
21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
「ばか」というだけでダメだ、と言われています。
しかし、そうなると困りますね。
私たちの中で、今まで一度もこの言葉をつかったことのない人はいるでしょうか。
いない……ですよね。
まあ、ある程度大人になりますと、相手に対して、直接言う人は少ないかもしれません。
でも、ある程度大人になると、今度はグチを言うということが始まりますね。
私の知人がこういうことを言いました。
「自分の部下はバカだ」。
うーん、という感じですね。
そこでこちらが「そんなことを言ったら地獄行きだぞ」と言うとそこで話が終わってしまいますので、では上司はどうかと聞いてみますと、「上司もバカだ」と言うんですね。
直接本人には言わずに、別に言っても構わない相手に言うんですね。
しかし、この人の言っていることはどうでしょうか。
私はある時、こういう話を聞いたことがあります。
「部下が自分よりバカなのは当たり前だ。もしその部下が、自分と同じくらいの知識があって、自分と同じように判断して行動できるんだったら、その人は自分の部下ではなく、自分と同列なんだ。自分の部下であるということは、まだその人が自分と同じようにはできないということだから、分かっていないことがあったとしても仕方がない」。
なるほど、という感じですね。
確かにそうでしょう。
部下だということは自分よりまだ下にいるということなんですから、できないことがあっても仕方ありません。
そう考えますと、上司についても、考えを改めなければならないと思うんですね。
部下であるその人は、自分の知っている限りで考えているわけですよね。
これは人間誰でもそうですが、私たちは、自分が知っている限りでしか考えることができません。
そして、自分の知識に基づいて判断するんだったら、上司が自分と違っているということはあるだろうと思うんです。
自分は、少ない知識で考えている。
でも、上司は、その人以上の知識で判断しているんです。
それが、上司であるということですよね。
でしたら、上司と自分で考えが違っていたら、それは自分の方がまだまだ考えが浅いということですね。
あるいは、もしかしたらその上司は、本当は別のやり方をしたいけれども、そうしたくてもできない理由がどこかにあるかもしれないですよね。
上司にも上司がいるし、部下は一人ではないんですから。
そうなってくるともう分かりませんよ。
上司がどれくらいのことを考えているのかなんて、部下には分からない。
それが上司が上司であるということです。
とにかく、自分の知識にだけ基づいて判断するというのが間違っているんですね。
そして、人間の知識には、限界があります。
どんな人にも限界があります。
だからそこで、自分中心に考えていてはいけないんです。
要するに問題は、自分中心ということですね。
自分中心になればなるほど、人はどんどんバカに見えていきます。
その自分中心ということが聖書で言うところの罪ということですね。
だいたい、今日の個所でこんなことが取り扱われていること自体、イエス様が、人間は人に対して本当にしばしば腹を立てるものなんだなあと思っておられる、と言うことですよね。
気を付けたいと思います。
さてこの「ばか」と言ってはならないという話がどこから来たのかと言いますと、「殺すな」という言葉から来たんでした。
この「殺すな」という言葉は旧約聖書に書かれている言葉なんですね。
私たちは「殺すな」と言われますと、まあそれは大丈夫だと思うわけです。
実際、これに違反する人は割合からすると少ないですね。
大体の人はこの言葉を守っています。
けれどもここでイエス様は、「殺すな」という言葉にある神の御心は何かということを言うっているんです。
今日の場面の直前の場面の17節で、イエス様は、ご自分は律法を完成するために来たと言っていますよね。
律法というのは旧約聖書のことです。
イエス様は旧約聖書を完成するんです。
つまり、「殺すな」という旧約聖書の言葉は、その言葉を守れていればセーフ、守れなかったらアウト、というだけのことではないんですね。
私たちが普通に「○○するな」と聞きますとそれくらいにしか考えませんが、それだけでいいというものではないんですね。
そこにある神様の御心を考えていくわけです。
それが完成への第一歩だということですね。
では、「殺すな」という言葉で、神様は何を伝えようとしておられるのでしょうか。
イエス様は言うんですね。
人に対して腹を立てるだけでダメだと。
御心に適っていないんだと。
かなり厳しいですね。
どうしてここまで言うのかなあと思いますが、人に対して腹を立てて、その怒りが大きくなって、最後の最後には人を殺すことになるわけですね。
だとしたら、殺さなかったらセーフではない。
