
「地の塩、世の光」
マタイによる福音書5章13-16節
13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
あなたがたは「地の塩」であると言われています。
私たちは「地の塩」なんですね。
私たちは、この世界に味を付ける、そのような者だということです。
そして、この世界が腐らないようにする、そういう役割もある、そういうものなんですね。
「地の塩」って、そういうことですよね。
私たちはそんな特別な存在なんです。
イエス様は私たちのことをそういうふうに見てくださっているんですね。
しかしこれって大変なことですね。
私たちがいなかったら世の中は何の味もしないということなんです。
私たちがいなかったら世の中は腐ってしまうということなんですね。
そして、私たちは「世の光」であるとも言われています。
私たちはこの世を照らしている、ということです。
私たちは光を放っているんですね。
これだって大変なことですよ。
私たちがいなかったらこの世は暗闇だと言われているんです。
しかし、どうでしょうか。
私たちは胸を張って、「わたしは地の塩です、世の光です」と言えるでしょうか。
なかなかそうは言えませんよね。
しかし、大事なことは、イエス様が私たちのことをそのように見なしているということです。
イエス様の前には、私たちは、もうすでに「地の塩」、「世の光」なんです。
ですから、イエス様は、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい、そのために努力しなさい」なんていうことは言いませんね。
「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。
そう言い切っておられるんです。
そして、今日のこの場面で呼びかけられている「あなたがた」という人たちはどういう人たちだったか、と言いますと、これはただ単にイエス様の所に来た人たちです。
イエス様の所に来て、イエス様の話を聞いているだけです。
けれども、それだけでもう十分に地の塩、世の光だとイエス様は言うんですね。
だから、イエス様は「どうすれば地の塩になれるか」、「どうすれば世の光になれるか」ということは教えていませんよね。
イエス様はどういうことを言っておられるでしょうか。
塩が塩気を失ってはならないと言いますね。
それから、光が隠されてはならないとも言っています。
逆に言うと、もうすでに、私たちは地の塩、世の光なんです。
だから、塩気をなくさないように、光を隠さないように、ということだけを言うんです。
ということは、実はわたしたちはもうすでに世の中に味を付けているし、もうすでに世の中をわたしたちの光で照らしているんです。
だから、味がなくなった場合のことが注意されているんですね。
味がなくなった捨てられるよ、と。
昔の塩は味がなくなることがあったそうです。
そして、あなたがたは光なんだから、隠れた所にいてはいけないよ、と言うんですね。
むしろ、「山の上にある町は、隠れることができない」と言っています。
わたしたちは光り輝いているんだから、自分の光を隠しておくことはできないんだということです。
要するに、地の塩、世の光としての役割をしっかり果たしなさいと言われているんですね。
しかし、現実に、そんな働きが私たちにできているでしょうか。
世の中に味を付ける。
世の中を明るく照らす。
これって、「世の中を変える」ということでしょうか。
そうだとしたらそれは、どんな有名な人でも難しいことですね。
ちょっとくらいは努力している、とは言えるかもしれません。
道端のごみを拾う、とか、お年寄りに電車の席を譲る、とか、そういうことくらいならできます。
それだって、世の中を明るくすることかもしれません。
でも、イエス様が言ったことはそういうことではないんですよね。
努力しなきゃいけないという話ではないんです。
努力しなくたってもうすでに私たちは地の塩、世の光だ、と言われているんですから。
だいたい、今、イエス様の話を聞いている人たちは、ただイエス様の所に来ただけで、別に何もしていないわけですよ。
ただ、16節で、「あなたがたの立派な行いを見て」と言われています。
そうなると、やっぱり「立派な行い」をしなければならないのかと思ってしまいますね。
しかしこれも、私たちのイメージする「立派な行い」とは違うんです。
「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われているんですから。
「人々が」、「あなたがたの天の父をあがめるようになる」ということになるんです。
しかし、もし私たちが普通に何か立派なことをしたのなら、そうはならないですよね。
