
「苦しめられた時には」
マタイによる福音書5章10-12節
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
今日の御言葉ですが、いかがでしょうか。
ここまではっきりと大変なことが書かれてしまうと、ちょっと困ってしまいますね。
迫害ということなんですが、クリスチャンであるということで迫害されることがあるということなんですね。
それも、ここでの言われ方を聞いてみると、当然、そういうことはある、ないはずがない、という感じですね。
しかも、こんなことが言われています。
「義のために迫害される人々は幸いである」。
幸いだと言うんですね。
迫害されたら幸いだ、と言うんです。
最後のところに書かれていますけれども、昔の預言者たちは皆そうだったじゃないか、迫害されたら、預言者と同じだ、幸いだ、と言うんです。
そんなふうに言われても、どう受け止めればいいんでしょうか。
預言者というのは神の言葉を伝える人ですね。
確かに預言者は迫害されてきました。
神の言葉を伝える、と聞きますと、何か立派なことを言うのか、と思いそうになりますが、神の言葉は、いつも、神に逆らう人に伝えられてきました。
というより、人は神の言葉を聞いても素直には従わないんですね。
ですので、神の言葉を語る人を、人はいつも攻撃します。
実際のところ、キリスト教の歴史は迫害の歴史であるとも言えます。
キリスト教会が誕生したその最初の頃には、まず、教会はユダヤ教から攻撃されました。
ユダヤ教から分かれるようにしてキリスト教ができたような形になりましたから、ユダヤ教としては、キリスト教というのは異端と言うか、分派と言うか、そういうふうにしか見えませんので、攻撃するんですね。
次に、ローマ帝国から攻撃されました。
ローマ帝国はその地域その地域の宗教を認めてはいたんですが、キリスト教は言わば迷信だ、ということになりまして、迫害を受けることになりました。
例えばですけれども、キリスト教会では、お互いのことを兄弟姉妹であると呼び合いますね。
これは、キリストにあってみんな弟たち、妹たちである、ということなんですが、そのことが誤解されまして、「教会というところでは近親相姦をしている」として迫害されたんですね。
あるいは、教会では聖餐式を行います。
聖餐式は、最後の晩餐に思いをいたしながら、パンとぶどう酒をいただくわけですが、キリストは最後の晩餐の席で、弟子たちに対して、ご自分の命を与えるおつもりで、パンについては、「これはわたしの体である」、ぶどう酒については「これはわたしの血である」とおっしゃいまして、パンとぶどう酒を弟子たちに与えたので、そのことで、「キリスト教会では人間の肉を食べて、人間の血を飲んでいる」と誤解されたんですね。
時に大変な迫害が起こりまして、生きたまま火をつけられて、街灯の代わりにされたり、生きたままライオンに食べられたこともあったと言います。
313年にローマ帝国に公認されますけれども、迫害はそこで終わりではありませんでした。
ローマの国教になって、教会は地位を得ました。
権力も得ました。
そうすると、教会は、聖書を人々に読ませなくなったんです。
正しい解釈は教会が決める。
人々が勝手な解釈をしては困る。
教会だけが正しい。
そういうことになりまして、教会の神学と違う人たちを迫害し、教会から追い出すということも起こってきました。
その果てに宗教改革が起こるのですが、新しい教会を建て上げた人々の間でも、迫害はありました。
キリスト教の歴史は迫害の歴史なんですね。
もっと言うと、迫害を乗り越えてきた歴史です。
そして、その中で、今日の御言葉が、正しい信仰に立つ人たちを励ましてきたのは事実です。
しかし、迫害されること自体はやはり幸いとは思えないわけです。
そういうことを乗り越えて、信仰が受け継がれていって、今ここに教会が建っているんだ、と言われても、難しいところですよね。
今日の、この8つ目の幸いについては、一つの節だけではありません。
今までの幸いについては一つ一つが一つの節だけで、短かったんですが、今日のこの8つ目の幸いについては、三つの節で書かれていますね。
11節と12節で、10節をくわしく説明している感じです。
10節の「義のために迫害される」というのは、11節では、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」というふうに言い換えられていますね。
10節で「義」という言葉が出てきていまして、それは、「神の正しさ」ということなんですが、それが11節では「わたし」、つまりイエス様ということになっています。
