物の数ではありません。

 

キング牧師はこういう言葉をのこしています。

 

「疑わずに最初の一段を登りなさい。階段のすべてが見えなくてもいい。とにかく最初の一歩を踏み出すのだ」。

 

いつも、始まりは最初の一歩です。

 

最初の一歩からしか、何も始まりません。

 

けれども、その一歩を踏み出す時、主が、乗り越えて勝ち取る力を与えてくださるのです。

 


平和を実現する人々は幸い(使人和睦的人有福了)

 

今日は初めて、何かをする人々が幸いであると言われていますね。

 

  今天第一次讲到如何行的人会有福。

 

今までは、どういうような人が幸いであると言われていたんですが、今日は初めて、何かをする人が幸いであると言われています。

 

  之前讲的都是怎样的人有福,今天开始讲如何行的人会有福。

 

「平和を実現する人々」と聞きますと、皆さんはどういう人をイメージしますか。

 

  听到“使人和睦的人”,大家的脑海中会浮现出怎样的人呢?

 

何だかはっきりとはイメージしにくい感じがします。

 

  总觉得很清晰地轮廓浮现出来有点困难。

 

この「平和を実現する人々」という言葉は、他の翻訳では「平和を作り出す人々」となっています。

 

  “使人和睦的人”,其它的翻译还翻成“缔造和平的人”。

 

自分の手で平和を作り出していくこと。

 

   亲手缔造和平。

 

何だかすごい感じですね。

 

  感觉很了不起吧。

 

これは気を付けたいですが、「平和を求める人々」ではないんですね。

 

  这里想要大家注意的是,并不是“渴望和平的人”。

 

「平和を求める人々」だったら私たちは皆当てはまります。

 

  “渴望和平的人”的话我们大家都是。

 

けれども、ここではそういうことが言われているわけではないんです。

 

  但是,这里说的并不是这个。

 

「平和を実現する」というのは、自分の手で平和を作り出すことです。

 

  “使人和睦”是指亲手缔造和平。

 

そして、平和を作り出さなければならないということは、そもそもそこに平和がないということになりますね。

 

  要缔造和平意思就是原本没有和平。

 

争いの中にあるわけなんです。

 

  处于纷争之中。

 

けれどもそこで、問題を解決して、良い関係を作り出す人。

 

  而在那之中,解决问题、制造良好关系的人。

 

悪い関係を良い関係に変える人。

 

  改善关系的人。

 

それが「平和を実現する人」なんですね。

 

  那才是“使人和睦的人”。

 

「平和を求める人」というのも結構なことですよね。

 

  “渴望和平的人”也很好。

 

でも、平和を求めるだけで、平和が実現するかどうかは分かりません。

 

  但是,只是渴望和平,是否能实现并不知晓。

 

今日は、「平和を実現する人」について言われているんです。

 

  今天所讲的是“使人和睦的人”。

 

これは、「平和を守る人」のことでもありません。

 

  也不是“维护和平的人”。

 

もちろん、平和を守るために動くのは結構なことです。

 

  当然,为了维护和平而工作是很好的。

 

けれども、平和を守る、と言ったら、とりあえず平和がそこにあるんですよね。

 

  但是,说到维护和平的话,至少暂且还是和平的。

 

それが続くように守る。

 

  为了和平能持续而守护。

 

それは、今日の話とは違います。

 

  这和今天要讲的不一样。

 

今日の話は、「平和を実現する」ということです。

 

  今天要说的是“使人和睦”。

 

とりあえず今はそこに平和がないんです。

 

  目前这里暂时还没有和平。

 

その中で、平和を作り出す。

 

  要在这里缔造出和平。

 

それが今日の話です。

 

  这是今天要讲的。

 

 

 

 

 

争いの中に置かれて、平和を作り出すということ。

 

  要在纷争中缔造出和平来。

 

これは大変に難しいことです。

 

  是非常困难的事情。

 

争いというのは、お互いが自分の正しさを主張するところから起こってきます。

 

  所谓纷争,是因为彼此都主张自己是对,由此而引发的。

 

「自分が正しい。相手が間違っている。だから、相手が自分の言っていることを受け入れればいい。そうすれば平和が実現する」とお互いに思っているんですね。

 