私たちがほめられることはあっても、神様をあがめるようにはならないんです。
もし私たちが神様に愛されていることを自分の行いで証することが出来れば、そうなるかもしれません。
この人は神様に愛されているから、こんなことができるんだ、というふうに見てもらえるかもしれませんね。
そう思ってもらえれば、世の人は神様をあがめるようになるかもしれません。
しかし、どんなことをすればいいのでしょうか。
いやいや、そういうことではないんですね。
努力して何かをわざわざしなければいけないということではないんです。
今、イエス様の話を聞いている人たちは、ただイエス様の所に来ただけで、別に何もしていないんですから。
でも、地の塩だ、世の光だ、あなたがたはもうすでに立派だ、と言われているんです。
一体何が立派なんでしょうか。
イエス様の話を聞いている人は、今、何をしていますか。
まず、この人たちはイエス様の所に来たわけです。
そして、イエス様の話を聞いているんです。
この人たちがしていることはこれだけです。
これ以外のことは別に何もしていませんし、イエス様も、あなたがやったこういう行いは立派だとは言っていません。
ということは、イエス様の所に行くこと、そして、イエス様の話を聞くこと。
これで十分なんだということですね。
それだけでもう、世の人とは違う。
決定的に違うということなんです。
考えてみますと、イエス様の所に来たということは、逆に言って、どこか他に行ったわけではないんですよね。
むしろ、他のどこかに行こうとする気持ちよりも、イエス様の所に行きたいという気持ちが強かった。
それだけでもう、世の人とは違いますよね。
世の人はイエス様のところに行こうとはしないものなんです。
まして、イエス様の話を聞こうとも思わないんです。
しかし、イエス様の所に来て、イエス様の話を聞くなら、もうそれだけでわたしたちは世の人とは違うことになります。
私たちは現に、イエス様と共にある。
現に、神と共にある。
だから、大事なのは、塩気をなくさないことです。
ともし火を隠さないことです。
これはつまり、イエス様の所に来つづけることですね。
そして、イエス様の話を聞きつづけることです。
それは、別の言い方をするなら、イエス様を第一にするということです。
私たち自身は第二なんですね。
そうしている内に、私たちを見て、周りの人々は、神様をあがめるようになる、とイエス様は約束してくださっているんです。
私たちは何も自分のことが立派だとは思いませんが、考えてみると確かに世の人と違っていると思うんですね。
私は何か月か前、ある人の買い物のお手伝いをしていた時期がありました。
その方は心臓が悪かったんですね。
それで、車イスなんですけれども、車イスで前に進むには腕で車輪を回すんですけれども、腕に力がないので、足を動かして、何メートルかごとに休みながら、何とか前に進んでおられたんです。
それで、教会の前を通りかかった時にお声をおかけして、すぐそこに買い物に行くのを手伝ったんですね。
聞くと、すぐ近くにお住まいなのに、買い物をするための往復に1時間もかかっているということでしたので、じゃあいつでもお手伝いしますよ、と申し出ました。
別に立派な行いとか、そういうことでもないですよね。
私自身、買い物をすることはありますから、ついでにその人が必要な買い物をすることくらい何てことないことです。
でも、これからお手伝いをすることを申し出ますと、最初は断られそうになりました。
宗教の勧誘かと怪しまれたんですね。
どうしてそんなことをするのか、と聞かれました。
どうして、と言われても、こちらには理由はないんですね。
大変そうだから手伝おうと思っただけです。
ただ、不思議に思われるというのは世間では普通の感覚かもしれませんね。
自分の得になることをしろ、損になることはするな、というのが世の中ですから。
それにしてもあんまり怪しまれるものですから、私は「困っている人を助けるのに理由は必要ありません」とお答えしました。
しかし、今思い返してみると、自分の言ったことが間違っていたとは思いませんが、それを実行する人は世の中にはいないんですよね。
実際、半年近くその人は自分で買い物に行っていたそうです。
とにかく、そういうことがあって、私はその人の買い物のお手伝いをするようになりました。
そうすると、しばらくして、向こうから「教会に来たい」と言ってくださったんですね。
私としては別に自分が立派なことをしたとは思わないんですが、何しろ、誰にでもできる簡単なことですから……、それは、やるのに理由がいることではなくて、やらないのに理由がいるようなことですよね。
でも、たったそれだけでも、その人の心は、神をあがめるというところまで行きませんけれども、神の方に向きかかっていたわけですね。
