
27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
31「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
今日も先週の話と同じ感じで話が始まりますね。
「『姦淫するな』と命じられている」と最初に言っておいて、「しかし、わたしは言っておく」と言ってから、そこにある深い意味、と言いますか、そこにある御心を伝えてくださるんですね。
今日の、「姦淫するな」という言葉はモーセの十戒ですね。
その昔、モーセが神様からもらった10の言葉がありました。
人々は皆、その話を知っていました。
だから、「あなたがたも聞いているとおり」とイエス様は言っていますよね。
皆聞いている話なんです。
皆聞いている話ですから、もう皆、それは当たり前だ、という感じで、分かったつもりになっているんですね。
そこにイエス様は語りかけるんです。
しかし、「姦淫するな」とはどういう意味なんでしょうか。
性交渉をするなという意味なんでしょうか。
しかし、神様は人が地上に増え広がっていくことを祝福だとしておられました。
ですので、この姦淫というのは性交渉全部がいけないということではありません。
この姦淫という言葉は、結婚している人が、結婚相手以外の人と関係を持つことを指してつかわれた言葉です。
そして、「姦淫するな」、というふうに言われていますから、実際にそういうことをするな、ということですね。
この言葉が禁止しているのはそういう行いについてだと皆考えていたんでした。
しかし、そこでイエス様は言うんですね。
そういうことをしなかったらセーフ、したらアウトという話ではないんだということです。
「〇〇するな」と言われると、私たちはそういうふうにしか考えないですね。
でもイエス様は、「姦淫するな」という時、そこにある神様の御心は何か、ということを教えてくださるんです。
そこで、続けて読んでいきますと、神様の御心は、「みだらな思いで他人の妻を見る」だけでもダメなんだということですね。
ただこれというのは心の中のことですね。
これだけなら、実際には、誰にも迷惑をかけてはいないはずなんです。
でも、それだけでもダメだ、と。
ここに、神様が結婚というものをどれだけ大事に思っておられるかが現れていると思います。
要するに、結婚して夫婦になったということは、「姦淫しなかったらセーフ」というものではないんですね。
結婚というものは外側の行いだけ守っておけばセーフというものではないんです。
心の中まで関わってくることなんです。
心が大事なんです。
しかし、私たちは、時として、外側を大事にして、心を忘れやすいものです。
姦淫しなければ大丈夫だと考えてしまうところがあります。
だから、イエス様は言うんですね。
「みだらな思いで他人の妻を見る」な。
それだけでもダメだと言えるくらい、夫婦の関係というのは尊いんだということなんです。
31節以下では、今度は離婚の話ですね。
「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という言葉をイエス様は取り上げました。
これも、旧約聖書にある言葉で、皆が知っていたことです。
夫婦が尊いとは言っても、現実問題、様々な理由で結婚生活を続けられなくなることはあります。
そのような場合、離縁状を持っていれば、再婚できたんですね。
もし、離縁状を持っていないのに別の人と結婚してしまうと、それこそ32節にあります、「姦通の罪」を犯してしまうことになりました。
そうなりますと、人々としては思いますね。
離縁状を持っていたらセーフ、持っていなかったらアウトか、と思ってしまいます。
しかしそこで、イエス様は言うんです。
今日二つ目の、「しかし、わたしは言っておく」ですね。
そこにある神様の御心は何か。
32節にこうあります。
「しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。
……これはいかがでしょうか。
こう言われますと、何かよほどのことがない限り、離婚してはいけないと言われている気になってしまいます。
しかし、それは考え方が間違っているんですね。
イエス様の言葉は私たちの心に語りかけられている言葉です。
何か言われて、イエス様の守っていればセーフ、守っていなければアウト、というふうに考えるのではないんです。
では、そこにある御心は何でしょうか。
実はここのところは、前の所と話がつながっています。
ここに出てくる「不法な結婚」という言葉は、原文のギリシャ語では「ポルネイア」という言葉です。