  彼此都认为“自己是对的,对方是错的。因此,只要对方接受自己所说的就好,那样的话就太平了。”

 

それで、争いになるんです。

 

  于是,就有了纷争。

 

国と国でも、人と人でもそうですね。

 

  国与国也好,人与人也好都是这样。

 

お互いがお互いに自分が正しい、相手が間違っている。

 

  双方都认为自己对,对方错。

 

その相手をやっつけてやろう。

 

  把对方干掉。

 

そうすれば平和になる。

 

  那样的话就太平了。

 

そう思っていると、争いが起こります。

 

  这样想的话,就引起了纷争。

 

自分が正しいと思っていればいるほど、争いは激しくなります。

 

  越觉得自己是对的,纷争就越激烈。

 

最後にはどちらかが相手を打ちのめして決着がつくわけです。

 

  直到最后有一方把对手打败了才终结。

 

ここで争いは終わります。

 

  纷争到此结束。

 

しかし、それは平和と言えるでしょうか。

 

  可是,这能说是和平吗?

 

平和を作り出したと言えるでしょうか。

 

  能说缔造和平了吗?

 

自分が勝ったら勝ったで、最初から自分が正しいと思っているわけですから、なんでこんなことで争わなければならなかったんだろうと思いますね。

 

  自己赢是赢了,因为从最初就认为自己是对的,所以会觉得为什么要因这种事情争论不休呢?

 

自分が負けたら負けたで、でもやっぱり自分が正しいと思っていますから、考えが変わるわけではありませんから、納得できないですよね。

 

  输是输了,但是因为依然认为自己是对的,所以想法并没有改变,并没有认同对方。

 

決着がついたら争いは止むんです。

 

  直到把一方打败纷争才结束。

 

ですけれども、争いが止んだら平和かというとそういうわけではないですよね。

 

  但是,并不是说结束了就和平了。

 

心の中は全然平和ではありません。

 

  内心完全没有和平。

 

それでは、いつまた争いが起こるか分かりません。

 

  不知道什么时候又会引发纷争。

 

それなら、最初から争わないというのはどうでしょうか。

 

  如果从一开始就没有纷争的话会怎样?

 

しかし、そうなりますと、大変な我慢をすることになりますね。

 

  但是如果这样的话,需要很大的忍耐力。

 

何しろ、相手は自分が正しいと思っているんです。

 

  因为对方觉得自己是对的。

 

どんどん要求してきますよ。

 

  会不断提出要求。

 

それに、自分だって自分が正しいと思っているんです。

 

  而认为自己是对的,

 

相手が間違っていると思っているんです。

 

  对方是错的。

 

それを我慢するのは大変なことです。

 

  要克服这一点是很难的。

 

全然平和じゃないですね。

 

  绝对不是和平。

 

では、私たちは一体どうすればいいのでしょうか。

 

  那么我们到底该怎么做呢?

 

争って、決着をつけるのはダメですね。

 

  不能用成败来决定。

 

争いは止んでも、それだけでは平和とは言えないわけです。

 

  即使纷争结束,就这的话不能称为和平。

 

争わずに我慢するというのもダメですね。

 

  忍耐不争也不行。

 

最初からどこにも平和がないわけです。

 

  最初哪里都没有和平。

 

では、自分も相手もお互いに納得できるところで折り合いをつけるというのはどうでしょうか。

 

  那么自己和对方互相认可和解的话又如何呢?

 

しかしこれも難しいですね。

 

  可是这也很难。

 

争いがあるということは、お互いに自分が正しくて相手が間違っていると思っているということですから、どちらも納得できるところというのはないんですね。

 

  所谓纷争是因为互相都觉得自己是对的,对方是错的,双方都不能接受彼此。

 

例えば、自分と相手の真ん中あたりで折り合うということにしますと、それは、自分も相手もどちらも、我慢したくないところで我慢しなければならないということですね。

 

  假设双方折中讲和,也就是说双方都必须在不想让步的地方让步。

 

それは平和とは言わないんです。

 

  这不是和平。

 

そこで争いが止んだとしても、緊張は同じように続いているんですから。

 

  因为即使纷争在这里停止,紧张局势依然持续。

 

一体どうすれば平和を作り出せるんでしょうか。

 

  到底如何才能缔造和平呢?

