
あなたのためのキリスト
ルカによる福音書2章8節から14節
8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
今日の場面はクリスマスらしい場面と言えるでしょうね。
「メリー・クリスマス」という言葉は「うれしいクリスマス」という意味の言葉ですが、とても華やかな場面です。
天の大軍が賛美をしています。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
とても高いところにおられる神様に栄光があるように。
そして、地上にいる、御心に適う人に平和があるように。
クリスマスにお生まれになったイエス様は、神の栄光を現す方であり、地上に平和をもたらしてくださる方でもあるということですね。
そのことを神ご自身が、天使たちの賛美によって宣言してくださったのです。
それがクリスマスなんですね。
けれども、ここで気になることがありますね。
平和は、「御心に適う人にあれ」と歌われているんです。
そう言われますと、私たちとしては、自分が神の御心に適っているかどうかが気になります。
でもこれ、気にしなくていいんですね。
この言葉は聖書の原文を見ますと、「神が愛してくださっている人」という意味なんです。
神様が愛してくださるのは、特別な人だけではありません。
どんな人でも神様は愛してくださいます。
私たちがどのような者であっても、どれほど罪深くても、それによって神様の愛からもれてしまうということはありません。
だから今、羊飼いたちに対して、イエス様がお生まれになられたことが伝えられているんです。
これ、考えてみれば不思議なことですよね。
救い主が生まれたということ。
それは別に、わざわざ人に伝えなければならないようなことではないですね。
時が来れば、救い主は成長して大人になって、神の働きをなさるようになります。
それはイエス様が30歳になってからのことなんですが、だとしたらなおさら、わざわざ今、そんなことを伝えなくてもいいはずです。
けれども、この時には、羊飼いたちにキリスト誕生の知らせが伝えられました。
そこに、深い御心があります。
この羊飼いという人たちはどういう人たちだったでしょうか。
どういうふうに扱われていた人たちだったでしょうか。
それは、この場面を見るだけでもわかります。
羊飼いたちはこの時、野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたんですね。
仕事中だったわけです。
けれども、考えてみると、これは不思議なことです。
少し戻って、隣の頁の下の段の2章の3節を見てください。
人々は皆、ローマ皇帝の命令で、住民登録をするために、ふるさとに帰っていたんでした。
これは、今で言うところの国勢調査ですね。
もちろん、イエス様の両親のヨセフとマリアもふるさとに帰っていました。
それなのに、この羊飼いたちは今、仕事中であるわけです。
彼らは住民登録をしなくていいんでしょうか。
しなくていいんです。
というよりも、彼らは、登録をする必要もない人たちだと思われていました。
羊飼いの仕事というのは、24時間、365日です。
言ってみれば、すべての時間を羊にささげる仕事です。
ですから、羊飼いたちには、社会的な責任を果たすことができません。
例えば、軍隊に行けと言われても、行くことなんてできないわけです。
そのために、羊飼いたちは、人々からさげすまれていました。
彼らは住民登録をしていませんから、言ってみれば戸籍がないわけです。
社会的には人間ではないわけです。
もう本当に、見捨てられたような人たちだったんです。
その羊飼いたちに、クリスマスのメッセージが最初に伝えられました。
ここにある御心、分かりますよね。
誰も、神様の愛からこぼれ落ちることはないんです。
神様は誰も見捨てないんです。
けれどもここで、思わされます。
天の大軍は「地には平和」と歌いましたが、地に、本当に平和があるのでしょうか。
ヨセフとマリアは住民登録をするために、100キロも旅をしなければなりませんでした。
それが、この世の支配者の力ですね。
言ってみれば、イエス様は、この世の力に追いやられて、そこで生まれたんです。
それだけではありませんよね。
103ページの上の段の最初の行ですが、そこを見ますと、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれています。
誰もマリアとヨセフを泊めてくれなかったんです。
住民登録のためにたくさんの人が旅をしなければなりませんでしたから、どの宿屋も人でいっぱいで部屋がなかったのかもしれません。
それにしたって、マリアはもうお腹が大きかったのに、誰も泊めてくれないというのはどういうことなんでしょうか。
イエス様は、人々の冷たい心に追いやられて、馬小屋にまで追いやられて、生まれたんです。
これを平和と呼べるでしょうか。
今日の場面では、羊飼いたちに天使のメッセージが与えられるんですが、羊飼いたちは他の人たちから人間扱いされません。
それを平和と呼べるでしょうか。
そして、考えてみれば、そのような状況というのは、今の私たちの身の回りにも、いくらでもあるのではないでしょうか。
私たちの周りにも、私たち自身にもです。
しかし、だからこそ、こう言うことができます。
神は、私たちの側に立ってくださっている。
人の力に追いやられることがある私たちです。
人の心に追いやられることのある私たちです。
それを経験したことのない人は誰もいません。
だからこそイエス様は、私たちと同じ立場に立ってくださるんですね。
イエス様は私たちの側に立ってくださる方なんです。
私たちの苦しみや悲しみを共に背負ってくださる方なんです。
そのために、この世に生まれてきてくださったんです。
だから、10節で天使は言っていますね。
