
完成するために
マタイによる福音書5章17節から20節
17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
今日は司会の方には本当に久しぶりの司会をしていただきまして、ご本人がどうかは分かりませんが、何だか見ている内に私の方が緊張してしまいました。
しかし、以前の通りにしっかりとなさってくださってありがとうございます。
主が共におられます。
今日の朝ですが、夜、あまり寝られなかったんですね。
何だかイライラして、じっとしていられない。
夜中に何度も起きて、結局、寝たのか寝なかったのか分からない感じで朝になってしまいました。
聞くと、妻も同じだったそうです。
イライラして、眠れない。
そこで、昔聞いた話を思い出したんですが、夜、寝ていても、隣で寝ている人の脳波は届いているそうです。
だとしたら、もしかすると、私のイライラが妻にうつったのかもしれません。
いやもしかすると、妻のイライラが私にうつったのかもしれないですよね。
分かりませんけれども。
しかし、ずっとイライラしているというのは良くありません。
夜だと寝られないということになります。
昼間でも、何をするにも良くはないでしょう。
ただ、今日の聖書の話がそういう話かというと、そうではないですね。
「腹を立ててはならない」というのは来週の話です。
今週は先週からの話の続きです。
先週の最後の16節で、「立派な行い」をするように、ということが言われていましたね。
これ、ユダヤ人が「立派な行い」と聞くと、旧約聖書の教えに従って生きることをまずイメージするんです。
旧約聖書の言葉の通りに生きるのが「立派な行い」ということでした。
そういうことで、イエス様は今日、その話を続けるんですね。
17節で、イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と言っていますけれども、この律法と預言者というのは旧約聖書のことです。
旧約聖書のことを、「律法と預言者」と言ったんですね。
そしてその、旧約聖書の専門家が、今日の20節の「律法学者やファリサイ派の人々」ということです。
この人たちは、毎日聖書を研究して、どういうふうに生きるべきかを考えて、自分でそれを行い、人々にも、「こういうふうに生きていきなさい」と教えていたんです。
ですので、「律法学者やファリサイ派の人々」というのは、「立派な行い」代表なんですね。
それなのに、イエス様はその人たちのことを何と言っていますか。
20節ですよね。
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。
これって大変なことを言っていますよね。
律法学者やファリサイ派は天の国に入ることはできないって言っているんです。
あの人たちはダメだと。
そういう人たちよりもまさっていなくてはいけないんだよと。
ここでつかわれている「義」という言葉は「正しさ」という意味の言葉ですが、要するに、律法学者やファリサイ派より正しい生き方をしなさいと言われているんです。
律法学者やファリサイ派は毎日聖書を読んで、正しい生き方について考えていて、正しいと考える生き方を行っているのに、そんなことを言うんですね。
ただここで、注意したいことがありますね。
立派な行いって言っても、立派な行いをしたから天の国に入れるわけではないですね。
と言いますか、そもそも人間は誰も、天の国に入る資格なんてないんです。
人間には罪があるからです。
罪というのは神に背くことですけれども、人間にはみんな、そういうところがあります。
ですので、人間は誰も、天の国にふさわしくありません。
もし、私たちが天の国に入れるということがあるとするなら、それは、神様が私たちの罪をゆるしてくださる時だけですね。
それくらい私たちは神の前では罪深いものなんです。
けれども、もし、神様が私の罪をゆるしてくださったというのなら、私たちは変わりますよね。
神様が私を救ってくださったんだとしたら、神様にふさわしい自分になりたいと思うのは自然ですね。
ですから、私たちが立派な行いをしたら救われるということではないんですが、救われたから、自分が変わるということは当然ありますね。
何しろ、神様がこの私を救ってくださったんです。
変わらないはずがないですよね。
私たちは、神様に罪をゆるされた者として、神の前での正しさをそれぞれに求めていくんです。
そして、それは、だいたい旧約聖書がそういうものでした。