そして、この言葉がポルノという言葉になるんですね。
要するに、この「不法な結婚」という言葉が表わしているのは、姦淫の罪のことなんです。
そして、そのようなことがあった場合には離婚しても仕方ないということなんですね。
これは気を付けていただきたいんですが、夫婦の関係というものは尊いものですよ。
何しろ、「みだらな思いで他人の妻を見る」なと言われているくらいですからね。
しかし、離婚という制度を神は認めたんでした。
夫婦が尊いとは言っても、この人と一緒にいるのはもう無理だということは現実にありえます。
だから、そのような制度があるんです。
けれども、制度があるからと言って、その制度に従って、離縁状を書いたら離婚できる、現代で言うと、制度に従って、名前を書いてハンコを押したら離婚できる、そういうふうに考えるべきではないということなんですね。
神様は心の中までご覧になる方です。
ルールがあるからと言って、ルールを守っていればセーフということではないんです。
しかし、人間はそういう考え違いをしやすいんですね。
「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と言われると、そうしていればセーフか、と思ってしまうところがあります。
もっと言うと、離縁状を書くだけで離婚できる、簡単なことだ、と考えてしまうこともあるでしょう。
そうではないんですね。
結婚というのはそんな軽いものではないんです。
結婚というものはあなたがたが思っている以上に尊いものなんだ、その尊さに気づきなさい。
今イエス様が言っているのはそういうことです。
ですからここで言われていることは、何としてでも結婚関係を続けなさいということではありません。
さっきの話と同じですが、外側だけ結婚関係を続けていればそれでいい、というものではないんです。
姦淫しなければ立派な夫婦です、そんなものではないんです。
離縁状を渡せばいつでも離縁できます、そんなものではないんです。
心の中のことです。
心の中で、結婚という関係がどれだけ大事なことなのか、良く分かっていなさい。
とにかく、一にも二にも二人の関係を大事にしなさい。
そういうことなんですね。
結婚した二人の関係というものはどれくらい大事なものでしょうか。
29節、30節にありました。
自分の片方の目、自分の片方の手よりも、結婚相手との関係の方が大事なんだということですね。
あなたの片方の目よりも、片方の手よりも、あなたの妻、あなたの夫の方が大事なんだ。
「全身が地獄に落ちない方がましである」とも言われていました。
あなたの妻、あなたの夫はあなたの全身、あなた自身、あなたそのものと同じなんだ。
それくらい、結婚相手というのは尊いんだ。
イエス様はそうお考えなんですね。
とにかく、今日のところで言えることは、夫婦というものは、私たちが思っている以上に大事なものなんだということです。
そして、神様は心の中をご覧になる方だということです。
そして、心の中にメッセージを届けてくださる方だということですね。
だから、今日のところは、「みだらな思いを抱いたら、目をえぐり出さなくてはいけないのか」とか、「相手が姦淫の罪を犯したら離婚できるのか」というふうに受け取るところではないんです。
それは読み方が間違っている。
今日の話は不倫の話とか離婚の話でもないんですね。
今日イエス様が教えておられるのは結婚の尊さなんです。
外側で、制度として、結婚というものが尊いのではありません。
だから逆に言って、今日の話は、離婚してはいけないという話でもないですね。
離婚というものも制度ですから。
今日の話は制度の話ではないんです。
みんなが制度の言葉だと思っている言葉を取り上げて、いやそれは制度にしてはいけないよ、という話なんですね。
イエス様の話は心の話です。
しかし、そう言われて自分の心をじっと見つめると、どうでしょうか。
私たちは結局は自分勝手な愛し方しかできないと気づかされます。
そういうふうに思ってしまうのが現実ではないでしょうか。
そもそも、聖書は、人間というのは自分勝手なものだと言っているわけです。
人間は皆罪人だ、と聖書は言いますね。
聖書で言う罪というのは自分勝手ということです。
神を愛するより自分を愛する。
結婚相手を愛するより自分を愛する。
また、人間が、誰か他の人を完全に理解できるということがあるでしょうか。
人間は無意識が9割だ、などと言われることがあります。
要するに、人間は、自分のことも分かっていないんです。
自分のことも分かっていない人間が、他の人を理解できるでしょうか。
自分勝手にしか理解できないに決まっています。
