
ルカによる福音書1章57節から80節
56さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。58近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。59八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。60ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。61しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、62父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。63父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。64すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。65近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。66聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
聖書を見ますと今日の所には、「洗礼者ヨハネの誕生」というサブタイトルがついています。
洗礼者ヨハネという人は多くの人に洗礼を授けた人ですね。
洗礼というのはまずは罪を洗い清める儀式です。
ですので、逆に言って、罪を自覚していない人は洗礼を受けようとは思わないわけです。
では罪とは何なのかと言いますと、原文では、「的外れ」という言葉が元になってできた言葉です。
もう少し具体的に言いますと、アダムとエバの話にそういう話が出てくるんですが、自分を真っ先に愛してしまうことが的外れだと聖書は言うんですね。
それは、人間皆、多かれ少なかれそうだ、と言うんです。
そう言われればそうかとは思いますね。
しかし、私たちが普段それを自覚しているかというと、そうでもないでしょうね。
ある意味それは自分にとって当たり前ですから、なかなか自覚できないわけです。
洗礼者ヨハネはそれを人々に自覚させた人なんですね。
だから、たくさんの人に洗礼を授けることができたわけです。
つまり、洗礼者ヨハネは、人の心を整えたんですね。
単に洗礼を授けることが目的なのではなくて、人の心を整えることが目的だったんです。
この人は、人の心を整えて、神様の働きをなさるイエス様を迎える準備を前もってやった人だったんですね。
しかし、洗礼者ヨハネが生まれるということは、その両親にとっては大変なことでした。
お母さんはエリサベトという人です。
そして、今日の58節で、「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」と書かれていますよね。
しかし、この表現はどうなんでしょうか。
子どもが生まれただけでそこまで言うでしょうか。
実はこれ、子どもが生まれるということは、この両親にとっては大変なことだったんですね。
1章18節にこういうことが書かれていました。
洗礼者ヨハネが生まれることが天使によって予告される場面です。
「そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています。』」。
つまり、この夫婦は、普通に考えたら子どもが生まれるような年ではなかったんです。
けれども、子どもが与えられたんですね。
だから、人々は大いに喜んだんでした。
そして、ヨハネが生まれることはこの通り、予告されていたことでした。
ザカリアは祭司です。
神殿で神様に仕える仕事をしていたんです。
その時、天使が現れて、ザカリアとエリサベトの間に子どもが生まれると伝えたんですね。
「天使」という言葉は原文では、「伝令」、つまりメッセンジャーのことです。
要するに、神の言葉を伝える者のことですね。
ですので、この場面では、天使がザカリアに話しかけていますが、神が伝えたということです。
しかし、そう考えますと不思議ですね。
1章26節からのところでは、この天使はマリアにも予告しているんです。
神の力でマリアがイエス様を生むということですね。
それはエリサベトとザカリアも同じです。
普通に考えると子どもを生むはずがないような年の人に、子どもが生まれる。
これは、神の力によって子どもが生まれるということです。
マリアはと言うと、まだ結婚していませんでした。
しかし、子どもが生まれるということですね。
神の力が働くからです。
いずれにしても、普通に考えたらありえないようなことですが、神の力でそうなる、と予告されたんです。
しかし、そこが不思議なんですね。
神の力でそうなるというのなら、そうなるんだから、だったらわざわざ予告しなくていいのではないでしょうか。
しかしここに、神様はどのような方であるかが良く表れていると思うんですね。
1章28節の、マリアに対して伝えられた言葉にこうあります。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。