ただ、ある時行ったらその方は亡くなっていました。
結局、その方の体調は良くならなかったですね。
その時のことを思い出すと、今でも本当に寂しいですね。
その方の家を訪ねて、買い物ついでにどうでもいい話をするのが私は好きだったんです。
その方も、私が来るのをいつも楽しみにしてくださっていました。
もうちょっと時間があれば……。
とにかく、私たちにとっては普通のことで、でも、世の人は誰もそんなことはしない。
世の人の理解を超えること。
そういうことっていうのは、案外あるんじゃないでしょうかね。
そして、そういう私たちを見ると、何も言わなくたって、世の人が心を神様に向けるということはあるんじゃないかという気がします。
だから、私たちとしては、塩気をなくさないこと、ともし火を隠さないこと。
イエス様の所に来続けて、イエス様の話を聞き続けること。
今日も明日も、そのことだけ、やっていこうと思うんです。
「地の塩、世の光」
地上的盐世上的光
マタイによる福音書5章13-16節
马太福音5章13-16节
13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
“你们是地上的盐。盐若失了味,怎能叫它再咸呢?以后无用,不过丢在外面,被人践踏了。你们是世上的光。城造在山上,是不能隐藏的。人点灯,不放在斗底下,是放在灯台上,就照亮一家的人。你们的光也当这样照在人前,叫他们看见你们的好行为,便将荣耀归给你们在天上的父。”
あなたがたは「地の塩」であると言われています。
说你们是“地上的盐”。
私たちは「地の塩」なんですね。
我们是“地上的盐”呢。
私たちは、この世界に味を付ける、そのような者だということです。
我们是赋予这个世界独特味道的人。
そして、この世界が腐らないようにする、そういう役割もある、そういうものなんですね。
还要让这世界不至腐坏,我们有如此作用。
「地の塩」って、そういうことですよね。
“地上的盐”说的是这个意思。
私たちはそんな特別な存在なんです。
我们是如此这般特殊的存在。
イエス様は私たちのことをそういうふうに見てくださっているんですね。
耶稣如此看待我们。
しかしこれって大変なことですね。
这是很了不起的。
私たちがいなかったら世の中は何の味もしないということなんです。
要是没有我们的话这个世界就没有任何味道了。
私たちがいなかったら世の中は腐ってしまうということなんですね。
要是没有我们的话这世界就腐坏了。
そして、私たちは「世の光」であるとも言われています。
而且还说了我们是“世上的光”。
私たちはこの世を照らしている、ということです。
就是说我们照亮了整个世界。
私たちは光を放っているんですね。
我们释放着光芒。
これだって大変なことですよ。
这也很了不起。
私たちがいなかったらこの世は暗闇だと言われているんです。
如果没有我们的话这世界将漆黑一片。
しかし、どうでしょうか。
可是是这样的吗?
私たちは胸を張って、「わたしは地の塩です、世の光です」と言えるでしょうか。
我们能挺直胸膛说“我是地上的盐,世上的光”吗?
なかなかそうは言えませんよね。
很难这样说出口吧。
しかし、大事なことは、イエス様が私たちのことをそのように見なしているということです。
但是重要的是,耶稣把我们视为如此。
イエス様の前には、私たちは、もうすでに「地の塩」、「世の光」なんです。
在耶稣面前,我们已经是“世上的盐”、“地上的光”了。
ですから、イエス様は、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい、そのために努力しなさい」なんていうことは言いませんね。
因此,耶稣没有说“你们要做地上的盐世上的光,要为此而努力”之类的话。
「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。
“你们是地上的盐。你们是世上的光。”
そう言い切っておられるんです。
如此断言。
そして、今日のこの場面で呼びかけられている「あなたがた」という人たちはどういう人たちだったか、と言いますと、これはただ単にイエス様の所に来た人たちです。
今天所讲内容中所称的“你们”是怎样的人呢?他们只不过是来到耶稣那里的人。
イエス様の所に来て、イエス様の話を聞いているだけです。
只是来到耶稣那里,听耶稣话语的人。
けれども、それだけでもう十分に地の塩、世の光だとイエス様は言うんですね。
但是,耶稣说只要这样就够了,这样就已经是地上的盐,世上的光了。
だから、イエス様は「どうすれば地の塩になれるか」、「どうすれば世の光になれるか」ということは教えていませんよね。
因此,耶稣并没有教导说“如何成为地上盐”,“如何成为世上的光”。
イエス様はどういうことを言っておられるでしょうか。
耶稣说了些什么呢?