 

イエス様は言っています。

 

  耶稣说:

 

平和を実現する人々は神の子と呼ばれる。

 

  使人和睦的人被称为神的儿子。

 

神の子なんですね。

 

  是神的儿子。

 

ただの人ではないんです。

 

  不是一般的人。

 

ただの人では無理だとイエス様は言っているんです。

 

  耶稣说一般的人是不行的。

 

そうなるともう、あきらめそうになるし、あきらめてもいいんじゃないかとも思えてきます。

 

  这样的话,我们会想要放弃,觉得放弃也没关系。

 

しかし、イエス様は私たちをあきらめさせるためにこんなことを言ったのではないはずですね。

 

  可是,耶稣应该不是为了让我们放弃才说那样的话的。

 

何しろイエス様は「幸いである」と言っているじゃないですか。

 

  因为耶稣说了“有福”不是吗?

 

イエス様は私たちが幸いであってほしいんですね。

 

  耶稣希望我们有福。

 

あきらめて絶望してほしいのではないんです。

 

  不希望我们绝望地放弃。

 

イエス様は私たちの幸いを願ってくださっているんです。

 

  耶稣希望我们有福。

 

これは、ただの人には無理なことです。

 

  一般的人做不到,

 

でも、イエス様ならどうでしょうか。

 

  但是耶稣呢?

 

イエス様こそ、神の子ですね。

 

  耶稣正是神的儿子。

 

そして、イエス様は平和を実現した方じゃないですか。

 

  不正是实现和平的那一位吗?

 

イエス様は、私たちと神様との間に平和を実現してくださったんです。

 

  耶稣让我们和神之间和好。

 

イエス様が来てくださる前、私たちはどうだったでしょうか。

 

  耶稣来之前,我们是怎样的呢?

 

神に逆らう者だったんですね。

 

  我们背弃神。

 

聖書には、生まれながらの人は神に従うことができないと書かれています。

 

  圣经上写着人一生下来就不顺服神。

 

それが聖書で言う罪と言うことですが、そんなこと聖書に書かれていなくたって分かります。

 

  说这是罪,就算没写都知道。

 

人間は神に逆らうものです。

 

  人背叛了神。

 

私たちは神の敵なんですね。

 

  我们是神的敌人。

 

そこでイエス様は何をしてくださったか。

 

  耶稣为此做了什么呢?

 

十字架にかかってくださったんです。

 

  被钉十字架。

 

神の敵である私たちに代わって罰を受けてくださったんです。

 

  代替神的敌人我们受罚。

 

十字架の周りにいた人たちは、イエス様に罪はないと知っていました。

 

  十字架周围的人都知道耶稣没有罪。

 

それなのに、十字架につけろと叫んだんですね。

 

  然而却叫喊着订十字架。

 

ある人は、自分の立場を守るために。

 

  有人为了守护自己的利益。

 

ある人は、勝手に期待していた期待を裏切られたと感じたために。

 

  有人只是为了感受万众的期待被背叛的感觉。

 

皆、同じことを叫んだんです。

 

  大家都叫嚷着同一件事情。

 

自分は正しい。

 

  自己是对的。

 

イエスは間違っている。

 

  耶稣是错的。

 

その罪をイエス様は引き受けてくださったんです。

 

  耶稣领受了这份罪。

 

そして、十字架の上でも罪の赦しを祈ってくださったんですね。

 

  即使在十字架上依然为罪得赦免而祷告。

 

私たちのために祈ってくださったんです。

 

  为我们而祷告。

 

自分は正しい。

 

  自己对

 

相手が間違っている。

 

  对方错。

 

十字架につけろ。

 

  钉十字架。

 

これは全部、争いの中にある時の私たちの言葉です。

 

  这些都是争战中我们的话。

 

でもその罪を、神の子が引き受けてくださったんですね。

 

  但是这份罪神子领受了。

 

そして、それによって、神と人との間に平和が実現します。

 

  因此,神和人和好了。

 

神の子が代わりに罰を受けてくださったんですから、私たちにはもう、罰が下されることはない。

 

  因为神子代替我们受了这份罪,我们已经不会再受罚了。

 