これ、時々言われることですよね。
「主があなたと共におられる」。
神様は、私たちと一緒にいてくださる神様であるということです。
ここに、神様のお気持ちが表れていると思うんです。
神様は私たちと一緒にいたいと思っておられるんですね。
一緒にいたいというのは単に同じ場所にいたいということではないでしょう。
心を一つにしたいということです。
だから、予告するんですね。
予告しなければそうすることができないということではありません。
人間の許可がなければ神様は働くことができないということではないですね。
神様は、人と心を一つにしたいんです。
だから、予告するんですね。
そして、マリアは、信じられない予告を受け入れました。
38節にマリアの言葉がありますね。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。
常識では考えられないことですが、神の言葉を受け入れたんです。
しかし、ザカリアはどうだったでしょうか。
一枚戻ってみると、下の段に書かれています。
13節から17節まで、天使の予告がありますね。
しかし、ザカリアは信じないんです。
それが18節です。
そんなことはありえないでしょうという感じですね。
でもそれは、ここのところをよく読んでみると、おかしなことです。
13節で天使はザカリアに対して、「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と言っているじゃないですか。
願っていたんですよ、ザカリアは。
それなのに、信じないんです。
願っていたことなのに、常識で考えられないことは受け容れないんです。
これは、聖書が、人間の常識というものがいかに困ったものなのかを語っているのではないかと思いますね。
良いことであったとしても、自分の頭に収まらないものははじいてしまう。
願っていることでも、それが実現する方法が常識外れだったら受け入れない。
神の言葉よりも常識の方が上なんですね
別の言い方をすると、私たちは常識に縛られてしまっているんです。
しかし、神の言葉を受け入れないと、どうなりましたか。
19節からのところで、天使がザカリアに言います。
「あなたは口がきけなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。
神の言葉は実現するんです。
それには、人の許可が必要なわけではありません。
しかし、神様が心を一つにしたいと思っているのに、ザカリアはそれを受け入れなかったんですね。
そうすると、ザカリアは話すことができなくなりました。
しかし、どうして、ここで口がきけなくされたんでしょうか。
目が見えなくなる、ではないんですね。
歩けなくなる、でもない。
そして、この時ザカリアは口がきけなくなっただけではなかったらしいですね。
今日の62節で、生まれてきた赤ちゃんに名前を付ける時、人々が父親であるザカリアに、「手振りで尋ねた」と書かれています。
どうやら、耳も聞こえなかったらしいんですね。
話すことができないし、耳も聞こえない。
そうなると、ザカリアとしてはどういう感覚になるでしょうか。
自分の言葉をしゃべれないんですね。
人の言葉も聞こえないんです。
ザカリアは、子どもが生まれてくるまで、ひたすら神様の言葉に心を向けるしかなかったんです。
神様の言葉にだけ心を向けていたんです。
そうして、神様と心を一つにしていったんでしょうね。
これは私たちにとっても大切なことではないでしょうか。
神様と心を一つにするということ。
そのためには、自分の言葉にも人の言葉にも沈黙する、ということが必要なんですね。
そうしてこそ聞こえてくる神の言葉があるということなんです。
今聖書は私たちにそのことを伝えています。
私たちの周りには人の言葉があふれています。
私たちの頭の中には自分の言葉があふれています。
自分の頭の中の声なんてすごいじゃないですか。
考えるのを止めようとしても、次々に頭の中に言葉が浮かんできますよね。
それを退けることの大切さを、聖書は教えてくれていると思うんです。
本当の沈黙の中で出会う神の言葉があるのだと、聖書は言っているんです。
この時、ザカリアは自分の子どもに、ヨハネという名前を付けました。
どうしてかと言うと、1章12節で、天使からそうするようにと言われていたからです。
「あなたの妻エリサベトは男の子を生む。その子をヨハネと名付けなさい」ということですね。
そして、名前を付けるというのは、聖書では、上の者が下の者に付けるんですね。
子どもの名前は親が付けます。
しかしここでは、神様が名前を付けたことになっているわけです。
つまり、この子ヨハネは神のものだということですね。
ゼカリアは、その神の言葉に従ったんです。
神の言葉にだけ心を向ける中で、神の言葉に出会ったんですね。
だからこそ、そうすることができたんです。
そうするとザカリアは賛美し始めました。
神の言葉に出会うと、人は賛美しはじめるんですね。
自分の言葉も人の言葉も、神を賛美するようにはさせてはくれません。
自分の言葉でも、人の言葉でも、神様の素晴らしさは分からないんです。
ただ神の言葉が、私たちを変えるんです。