「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。
これは羊飼いだけではなくて、どの人にも当てはまる、大きな喜びなんですね。
神が、この私のところに来てくださった。
神がこの私と共におられる。
それは誰にとっても大きな喜びです。
私たちが人の力に追いやられる時、誰も私たちを顧みてくれません。
私たちが人の心に追いやられる時、誰も私たちを顧みてくれません。
しかし、神はその私に寄り添ってくださる。
それ以上の平和があるでしょうか。
この時代、ローマ皇帝は、「自分が救い主である」と名乗っていました。
皇帝アウグストゥスは強い軍隊を率いて戦って、戦争を終わらせて、平和をもたらしたからですね。
ローマ皇帝はすべての人を自分の力で従わせて、平和を実現したわけです。
しかし、イエス様の平和はそういうものではないんですね。
ご自分自身を私たちに与えてくださるのがイエス様なんです。
それが、神の栄光だ、と天使は言っているんです。
それが、神にとっての栄光なんだ、ということなんですね。
だから今日、天使は、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」って言っていますよね。
これも、羊飼いのことだけじゃないんです。
私たち全員に当てはまることです。
そして、ここでは、「あなたがた」と言われています。
神にとって私たちは、「あなた」なんです。
神と私たちの関係は、「私とあなた」の関係なんです。
神が語りかけるのは世界全体に対してではありません。
人類全体に対してではありません。
神はこの私に語りかけてくださる。
そして、私たち一人一人のところに、救い主を送ってくださる。
この私の現実に、救い主が来てくださる。
それがクリスマスなんですね。
喜んで、イエス様をお迎えしたいと思います。
神様の平和が、神様に愛されている皆さんにありますように。
あなたのためのキリスト
为你们而生的基督
ルカによる福音書2章8節から14節
路加福音2章8至14节
8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
在伯利恒之野地里有牧羊的人,夜间按着更次看守羊群。有主的使者站在他们旁边,主的荣光四面照着他们,牧羊的人就甚惧怕。那天使对他们说“不要惧怕,我报给你们大喜的信息,为你们生了救主,就是主基督。你们要看见一个婴孩,包着布,卧在马槽里,那就是记号了。”忽然有一大队天兵同那天使赞美神说:
14「いと高きところには栄光、神にあれ、
“在至高之处荣耀归于神,
地には平和、御心に適う人にあれ。」
在地上平安归于他所喜悦的人。”
今日の場面はクリスマスらしい場面と言えるでしょうね。
今天的内容可以说是圣诞的场景。
「メリー・クリスマス」という言葉は「うれしいクリスマス」という意味の言葉ですが、とても華やかな場面です。
“Merry Christmas”一词是“圣诞快乐”的意思,场面非常盛大。
天の大軍が賛美をしています。
天军在赞美说:
「いと高きところには栄光、神にあれ、
“在至高之处荣耀归于神,
地には平和、御心に適う人にあれ。」
在地上平安归于他所喜悦的人。“
とても高いところにおられる神様に栄光があるように。
愿荣耀归于至高神,
そして、地上にいる、御心に適う人に平和があるように。
愿地上神所喜悦的人平安。
クリスマスにお生まれになったイエス様は、神の栄光を現す方であり、地上に平和をもたらしてくださる方でもあるということですね。
在圣诞节降生的耶稣,既彰显了神的荣光,又将平安带到了地上。
そのことを神ご自身が、天使たちの賛美によって宣言してくださったのです。
神通过天使的赞美自己宣告了这事。
それがクリスマスなんですね。
这就是圣诞。
けれども、ここで気になることがありますね。
但是这里有一点疑惑吧。
平和は、「御心に適う人にあれ」と歌われているんです。
歌里唱到平安“归于他所喜悦的人”。
そう言われますと、私たちとしては、自分が神の御心に適っているかどうかが気になります。
被这样一说,我们会在意自己是否合神心意。
でもこれ、気にしなくていいんですね。
但是我们无需在意这一点。
この言葉は聖書の原文を見ますと、「神が愛してくださっている人」という意味なんです。
如果看圣经原文的话,这话是指“神爱的人”。
神様が愛してくださるのは、特別な人だけではありません。
神所爱的,并不只是特别的人。
どんな人でも神様は愛してくださいます。
不管什么人神都爱。
私たちがどのような者であっても、どれほど罪深くても、それによって神様の愛からもれてしまうということはありません。
不管我们是怎样的人,不管罪孽多么深重,神的爱不会因此少了我们。
だから今、羊飼いたちに対して、イエス様がお生まれになられたことが伝えられているんです。
所以此刻,正在向牧羊的人传达耶稣降生的信息。
これ、考えてみれば不思議なことですよね。
这事,想想有点不可思议吧。
救い主が生まれたということ。
救世主降生一事。
それは別に、わざわざ人に伝えなければならないようなことではないですね。
并非必须要特地向人传达。
時が来れば、救い主は成長して大人になって、神の働きをなさるようになります。
时机一到,救世主长大成人,就能为主做工。
それはイエス様が30歳になってからのことなんですが、だとしたらなおさら、わざわざ今、そんなことを伝えなくてもいいはずです。
那是耶稣30岁以后的事情,如此的话更加表明,这样的事不特地传达也应该可以。
けれども、この時には、羊飼いたちにキリスト誕生の知らせが伝えられました。
但是,在当时向牧羊的人传达了基督降生的信息。
そこに、深い御心があります。
这里有神的美意在。
この羊飼いという人たちはどういう人たちだったでしょうか。
这些牧羊的人是怎样的人呢?