私たちはもともとは神の敵だった。

 

  我们原本是神的敌人。

 

裁きを受けるはずなのは本当はイエス様ではなく私たちです。

 

  真正该受审判的是我们不是耶稣。

 

けれども、神の子の十字架によって、人が罪をゆるされて神と共に生きていく道が開かれたんです。

 

  但是,因着十字架,人罪得赦免与神同在的道路被打开。

 

これが神の子のやり方だったんですね。

 

  这是神子的做法。

 

神の子が平和を実現する仕方は、人の罪を引き受けるという仕方だったんです。

 

  神子承担人的罪,这是他使人和睦的做法。

 

これは私たちの方法とは違いますね。

 

  与我们的方法不同。

 

争って決着をつけるのではありません。

 

  不是一决胜负。

 

争わないで我慢するのでもありません。

 

  也不是忍着不斗。

 

話し合って折り合いをつけるのでもありません。

 

  也不是商谈妥协。

 

自分から人の罪を引き受けて、その中で赦しを祈って、そして、その後に復活した。

 

  而是自己承担人的罪,并祈求赦免人的罪,之后复活。

 

罪を引き受けて、それを赦し、最後には乗り越えたんです。

 

  领受罪,赦免罪,最后得胜。

 

神の子はそのようにして、神様と私たちの間に平和を実現してくださっています。

 

  神子通过这种方式使得神和我们和好。

 

そして、イエス様は、私たちのことを、家族であると、つまり、私たちも神の子なのだと呼んでくださる方ですね。

 

  耶稣把我们当作家人,也就是把我们也称做神的儿女。

 

聖書にそういう言葉があります。

 

  圣经中有这样的话。

 

そして、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださる方ですね。

 

  “我与你们同在,直到世界的末了。”

 

私たちは神の子とされているんです。

 

  我们也被当成神的子女。

 

そして、すべてを乗り越えた神の子が共にいてくださっているんです。

 

  与胜过一切的神子同在。

 

マーティン・ルーサー・キングという牧師がいます。

 

  有一位叫马丁路德金的牧师。

 

黒人の牧師です。

 

  是位黑人牧师。

 

1950年代、60年代のアメリカで、黒人の権利のために戦った人ですね。

 

  他上世纪五六十年代在美国为黑人的权利而战。

 

ご存知の方も多いでしょう。

 

  应该有很多人知道吧。

 

そのキング牧師は言いました。

 

  他说:

 

「われわれは苦難を負わせるあなた方の能力に対し、苦難に耐えるわれわれの能力を対抗させよう。あなたがたのしたいことをわれわれにするがいい。そうすればわれわれはあなたがたを愛し続けるだろう。われわれはきわめて良き良心のゆえに、あなたがたの不正な法律に従うことはできない。なぜなら、悪と協力しないということは、善と協力するということと同じように道徳的義務だからである。われわれを刑務所に放り込むがいい。それでもわれわれはあなたがたを愛するだろう。われわれの家庭に爆弾を投げ、われわれの子供らを脅すがいい。それでもわれわれはあなたがたを愛するだろう。覆面をした暴徒どもを真夜中にわれわれの社会に送り込み、われわれを打って半殺しにするがよい、それでもわれわれはなおあなたがたを愛するだろう。しかし、我々は耐え忍ぶ能力によってあなたがたを摩滅させることをはっきり覚えておくがいい。いつの日かわれわれは自由を勝ち取るだろう。しかし、それはわれわれ自身のためだけではない。われわれはその過程であなたがたの心と良心に強く訴えて、あなたがたを勝ち取るだろう。そうすればわれわれの勝利は二重の勝利となろう」(『汝の敵を愛せよ』)。

 

  相对于对抗让我们承受苦难的你们,还是让我们拥有更大的承受苦难的能力吧。你们想要做的你们尽管对我们做。我们定会继续爱你们。因为我们的良知,无法遵守你们不合理的法律。因为不与恶行是与行善相当的道德义务。把我们放进监牢我们依然爱你们。往我们家里投炸弹,威胁我们的孩子我们依然爱你们。半夜将蒙面歹徒带到我们住的地方,把我们打个半死我们依然爱你们。请记住是我们的忍耐让你们起摩擦。总有一天,我们会获得自由。但是我们不仅仅是为了自己。在此过程中,我们强烈地唤醒你们的良知,赢得你们。那样我们的胜利就是双重的胜利。(「爱你的敌人」)