自分の言葉に、人の言葉に縛り付けられていたところから、神の言葉は私たちを自由にしてくれる。
そしてその時、私たちは賛美しはじめるんです。
人間の言葉を語ることを止める時を持ちたいですね。
人の言葉を聞くことを止める時を持ちたいんです。
神の言葉にだけ心を向ける時を持ちたい。
神様は私たちにそれが必要だと考えておられます。
人間の言葉に縛り付けられている私たちがそこから自由になる時、考えられもしないような神の言葉が実現する。
今日、神は、私たちに、そのことを伝えてくださっています。
ルカによる福音書1章57節から80節
路加福音1章57-80节
56さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。58近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。59八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。60ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。61しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、62父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。63父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。64すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。65近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。66聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
伊利莎白的产期到了,就生了一个儿子。邻里亲族听见主向她大施怜悯。就和她一同欢乐。到了第八日,他们来给孩子行割礼,并要照他父亲的名字,叫他撒迦利亚。他母亲说:“不可,要叫他约翰。”他们说:“你亲族中没有叫这名字的。”他们就向他父亲打手式,问他要叫这孩子什么名字。他要了一块写字的板,就写上说:“他的名字是约翰。”他们便都希奇。撒迦利亚的口立时开了,舌头也舒展了,就说出话来,称颂神。周围居住的人都惧怕。这一切的事就传遍了犹太的山地。凡听见的人都将这事放在心里,说:“这个孩子将来怎么样呢?因为有主与他同在。”
聖書を見ますと今日の所には、「洗礼者ヨハネの誕生」というサブタイトルがついています。
打开圣经就能看到今天的内容部分附有“施洗约翰出生”的小标题。
洗礼者ヨハネという人は多くの人に洗礼を授けた人ですね。
施洗约翰给很多人施过洗。
洗礼というのはまずは罪を洗い清める儀式です。
洗礼首先是洗清罪孽的仪式。
ですので、逆に言って、罪を自覚していない人は洗礼を受けようとは思わないわけです。
因此,反而言之,不觉得自己有罪的人是不会想要受洗的。
では罪とは何なのかと言いますと、原文では、「的外れ」という言葉が元になってできた言葉です。
要论到罪到底是什么,原文中“偏离目标”一词可以说是其本意。
もう少し具体的に言いますと、アダムとエバの話にそういう話が出てくるんですが、自分を真っ先に愛してしまうことが的外れだと聖書は言うんですね。
更具体点说的话,亚当和夏娃的故事中有这样的话,先爱自己就是偏离目标了,圣经上是这样说的。
それは、人間皆、多かれ少なかれそうだ、と言うんです。
会有人说,人或多或少都这样。
そう言われればそうかとは思いますね。
被这样一说想想还真是如此。
しかし、私たちが普段それを自覚しているかというと、そうでもないでしょうね。
可是,要问我们平时是否有这样的自知,应该不会吧。
ある意味それは自分にとって当たり前ですから、なかなか自覚できないわけです。
某种意义上说,因为对自己来说是理所当然的,所以几乎不会觉得。
洗礼者ヨハネはそれを人々に自覚させた人なんですね。
施洗约翰正是让人认识到自己有罪的人。
だから、たくさんの人に洗礼を授けることができたわけです。
因此,他才可以给很多的人施洗。
つまり、洗礼者ヨハネは、人の心を整えたんですね。
也就是说,施洗约翰预备人心。
単に洗礼を授けることが目的なのではなくて、人の心を整えることが目的だったんです。
单单施洗不是目的,预备人心才是。
この人は、人の心を整えて、神様の働きをなさるイエス様を迎える準備を前もってやった人だったんですね。
他预备人心,为迎接为神做工的耶稣而提前做准备。
しかし、洗礼者ヨハネが生まれるということは、その両親にとっては大変なことでした。
可是,施洗约翰降生对他父母来说是不得了的事情。
お母さんはエリサベトという人です。
他母亲叫伊利莎白。
そして、今日の58節で、「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」と書かれていますよね。
58节中写到“邻里亲族听见主向她大施怜悯。就和她一同欢乐”。
しかし、この表現はどうなんでしょうか。
这是怎么一回事呢?
子どもが生まれただけでそこまで言うでしょうか。
只是生孩子的话至于这样吗?