イエス様を信じているために迫害されるということですね。
そして、10節の迫害というのは、11節では、ののしられ、悪口を言われるということです。
迫害というと、大変な暴力をイメージしますが、大変な暴力だけではありません。
イエス様を信じているということで、悪く言われるということもあるということですね。
それも迫害に含まれるということです。
人の正しさではなく、神の正しさの側に自分はいるんだ、イエス様と一緒にいるんだ、ということになると、どうしたって世の人からは良いように思われないということになります。
昔々からの迫害においてそういうことが起こったように、誤解されることもあれば、理解してもらえないこともあるわけです。
それは避けられません。
最初から立ち位置が違うわけですから。
私たちは何も、自分が神のように正しいということではないわけで、実際のところ、罪もあれば弱さもあるわけですが、世の人とは立場がまったく違いますので、誤解や無理解は避けられないんですね。
例えて言いますなら、リベラル派が保守派に、保守派がリベラル派に、その人がどれだけ良い人だったとしても、すべての面で受け入れてもらうのは無理ですよね。
「あの人は人柄は良いんだけれども、考え方やスタイルが……」という話になります。
それと同じように、私たちが世の人にすべての面で受け容れてもらうことはできません。
信仰を生きるというのはそういうことだということですね。
どうしたって人から良いようには扱われないんです。
しかし、そこでイエス様は、「あなたがたは幸いである」と言うんですね。
12節では、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言います。
イエス様としては、これには理由があるんですね。
12節の真ん中で、「天には大きな報いがある」と言われています。
神様が報いてくださるんです。
だから、幸いなんだ、とイエス様は言うんです。
神様が報いてくださるんだから、ということですね。
人から褒められても、神様から憎まれたら、幸いとは言えません。
人から憎まれても、神様から報いられるなら、幸いだと言えるでしょう。
迫害される、ののしられる、悪口を言われるというのは、神様に従っているから、神様の側についているからこそ、起こることです。
そして、もし私たちが、本当に神様の側についているのなら、人からどう言われようと、大きな問題ではありません。
一番大きな問題は、神様が私をどう見てくださっているのかということですね。
だからこそ、私たちとしては気を付けたいですね。
もし、私たちが、世の人から理解されなかったり、誤解されたり、悪口を言われたりして、その時に落ち込んでしまったとしたら、それは、私たちが十分には神の側に立てていないということなんです。
もし十分に神の側に立つことができているのなら、落ち込むことはありません。
何を言われても当然だということが分かっているし、神様の報いがあるんですから。
だから、私たちとしては、神の側に立ってこの御言葉を思い出すことが大事なんだと思います。
そうなりますと、励まされますね。
この言葉は本当に私たちを励ましてくれる言葉になります。
そして、もっと喜んでいいことが書かれていますね。
10節に、「天の国はその人たちのものである」とありました。
聖書で「天」と言ったら「神」というのと同じことです。
そして、原文では、「国」という言葉は「支配」というふうにも訳すことができる言葉です。
要するに、天の国というのは神様の支配のことですね。
神の支配は、神に従う人のものなんだ、とここで言われているんです。
神に従う人を、神はご自分のもとに置いてくださるということです。
そして、この言葉、「天の国はその人たちのものである」という言葉は、まったく同じことが3節でも言われていました。
3節は8つの幸いの一番最初ですね。
最初と最後で、同じことが言われているんです。
もう、これが一番幸いなことなんだ、という感じですよね。
「支配」という言葉は、「王」という言葉が元になってできた言葉です。
神様を王にすること。
それが神の支配に入ることですね。
神様が私の王になってくださるんです。
もう、全部の幸いがそこに含まれている感じですね。
そして、迫害を受ける時、私たちは一人ではありません。
「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられた」のはイエス様ご自身ですね。
そして、イエス様が、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」ても、何も言わずにその罪を引き受けてくださったからこそ、私たちは神の元に取り戻されたわけです。
