
ルカによる福音書2章15節から20節
15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
イエス様がお生まれになられたことが羊飼いたちに知らされました。
天の大軍が羊飼いたちに現れたんでしたね。
びっくりしてしまうような場面です。
私たちが羊飼いだったらどうでしょうか。
びっくりして気を失ってしまうかもしれないですね。
しかしそこで、羊飼いたちはどうだったでしょうか。
もちろん、びっくりしたとは思うんですが、今日、羊飼いたちは言っていますね。
「さあ、ベツレヘムへ行こう」。
ベツレヘムで救い主が生まれたということを知っているんですね。
これは天使たちが羊飼いたちに知らせてくれたことではありませんが、旧約聖書に昔々から預言されていたことでした。
羊飼いたちは旧約聖書を知っていたんですね。
そして、注目したいのが、この時の羊飼いたちのリアクションのとり方です。
「急いで行った」と書かれています。
これ、マリアと同じですよね。
イエス様の誕生を知らされたマリアにも、それが神様の業であるというしるしが与えられました。
その時マリアも、急いで、そのしるしを見に行ったんでした。
羊飼いにも、しるしが与えられていますよね。
「飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」イエス様というしるしです。
それが神の業であるというしるしです。
そこで急いで行くんですね。
羊飼いたちは、神の言葉にすぐに反応したんです。
これは、羊飼いたちとマリアだけではなくて、後にイエス様の弟子になる人たちもそうでした。
弟子たちが弟子になる時にはどういうことが書かれているかと言いますと、「すぐに従った」と書かれているんですね。
神の言葉にその場で反応したんです。
今いる場所を離れて、今の自分を離れて、その場で、神に従う、神の言葉の側につくということですね。
1章前半には、それができなかった人のことも書かれていました。
ザカリアですね。
ザカリアは、神の言葉を受け入れなかったために、何か月間か、話すことができなくされました。
耳も聞こえなくされました。
人の言葉を話せなくなったんです。
人の言葉を聞けなくなったんです。
そうして、神の言葉にだけ向き合う時が与えられたわけですね。
ですから、大事なことは、まず、神の言葉にしっかり反応することなんです。
私たちも神の言葉である聖書を読みますけれども、読む時、その時、その時、自分を離れて、神の言葉の側につくということですね。
私たちの中には、普段、自分の言葉、人の言葉がうずまいています。
私たちの頭の中は人間の言葉でいっぱいなんですね。
神の側につくためには、それらの言葉に沈黙しなさいということことですね。
そうしてすぐにその場で神の言葉に反応することが大事なんだということです。
これは大変なことだと思うかもしれません。
しかし、そうではないんですね。
神の言葉は何と言っているでしょうか。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言っているんですね。
神様が私たちに伝えたいことはいつもこれなんです。
羊飼いたちは、その知らせに動かされたんです。
そこで、自分の言葉も人の言葉も退けて、神の言葉に従っていったんですね。
ただこれは、羊飼いたちにとって大変なことだったと言えば、大変なことでした。
羊飼いたちはこの時、何をしていたでしょうか。
仕事中だったんですね。
夜通し、羊の群れの番をしていたんです。
でも、すぐに反応したんです。
これは大変なことですね。
仕事場から勝手に離れたということです。
仕事をしていた場所から動かないで、「ああ、良かったね」ということではなかったんですよ。
これは、他人事ではなかったということですね。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」、これを、まさにこの自分のことだと受け止めたんです。
だから、自分が出かけていくんです。
人間の言葉を退けて、仕事だとか用事だとか、自分の都合も退けて、語りかけられている神の言葉を、自分のことだと受け止める。