塩が塩気を失ってはならないと言いますね。
他说盐不要失了咸味。
それから、光が隠されてはならないとも言っています。
还说不要将光隐藏起来。
逆に言うと、もうすでに、私たちは地の塩、世の光なんです。
反过来说就是我们早已经是地上的盐世上的光了。
だから、塩気をなくさないように、光を隠さないように、ということだけを言うんです。
因此,为了不失咸味,不隐藏光芒,才说了这样的话。
ということは、実はわたしたちはもうすでに世の中に味を付けているし、もうすでに世の中をわたしたちの光で照らしているんです。
也就是说,事实上我们已经赋予了世界味道,已经用我们的光照亮了世界。
だから、味がなくなった場合のことが注意されているんですね。
因此,要让我们小心不要失了味。
味がなくなったら捨てられるよ、と。
要是失去了味道就会被丢掉。
昔の塩は味がなくなることがあったそうです。
听说以前的盐是会失去味道的。
そして、あなたがたは光なんだから、隠れた所にいてはいけないよ、と言うんですね。
所以说因为你们是光,所以不要待在隐蔽的地方。
むしろ、「山の上にある町は、隠れることができない」と言っています。
换言之就是“城造在山上是不能隐藏的。”
わたしたちは光り輝いているんだから、自分の光を隠しておくことはできないんだということです。
因为我们闪耀着光芒,所以无法隐藏自己的光芒。
要するに、地の塩、世の光としての役割をしっかり果たしなさいと言われているんですね。
总之就是说要我们作为地上的盐,世上的光要好好地发挥作用。
しかし、現実に、そんな働きが私たちにできているでしょうか。
可是,事实上我们做到了吗?
世の中に味を付ける。
赋予世界味道。
世の中を明るく照らす。
照亮世界。
これって、「世の中を変える」ということでしょうか。
是指“改变世界”吗?
そうだとしたらそれは、どんな有名な人でも難しいことですね。
如果是的话,无论多有名的人都很难做到。
ちょっとくらいは努力している、とは言えるかもしれません。
或许可以说正在一点点努力中。
道端のごみを拾う、とか、お年寄りに電車の席を譲る、とか、そういうことくらいならできます。
捡一下路边的垃圾,电车上给老人让座之类的话是可以做到的。
それだって、世の中を明るくすることかもしれません。
或许这就是给世界带来光明。
でも、イエス様が言ったことはそういうことではないんですよね。
但是耶稣所说的并非如此。
努力しなきゃいけないという話ではないんです。
没有说必须要努力。
努力しなくたってもうすでに私たちは地の塩、世の光だ、と言われているんですから。
因为说了即便不努力我们也已经是地上的盐世上的光了。
だいたい、今、イエス様の話を聞いている人たちは、ただイエス様の所に来ただけで、別に何もしていないわけですよ。
因为听耶稣话语的人,只是来到耶稣那里,其它什么都没做。
ただ、16節で、「あなたがたの立派な行いを見て」と言われています。
只是16节说“看你们的好行为”。
そうなると、やっぱり「立派な行い」をしなければならないのかと思ってしまいますね。
这样会让我们觉得还是必须要有“好行为”。
しかしこれも、私たちのイメージする「立派な行い」とは違うんです。
可是这和我们印象中的“好行为”不一样。
「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われているんですから。
因为说“他们看见你们的好行为,便将荣耀归给你们在天上的父。”
「人々が」、「あなたがたの天の父をあがめるようになる」ということになるんです。
“人们”会“将荣耀归给你们在天上的父”。
しかし、もし私たちが普通に何か立派なことをしたのなら、そうはならないですよね。
可是假使我们做了什么了不起的事,也不行吧。
私たちがほめられることはあっても、神様をあがめるようにはならないんです。
我们即使被表扬,也不能荣耀神。
もし私たちが神様に愛されていることを自分の行いで証することが出来れば、そうなるかもしれません。
如果我们能用自己的行为来证明被神爱着的话或许可以。
この人は神様に愛されているから、こんなことができるんだ、というふうに見てもらえるかもしれませんね。
或许可以看作是“因为那人得着神的爱,所以可以做那样的事”。
そう思ってもらえれば、世の人は神様をあがめるようになるかもしれません。
要是这样想的话,世人或许会仰望神。
しかし、どんなことをすればいいのでしょうか。
可是,我们该如何做才好呢?