腹を立てるというのは、殺すということの第一歩なんです。
だから、イエス様は腹を立てるだけでダメだと言うんですね。
殺さなかったらセーフではないんです。
腹を立てるだけで、それはもう神の御心に適わないことなんだということですね。
それにしても、続けて言われていることは厳しいことですね。
「ばか」と言うと、最高法院に引き渡されるんですね。
最高法院というのは最高裁判所です。
つまり、「ばか」と言うだけで、神の目には最大級の罪だということですね。
「愚か者」という言葉も出てきていますけれども、これは、神との関係において愚かだという意味の言葉でして、つまりこれは、神に背いているということです。
要するに、お前は罪深いぞ、と人に対して言うということ。
そうなると、火の地獄に投げ込まれるんですね。
もうどうしようもないことになってしまうんです。
イエス様にとって、腹を立てることと人を殺すことは同じようなものなんですね。
私たちにとっては、人を殺してやりたいと思うことと、実際に人を殺すこととの間にはものすごい距離があるように思いますけれども、神の目には同じことなんです。
しかし、そう言われると困ってしまいますよね。
神の目には同じだと言われたら、それはそうかなとは思いますけれども、私たち自身が同じレベルにならなければならないとしたら、どうでしょう、なれるかなあという感じですね。
ただ、そういうふうに考える必要はないんですね。
最高法院に引き渡されるとか火の地獄に投げ込まれるとか聞いたら怖いですけれども、イエス様は、私たちの罪を背負って私たちの代わりに罰を受けてくださる方なんですね。
ですから、同じレベルにならなきゃいけないって考える必要はないんです。
同じレベルになれないから、イエス様が私たちの罪を引き受けに来てくださったわけですから。
しかし、23節からのところは、どうでしょうか。
話がいきなり、もっと難しくなっていますね。
今までのところでは、腹を立てるなということでした。
自分が相手に腹を立てるなということですね。
でも、23節からは、相手に腹を立てられた場合のことなんです。
相手に腹を立てられた時、自分から仲直りしなさい、自分から和解しなさいと言われています。
イエス様は、とにかく、どんな理由であれ、人間が腹を立てているのは良くないとお考えなんですね。
だから、まずあなたは人に対して腹を立ててはならない、と言っておいて、それだけではなくて、誰かに腹を立てられたら、自分から、その人がもう怒らなくなるように働きかけなさいと言うんです。
自分が腹を立てなければそれでいいということではないんですね。
人との関係がいつも良いものであるように努めなさいと言われているんです。
そうなってくるとなおさら大変だということになりますけれども、考えてみると、イエス様が私たちにしてくださったことって何ですか。
私たちの罪を代わりに背負って、私たちの代わりに罰を受けてくださった。
それによって、私たちと神様との関係が良いものになったんですね。
私たちは罪人です。
自分中心で、神に逆らう者です。
その私たちに、神の怒りが向けられることになります。
けれども、イエス様は、ご自分からこの世に降りてきてくださって、人の罪を背負って、神の怒りを私たちの代わりに受けてくださったんですね。
ですから、私たちはもう、神の怒りを受けることはないわけです。
そもそも、神の子を地上に送ってくださったのが神様であるわけですが、神様はとにかく私たちを愛してくださる。
そして、私たちも、私たちを愛して、救いの道を開いてくださった神様を愛するんです。
これ、和解っていうことですよね。
私たちは、神様に和解していただいた者なのです。
神に逆らう私たちのために、神は、ご自分の方から、和解してくださったんですね。
だからこそ私たちも、和解ということを大事にしていくんですね。
和解に生かされている者として、和解を生きていくんです。
「殺すな」という言葉にある神の御心はそれだと、イエス様は言うんですね。
和解のために命を投げ出してくださった方が、そう言っているんです。
考えてみますと、旧約聖書の言葉には、「○○してはならない」という言葉が多いんですけれども、それは、それをしなければ大丈夫ということではないですね。
「○○してはならない」という言葉は、最初に神の言葉が人に与えられた時のもので、神様としては、最初だからそういう言い方をしたけれども、最初から、神様の御心は、それと反対のことを積極的にやっていって欲しいということだったんだよ、とイエス様は言っているんですね。
旧約聖書を完成する、というのはそういうことなんですね。
そこで、23節、24節を見ますと、これは、自分に反感を持っている人と一緒に礼拝しようとする場面ですね。
そういう時に、仲直りしなさいと言われています。
それも、礼拝に行く途中で仲直りしなさいと言われています。