では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
大事なのは、この話をしているのはイエス様であるということです。
イエス様は、ご自分の目とか手とか以上に私たちを愛してくださる方ですね。
ご自分の全身以上に、私たちを愛してくださる方です。
イエス様は罪人である私たちの罪を背負ってくださる方です。
そのために、十字架に付けられてくださったんです。
罪に対する罰を代わりに受けてくださった。
代わりに受けてくれと誰も頼んではいないんですが、私たちが自分の罪に対する罰を受けることが我慢できなくて、ご自分の方から、私たちの代わりに命を投げ出してくださったんです。
それが聖書に書かれていることですね。
私たちは、そのような大きな愛の中に置かれているんです。
私たちとはどのような者でしょうか。
私たちとは、神の子イエス様に愛されている者です。
私たちのことをご自分のこと以上に愛してくださる神の子イエス様に愛されている者なんです。
私たちが、私たち自身よりも大きな愛の中に置かれていることを感じている時に、私たちは、自分だけではできないような愛し方へと導かれていくのではないかと思うんです。
今日聞いた言葉は神の言葉です。
ここまで言うのは神だけです。
ここまで言っていいのも神だけですね。
そして、神様は、ご自分の語った言葉を実現させてくださる方です。
ここからは、神様が、私たちに何をしてくださるかです。
神の言葉が私たちそれぞれの現実の生活に、どのように実現するでしょうか。
ただ、大事なことは、後は神様がしてくださる、と私たちが言えるためには、私たちは、神の愛の中に留まっていなくてはならない、ということです。
神から離れてしまっているのに、神の責任にすることはできません。
自分中心にやっていって、結果の責任を神様になすりつけることはできません。
私たちは自分中心ですから時々そういう発想になります。
これには気をつけましょう。
神様の愛に留まりましょう。
ご自分の命以上に私たちを愛する愛が、私たちを包んでいます。
ある意味、その愛に留まることは私たちにとってつらいことでもあります。
何しろ、その愛に留まることは、自分自身の罪が神の子の命と引き換えにされるくらい重いものであることを認めることだからです。
自分の罪が神の子を殺したことを認めることだからです。
しかし、それを認めましょう。
それでもなお、神は私たちを愛することを止めないんです。
私たちを愛することを止められないんです。
ご自分の命よりも私たちを愛する愛の中に入りましょう。
私たち自身よりも大きな愛の中に入りましょう。
そのところで、神様が私たちを導いてくださいます。
結婚の尊さ
婚姻的可贵
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
“你们听见有话说:‘不可奸淫。’只是我告诉你们:凡看见妇女就动淫念的,这人心里已经与她犯奸淫了。若是你的右眼叫你跌倒,就剜出来丢掉,宁可失去百体中的一体,不叫全身丢在地狱里;若是右手叫你跌倒,就砍 下来丢掉,宁可失去百体中的一体,不叫全身下入地狱。”
31「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
“又有话说‘人若休妻,就当给他休书。’只是我告诉你们:凡休妻的,若不是为淫乱的缘故,就是叫她作淫妇。人若娶这被休的妇人,也是犯奸淫了。”
今日も先週の話と同じ感じで話が始まりますね。
今天和上周一样的感觉耶稣开始了说教。
「『姦淫するな』と命じられている」と最初に言っておいて、「しかし、わたしは言っておく」と言ってから、そこにある深い意味、と言いますか、そこにある御心を伝えてくださるんですね。
一开始讲到“有话说‘不可奸淫’”,又说“只是我告诉你们”。
今日の、「姦淫するな」という言葉はモーセの十戒ですね。
今天讲的“不可奸淫”是摩西十诫的内容。
その昔、モーセが神様からもらった10の言葉がありました。
之前,摩西从神那里领受到10句话。
人々は皆、その話を知っていました。
大家都知道这事。
だから、「あなたがたも聞いているとおり」とイエス様は言っていますよね。
因此,耶稣说“正如你们所听到的”
皆聞いている話なんです。
大家都听到的。
皆聞いている話ですから、もう皆、それは当たり前だ、という感じで、分かったつもりになっているんですね。
因为大家都听到,所以觉得这是理所当然的,认为已经知道了。
そこにイエス様は語りかけるんです。
耶稣在这里开讲。
しかし、「姦淫するな」とはどういう意味なんでしょうか。
但是,“不可奸淫”到底是什么意思呢?
性交渉をするなという意味なんでしょうか。
不可以性交的意思吗?