いやいや、そういうことではないんですね。
不不,并不需要如此。
努力して何かをわざわざしなければいけないということではないんです。
并没有必须要努力特地去做些什么。
今、イエス様の話を聞いている人たちは、ただイエス様の所に来ただけで、別に何もしていないんですから。
因为听耶稣话语的人只是来到耶稣那里,其它并没有做什么。
でも、地の塩だ、世の光だ、あなたがたはもうすでに立派だ、と言われているんです。
但是却被说“你们是地上的盐,世上的光,已经很了不起了”。
一体何が立派なんでしょうか。
到底什么地方了不起呢?
イエス様の話を聞いている人は、今、何をしていますか。
听耶稣话语的人在干什么呢?
まず、この人たちはイエス様の所に来たわけです。
首先他们来到了耶稣那里。
そして、イエス様の話を聞いているんです。
然后听耶稣的话语。
この人たちがしていることはこれだけです。
他们所做的仅仅如此。
これ以外のことは別に何もしていませんし、イエス様も、あなたがやったこういう行いは立派だとは言っていません。
除此以外什么都没有做,耶稣也没有说你们所做的很了不起。
ということは、イエス様の所に行くこと、そして、イエス様の話を聞くこと。
也就是说,到耶稣那里去,然后听耶稣的话语。
これで十分なんだということですね。
这就足够了。
それだけでもう、世の人とは違う。
就这已经和世人不一样了。
決定的に違うということなんです。
是决定性的不同。
考えてみますと、イエス様の所に来たということは、逆に言って、どこか他に行ったわけではないんですよね。
细想一下,来到耶稣那里,反过来说就是没有去其它地方。
むしろ、他のどこかに行こうとする気持ちよりも、イエス様の所に行きたいという気持ちが強かった。
相比去其它地方,更想去耶稣那里。
それだけでもう、世の人とは違いますよね。
只是这点,已经和世人不一样了。
世の人はイエス様のところに行こうとはしないものなんです。
世人不愿去耶稣那里。
まして、イエス様の話を聞こうとも思わないんです。
而且也不想听耶稣的话语。
しかし、イエス様の所に来て、イエス様の話を聞くなら、もうそれだけでわたしたちは世の人とは違うことになります。
可是如果来到耶稣那里,听耶稣的话语,就这点已经让我们和世人不一样了。
私たちは現に、イエス様と共にある。
我们现在和耶稣同在。
現に、神と共にある。
就是现在,与神同在。
だから、大事なのは、塩気をなくさないことです。
因此,重要的是不要失了咸味。
ともし火を隠さないことです。
不要掩藏灯火。
これはつまり、イエス様の所に来つづけることですね。
这也就是说,要一直来耶稣这里。
そして、イエス様の話を聞きつづけることです。
还要一直听耶稣的话语。
それは、別の言い方をするなら、イエス様を第一にするということです。
换一种说法就是,要把耶稣放在第一位。
私たち自身は第二なんですね。
把我们自己放在第二位。
そうしている内に、私たちを見て、周りの人々は、神様をあがめるようになる、とイエス様は約束してくださっているんです。
耶稣约定说周围的人看到如此行的我们就将荣耀归于神。
私たちは何も自分のことが立派だとは思いませんが、考えてみると確かに世の人と違っていると思うんですね。
虽然我们并不觉得自己有什么了不起,但是仔细想想的话确实与世人不同。
私は何か月か前、ある人の買い物のお手伝いをしていた時期がありました。
几个月前我帮忙给一个人买东西。
その方は心臓が悪かったんですね。
那人心脏不好。
それで、車イスなんですけれども、車イスで前に進むには腕で車輪を回すんですけれども、腕に力がないので、足を動かして、何メートルかごとに休みながら、何とか前に進んでおられたんです。
虽然坐轮椅,但是要用手臂转动车轮向前行,因为手臂没有力量,就用脚每几米休息一下往前行。
それで、教会の前を通りかかった時にお声をおかけして、すぐそこに買い物に行くのを手伝ったんですね。
在经过教会的时候我跟他打了招呼,马上帮忙去买东西。
聞くと、すぐ近くにお住まいなのに、買い物をするための往復に1時間もかかっているということでしたので、じゃあいつでもお手伝いしますよ、と申し出ました。
一打听,知道就住在附近,但是因为买东西来回要花一个小时,所以跟他说随时可以帮忙。
別に立派な行いとか、そういうことでもないですよね。
并不是什么大不了的事情。
私自身、買い物をすることはありますから、ついでにその人が必要な買い物をすることくらい何てことないことです。
因为我自己也要买东西,也就是顺便帮他买点必需品。
でも、これからお手伝いをすることを申し出ますと、最初は断られそうになりました。
但是,一说今后要帮忙,就被拒绝了。
宗教の勧誘かと怪しまれたんですね。
大概被怀疑是传教的吧。
どうしてそんなことをするのか、と聞かれました。
他问我为什么要这样做?