旧約聖書には正しい生き方についても書かれています。
ただ、正しい生き方を教えるような神の言葉はどういうタイミングで与えられたでしょうか。
人々が奴隷にされていたところから、救い出された後に与えられたんですね。
これが大事なところです。
正しい生き方をしたから救われたのではないんですね。
救われた後、正しい生き方が示されたんです。
神に救われた者として、ふさわしく生きていきなさい、ということで、そのような生き方が示されました。
私たちも同じですね。
救われたから、ふさわしく生きていきたいと思うんです。
そのために、旧約聖書は私たちにとってもガイドラインになることですね。
ですので、今日の18節で、イエス様は言っていますよね。
「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。
世の終わりまで、旧約聖書の神の言葉は生きつづけるんだということですね。
旧約聖書に書かれていることを無視してはいけないよということです。
だってそれは、神様に救われたこの私にふさわしい生き方なんですから。
ただ、気を付けたいのは、それは、旧約聖書の言葉を文字通りそのまま守れということではありません。
イエス様が17節で言っていますね。
「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである」。
イエス様は旧約聖書に書かれている言葉を完成するんです。
今までは完成されていなかった。
それをイエス様が完成するんです。
私たちではなく、イエス様が完成するんですね。
イエス様は、完成された正しい生き方を現わすために来られたんです。
神に救われた者としてふさわしい生き方を、旧約聖書の時代の人々は実現することができませんでした。
救われた人々は結局、神様から離れていきました。
それでも、神様は人を愛して、罪をゆるし、天の国に人間が入ることができるようにしてくださったんです。
神が人となった。
イエス様ですね。
そして、人の罪を背負って、代わりに罰を受けてくださった。
神が代わりに罰を受けてくださったんだから、私たちはもう、神の裁きを受けることがない。
そして、その上で、イエス様は私たちに神の霊、聖霊を与えてくださった。
私たちの内に神がおられる。
だから、私たちは神の前での正しい生き方を目指すことができる。
そんなこと、世の人だったら考えもしませんよ。
でも、私の中に神がおられるので、そうすることができる。
イエス様のようになること、イエス様が完成させたふさわしい生き方を目指していくことができるんです。
ですから私たちは、世の中の基準で立派な行いをしていくんじゃないですね。
イエス様の生き方が基準なんです。
だから、先週の16節で、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われていましたよね。
世の中の基準で立派な行いをしたんだったら、私がほめられるわけです。
でも、イエス様が完成させた生き方をしていくと、神様があがめられることになります。
私たちがどんな時でも神様を信頼して、感謝と賛美の中で生きていると、神様があがめられることになるんですね。
これが、律法学者やファリサイ派の人々が良くなかった点です。
この人たちは、自分の正しさを求めていたんです。
自分が正しくありたいと思っている。
そこで、立派な行いとは何かを考えて、それを実行する。
それは悪いことではありません。
しかし、そもそも聖書の言葉というのは、救われた人たちに与えられたものなんですから、まず、感謝をもって読むべきなんですね。
自分で自分を正しい者にしようとするのが一番に来るのはおかしいんです。
神様が私を救ってくださった。
それへの感謝と賛美が第一です。
そして、感謝と賛美を第一にしていれば、イエス様の言葉は難しくないですね。
次の箇所から、律法学者やファリサイ派の義を超えるイエス様の話が始まっていきますけれども、来週は「腹を立ててはならない」ですね。
私たちは皆、腹を立てることはあります。
でも、神様に感謝して、賛美している時には腹を立てませんよね。
「感謝と賛美にとどまりなさい」っていうことなんです。
普通の方法では救われるはずのないような自分が、神様の命がけの愛で救われた。
そのことをいつも頭の中に置いておきましょう。
それが私たちの第一ですから。
私たちは第一に、神に救われた者なんです。
だから、行いとしては、第一に、感謝と賛美。
そうやって、イエス様の似姿になっていきましょう。