自分のことだと受け止める時、私たちは動かされていく。
そうすると、どういうことが起こりましたか。
神の言葉が実現していくんですね。
17節に、羊飼いたちは、「その光景を見」たと書かれています。
この「光景」という言葉は、15節の「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」の「出来事」という言葉と同じ言葉です。
そして、15節の「出来事」という単語も、17節の「光景」という単語も、どちらも「言葉」という単語なんですね。
羊飼いたちは、神の言葉を見ようとして出かけたということです。
そして、神の言葉を実際に見たわけです。
つまり、神の言葉は目に見える形で実現するものなんだということですね。
よく考えてみれば、この時、羊飼いたちが見たのは、そんな素晴らしい場面ではないですね。
一組の夫婦がいて、赤ちゃんが飼い葉桶に寝かされている。
飼い葉桶に寝かされているということですから、場所は馬小屋だったのでしょう。
ある夫婦が、長い旅をしてこなければならなくなって、そして、泊めてくれる宿もなかったので、馬小屋で子どもを産んだ。
それは悲しい現実ですね。
それを、羊飼いたちは見たんです。
けれどもここで羊飼いたちは、「どうして救い主がこんなところに生まれなければならなかったんですか」とは言いません。
神の言葉が実現しているからです。
ということは、救い主が馬小屋で生まれるということも、神の目にふさわしいことだったということですね。
救い主、神の子イエスは、ここで、私たちの側に立ってくださっているんです。
イエス様の両親が長い旅をしてベツレヘムに来なければならなかったのは、ローマの皇帝が住民登録を命じたからでした。
だから、自分の先祖の町に、自分の本籍地に来なければならなかった。
そして、その町に来たものの、お腹の大きい女性がいるというのに、誰も泊めてもくれなかった。
イエス様は、人の力に追いやられて、人の心に追いやられて、馬小屋にまで追いやられて、そこでお生まれになられたんですね。
言ってみれば、イエス様は、人の罪のただ中でお生まれになられたんです。
それが馬小屋なんです。
それは、生まれてくる場所としては、最もふさわしくない場所です。
だからこそ、羊飼いたちは、そして私たちも、信じることができます。
この方は、私たちの罪も、悲しみも苦しみも担ってくださる、どんな時も、私たちの側に立ってくださる、そのような救い主だ。
そして、このような場所だからこそ、誰でも救い主に近づくことができます。
もしこれが、普通の家だったり、宿屋だったり、もしかしてお城のような場所だったりすれば、どうでしょうか。
誰も近づくことはできません。
まして、羊飼いというのは、当時の社会の最も下に位置付けられていた人たちです。
彼らには戸籍がありませんでした。
だから、ローマの皇帝が住民登録を命じたのに、彼らは先祖の町に行こうともしないんですね。
いつも通り仕事をしているんです。
イエス様が馬小屋以外の場所でお生まれになられたとしたら、そんな人たちが、イエス様に近づくことができるでしょうか。
馬小屋だからこそ、誰でも近づくことができるのです。
イエス様の救いからは、誰も漏れることはないんですね。
救い主は徹底して私たちの側に立ってくださるんです。
私たちの罪も、悲しみも苦しみも担ってくださり、どんな人でもご自分のそばに招いてくださるんです。
救い主が、神の子が、私たちと同じ人間として生まれてきてくださるということ、それだけでももう十分に私たちの側に立っていてくださることなんですけれども、ここまで身を低くして、私たちの側に回ってくださったんです。
羊飼いたちは、その御心が分かったんじゃないですか。
だから、どうしてこんなところに、とは言わずに、素直に大喜びしたんじゃないですか。
そして、その時、神の言葉が実現する時、神の言葉が実現して、私たちが喜びに満たされる時、私たちは変えられるんですね。
17節で、羊飼いたちは天使が話してくれたことを人々に知らせていますよね。
証人だったということです。
けれども、それで終わりではないんですね。