どうして、と言われても、こちらには理由はないんですね。
虽然被这么问,可是我并没有什么特别的理由。
大変そうだから手伝おうと思っただけです。
只是觉得他很辛苦所以想帮忙而已。
ただ、不思議に思われるというのは世間では普通の感覚かもしれませんね。
只是,或许世人一般都会认为这不可思议。
自分の得になることをしろ、損になることはするな、というのが世の中ですから。
只做对自己有利的,不做对自己不利的,这才是世间所认同的。
それにしてもあんまり怪しまれるものですから、私は「困っている人を助けるのに理由は必要ありません」とお答えしました。
即使这样做了还是被怀疑,于是我就回答说“帮助有困难的人不需要理由”。
しかし、今思い返してみると、自分の言ったことが間違っていたとは思いませんが、それを実行する人は世の中にはいないんですよね。
可是现在回想起来,虽然自己所说的并不觉得有错,但是世间并没有如此行的人。
実際、半年近くその人は自分で買い物に行っていたそうです。
事实上听说那人有将近半年都是自己去买东西。
とにかく、そういうことがあって、私はその人の買い物のお手伝いをするようになりました。
总之就这样我开始帮忙给他买东西了。
そうすると、しばらくして、向こうから「教会に来たい」と言ってくださったんですね。
于是,不久之后,他说“想来教会”。
私としては別に自分が立派なことをしたとは思わないんですが、何しろ、誰にでもできる簡単なことですから……、それは、やるのに理由がいることではなくて、やらないのに理由がいるようなことですよね。
我并不觉得自己做了什么了不起的事情,因为是谁都可以做到的事情,做不需要理由,不做才需要理由。
でも、たったそれだけでも、その人の心は、神をあがめるというところまで行きませんけれども、神の方に向きかかっていたわけですね。
但是,只是因为这一点,那人的心中虽然还没到仰望神的地步,但是至少转向了神。
ただ、ある時行ったらその方は亡くなっていました。
只是,之后再去他已经过世了。
結局、その方の体調は良くならなかったですね。
最终,他的身体也没有好。
その時のことを思い出すと、今でも本当に寂しいですね。
一想起那时的事情,现在都还觉得冷清。
その方の家を訪ねて、買い物ついでにどうでもいい話をするのが私は好きだったんです。
我很喜欢去他家拜访,买东西时顺便瞎聊聊。
その方も、私が来るのをいつも楽しみにしてくださっていました。
他也一直很期待我去。
もうちょっと時間があれば……。
如果再多点时间的话……
とにかく、私たちにとっては普通のことで、でも、世の人は誰もそんなことはしない。
总之,对我而言很普通的事,但是对世人来讲并不是。
世の人の理解を超えること。
已经超越了常人所能理解的程度。
そういうことっていうのは、案外あるんじゃないでしょうかね。
这样的事,或许有点出乎意外吧。
そして、そういう私たちを見ると、何も言わなくたって、世の人が心を神様に向けるということはあるんじゃないかという気がします。
如果看到这样的我们,即使什么都不说,我觉得世人会把心向神敞开的。
だから、私たちとしては、塩気をなくさないこと、ともし火を隠さないこと。
因此,我们不要失了咸味,不要让灯火隐藏起来。
イエス様の所に来続けて、イエス様の話を聞き続けること。
要一直来耶稣这里,一直听耶稣的话语。
今日も明日も、そのことだけ、やっていこうと思うんです。
只是这一点,今天明天都想要去做。