実はこれ、子どもが生まれるということは、この両親にとっては大変なことだったんですね。
事实上,生孩子对于这对父母来说是不得了的事情。
1章18節にこういうことが書かれていました。
1章18节这样写到。
洗礼者ヨハネが生まれることが天使によって予告される場面です。
是天使预告施洗约翰将降生的场面。
「そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています。』」。
“撒迦利亚对天使说:‘我凭着什么可以知道这事呢?我已经老了,我的妻子也年纪老迈了。’”
つまり、この夫婦は、普通に考えたら子どもが生まれるような年ではなかったんです。
也就是说,这对夫妇已经不是常理所认为的可以生孩子的年纪了。
けれども、子どもが与えられたんですね。
但是,神赐给了他们孩子。
だから、人々は大いに喜んだんでした。
所以,人们大大欢喜。
そして、ヨハネが生まれることはこの通り、予告されていたことでした。
约翰的降生是这样被事先通知的。
ザカリアは祭司です。
撒迦利亚是祭司。
神殿で神様に仕える仕事をしていたんです。
在神殿里侍奉神。
その時、天使が現れて、ザカリアとエリサベトの間に子どもが生まれると伝えたんですね。
当时,天使显现,告诉他撒迦利亚和伊利莎白会生一个孩子。
「天使」という言葉は原文では、「伝令」、つまりメッセンジャーのことです。
“天使”在原文中是“传令”,也就是信使的意思。
要するに、神の言葉を伝える者のことですね。
总之就是传达神话语的人。
ですので、この場面では、天使がザカリアに話しかけていますが、神が伝えたということです。
因此在这里,天使跟撒迦利亚所说的,是神所要传达的信息。
しかし、そう考えますと不思議ですね。
可是,这样想的话有点不可思议。
1章26節からのところでは、この天使はマリアにも予告しているんです。
1章26节开始,天使也预先告知了玛利亚。
神の力でマリアがイエス様を生むということですね。
借助神的大能玛利亚要生下耶稣。
それはエリサベトとザカリアも同じです。
伊利莎白和玛利亚一样。
普通に考えると子どもを生むはずがないような年の人に、子どもが生まれる。
让一般认为不可能生孩子的年纪的人生下孩子。
これは、神の力によって子どもが生まれるということです。
也就是因神的大能生下孩子。
マリアはと言うと、まだ結婚していませんでした。
玛利亚的话还没有结婚。
しかし、子どもが生まれるということですね。
可是,却要生孩子。
神の力が働くからです。
因为神的大能运行。
いずれにしても、普通に考えたらありえないようなことですが、神の力でそうなる、と予告されたんです。
无论是哪个,一般看来都是认为不可能的事,但是依靠神的大能都可以做到,预告了这样的事。
しかし、そこが不思議なんですね。
可是还是觉得不可思议。
神の力でそうなるというのなら、そうなるんだから、だったらわざわざ予告しなくていいのではないでしょうか。
如果是神的大能的话,当然是能行的,那么不用特地提前通知也没问题,不是吗?
しかしここに、神様はどのような方であるかが良く表れていると思うんですね。
可是我觉得这里很好地表现了神是怎样的一位神。
1章28節の、マリアに対して伝えられた言葉にこうあります。
1章28节,传达给玛利亚的话中有这样的话:
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。
“蒙大恩的女子,我问你安,主和你同在了!”
これ、時々言われることですよね。
这话经常被说。
「主があなたと共におられる」。
“主与你同在”。
神様は、私たちと一緒にいてくださる神様であるということです。
是说神是与我们同在的神。
ここに、神様のお気持ちが表れていると思うんです。
我认为这里表达了神的心意。
神様は私たちと一緒にいたいと思っておられるんですね。
神想要与我们同在。
一緒にいたいというのは単に同じ場所にいたいということではないでしょう。
同在并不是单纯地在同一个地方。
心を一つにしたいということです。
是想要同心合一。
だから、予告するんですね。
所以,预先告知。
予告しなければそうすることができないということではありません。
不是说不事先告知的话就做不到。
人間の許可がなければ神様は働くことができないということではないですね。
不是说得不到人的允许神就无法做工了。
神様は、人と心を一つにしたいんです。
神想要与人同心合一。
だから、予告するんですね。
因此,事先预告。
そして、マリアは、信じられない予告を受け入れました。
而玛利亚接受了难以置信的预告。
38節にマリアの言葉がありますね。
38节中有玛利亚的话:
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。
“我是主的使女,情愿照你的话成就在我的身上。”
常識では考えられないことですが、神の言葉を受け入れたんです。
虽然按常识是无法想象的事,但还是接受了神的话。
しかし、ザカリアはどうだったでしょうか。
可是,撒迦利亚呢?