神様に王になっていただいたわけです。
ですから、「天の国はその人たちのものである」というのは、今のこの私たちのことです。
だとしたらもう、私たちが人からどう扱われるのかは問題ではありません。
ただ、私たちは、いつも気を付けておくべきでしょうね。
今日最初にこの御言葉を読んだ時、もしかしたら、それはしんどいな、という思いもあったのではないかと思います。
それは要注意なんですね。
神の側にしっかりと立てていないということになります。
そして、理解されなかったり、誤解されたり、悪口を言われたりして落ち込んでしまったとしたら、それは自分が神の側に立てていないということなんです。
神の側に立っていれば、人から何を言われても気にならないはずですから。
神の側に立っていれば、人に理解されないのは当たり前なんだと分かるはずですから。
何しろ、こちらから世の人の方を見て、自分と違うな、ということが分かりますから、もう、理解されなくても当たり前なんです。
違いがあったらいつも、数が少ない人たちは迫害されるものです。
それが人間の歴史で、キリスト教の歴史です。
言葉の違いでも肌の色の違いでも顔つきの違いでも、違いがあったら数の少ない人たちは迫害されるものなんです。
そして、歴史を見ると分かる通り、本当の信仰を持っている人はいつの時代も少数派です。
ですから私たちも、嫌なことが必ずあります。
今ここで考え方を変えてください。
どうして理解してくれないんだ、それは誤解だ、と言っても無駄です。
本当の信仰のある人は信仰のない人や信仰の薄い人には理解されないものなんです。
最初から立っている場所が違うんですから。
考え方を変えましょう。
迫害されたら喜びましょう。
イエス様のためにののしられるということは、自分がその人とは違うということです。
違うようになれているということなんです。
そしてそれは、神様が私の王になってくださっているということなんです。
そして、迫害されるのは、イエス様が私の罪を引き受けてくださった時のことと同じことなんです。
だとしたら、それこそ私たちとしては、迫害されたら、イエス様に従っていることになります。
迫害された時が大事です。
その時、私たちが本当に神の側に立っているのかどうかが分かります。
その時、私たちが、出来事の本質に気づいて、喜ぶことができるかどうか。
落ち込まないで、どうぞ喜んでください。
その時、十字架のイエス様が一緒にいてくださいます。
そのことが分かっていたからこそ、キリスト教の歴史は迫害の歴史だけれども、信仰が絶えることなく受け継がれてきたんです。
むしろその度に、信仰が高められてきたんですね。
私たちが同じようにできるなら、私たちの後の時代にも信仰は受け継がれていくことでしょう。
そして、もっと多くの人が救われていくことになるのです。
苦しめられた時には
遭遇苦难之时
マタイによる福音書5章10-12節
马太福音5章10-12节
10義のために迫害される人々は、幸いである、
为义受逼迫的人有福了,
天の国はその人たちのものである。
因为天国是他们的。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
人若因我辱骂你们,逼迫你们,捏造各样的坏话毁谤你们,你们就有福了。应该欢喜快乐,因为你们在天上的赏赐是大的。在你们以前的先知,人也是这样逼迫他们。
今日の御言葉ですが、いかがでしょうか。
今天要讲的内容大家觉得如何?
ここまではっきりと大変なことが書かれてしまうと、ちょっと困ってしまいますね。
这里如此清晰地写明了要遭逼迫,有点困惑吧。
迫害ということなんですが、クリスチャンであるということで迫害されることがあるということなんですね。
逼迫的话,基督徒有时是会受到逼迫。
それも、ここでの言われ方を聞いてみると、当然、そういうことはある、ないはずがない、という感じですね。
如果问下在座的各位的话,大家都会觉得这个当然会有,不可能没有。
しかも、こんなことが言われています。
而且还说了:
「義のために迫害される人々は幸いである」。
“为义受逼迫的人有福了。”
幸いだと言うんですね。
说是有福了。
迫害されたら幸いだ、と言うんです。
说受逼迫的话就有福了。
最後のところに書かれていますけれども、昔の預言者たちは皆そうだったじゃないか、迫害されたら、預言者と同じだ、幸いだ、と言うんです。
最后写到,以前的先知都这样,受逼迫的话就和先知一样有福。
そんなふうに言われても、どう受け止めればいいんでしょうか。
虽然是这样说了,到底该如何理解为好呢?