どういうふうに扱われていた人たちだったでしょうか。
是如何被对待的一群人呢?
それは、この場面を見るだけでもわかります。
只看这个场景也能明白。
羊飼いたちはこの時、野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたんですね。
牧羊的人此刻在野地里,夜间按着更次看守羊群。
仕事中だったわけです。
在工作中。
けれども、考えてみると、これは不思議なことです。
但是想想的话这很不可思议。
少し戻って、隣の頁の下の段の2章の3節を見てください。
稍微往前一点,看一下旁边一页的下面2章3节。
人々は皆、ローマ皇帝の命令で、住民登録をするために、ふるさとに帰っていたんでした。
众人因罗马皇帝的命令,为了报名上册,都在回乡途中。
これは、今で言うところの国勢調査ですね。
现在来说的话就是人口调查。
もちろん、イエス様の両親のヨセフとマリアもふるさとに帰っていました。
耶稣的父母约瑟和玛利亚自然也在回乡途中。
それなのに、この羊飼いたちは今、仕事中であるわけです。
然而,牧羊的人此刻却还在工作。
彼らは住民登録をしなくていいんでしょうか。
他们不去登记也没关系吗?
しなくていいんです。
不去也无所谓。
というよりも、彼らは、登録をする必要もない人たちだと思われていました。
与其这么说,更加让人觉得他们没有登记的必要。
羊飼いの仕事というのは、24時間、365日です。
牧羊的工作是一天24小时一年365天不停歇的。
言ってみれば、すべての時間を羊にささげる仕事です。
要说的话,就是所有的时间都花在羊身上这样的工作。
ですから、羊飼いたちには、社会的な責任を果たすことができません。
因此,牧羊的人,他们无法尽到社会责任。
例えば、軍隊に行けと言われても、行くことなんてできないわけです。
比方说,即使命令他们去参军,他们也没办法去。
そのために、羊飼いたちは、人々からさげすまれていました。
因此,牧羊的人被众人蔑视。
彼らは住民登録をしていませんから、言ってみれば戸籍がないわけです。
因为他们没有去户口登记,可以说是没有户籍的人。
社会的には人間ではないわけです。
也就不是社会人。
もう本当に、見捨てられたような人たちだったんです。
真的就像是被抛弃的人。
その羊飼いたちに、クリスマスのメッセージが最初に伝えられました。
这些牧羊的人是最早被传达圣诞的信息的。
ここにある御心、分かりますよね。
这里面神的心意能明白吧。
誰も、神様の愛からこぼれ落ちることはないんです。
谁都不会从神的爱中脱离出来。
神様は誰も見捨てないんです。
神不会抛弃任何人。
けれどもここで、思わされます。
可是这里我们会想,
天の大軍は「地には平和」と歌いましたが、地に、本当に平和があるのでしょうか。
天军唱了“地上平安”,地上真有平安吗?
ヨセフとマリアは住民登録をするために、100キロも旅をしなければなりませんでした。
约瑟和玛利亚为了户口登记,必须要走100公里的路程。
それが、この世の支配者の力ですね。
这就是世间统治者的权势。
言ってみれば、イエス様は、この世の力に追いやられて、そこで生まれたんです。
说起来,耶稣就是被世间的权势所逼,在这里降生了。
それだけではありませんよね。
不仅如此。
103ページの上の段の最初の行ですが、そこを見ますと、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれています。
看一下103页最前面第一行,这里写着“客店里没有他们住的地方”。
誰もマリアとヨセフを泊めてくれなかったんです。
谁都没有让约瑟和玛利亚住。
住民登録のためにたくさんの人が旅をしなければなりませんでしたから、どの宿屋も人でいっぱいで部屋がなかったのかもしれません。
因为要登记户口,很多人都必须回乡,所有客店可能都住满了人。
それにしたって、マリアはもうお腹が大きかったのに、誰も泊めてくれないというのはどういうことなんでしょうか。
这样看的话,玛利亚已经肚子很大了,然而谁都不让他们住,这是怎么一回事呢?