羊飼いたちは最後、神をあがめ、賛美しながら帰っていくんです。
賛美する者に変えられる。
神に感謝し、神をほめたたえるようにされる。
神様は、私たちが最終的に、喜びにあふれて賛美するようになることを望んでおられるんですね。
それが神様の望みなんです。
だってそうじゃないですか。
神様は、人には前もって何も知らせずに、人を救うご計画を進めることもできます。
それでも、何の問題もありません。
けれども神様は、人と心を一つにすることを望んでおられるんですね。
神様は、人が喜びに満たされて賛美するようになることを望んでおられる。
そのようにして、人と心を一つにすることを望んでおられる。
だから、御言葉を与えてくださるんですね。
マリアに対しても、ザカリアに対しても。
神さまはご自分のなさることを御言葉で知らせてくださるんですね。
それは、人が喜びに満たされて賛美するようになるためにです。
マリアもザカリアも神さまを賛美しました。
神の言葉が実現する時、人は賛美する者に変えられるんですね。
今回は、羊飼いたちが賛美することになりました。
それは、私たちもです。
神さまの言葉が実現していくことで、人が救いに入れられていく。
そして、心から喜んで神さまをほめたたえるようになっていく。
私たちが礼拝の中でしている賛美も、そういうものですね。
だから私たちも、もう、ただの証人ではないんです。
それを通り越して、賛美する者なんです。
私たちはみんな、この羊飼いであり、マリアであり、ザカリアなんです。
賛美した後、羊飼いたちは帰っていきました。
現実に帰っていくんですね。
しかし、仕事場から勝手に離れた羊飼いですよ。
雇い主はこの羊飼いたちをクビにするかもしれませんね。
たとえもう一度誰かに雇ってもらえたとしても、休みなしの厳しい労働が待っています。
世間の人たちの視線も冷たいものだったことでしょう。
けれども、羊飼いたちは、それまでと同じ場所に置かれて、同じものを見ても、受け取り方、感じ方はもうまったく変わってしまったと思うんですね。
厳しい現実の中にあっても、賛美にあふれて生きていったんだと思うんですね。
その日から、新しい生活をスタートさせていったんだと思います。
救いに入れられているからです。
そして、神と心を一つにしているからです。
私たちもそのようであっていいんです。
救いは、この私たちにおいて実現している。
私たちのための救い主が、私たちのところに来てくださった。
だから、私たちはこの礼拝に自分からやってきたんだし、礼拝の中で賛美をしている。
私たちも、神と心を一つにしている。
羊飼いたちと私たちには、何の違いもありません。
賛美しながら、それぞれの現実に帰っていきましょう。
そこでも、神を賛美しましょう。
神はいつも、私たちの側におられるからです。
私たちがどんな悲しみ苦しみにあっても、神様は必ず、私たちを抱きしめてくださるからです。
賛美しましょう。
そして、羊飼いたちがそうしたように、このクリスマスから、新しい生活をスタートさせていきましょう。
ルカによる福音書2章15節から20節
路加福音2章15节—20节
15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
众天使离开他们升天去了,牧羊的人彼此说:“我们往伯利恒去,看看所成的事,就是主所指示我们的。”他们急忙去了,就寻见玛利亚和约瑟,又有那婴孩卧在马槽里。既然看见,就把天使论这孩子的话传开了。凡听见的,就诧异牧羊之人对他们所说的话。玛利亚却把这一切的事存在心里,反复思想。牧羊的人回去了,因所听见、所看见的一切事,正如天使向他们所说的,就归荣耀与神,赞美他。
イエス様がお生まれになられたことが羊飼いたちに知らされました。
耶稣降生的事情报给牧羊的人。
天の大軍が羊飼いたちに現れたんでしたね。
天军向牧羊的人显现。
びっくりしてしまうような場面です。
是非常吓人的场面。
私たちが羊飼いだったらどうでしょうか。
我们要是牧羊人的话会怎样?
びっくりして気を失ってしまうかもしれないですね。
或许会吓得失去意识吧
しかしそこで、羊飼いたちはどうだったでしょうか。
可是这里的牧羊人他们如何呢?