預言者というのは神の言葉を伝える人ですね。
先知是传讲神话语的人。
確かに預言者は迫害されてきました。
确实他们受到了逼迫。
神の言葉を伝える、と聞きますと、何か立派なことを言うのか、と思いそうになりますが、神の言葉は、いつも、神に逆らう人に伝えられてきました。
听到传讲神的话语会觉得说的东西很高大上,其实神的话语都是传达给悖逆神的人听的。
というより、人は神の言葉を聞いても素直には従わないんですね。
人即使听了神的话语也不会老老实实顺从。
ですので、神の言葉を語る人を、人はいつも攻撃します。
因此,人们总是攻击讲述神话语的人。
実際のところ、キリスト教の歴史は迫害の歴史であるとも言えます。
实际上,基督教的历史可以说成是受逼迫的历史。
キリスト教会が誕生したその最初の頃には、まず、教会はユダヤ教から攻撃されました。
基督教最初的时候,首先受到的是犹太教的攻击。
ユダヤ教から分かれるようにしてキリスト教ができたような形になりましたから、ユダヤ教としては、キリスト教というのは異端と言うか、分派と言うか、そういうふうにしか見えませんので、攻撃するんですね。
因为基督教是脱离犹太教而形成的,基督教对于犹太教来说,就如同异端或者分派之类的,所以受到攻击。
次に、ローマ帝国から攻撃されました。
之后,又受到了罗马帝国的攻击。
ローマ帝国はその地域その地域の宗教を認めてはいたんですが、キリスト教は言わば迷信だ、ということになりまして、迫害を受けることになりました。
罗马帝国虽然承认当地的宗教,但是基督教被说成是迷信因而受到了迫害。
例えばですけれども、キリスト教会では、お互いのことを兄弟姉妹であると呼び合いますね。
比如说,在基督教会里,互相之间以弟兄姐妹相称。
これは、キリストにあってみんな弟たち、妹たちである、ということなんですが、そのことが誤解されまして、「教会というところでは近親相姦をしている」として迫害されたんですね。
虽然这是指大家彼此如同弟兄姐妹,但是却被误解成“教会里面乱伦”而备受迫害。
あるいは、教会では聖餐式を行います。
又比如说,教会里举行圣餐式。
聖餐式は、最後の晩餐に思いをいたしながら、パンとぶどう酒をいただくわけですが、キリストは最後の晩餐の席で、弟子たちに対して、ご自分の命を与えるおつもりで、パンについては、「これはわたしの体である」、ぶどう酒については「これはわたしの血である」とおっしゃいまして、パンとぶどう酒を弟子たちに与えたので、そのことで、「キリスト教会では人間の肉を食べて、人間の血を飲んでいる」と誤解されたんですね。
圣餐式即最后的晚餐,要吃面包和葡萄酒,基督在最后的晚餐席上对门徒说,打算献出自己的生命,所以把面包说成“是我的身体“,葡萄酒则说成“这是我的血”,因为把面包和酒给了门徒,就被误解成“基督教会里吃人肉喝人血”。
時に大変な迫害が起こりまして、生きたまま火をつけられて、街灯の代わりにされたり、生きたままライオンに食べられたこともあったと言います。
有时会有更大的逼迫,据说有过活人当街灯被烧,以及被狮子生吞的事。
313年にローマ帝国に公認されますけれども、迫害はそこで終わりではありませんでした。
虽然在313年得到了罗马帝国的认可,但是逼迫并没有终止。
ローマの国教になって、教会は地位を得ました。
作为罗马帝国的国教,教会取得了地位。
権力も得ました。
也获得了权力。
そうすると、教会は、聖書を人々に読ませなくなったんです。
于是,教会不准人读圣经。
正しい解釈は教会が決める。
教会规定了对圣经的解读。
人々が勝手な解釈をしては困る。
个人自己随意理解是不行的。
教会だけが正しい。
只有教会是对的。
そういうことになりまして、教会の神学と違う人たちを迫害し、教会から追い出すということも起こってきました。
因为这样的事,与教会的神学相抵触的人就受到迫害,被教会赶出去。
その果てに宗教改革が起こるのですが、新しい教会を建て上げた人々の間でも、迫害はありました。
结果引发了宗教改革,建立新教会的人中也有受到逼迫的。
キリスト教の歴史は迫害の歴史なんですね。
基督教历史就是受逼迫的历史。
もっと言うと、迫害を乗り越えてきた歴史です。
甚至可以说是胜过逼迫的历史。
そして、その中で、今日の御言葉が、正しい信仰に立つ人たちを励ましてきたのは事実です。
不可否认,在这过程中,今天的经文始终勉励着坚持正确信仰的人。