イエス様は、人々の冷たい心に追いやられて、馬小屋にまで追いやられて、生まれたんです。
耶稣因众人的冷漠,被逼无奈,生在了马槽里。
これを平和と呼べるでしょうか。
这能称为平安吗?
今日の場面では、羊飼いたちに天使のメッセージが与えられるんですが、羊飼いたちは他の人たちから人間扱いされません。
今天的场景,虽然牧羊的人获得了天使的信息,但是其他人并不把他们当人看。
それを平和と呼べるでしょうか。
这能称为平安吗?
そして、考えてみれば、そのような状況というのは、今の私たちの身の回りにも、いくらでもあるのではないでしょうか。
想想的话,这样的情况我们的身边也有很多不是吗?
私たちの周りにも、私たち自身にもです。
我们的身边有,我们自己也有。
しかし、だからこそ、こう言うことができます。
可是,正因为如此,才可以说:
神は、私たちの側に立ってくださっている。
神是站在我们这边的。
人の力に追いやられることがある私たちです。
被权力所逼迫的我们。
人の心に追いやられることのある私たちです。
被世间的冷漠所逼迫的我们。
それを経験したことのない人は誰もいません。
谁都经历过这样的事。
だからこそイエス様は、私たちと同じ立場に立ってくださるんですね。
正因为如此,耶稣和我们站在同一立场。
イエス様は私たちの側に立ってくださる方なんです。
耶稣站在我们一边。
私たちの苦しみや悲しみを共に背負ってくださる方なんです。
与我们共同背负劳苦愁烦。
そのために、この世に生まれてきてくださったんです。
为此,降临到这个世界。
だから、10節で天使は言っていますね。
所以第十节天使说:
「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。
“我报给你们大喜的信息,是关乎万民的。”
これは羊飼いだけではなくて、どの人にも当てはまる、大きな喜びなんですね。
不仅是牧羊的人,对谁来说都是大喜。
神が、この私のところに来てくださった。
神来到了我们这里。
神がこの私と共におられる。
与我们同在。
それは誰にとっても大きな喜びです。
这对任何人来说都是大喜。
私たちが人の力に追いやられる時、誰も私たちを顧みてくれません。
我们受人压迫时,谁都没有看顾我们。
私たちが人の心に追いやられる時、誰も私たちを顧みてくれません。
我们备受冷漠时,谁也没有看顾我们。
しかし、神はその私に寄り添ってくださる。
可是,神来到了我们这里。
それ以上の平和があるでしょうか。
还有比这更大的平安吗?
この時代、ローマ皇帝は、「自分が救い主である」と名乗っていました。
当时,罗马皇帝自称“自己是救世主”。
皇帝アウグストゥスは強い軍隊を率いて戦って、戦争を終わらせて、平和をもたらしたからですね。
因为奥古斯都皇帝率领大军作战,结束了战争,带来了和平。
ローマ皇帝はすべての人を自分の力で従わせて、平和を実現したわけです。
罗马皇帝让所有人服从自己的权力,实现了和平。
しかし、イエス様の平和はそういうものではないんですね。
可是,耶稣的和平不是这样的。
ご自分自身を私たちに与えてくださるのがイエス様なんです。
把自己献给我们的才是耶稣。
それが、神の栄光だ、と天使は言っているんです。
这是神的荣光,天使如是说。
それが、神にとっての栄光なんだ、ということなんですね。
对神来说这是荣光,是这个意思。
だから今日、天使は、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」って言っていますよね。
因此今天天使说:“为你们生了救主”。
これも、羊飼いのことだけじゃないんです。
这也不仅指牧羊的人。
私たち全員に当てはまることです。
我们大家全都是。
そして、ここでは、「あなたがた」と言われています。
而且这里说了“你们”。
神にとって私たちは、「あなた」なんです。
对神来说我们是一个个“你”。
神と私たちの関係は、「私とあなた」の関係なんです。
神和我们的关系分别是“我和你”的关系。
神が語りかけるのは世界全体に対してではありません。
神所说的不是对整个世界。
人類全体に対してではありません。
不是对全部人。
神はこの私に語りかけてくださる。
神在对我们每一个人说。
そして、私たち一人一人のところに、救い主を送ってくださる。
神将救世主送到了我们每一个人这里。
この私の現実に、救い主が来てくださる。
救世主来到了我们的现实中。
それがクリスマスなんですね。
这就是圣诞。
喜んで、イエス様をお迎えしたいと思います。
希望大家开开心心地迎接耶稣。
神様の平和が、神様に愛されている皆さんにありますように。
愿神的平安归于每一个被神所爱的人。