つまり、礼拝よりも先に、仲直りしなさいということですね。
礼拝よりも仲直り優先なんですね。
礼拝というのは神様と向かい合うことです。
私と和解してくださった神様と向かい合うことです。
神に逆らう私たちに対して、神様は、ご自分から和解してくださったんでした。
だからこそ、その前に、礼拝よりも先に、和解することが正しいんだ、とイエス様は言うんですね。
腹を立てている相手に、自分から和解しに行きなさい、と言うんです。
その後で、礼拝なんですね。
人間同士の間で和解できるかどうかが、神様との関係に関わっているんです。
神は和解の神ですから。
だから、先に和解しなければならないんです。
25節に行きますと、反感どころか、自分を訴える人と一緒に道を行かなくてはならない場面です。
しかし、やはり和解しなさいと言われています。
これも、途中でですね。
裁かれる前にです。
どちらの場合も、腹を立てているのは相手なんですよ。
でも、自分から和解しなさいと言われているんです。。
そして、これは怖いことですね。
相手が腹を立てていて、自分が腹を立てているわけでないんですが、和解できなかった場合、裁かれるのは自分の方だという設定なんですね。
それくらい、イエス様は今もう本当に力を込めて、あなたは和解を生きなさいと言っているんです。
和解の中にだけ、生きていきなさい。
神様とあなたとの関係は、和解でしかないんだから。
その神様との関係を第一にしなさい。
あなたと人との関係も、和解しかないんだ。
そういうふうに言われているということは、逆に言って、私たちの間にあるものが、反感、訴え、それが普通、ということをイエス様は言っておられることにもなりますね。
考えてみると、そうですよね。
私たちの人生というのは、自分に反感を持つ人、自分を訴えようとする人と、それでも一緒にやっていかなくてはならない、そういうものですよね。
それはそれで仕方ないかもしれません。
イエス様もそういう前提で話をしておられるわけです。
人間の現実というか、世の中の現実というか。
でも、あなたは和解を生きていきなさい。
現に、神の和解に生かされているんだから、あなたは和解を生きていきなさい、とイエス様は言うんですね。
大事なのは、私たちが、イエス様の命と引き換えにゆるされたこと、和解させていただいたということを心に刻むことだと思うんです。
それって、私たちは、神の子の命をもってしかゆるされないほどに罪深いということなんですよね。
私たちは、神の目には、もうどうしようもないほど、罪深いものなんです。
しかし、その私たちを救うために、神は人になられ、命を投げ出してくださった。
ご自分から。
私たちは罪深くて、もう本当にどうしようもない。
それなのに、ご自分の方から、どの人からもお願いされてもいないのに、和解のために命を投げ出してくださった。
自分が代わりに人の罪を背負って、命を落としたんです。
命を落としたんです。
命を落とすくらい、苦しんだんです。
そのイエス様の苦しみを心に刻むことですね。
そして、感謝することです。
私たちの人生というのは、自分に反感を持つ人と、それでも一緒にやっていかなくてはならないようなものです。
それだって楽なことではありません。
しかし、神の子が私たちのために苦しんでくださったこと、そして、和解させていただいたことへの感謝が心にあるなら、どんなことでもそれに比べれば小さいことのはずですね。
私たちは、大きな大きな御心の中に、ゆるされて、置かれているんです。
その神のゆるしの中を生きていきましょう。
今日の話ですが、これはイエス様だからこそ言えることですよね。
和解のために命まで投げ出した方だから言えることです。
そして、それによって救われた私たちだから、私たちは、イエス様の言葉を聞くんです。
心を開いてイエス様の言葉を受け入れる。
そうすると、神の言葉が実現する。
それが私たちの信仰です。
腹を立てない(不可动怒)
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
“你们听见有吩咐古人的话,说:‘不可杀人’,又说:‘凡杀人的,难免受审判。’只是我告诉你们:凡向弟兄动怒的,难免受审判。凡骂弟兄是拉加的,难免工会的审断;凡骂弟兄是魔利的,难免地狱的火。所以,你在祭坛上献礼物的时候,若想起弟兄向你怀怨,就把礼物留在坛前,先去同弟兄和好,然后来献礼物。你同告你的对头还在路上,就赶紧与他和息,恐怕他把你送给审判官,审判官交付衙役,你就下在监里了。我实在告诉你,若有一文钱没有还清,你断不能从那里出来。”
「ばか」というだけでダメだ、と言われています。
经上说只说“笨蛋”都不可以。
しかし、そうなると困りますね。
可要是这样的话就有点为难了。
私たちの中で、今まで一度もこの言葉をつかったことのない人はいるでしょうか。
我们中间有人至今为止一次都没说过这话吗?