しかし、迫害されること自体はやはり幸いとは思えないわけです。
可是,受逼迫本身自然不是福。
そういうことを乗り越えて、信仰が受け継がれていって、今ここに教会が建っているんだ、と言われても、難しいところですよね。
胜过逼迫,传承信仰,在这里建立教会,说起来简单,其实非常艰苦。
今日の、この8つ目の幸いについては、一つの節だけではありません。
今天要讲的第八个福分不是只有一个小节。
今までの幸いについては一つ一つが一つの節だけで、短かったんですが、今日のこの8つ目の幸いについては、三つの節で書かれていますね。
前面所讲的福分分别只有一小节,很短,但是今天要讲的第八个福分写了三小节。
11節と12節で、10節をくわしく説明している感じです。
11和12节是对10节的详细说明。
10節の「義のために迫害される」というのは、11節では、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」というふうに言い換えられていますね。
10节的“为义受迫害”,11节换了种说法变成“因我被辱骂,受逼迫,捏造各种坏话来毁谤”。
10節で「義」という言葉が出てきていまして、それは、「神の正しさ」ということなんですが、それが11節では「わたし」、つまりイエス様ということになっています。
10节出现了“义”这个词,指的是“神的正义”,而在11节中用了“我”,也就是说指的是耶稣。
イエス様を信じているために迫害されるということですね。
因为信耶稣而受逼迫。
そして、10節の迫害というのは、11節では、ののしられ、悪口を言われるということです。
10节的迫害,在11节中指的是被辱骂、诽谤。
迫害というと、大変な暴力をイメージしますが、大変な暴力だけではありません。
一说到迫害会联想到遭受暴力,其实不仅仅如此。
イエス様を信じているということで、悪く言われるということもあるということですね。
因为信耶稣,也会遭遇毁谤。
それも迫害に含まれるということです。
这也是一种逼迫。
人の正しさではなく、神の正しさの側に自分はいるんだ、イエス様と一緒にいるんだ、ということになると、どうしたって世の人からは良いように思われないということになります。
不是人的公义,而是站在神的公义那一方,与耶稣同在,一旦如此以后,为什么世人就不觉得好了呢?
昔々からの迫害においてそういうことが起こったように、誤解されることもあれば、理解してもらえないこともあるわけです。
和以前发生过的迫害一样,被误解的话,就得不到理解。
それは避けられません。
这不可避免。
最初から立ち位置が違うわけですから。
因为一开始立场就不同。
私たちは何も、自分が神のように正しいということではないわけで、実際のところ、罪もあれば弱さもあるわけですが、世の人とは立場がまったく違いますので、誤解や無理解は避けられないんですね。
我们做不到神那般公义,实际上一有罪就软弱,因为和世人的立场完全不同,误解和不被理解在所难免。
例えて言いますなら、リベラル派が保守派に、保守派がリベラル派に、その人がどれだけ良い人だったとしても、すべての面で受け入れてもらうのは無理ですよね。
比如说,自由派之于保守派,保守派之于自由派,不管对方有多好,都没办法完全接受。
「あの人は人柄は良いんだけれども、考え方やスタイルが……」という話になります。
“那人人品虽然很好,但是思维方式呀处事风格呀……”会这么说。
それと同じように、私たちが世の人にすべての面で受け容れてもらうことはできません。
与此相同,我们也不能完全被世人所接受。
信仰を生きるというのはそういうことだということですね。
信仰就是这样。
どうしたって人から良いようには扱われないんです。
不管怎样都不能被他人很好地对待。
しかし、そこでイエス様は、「あなたがたは幸いである」と言うんですね。
可是在这里耶稣说:“你们是有福的。”
12節では、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言います。
12节说“要欢喜,大大欢喜。”
イエス様としては、これには理由があるんですね。
对耶稣而言,他这么说是有理由的。
12節の真ん中で、「天には大きな報いがある」と言われています。
12节中说了“在天上的赏赐是大的。”
神様が報いてくださるんです。
神会赏赐。
だから、幸いなんだ、とイエス様は言うんです。