 

キング牧師は、最初から乗り越えるつもりなんですね。

 

  金牧师从一开始就准备好了会得胜。

 

最初から乗り越えるつもりだから、こういうふうに言うことができるんです。

 

  因为从一开始就想着会得胜,所以能这么说。

 

キング牧師がこのことを語った時、そんなことはできないと思った人もいたでしょう。

 

  金牧师说这事的时候,有人觉得这种事是不可能的。

 

白人はこれを聞いて笑ったでしょう。

 

  白人听了觉得好笑。

 

しかし、キング牧師はこれをやり通しました。

 

  可是金牧师坚持到底。

 

神の子だったからです。

 

  因为他是神的儿子。

 

神の子だけが、そうしようとすることができます。

 

  只有神子可以。

 

神の子だけが、自分の敵に対して、「わたしはあなたを打ち倒す」ではなく、「わたしはあなたを勝ち取る」と言うことができるんです。

 

  只有神子,对于自己的敌人,不是“我要打倒你”,而是“我要争取你”。

 

あなたを友として勝ち取る、と言うことができるんです。

 

  可以说出争取你做朋友这种话。

 

自分自身が、十字架によって、神の子として勝ち取られたことを知っているから、神の子だけが、そうするんです。

 

  因为知道自己作为神子可以通过十字架得胜,只有神子能如此。

 

そうでなかったらこんなことは考えもしない。

 

  不这样的话,也不会想这样的事。

 

自分の罪も相手の罪も乗り越えて、平和を目指すことができるのは、神の子にだけ与えられた特別の権利です。

 

  胜过自己的罪、他人的罪,以和平为目标,是赋予神子的特别权力。

 

もちろんそれは楽なことではありません。

 

  当然不是什么省事的事情。

 

キング牧師のことで言うと、今も、黒人に対する差別がなくなったとは言えません。

 

  用金牧师所说的来说的话,现在也不能说没有歧视黑人这种事了。

 

しかし、一人の神の子が立ち上がったことによって、どうなりましたか。

 

  可是,因一位神子站了出来,有什么改变呢?

 

60年前と今とでは、同じではないんですね。

 

  现在和60年前已经大不同了。

 

いえ、まったく違うでしょう。

 

  不,完全不一样了。

 

60年前、誰が、いつの日か黒人が大統領になると考えましたか。

 

  60年前谁会想到有一天黑人可以做总统。

 

世界のすべてではないかもしれませんが、彼は確かに世界を勝ち取ったんです。

 

  或许不是整个世界,但是他确实赢得了世界。

 

神の子にはそれくらいの力があるんです。

 

  神子有如此的力量。

 

力が与えられているんです。

 

  被赋予力量。

 

神の子イエス様が一緒にいるんですから。

 

  因为有神子耶稣同在。

 

キング牧師にはできて、私たちにできないことがありますか。

 

  有是什么事情是金牧师可以的我们不可以的吗?

 

条件は同じです。

 

  条件是一样的。

 

神の子なんです。

 

  都是神的孩子。

 

そして、私たちの身の回りに起こる困難は、60年前のアメリカの黒人たちに比べれば、物の数ではありません。

 

  我们现在身边的难处,与60年前的美国黑人相比,根本就算不得什么。

 

キング牧師はこういう言葉をのこしています。

 

  金牧师留下了这样的话:

 

「疑わずに最初の一段を登りなさい。階段のすべてが見えなくてもいい。とにかく最初の一歩を踏み出すのだ」。

 

  “有信心地踏出第一步,看不到整个楼梯也没关系,只要踏出第一步就好。”

 

いつも、始まりは最初の一歩です。

 

  总之,始于最初的一步。

 

最初の一歩からしか、何も始まりません。

 

  只能从最初的一步开始。

 

けれども、その一歩を踏み出す時、主が、乗り越えて勝ち取る力を与えてくださるのです。

 

但是,踏出第一步的时候,主会赐予我们得胜的力量。