いない……ですよね。
没有吧?
まあ、ある程度大人になりますと、相手に対して、直接言う人は少ないかもしれません。
可能长大后,直接向对方这么说的人或许很少。
でも、ある程度大人になると、今度はグチを言うということが始まりますね。
但是某种程度而言长大后就开始了抱怨。
私の知人がこういうことを言いました。
我的一个熟人曾这么说过:
「自分の部下はバカだ」。
“我的部下都是笨蛋”。
うーん、という感じですね。
啊…,会这么觉得吧。
そこでこちらが「そんなことを言ったら地獄行きだぞ」と言うとそこで話が終わってしまいますので、では上司はどうかと聞いてみますと、「上司もバカだ」と言うんですね。
要是我说“这么说的话要下地狱的”,这个话题就结束了,所以我又问了他上司如何呢?他说“上司也是笨蛋”。
直接本人には言わずに、別に言っても構わない相手に言うんですね。
不直接对本人说,而是和无关紧要的人说。
しかし、この人の言っていることはどうでしょうか。
可是对这人所说的大家怎么看呢?
私はある時、こういう話を聞いたことがあります。
我曾经听到过这样的话:
「部下が自分よりバカなのは当たり前だ。もしその部下が、自分と同じくらいの知識があって、自分と同じように判断して行動できるんだったら、その人は自分の部下ではなく、自分と同列なんだ。自分の部下であるということは、まだその人が自分と同じようにはできないということだから、分かっていないことがあったとしても仕方がない」。
“部下比自己蠢是理所当然的。如果部下和自己有同等的知识,和自己有同等的判断力、行动力的话,那人就不是自己的部下了,而是和自己同一个级别的。部下就是因为还没能达到和自己同等的能力,所以即使有不明白的地方也是没有办法的事。”
なるほど、という感じですね。
原来如此,会有这样的感觉吧。
確かにそうでしょう。
确实是这样的吧。
部下だということは自分よりまだ下にいるということなんですから、できないことがあっても仕方ありません。
因为部下在自己之下,所以即使不会也无可厚非。
そう考えますと、上司についても、考えを改めなければならないと思うんですね。
如果这样认为的话,我觉得对于上司也必须要重新考量一下。
部下であるその人は、自分の知っている限りで考えているわけですよね。
部下仅仅只是用自己所知道的来思考。
これは人間誰でもそうですが、私たちは、自分が知っている限りでしか考えることができません。
这一点谁都是如此,我们只限于用自己所知的来思考问题。
そして、自分の知識に基づいて判断するんだったら、上司が自分と違っているということはあるだろうと思うんです。
于是,以自己的知识来判断的话,我想上司和自己肯定是有不同的。
自分は、少ない知識で考えている。
自己用很有限的知识来思考。
でも、上司は、その人以上の知識で判断しているんです。
但是,上司用更渊博的学识来判断。
それが、上司であるということですよね。
这才是上司。
でしたら、上司と自分で考えが違っていたら、それは自分の方がまだまだ考えが浅いということですね。
如果上司和自己的想法不同,这是因为自己的想法还过于肤浅。
あるいは、もしかしたらその上司は、本当は別のやり方をしたいけれども、そうしたくてもできない理由がどこかにあるかもしれないですよね。
或者,有可能上司原本想要那样做,但是即使很想那样做却也有不能那样做的理由。
上司にも上司がいるし、部下は一人ではないんですから。
因为上司上面还有上司,部下也不是只有一个。
そうなってくるともう分かりませんよ。
要是那样依然搞不明白。
上司がどれくらいのことを考えているのかなんて、部下には分からない。
上司考虑些什么部下是无法知晓的。
それが上司が上司であるということです。
因为上司就是上司。
とにかく、自分の知識にだけ基づいて判断するというのが間違っているんですね。
总之,只以自己所拥有的知识来判断的话是不对的。