因此耶稣说是福分。
神様が報いてくださるんだから、ということですね。
因为神会赏赐。
人から褒められても、神様から憎まれたら、幸いとは言えません。
即使被人称赞,如果被神厌恶的话,就不能说成是福。
人から憎まれても、神様から報いられるなら、幸いだと言えるでしょう。
即使被人恨,如果得到神的赏赐的话,就可以说成是福。
迫害される、ののしられる、悪口を言われるというのは、神様に従っているから、神様の側についているからこそ、起こることです。
受逼迫,被辱骂毁谤,正是因为跟从神,与神同在才引起的。
そして、もし私たちが、本当に神様の側についているのなら、人からどう言われようと、大きな問題ではありません。
如果我们真的与神同在的话,不管人怎么说都不是大问题。
一番大きな問題は、神様が私をどう見てくださっているのかということですね。
最大的问题是,神如何看我们。
だからこそ、私たちとしては気を付けたいですね。
因此我们要小心。
もし、私たちが、世の人から理解されなかったり、誤解されたり、悪口を言われたりして、その時に落ち込んでしまったとしたら、それは、私たちが十分には神の側に立てていないということなんです。
如果我们大家不被世人理解,被误解,被毁谤的时候情绪低落的话,那说明我们没有完全站在神的一边。
もし十分に神の側に立つことができているのなら、落ち込むことはありません。
要是完全站在神的一边的话,就不会失落了。
何を言われても当然だということが分かっているし、神様の報いがあるんですから。
要知道不管如何被说都是正常的,因为神会有赏赐。
だから、私たちとしては、神の側に立ってこの御言葉を思い出すことが大事なんだと思います。
因此,我们要站在神的一边,思想神的话语,这才是重要的。
そうなりますと、励まされますね。
如果这样的话,就会受鼓励。
この言葉は本当に私たちを励ましてくれる言葉になります。
这话真的是能作为勉励我们的话。
そして、もっと喜んでいいことが書かれていますね。
而且还有更好的事写着呢。
10節に、「天の国はその人たちのものである」とありました。
第10节,“天国是他们的”。
聖書で「天」と言ったら「神」というのと同じことです。
圣经中讲到“天”的话和“神”是同一个意思。
そして、原文では、「国」という言葉は「支配」というふうにも訳すことができる言葉です。
而且,原文中“国”一词可以翻译成“支配”。
要するに、天の国というのは神様の支配のことですね。
总之天国就是神掌权。
神の支配は、神に従う人のものなんだ、とここで言われているんです。
这里说的是神的国度是属于跟从神的人的。
神に従う人を、神はご自分のもとに置いてくださるということです。
神将跟从他的人安排在自己身边。
そして、この言葉、「天の国はその人たちのものである」という言葉は、まったく同じことが3節でも言われていました。
第三节也说了“天国是他们的”一摸一样的话。
3節は8つの幸いの一番最初ですね。
第三节是八个福分的第一个。
最初と最後で、同じことが言われているんです。
最初和最后说了同样的话。
もう、これが一番幸いなことなんだ、という感じですよね。
会觉得这是最大的福分。
「支配」という言葉は、「王」という言葉が元になってできた言葉です。
“支配”可以说成是“王”。
神様を王にすること。
神做了王。
それが神の支配に入ることですね。
进入神的国度。
神様が私の王になってくださるんです。
神就成了我们的王。
もう、全部の幸いがそこに含まれている感じですね。
会觉得这里包含了所有的福分。
そして、迫害を受ける時、私たちは一人ではありません。
而受迫害的时候,不只是我们。
「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられた」のはイエス様ご自身ですね。
“被辱骂,受迫害,捏造各种坏话被诽谤”的是耶稣自己。
そして、イエス様が、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」ても、何も言わずにその罪を引き受けてくださったからこそ、私たちは神の元に取り戻されたわけです。
耶稣即使“被辱骂,受逼迫,捏造各种坏话被诽谤”,他什么也不说领受了这份罪,正因为如此,我们才回到了神那里。
神様に王になっていただいたわけです。
神做了王。