一枚戻ってみると、下の段に書かれています。
翻到前面一页,在下面写着。
13節から17節まで、天使の予告がありますね。
13节到17节,有天使的预告。
しかし、ザカリアは信じないんです。
可是撒迦利亚没有相信。
それが18節です。
然后18节。
そんなことはありえないでしょうという感じですね。
觉得这样的事情是不可能的。
でもそれは、ここのところをよく読んでみると、おかしなことです。
但是,细读这里,感觉有点奇怪。
13節で天使はザカリアに対して、「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と言っているじゃないですか。
13节天使对撒迦利亚说:“撒迦利亚,你的祈祷已经被听见了。”
願っていたんですよ、ザカリアは。
撒迦利亚祈祷了。
それなのに、信じないんです。
然而却不信。
願っていたことなのに、常識で考えられないことは受け容れないんです。
虽然祈祷了,却不接受按常识无法想象的事。
これは、聖書が、人間の常識というものがいかに困ったものなのかを語っているのではないかと思いますね。
我想这里圣经是要说明人的常识如此之矛盾吧。
良いことであったとしても、自分の頭に収まらないものははじいてしまう。
即使是好事,自己的大脑无法认同的话就排斥。
願っていることでも、それが実現する方法が常識外れだったら受け入れない。
即使是祈求的事,实现的方法超乎常理的话就不接受。
神の言葉よりも常識の方が上なんですね
比起神的话语更相信常识。
別の言い方をすると、私たちは常識に縛られてしまっているんです。
换而言之就是,我们被常识所束缚。
しかし、神の言葉を受け入れないと、どうなりましたか。
可是,如果不接受神的话,会怎样?
19節からのところで、天使がザカリアに言います。
19节,天使对撒迦利亚说:
「あなたは口がきけなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。
“到了时候,这话必应验。只因你不信,你必哑巴不能说话,直到这事成就的日子。”
神の言葉は実現するんです。
神的话会应验。
それには、人の許可が必要なわけではありません。
并非一定要得到人的许可。
しかし、神様が心を一つにしたいと思っているのに、ザカリアはそれを受け入れなかったんですね。
可是,神想要和人同心合一,可是撒迦利亚却没有接受。
そうすると、ザカリアは話すことができなくなりました。
于是,撒迦利亚不能说话了。
しかし、どうして、ここで口がきけなくされたんでしょうか。
可是为什么成了哑巴呢?
目が見えなくなる、ではないんですね。
不是眼睛看不见。
歩けなくなる、でもない。
也不是不能走路。
そして、この時ザカリアは口がきけなくなっただけではなかったらしいですね。
而且那时撒迦利亚好像不只是哑巴了。
今日の62節で、生まれてきた赤ちゃんに名前を付ける時、人々が父親であるザカリアに、「手振りで尋ねた」と書かれています。
今天的62节写着,在给刚生下来的小孩取名字时,人们向父亲撒迦利亚“打手式问”
どうやら、耳も聞こえなかったらしいんですね。
似乎耳朵也听不见了。
話すことができないし、耳も聞こえない。
说不了也听不见。
そうなると、ザカリアとしてはどういう感覚になるでしょうか。
这样的话,撒迦利亚会是什么感受呢?
自分の言葉をしゃべれないんですね。
自己的话说不了。
人の言葉も聞こえないんです。
他人的话也听不见。
ザカリアは、子どもが生まれてくるまで、ひたすら神様の言葉に心を向けるしかなかったんです。
撒迦利亚一直到孩子出生,除了一心一意倾听神的话语其它什么也做不了。
神様の言葉にだけ心を向けていたんです。
只能用心聆听神的话语。
そうして、神様と心を一つにしていったんでしょうね。
于是,与神同心合一了。
これは私たちにとっても大切なことではないでしょうか。
这对于我们也是非常重要的不是吗?