そして、人間の知識には、限界があります。
而且人所拥有的知识是有限的。
どんな人にも限界があります。
不管什么人都是有局限的。
だからそこで、自分中心に考えていてはいけないんです。
因此,这里不能以自我为中心来思考。
要するに問題は、自分中心ということですね。
总之问题是以自我为中心。
自分中心になればなるほど、人はどんどんバカに見えていきます。
越是以自我为中心,越是觉得别人蠢。
その自分中心ということが聖書で言うところの罪ということですね。
以自我为中心在圣经中称为罪。
だいたい、今日の個所でこんなことが取り扱われていること自体、イエス様が、人間は人に対して本当にしばしば腹を立てるものなんだなあと思っておられる、と言うことですよね。
今天在这个地方传讲这样的事其本身大概是要说明耶稣认为世人经常对他人动怒。
気を付けたいと思います。
希望大家要注意。
さてこの「ばか」と言ってはならないという話がどこから来たのかと言いますと、「殺すな」という言葉から来たんでした。
要说“笨蛋”这一说法从何而来,它来自于“不可杀人”。
この「殺すな」という言葉は旧約聖書に書かれている言葉なんですね。
“不可杀人”是写在旧约里面的话。
私たちは「殺すな」と言われますと、まあそれは大丈夫だと思うわけです。
说到“不可杀人”,我们肯定认为这一点没问题,大家都能做得到。
実際、これに違反する人は割合からすると少ないですね。
事实上确实违反这一点的人在比例上是很少的。
大体の人はこの言葉を守っています。
大致上人们都能遵守。
けれどもここでイエス様は、「殺すな」という言葉にある神の御心は何かということを言うっているんです。
但是在这里耶稣所说的“不可杀人”一词,神到底要说什么呢?
今日の場面の直前の場面の17節で、イエス様は、ご自分は律法を完成するために来たと言っていますよね。
今天前面的内容第17节中,耶稣说自己来是要成全律法。
律法というのは旧約聖書のことです。
律法指的是旧约的内容。
イエス様は旧約聖書を完成するんです。
耶稣是要成全旧约。
つまり、「殺すな」という旧約聖書の言葉は、その言葉を守れていればセーフ、守れなかったらアウト、というだけのことではないんですね。
总之,“不可杀人”这一旧约中的词,并不是说遵守了就安全,不遵守就出局,不仅仅是这层意思。
私たちが普通に「○○するな」と聞きますとそれくらいにしか考えませんが、それだけでいいというものではないんですね。
我们一般听到“不准……”,就只想到这个程度,但其实并不只是不这么做就行了。
そこにある神様の御心を考えていくわけです。
要思考神在此的心意。
それが完成への第一歩だということですね。
这是成全的第一步。
では、「殺すな」という言葉で、神様は何を伝えようとしておられるのでしょうか。
那么“不可杀人”一词,神要传达的是什么呢?
イエス様は言うんですね。
耶稣说了。
人に対して腹を立てるだけでダメだと。
连对人动怒都不行。
御心に適っていないんだと。
这不合神心意。
かなり厳しいですね。
非常苛刻啊。
どうしてここまで言うのかなあと思いますが、人に対して腹を立てて、その怒りが大きくなって、最後の最後には人を殺すことになるわけですね。
为什么要说到这地步,因为对人动怒,然后怒气变大,最后导致杀人。
だとしたら、殺さなかったらセーフではない。
这样的话,并不是不杀人就安全了。
腹を立てるというのは、殺すということの第一歩なんです。
动怒是杀人的第一步。
だから、イエス様は腹を立てるだけでダメだと言うんですね。
因此,耶稣说连动怒都不行。
殺さなかったらセーフではないんです。
并非不杀人就安全了。
腹を立てるだけで、それはもう神の御心に適わないことなんだということですね。
只是动怒就已经不合神心意了。
それにしても、続けて言われていることは厳しいことですね。
而且接下来说的更严厉。
「ばか」と言うと、最高法院に引き渡されるんですね。