しかし、神様は人が地上に増え広がっていくことを祝福だとしておられました。
可是,神祝福人要遍满了地。
ですので、この姦淫というのは性交渉全部がいけないということではありません。
因此,不可奸淫并不是完全不能性交。
この姦淫という言葉は、結婚している人が、結婚相手以外の人と関係を持つことを指してつかわれた言葉です。
而是指已婚的人不能和结婚对象之外的人有关系。
そして、「姦淫するな」、というふうに言われていますから、実際にそういうことをするな、ということですね。
因为说了“不可奸淫”,所以实际上就是不能做这事。
この言葉が禁止しているのはそういう行いについてだと皆考えていたんでした。
大家都认为这话说的是禁止这一行为。
しかし、そこでイエス様は言うんですね。
可是,在这里耶稣说了。
そういうことをしなかったらセーフ、したらアウトという話ではないんだということです。
并不是不这么做就可以,这么做了就不行。
「〇〇するな」と言われると、私たちはそういうふうにしか考えないですね。
说到“不可……”,我们只会这样想。
でもイエス様は、「姦淫するな」という時、そこにある神様の御心は何か、ということを教えてくださるんです。
但是耶稣讲到“不可奸淫”时,他告诉了我们这句话神真正的意思是什么。
そこで、続けて読んでいきますと、神様の御心は、「みだらな思いで他人の妻を見る」だけでもダメなんだということですね。
继续读下去就知道神真正的意思是要说连“看见别人的妻子动淫念”都不行。
ただこれというのは心の中のことですね。
这里讲的是内心。
これだけなら、実際には、誰にも迷惑をかけてはいないはずなんです。
如果只是这样的话,实际上应该没有给谁造成麻烦。
でも、それだけでもダメだ、と。
但是耶稣说连这都不行。
ここに、神様が結婚というものをどれだけ大事に思っておられるかが現れていると思います。
我认为这里是要表明神对婚姻是多么地重视。
要するに、結婚して夫婦になったということは、「姦淫しなかったらセーフ」というものではないんですね。
总之并不是说结了婚成了夫妻,“不犯奸淫就没事了”。
結婚というものは外側の行いだけ守っておけばセーフというものではないんです。
婚姻并不是表面上遵守了就没事了。
心の中まで関わってくることなんです。
与内心切切相关。
心が大事なんです。
真心很重要。
しかし、私たちは、時として、外側を大事にして、心を忘れやすいものです。
可是,我们有时候往往注重外在,容易忘了内心。
姦淫しなければ大丈夫だと考えてしまうところがあります。
会认为不犯奸淫就没事。
だから、イエス様は言うんですね。
所以耶稣说:
「みだらな思いで他人の妻を見る」な。
不可“看到别人的妻子动淫念。”
それだけでもダメだと言えるくらい、夫婦の関係というのは尊いんだということなんです。
只是这样都不行,能说到这程度说明了夫妻的关系的可贵。
31節以下では、今度は離婚の話ですね。
31节后面,是离婚的话题。
「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という言葉をイエス様は取り上げました。
“人若休妻,就当给她休书。”耶稣提到了这一内容。
これも、旧約聖書にある言葉で、皆が知っていたことです。
这也是旧约圣经的话,大家都知道。
有离婚这一制度。
夫婦が尊いとは言っても、現実問題、様々な理由で結婚生活を続けられなくなることはあります。
虽说夫妻关系很可贵,但是也有因为现实等各种问题婚姻生活无法继续。
そのような場合、離縁状を持っていれば、再婚できたんですね。
这种情况,只要持有离婚证,就可以再婚。
もし、離縁状を持っていないのに別の人と結婚してしまうと、それこそ32節にあります、「姦通の罪」を犯してしまうことになりました。
如果没有离婚证却和他人结婚的话,就是32节中所说的犯了“通奸罪”。
そうなりますと、人々としては思いますね。
这样的话人们会想。
離縁状を持っていたらセーフ、持っていなかったらアウトか、と思ってしまいます。
有离婚证的话就没问题,没有的话不行,会这样想。
しかしそこで、イエス様は言うんです。
可是在这里,耶稣说。
今日二つ目の、「しかし、わたしは言っておく」ですね。
今天第二次说到“只是我告诉你们”。
そこにある神様の御心は何か。
这里神要说的是什么呢?