ですから、「天の国はその人たちのものである」というのは、今のこの私たちのことです。
因此,“天国是他们的”说的是我们。
だとしたらもう、私たちが人からどう扱われるのかは問題ではありません。
如果是这样的话,我们被人如何对待就不是什么问题了。
ただ、私たちは、いつも気を付けておくべきでしょうね。
只是我们要一直小心。
今日最初にこの御言葉を読んだ時、もしかしたら、それはしんどいな、という思いもあったのではないかと思います。
今天一开始读这段经文的时候,或许会想这可真是麻烦啊。
それは要注意なんですね。
要小心了。
神の側にしっかりと立てていないということになります。
这就成了不够坚定了。
そして、理解されなかったり、誤解されたり、悪口を言われたりして落ち込んでしまったとしたら、それは自分が神の側に立てていないということなんです。
要是因为不被理解,被误解,被诽谤而失落的话,就不是站在神的一边了。
神の側に立っていれば、人から何を言われても気にならないはずですから。
因为站在神一边的话,不管人怎么说应该都不会在意。
神の側に立っていれば、人に理解されないのは当たり前なんだと分かるはずですから。
因为站在神一边的话,就应该明白不被人理解是理所当然的。
何しろ、こちらから世の人の方を見て、自分と違うな、ということが分かりますから、もう、理解されなくても当たり前なんです。
因为我们看世人也会知道他们与自己不同,所以即使不被理解也是理所当然的。
違いがあったらいつも、数が少ない人たちは迫害されるものです。
只要有分歧,人数少的就会受逼迫。
それが人間の歴史で、キリスト教の歴史です。
这就是人类历史中的基督教历史。
言葉の違いでも肌の色の違いでも顔つきの違いでも、違いがあったら数の少ない人たちは迫害されるものなんです。
语言不同也好、肤色不同也好、相貌不同也好,只要有差异,人数少的一方就会受到迫害。
そして、歴史を見ると分かる通り、本当の信仰を持っている人はいつの時代も少数派です。
纵观历史就能明白,真正有信仰的人不管什么时代都是少数。
ですから私たちも、嫌なことが必ずあります。
因此我们也肯定会被嫌弃。
今ここで考え方を変えてください。
这里要请大家改变一下想法。
どうして理解してくれないんだ、それは誤解だ、と言っても無駄です。
即使说“为什么不能理解呢,这是误解”也没用。
本当の信仰のある人は信仰のない人や信仰の薄い人には理解されないものなんです。
真正有信仰的人不会被没信仰的人和信仰不够坚定的人理解。
最初から立っている場所が違うんですから。
因为一开始所站的立场就不同。
考え方を変えましょう。
让我们改变一下想法。
迫害されたら喜びましょう。
被迫害的话也要欢喜。
イエス様のためにののしられるということは、自分がその人とは違うということです。
因耶稣被辱骂是因为自己与那人不同。
違うようになれているということなんです。
会变得不同。
そしてそれは、神様が私の王になってくださっているということなんです。
而这正是因为神成为了我的王。
そして、迫害されるのは、イエス様が私の罪を引き受けてくださった時のことと同じことなんです。
所受的迫害与耶稣替我们受罪时一样。
だとしたら、それこそ私たちとしては、迫害されたら、イエス様に従っていることになります。
我们正是因为受迫害才能跟从耶稣。
迫害された時が大事です。
受逼迫才是关键。
その時、私たちが本当に神の側に立っているのかどうかが分かります。
那时我们就能明白我们是否真的站在神的一边。
その時、私たちが、出来事の本質に気づいて、喜ぶことができるかどうか。
那时我们能否为认清这事的本质而开怀。
落ち込まないで、どうぞ喜んでください。
不要失落,要欢喜。
その時、十字架のイエス様が一緒にいてくださいます。
那时就能和十字架上的耶稣同在。
そのことが分かっていたからこそ、キリスト教の歴史は迫害の歴史だけれども、信仰が絶えることなく受け継がれてきたんです。
正是因为明白了这点,即使基督教历史是受逼迫的历史,依然不放弃信仰继续继承下去。
むしろその度に、信仰が高められてきたんですね。
甚至可以说,在这过程中,信仰得到了提升。
私たちが同じようにできるなら、私たちの後の時代にも信仰は受け継がれていくことでしょう。
我们能这样的话,我们的后代也能继承下去。
そして、もっと多くの人が救われていくことになるのです。
而且更多的人将得以救赎。