如果骂了“笨蛋”,就要交给最高法院。
最高法院というのは最高裁判所です。
最高法院就是最高审判机关。
つまり、「ばか」と言うだけで、神の目には最大級の罪だということですね。
总之,只是说“笨蛋”,在神眼里就是最大的罪。
「愚か者」という言葉も出てきていますけれども、これは、神との関係において愚かだという意味の言葉でして、つまりこれは、神に背いているということです。
“蠢货”一词也出现了,这是指在与神的关系上显得愚笨,也就是说背弃神的意思。
要するに、お前は罪深いぞ、と人に対して言うということ。
总之就是对人说你罪孽深重的意思。
そうなると、火の地獄に投げ込まれるんですね。
要是那样的话,会被扔到地狱之火里面去。
もうどうしようもないことになってしまうんです。
难以挽救了。
イエス様にとって、腹を立てることと人を殺すことは同じようなものなんですね。
对耶稣而言,动怒和杀人是一样的。
私たちにとっては、人を殺してやりたいと思うことと、実際に人を殺すこととの間にはものすごい距離があるように思いますけれども、神の目には同じことなんです。
对我们而言,想要杀人和真的杀人之间是有相当大的差距的,但是在神眼里是一样的。
しかし、そう言われると困ってしまいますよね。
可是这样说的很纠结吧。
神の目には同じだと言われたら、それはそうかなとは思いますけれども、私たち自身が同じレベルにならなければならないとしたら、どうでしょう、なれるかなあという感じですね。
既然说了在神眼里是一样的,那么我们会认为或许真是一样的吧,但是要我们也必须达到同样的思想高度的话,如何?我们能达到吗,会这样想吧。
ただ、そういうふうに考える必要はないんですね。
只是我们没有必要如此思考。
最高法院に引き渡されるとか火の地獄に投げ込まれるとか聞いたら怖いですけれども、イエス様は、私たちの罪を背負って私たちの代わりに罰を受けてくださる方なんですね。
交给最高法院和扔进地狱之火中,听起来很可怕,但是耶稣是背负我们的罪代替我们受罚的那一位。
ですから、同じレベルにならなきゃいけないって考える必要はないんです。
因此,没必要去思考必须要达到同样的高度这个事情。
同じレベルになれないから、イエス様が私たちの罪を引き受けに来てくださったわけですから。
因为我们达不到同样的高度,所以耶稣才来为我们受罪。
しかし、23節からのところは、どうでしょうか。
可是从23节开始,大家觉得怎么样?
話がいきなり、もっと難しくなっていますね。
一下子变难了吧。
今までのところでは、腹を立てるなということでした。
目前为止,是讲不可动怒。
自分が相手に腹を立てるなということですね。
自己不可向对方发怒。
でも、23節からは、相手に腹を立てられた場合のことなんです。
但是,23节开始,是讲让对方发怒的情况。
相手に腹を立てられた時、自分から仲直りしなさい、自分から和解しなさいと言われています。
说到让对方发怒的时候,自己先去和好,自己先去和解矛盾。
イエス様は、とにかく、どんな理由であれ、人間が腹を立てているのは良くないとお考えなんですね。
总之耶稣觉得,不管什么理由,动怒总是不好的。
だから、まずあなたは人に対して腹を立ててはならない、と言っておいて、それだけではなくて、誰かに腹を立てられたら、自分から、その人がもう怒らなくなるように働きかけなさいと言うんです。
因此说,首先不要对人动怒,不仅如此,要是令人动怒了,就自己去想办法不要让对方再生气。
自分が腹を立てなければそれでいいということではないんですね。
不是说自己不动怒就可以了。
人との関係がいつも良いものであるように努めなさいと言われているんです。
而是说要为与人关系始终保持良好而努力。
そうなってくるとなおさら大変だということになりますけれども、考えてみると、イエス様が私たちにしてくださったことって何ですか。
那样的话就变得更加费劲了,但是想一想,耶稣为我们做了什么呢?