32節にこうあります。
32节如此说到:
「しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。
“只是我告诉你们。凡休妻的若不是为淫乱的缘故,就是叫她做淫妇了。人若娶这被休的妇人,也是凡奸淫了。”
……これはいかがでしょうか。
对这什么看法?
こう言われますと、何かよほどのことがない限り、離婚してはいけないと言われている気になってしまいます。
如果这样说的话,会觉得只要不是什么不得了的事情,都不可以离婚。
しかし、それは考え方が間違っているんですね。
可是,这样想的话是不对的。
イエス様の言葉は私たちの心に語りかけられている言葉です。
耶稣的话是说到我们内心里的话。
何か言われて、イエス様の守っていればセーフ、守っていなければアウト、というふうに考えるのではないんです。
遵守耶稣所说的就ok了,不遵守的话就不行,不是这样来思考的。
では、そこにある御心は何でしょうか。
那么,这里神要说的到底是什么呢?
実はここのところは、前の所と話がつながっています。
实际上这部分内容和前面是相连的。
ここに出てくる「不法な結婚」という言葉は、原文のギリシャ語では「ポルネイア」という言葉です。
这里出现的“不法的婚姻”在原文希腊语中用的是“淫乱”一词。
そして、この言葉がポルノという言葉になるんですね。
所以就变成了色情的意思了。
要するに、この「不法な結婚」という言葉が表わしているのは、姦淫の罪のことなんです。
总之,这里“不法的婚姻”所表示的是犯奸淫罪的意思。
そして、そのようなことがあった場合には離婚しても仕方ないということなんですね。
而发生这种情况的话即使离婚也无可厚非了。
これは気を付けていただきたいんですが、夫婦の関係というものは尊いものですよ。
这里想要大家注意的是,夫妻关系是很可贵的。
何しろ、「みだらな思いで他人の妻を見る」なと言われているくらいですからね。
因为说了不可“看到别人的妻子不可动淫念”,如此程度。
しかし、離婚という制度を神は認めたんでした。
可是,神认可离婚制度。
夫婦が尊いとは言っても、この人と一緒にいるのはもう無理だということは現実にありえます。
虽说夫妻关系很可贵,但是现实中确实有没办法再一起生活下去这种情况。
だから、そのような制度があるんです。
所以有这种制度。
けれども、制度があるからと言って、その制度に従って、離縁状を書いたら離婚できる、現代で言うと、制度に従って、名前を書いてハンコを押したら離婚できる、そういうふうに考えるべきではないということなんですね。
但是,虽说有这种制度,也不是说按照制度写了休书就可以离婚,或者现代来说,按照制度,签了名盖了章就可以离婚,不该这样认为。
神様は心の中までご覧になる方です。
神审视我们直到内心。
ルールがあるからと言って、ルールを守っていればセーフということではないんです。
虽然说有规定,但是并没有说遵守规定就没事了。
しかし、人間はそういう考え違いをしやすいんですね。
可是人往往会这样错误地认为。
「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と言われると、そうしていればセーフか、と思ってしまうところがあります。
既然说了“人若休妻,就当给她休书。”如果这样做的话就没问题了,大家都这样认为。
もっと言うと、離縁状を書くだけで離婚できる、簡単なことだ、と考えてしまうこともあるでしょう。
更有人觉得,只要写了休书就能离婚,如此简单。
そうではないんですね。
不是这样的。
結婚というのはそんな軽いものではないんです。
结婚不是如此轻易的事情。
結婚というものはあなたがたが思っている以上に尊いものなんだ、その尊さに気づきなさい。
婚姻要比你们所认为的更神圣宝贵,要意识到这一点。
今イエス様が言っているのはそういうことです。
耶稣现在所说的是这个。
ですからここで言われていることは、何としてでも結婚関係を続けなさいということではありません。
因此这里所说的,并非无论如何要维持婚姻关系。
さっきの話と同じですが、外側だけ結婚関係を続けていればそれでいい、というものではないんです。
和刚才的话题相同,不只是表面上维持婚姻关系就好了。
姦淫しなければ立派な夫婦です、そんなものではないんです。
并不是说只要不犯奸淫就是好夫妻。
離縁状を渡せばいつでも離縁できます、そんなものではないんです。
也不是说只要给休书随时都可以离婚。
心の中のことです。
说的是内心。
心の中で、結婚という関係がどれだけ大事なことなのか、良く分かっていなさい。
心里面要清楚明白婚姻关系是多么的重要。
とにかく、一にも二にも二人の関係を大事にしなさい。
总之,最重要的是珍惜两个人之间的关系。
そういうことなんですね。
说的是这个。
結婚した二人の関係というものはどれくらい大事なものでしょうか。
结婚后两人的关系有多重要呢?