神様と心を一つにするということ。
与神同心合一。
そのためには、自分の言葉にも人の言葉にも沈黙する、ということが必要なんですね。
为此自己的话也好,他人的话也好,都必须要保持沉默。
そうしてこそ聞こえてくる神の言葉があるということなんです。
如此才能听到神的话语。
今聖書は私たちにそのことを伝えています。
今天的圣经内容向我们传达了这样的信息。
私たちの周りには人の言葉があふれています。
我们的周围满是他人的话语。
私たちの頭の中には自分の言葉があふれています。
我们脑海中都是自己的话。
自分の頭の中の声なんてすごいじゃないですか。
自己头脑里的声音是不是很顽固?
考えるのを止めようとしても、次々に頭の中に言葉が浮かんできますよね。
即使想要停止思考,依然会不停地在脑海中浮现出来是吧。
それを退けることの大切さを、聖書は教えてくれていると思うんです。
我想圣经正在教我们除去这的重要性。
本当の沈黙の中で出会う神の言葉があるのだと、聖書は言っているんです。
经上说了在真正的沉静中会听到神的话语。
この時、ザカリアは自分の子どもに、ヨハネという名前を付けました。
这时,撒迦利亚给自己的孩子取名约翰。
どうしてかと言うと、1章12節で、天使からそうするようにと言われていたからです。
为什么呢?因为1章12节,天使说要如此。
「あなたの妻エリサベトは男の子を生む。その子をヨハネと名付けなさい」ということですね。
“你的妻子伊利莎白要生一个男孩,要给他起名叫约翰。”
そして、名前を付けるというのは、聖書では、上の者が下の者に付けるんですね。
而取名在圣经中是辈分高的给辈分低的取。
子どもの名前は親が付けます。
孩子的名字是父母取的。
しかしここでは、神様が名前を付けたことになっているわけです。
可是在这里,是神取的名。
つまり、この子ヨハネは神のものだということですね。
也就是说约翰是神的。
ゼカリアは、その神の言葉に従ったんです。
撒迦利亚遵从了神的话语。
神の言葉にだけ心を向ける中で、神の言葉に出会ったんですね。
一心只想着神的话语,便能领受到神的话语。
だからこそ、そうすることができたんです。
正因为如此,才成就了这样的事。
そうするとザカリアは賛美し始めました。
于是撒迦利亚开始赞美。
神の言葉に出会うと、人は賛美しはじめるんですね。
领受了神的话语,人就开始赞美。
自分の言葉も人の言葉も、神を賛美するようにはさせてはくれません。
自己的话也好他人的话也好,都不能让我们赞美神。
自分の言葉でも、人の言葉でも、神様の素晴らしさは分からないんです。
自己的话,他人的话都无法让我们明白神的伟大。
ただ神の言葉が、私たちを変えるんです。
只有神的话语,可以改变我们。
自分の言葉に、人の言葉に縛り付けられていたところから、神の言葉は私たちを自由にしてくれる。
我们被自己的话,他人的话所束缚,神的话语将我们从束缚中释放出来,赐予我们自由。
そしてその時、私たちは賛美しはじめるんです。
到那时,我们就开始赞美。
人間の言葉を語ることを止める時を持ちたいですね。
想要有一个时间不语。
人の言葉を聞くことを止める時を持ちたいんです。
想要有一个时间禁听。
神の言葉にだけ心を向ける時を持ちたい。
唯聆听神的话语,想有这样的时间。
神様は私たちにそれが必要だと考えておられます。
神认为这是我们所必须的。
人間の言葉に縛り付けられている私たちがそこから自由になる時、考えられもしないような神の言葉が実現する。
当被世人的话语所束缚的我们从束缚中脱离出来获得自由的时候,不可想象的神的话语就会成就。
今日、神は、私たちに、そのことを伝えてくださっています。
今天,神向我们传达了这样的信息。