私たちの罪を代わりに背負って、私たちの代わりに罰を受けてくださった。
代替我们背负我们的罪,代替我们受罚。
それによって、私たちと神様との関係が良いものになったんですね。
因此,我们与神的关系和好了。
私たちは罪人です。
我们是罪人。
自分中心で、神に逆らう者です。
以自我为中心,忤逆神。
その私たちに、神の怒りが向けられることになります。
神的怒气临到我们。
けれども、イエス様は、ご自分からこの世に降りてきてくださって、人の罪を背負って、神の怒りを私たちの代わりに受けてくださったんですね。
但是,耶稣降到人世间,背负人的罪,代替我们承受神的愤怒。
ですから、私たちはもう、神の怒りを受けることはないわけです。
因此,我们不用再受神的愤怒。
そもそも、神の子を地上に送ってくださったのが神様であるわけですが、神様はとにかく私たちを愛してくださる。
送神子来到地上的就是神自己,所以无论如何神都是爱我们的。
そして、私たちも、私たちを愛して、救いの道を開いてくださった神様を愛するんです。
我们也爱那爱我们并且为我们打开救赎之路的神。
これ、和解っていうことですよね。
这就是和解。
私たちは、神様に和解していただいた者なのです。
神与我们和解了。
神に逆らう私たちのために、神は、ご自分の方から、和解してくださったんですね。
神自己先来和忤逆他的我们和解。
だからこそ私たちも、和解ということを大事にしていくんですね。
正因为如此,我们要重视和解这个事情。
和解に生かされている者として、和解を生きていくんです。
我们作为因和解而被赦免的人,要让和解继续生效下去。
「殺すな」という言葉にある神の御心はそれだと、イエス様は言うんですね。
耶稣说,神说的“不可杀人”就是这个意思。
和解のために命を投げ出してくださった方が、そう言っているんです。
为和解而献出生命的那一位如此说。
考えてみますと、旧約聖書の言葉には、「○○してはならない」という言葉が多いんですけれども、それは、それをしなければ大丈夫ということではないですね。
细想一下,旧约中,“不可……”的话有很多,但是并不是说不这么做就没事了。
「○○してはならない」という言葉は、最初に神の言葉が人に与えられた時のもので、神様としては、最初だからそういう言い方をしたけれども、最初から、神様の御心は、それと反対のことを積極的にやっていって欲しいということだったんだよ、とイエス様は言っているんですね。
耶稣说,“不可……”是神最初所赐的话语,因为是最初的,所以神这样说,但是从一开始,神的初心就是希望我们积极去做与之相反的事情。
旧約聖書を完成する、というのはそういうことなんですね。
成全旧约就是指这个意思。
そこで、23節、24節を見ますと、これは、自分に反感を持っている人と一緒に礼拝しようとする場面ですね。
看23、24节,讲的是要和对自己反感的人一起礼拜。
そういう時に、仲直りしなさいと言われています。
说那时候要去和好。
それも、礼拝に行く途中で仲直りしなさいと言われています。
也就是说在礼拜途中就要和好。
つまり、礼拝よりも先に、仲直りしなさいということですね。
总之,比起礼拜,要先去和好。
礼拝よりも仲直り優先なんですね。
比起礼拜先要做的是和好。
礼拝というのは神様と向かい合うことです。
礼拜是与神面对面。
私と和解してくださった神様と向かい合うことです。
是和与我和解的神面对面。
神に逆らう私たちに対して、神様は、ご自分から和解してくださったんでした。
对于忤逆他的我们,神先来与我们和解。
だからこそ、その前に、礼拝よりも先に、和解することが正しいんだ、とイエス様は言うんですね。
因此,耶稣说,在这之前,在礼拜之前先和解才是正确的。
腹を立てている相手に、自分から和解しに行きなさい、と言うんです。
他说自己要先去和生气的对方和解。
その後で、礼拝なんですね。
之后再去礼拜。
人間同士の間で和解できるかどうかが、神様との関係に関わっているんです。
人和人之间是否能和解,关联到与神的关系。
神は和解の神ですから。
因为神是和解的神。
だから、先に和解しなければならないんです。
所以,必须先去和解。
25節に行きますと、反感どころか、自分を訴える人と一緒に道を行かなくてはならない場面です。
到25节,岂止是反感,必须要和起诉自己的人同行的场面。
しかし、やはり和解しなさいと言われています。
可是,还是要和解。
これも、途中ですね。
而且也是在途中。
裁かれる前にです。
在审判前。
どちらの場合も、腹を立てているのは相手なんですよ。
两种情况,生气的都是对方。
でも、自分から和解しなさいと言われているんです。