29節、30節にありました。
29,30节中。
自分の片方の目、自分の片方の手よりも、結婚相手との関係の方が大事なんだということですね。
与自己的一只眼,一只手相比,夫妻关系更为重要。
あなたの片方の目よりも、片方の手よりも、あなたの妻、あなたの夫の方が大事なんだ。
你的妻子,你的丈夫,比起你的一只眼睛,一只手更为重要。
「全身が地獄に落ちない方がましである」とも言われていました。
还说了“不叫全身下入地狱”。
あなたの妻、あなたの夫はあなたの全身、あなた自身、あなたそのものと同じなんだ。
你的妻子,你的丈夫和你的全身,你自己本身一样重要。
それくらい、結婚相手というのは尊いんだ。
结婚对象是如此的宝贵。
イエス様はそうお考えなんですね。
耶稣这么认为。
とにかく、今日のところで言えることは、夫婦というものは、私たちが思っている以上に大事なものなんだということです。
总之,今天的内容要说的是夫妻关系要比我们所认为的更加重要。
そして、神様は心の中をご覧になる方だということです。
神是审视我们内心的神。
そして、心の中にメッセージを届けてくださる方だということですね。
而且是将信息传达至我们内心的神。
だから、今日のところは、「みだらな思いを抱いたら、目をえぐり出さなくてはいけないのか」とか、「相手が姦淫の罪を犯したら離婚できるのか」というふうに受け取るところではないんです。
因此,今天的内容,“如果动淫念的话,必须要把眼睛挖出来”,“对方犯奸淫的话可以离婚”不是这样来理解的。
それは読み方が間違っている。
这样读经是错误的。
今日の話は不倫の話とか離婚の話でもないんですね。
今天的话题不是不伦和离婚。
今日イエス様が教えておられるのは結婚の尊さなんです。
今天耶稣所讲的是婚姻的宝贵。
外側で、制度として、結婚というものが尊いのではありません。
表面上,作为一种制度,婚姻并不神圣。
だから逆に言って、今日の話は、離婚してはいけないという話でもないですね。
因此反而言之,今天的话题,也不是不可以离婚。
離婚というものも制度ですから。
因为离婚也是一种制度。
今日の話は制度の話ではないんです。
今天的内容不是讲制度。
みんなが制度の言葉だと思っている言葉を取り上げて、いやそれは制度にしてはいけないよ、という話なんですね。
采用的是大家认为是制度的内容,但是说了不能把它当成制度。
イエス様の話は心の話です。
耶稣所讲的是内心。
しかし、そう言われて自分の心をじっと見つめると、どうでしょうか。
可是,即使这样说了,当我们审视自己的内心时,有什么发现?
私たちは結局は自分勝手な愛し方しかできないと気づかされます。
我们发现结果只是任性而为。
そういうふうに思ってしまうのが現実ではないでしょうか。
这就是事实不是吗?
そもそも、聖書は、人間というのは自分勝手なものだと言っているわけです。
原本圣经就说了人是任性的。
人間は皆罪人だ、と聖書は言いますね。
人都是罪人。
聖書で言う罪というのは自分勝手ということです。
圣经所说的罪就是任性。
神を愛するより自分を愛する。
相比爱神,更加爱自己。
結婚相手を愛するより自分を愛する。
相比爱另一半更加爱自己。
また、人間が、誰か他の人を完全に理解できるということがあるでしょうか。
而且,人会完全地了解他人吗?
人間は無意識が9割だ、などと言われることがあります。
据说人有9成行为是无意识而为的。
要するに、人間は、自分のことも分かっていないんです。
也就是说,人对自己也不是很了解。
自分のことも分かっていない人間が、他の人を理解できるでしょうか。
对自己都不是很了解,能了解他人吗?