但是,耶稣说到要自己先去和解。
そして、これは怖いことですね。
而且,还有更可怕的事。
相手が腹を立てていて、自分が腹を立てているわけでないんですが、和解できなかった場合、裁かれるのは自分の方だという設定なんですね。
对方生气,自己并没有生气,但是不和解的话,受审判的是自己,是这样规定的。
それくらい、イエス様は今もう本当に力を込めて、あなたは和解を生きなさいと言っているんです。
耶稣已经如此这般使出浑身解数,说你要去和解。
和解の中にだけ、生きていきなさい。
要在和解中生存。
神様とあなたとの関係は、和解でしかないんだから。
因为与神的关系,只能靠和解。
その神様との関係を第一にしなさい。
把与神的关系放在第一位。
あなたと人との関係も、和解しかないんだ。
和人的关系也只能靠和解。
そういうふうに言われているということは、逆に言って、私たちの間にあるものが、反感、訴え、それが普通、ということをイエス様は言っておられることにもなりますね。
耶稣既然如此说,反而言之,就是说我们中间有反感,控诉是很正常的。
考えてみると、そうですよね。
想想确实是的。
私たちの人生というのは、自分に反感を持つ人、自分を訴えようとする人と、それでも一緒にやっていかなくてはならない、そういうものですよね。
我们的人生中,有反感自己的人,有想要控诉自己的人,即使如此也必须要和他们一起相处下去。
それはそれで仕方ないかもしれません。
或许只能这样。
イエス様もそういう前提で話をしておられるわけです。
耶稣就是在这样的前提下对我们说的。
人間の現実というか、世の中の現実というか。
人的现实也好,世间的现实也罢。
でも、あなたは和解を生きていきなさい。
但是,你要去和解。
現に、神の和解に生かされているんだから、あなたは和解を生きていきなさい、とイエス様は言うんですね。
现在,耶稣说你是因神的和解而活下来,所以你要让和解继续下去。
大事なのは、私たちが、イエス様の命と引き換えにゆるされたこと、和解させていただいたということを心に刻むことだと思うんです。
重要的是,我们要把耶稣用生命换来的原谅与和解这两件事铭刻在心里。
それって、私たちは、神の子の命をもってしかゆるされないほどに罪深いということなんですよね。
因为我们的罪恶太深,只能用神子的命来相抵才能得以赦免。
私たちは、神の目には、もうどうしようもないほど、罪深いものなんです。
我们在神眼里,罪恶已经深到无药可救。
しかし、その私たちを救うために、神は人になられ、命を投げ出してくださった。
可是,为了救我们,神道成肉身,献出了生命。
ご自分から。
是他自己。
私たちは罪深くて、もう本当にどうしようもない。
我们的罪恶真的已经无药可救了。
それなのに、ご自分の方から、どの人からもお願いされてもいないのに、和解のために命を投げ出してくださった。
然而,是他自己,谁都没有提出这种要求,他为了和解献出了生命。
自分が代わりに人の罪を背負って、命を落としたんです。
自己代替人背负罪,丧了命。
命を落としたんです。
是丧了命的呀。
命を落とすくらい、苦しんだんです。
连命都丧了,多么痛苦啊。
そのイエス様の苦しみを心に刻むことですね。
我们要将耶稣的这份痛苦刻在心里。
そして、感謝することです。
并心存感谢。
私たちの人生というのは、自分に反感を持つ人と、それでも一緒にやっていかなくてはならないようなものです。
我们的人生,必须要和反感自己的人同行。
それだって楽なことではありません。
这不是件快乐的事。
しかし、神の子が私たちのために苦しんでくださったこと、そして、和解させていただいたことへの感謝が心にあるなら、どんなことでもそれに比べれば小さいことのはずですね。
可是,相比神子为我们受的苦,并且我们对他的和解心存感谢的话,无论什么事情与之相比都应该是微不足道的。
私たちは、大きな大きな御心の中に、ゆるされて、置かれているんです。
我们在神宽广的心里被赦免、安放。
その神のゆるしの中を生きていきましょう。
让我们活在神的赦免中。
今日の話ですが、これはイエス様だからこそ言えることですよね。
今天的内容正因为是耶稣才可以说。
和解のために命まで投げ出した方だから言えることです。
为和解献出生命的那一位才可以说。
そして、それによって救われた私たちだから、私たちは、イエス様の言葉を聞くんです。
正因为我们因此而被救赎,所以我们要听耶稣的话语。
心を開いてイエス様の言葉を受け入れる。
敞开心接受耶稣的话语。
そうすると、神の言葉が実現する。
那样,神的话语就能实现。
それが私たちの信仰です。
这就是我们的信仰。