自分勝手にしか理解できないに決まっています。
只能任性而为做出决定。
では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
那么我们该怎么做才好呢?
大事なのは、この話をしているのはイエス様であるということです。
重要的是,讲这话的是耶稣。
イエス様は、ご自分の目とか手とか以上に私たちを愛してくださる方ですね。
耶稣爱我们超过爱他自己的眼和手。
ご自分の全身以上に、私たちを愛してくださる方です。
爱我们超过他自己。
イエス様は罪人である私たちの罪を背負ってくださる方です。
耶稣为罪恶过犯的我们背负罪恶。
そのために、十字架に付けられてくださったんです。
为此,被钉十字架。
罪に対する罰を代わりに受けてくださった。
代替我们受罪罚。
代わりに受けてくれと誰も頼んではいないんですが、私たちが自分の罪に対する罰を受けることが我慢できなくて、ご自分の方から、私たちの代わりに命を投げ出してくださったんです。
谁也没有要求他代受,因为我们无法承受,他主动替我们舍命。
それが聖書に書かれていることですね。
这是圣经中写着的内容。
私たちは、そのような大きな愛の中に置かれているんです。
我们在如此大爱中。
私たちとはどのような者でしょうか。
我们是怎样的人呢?
私たちとは、神の子イエス様に愛されている者です。
我们被神子耶稣所爱。
私たちのことをご自分のこと以上に愛してくださる神の子イエス様に愛されている者なんです。
被爱我们胜过爱自己的耶稣所爱。
私たちが、私たち自身よりも大きな愛の中に置かれていることを感じている時に、私たちは、自分だけではできないような愛し方へと導かれていくのではないかと思うんです。
我想,当我们在感受我们身处于胜过自己的大爱中时,也是在引导我们如何用超越自我的方式去爱,不是吗?
今日聞いた言葉は神の言葉です。
今天所听的神的话语,
ここまで言うのは神だけです。
能说到这份上的只有神。
ここまで言っていいのも神だけですね。
可以这么说的也只有神。
そして、神様は、ご自分の語った言葉を実現させてくださる方です。
而神是能实现他所说的那一位。
ここからは、神様が、私たちに何をしてくださるかです。
今后,神会为我们做什么呢?
神の言葉が私たちそれぞれの現実の生活に、どのように実現するでしょうか。
神的话语在我们各自的实际生活中,如何实现呢?
ただ、大事なことは、後は神様がしてくださる、と私たちが言えるためには、私たちは、神の愛の中に留まっていなくてはならない、ということです。
重要的是,为了我们以后可以说这是神的作为,我们必须要住在神的爱中。
神から離れてしまっているのに、神の責任にすることはできません。
因为自己远离了神,所以不能变成神的责任。
自分中心にやっていって、結果の責任を神様になすりつけることはできません。
因为自己的任性,所以不能把责任推卸给神。
私たちは自分中心ですから時々そういう発想になります。
因为我们以自我为中心所以时常会这样想。
これには気をつけましょう。
这点要注意。
神様の愛に留まりましょう。
住在神的爱里吧。
ご自分の命以上に私たちを愛する愛が、私たちを包んでいます。
爱我们超过爱自己的生命,这样的爱把我们包围着。
ある意味、その愛に留まることは私たちにとってつらいことでもあります。
某种意义上说,住在这爱里对我们来说也是痛苦的。
何しろ、その愛に留まることは、自分自身の罪が神の子の命と引き換えにされるくらい重いものであることを認めることだからです。
因为住在这爱里,就要承认我们的罪是神子用生命交换的如此沉重的事情。
自分の罪が神の子を殺したことを認めることだからです。
因为要承认自己的罪杀死了神子。
しかし、それを認めましょう。
但是,承认吧。
それでもなお、神は私たちを愛することを止めないんです。
即便如此,神也不会停止对我们的爱。
私たちを愛することを止められないんです。
无法停止对我们的爱。
ご自分の命よりも私たちを愛する愛の中に入りましょう。
爱我们胜过爱自己的生命,让我们投入这样的爱里吧。
私たち自身よりも大きな愛の中に入りましょう。
让我们投入到比我们自己更大的爱里面吧。
そのところで、神様が私たちを導いてくださいます。
神在这里引领我们。