もちろん、びっくりしたとは思うんですが、今日、羊飼いたちは言っていますね。
我想他们肯定也很惊讶,但是他们说:
「さあ、ベツレヘムへ行こう」。
“我们往伯利恒去。”
ベツレヘムで救い主が生まれたということを知っているんですね。
因为知道救世主诞生在伯利恒这件事。
これは天使たちが羊飼いたちに知らせてくれたことではありませんが、旧約聖書に昔々から預言されていたことでした。
这并不是天使告诉他们的,很早以前就在旧约中被预言到了。
羊飼いたちは旧約聖書を知っていたんですね。
牧羊的人他们了解旧约。
そして、注目したいのが、この時の羊飼いたちのリアクションのとり方です。
而要引起注意的是,当时牧羊的人他们的反应。
「急いで行った」と書かれています。
写着“急忙去了”。
これ、マリアと同じですよね。
和玛利亚一样。
イエス様の誕生を知らされたマリアにも、それが神様の業であるというしるしが与えられました。
被告知耶稣将诞生的玛利亚也是,给了她神做工的证据。
その時マリアも、急いで、そのしるしを見に行ったんでした。
当时玛利亚也是急忙去看了那证据。
羊飼いにも、しるしが与えられていますよね。
也给了牧羊人证据。
「飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」イエス様というしるしです。
“卧在马槽里的婴孩”是耶稣的记号。
それが神の業であるというしるしです。
这就是神做工的证明。
そこで急いで行くんですね。
于是急忙去了。
羊飼いたちは、神の言葉にすぐに反応したんです。
牧羊的人他们对神的话立即做出了反应。
これは、羊飼いたちとマリアだけではなくて、後にイエス様の弟子になる人たちもそうでした。
不只是牧羊人和玛利亚,后来成为耶稣弟子的那些人也都是如此。
弟子たちが弟子になる時にはどういうことが書かれているかと言いますと、「すぐに従った」と書かれているんですね。
弟子们在成为弟子的时候是什么反应呢?写着“立即跟从”。
神の言葉にその場で反応したんです。
对于神的话当场就有了反应。
今いる場所を離れて、今の自分を離れて、その場で、神に従う、神の言葉の側につくということですね。
离开此刻所在的地方,放下此刻的自己,当场追随神,听从神的话语,是这样的。
1章前半には、それができなかった人のことも書かれていました。
一章的前半部分,也写了没有如此行的人。
ザカリアですね。
是撒迦利亚。
ザカリアは、神の言葉を受け入れなかったために、何か月間か、話すことができなくされました。
撒迦利亚因为没有接受神的话语,几个月说不了话。
耳も聞こえなくされました。
耳朵也听不见。
人の言葉を話せなくなったんです。
说不了人的话。
人の言葉を聞けなくなったんです。
也听不见人的话。
そうして、神の言葉にだけ向き合う時が与えられたわけですね。
如此,便给了他一心专注于神话语的时间。
ですから、大事なことは、まず、神の言葉にしっかり反応することなんです。
因此,重要的是,首先,要对神的话做出坚定的反应。
私たちも神の言葉である聖書を読みますけれども、読む時、その時、その時、自分を離れて、神の言葉の側につくということですね。
我们也读神的话语圣经,读的时候,放下自己,听从神的话语。
私たちの中には、普段、自分の言葉、人の言葉がうずまいています。
通常,在我们头脑中,尽是自己的话和别人的话在打转。
私たちの頭の中は人間の言葉でいっぱいなんですね。
我们的头脑中塞满了世人的话。
神の側につくためには、それらの言葉に沈黙しなさいということですね。
为了跟从神,就要让那些话不再响起。
そうしてすぐにその場で神の言葉に反応することが大事なんだということです。
然后当场马上对神的话做出反应,这是最重要的。
これは大変なことだと思うかもしれません。
或许觉得这很困难。
しかし、そうではないんですね。
可是,并不是的。
神の言葉は何と言っているでしょうか。
神说了什么呢?
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言っているんですね。
他说:“为你们生了救世主。”
神様が私たちに伝えたいことはいつもこれなんです。
神想向我们传达的一直都是这一点。
羊飼いたちは、その知らせに動かされたんです。
牧羊的人他们也被这信息感动了。
そこで、自分の言葉も人の言葉も退けて、神の言葉に従っていったんですね。
于是,自己的话也好别人的话也好都不管了,听从神的话语。
ただこれは、羊飼いたちにとって大変なことだったと言えば、大変なことでした。
但是,这对牧羊的人来说是件不得了的事情,要这么说的话确实是如此。
羊飼いたちはこの時、何をしていたでしょうか。
他们当时在干吗呢?
仕事中だったんですね。
在工作中呢。
夜通し、羊の群れの番をしていたんです。
夜间轮流看守羊群。
でも、すぐに反応したんです。
但是马上做出了反应。
これは大変なことですね。
这是不得了的事情。
仕事場から勝手に離れたということです。
是擅离职守。
仕事をしていた場所から動かないで、「ああ、良かったね」ということではなかったんですよ。
不离开工作岗位,只是说说“啊,太好了”不是这样的。
これは、他人事ではなかったということですね。
这不是别人的事情。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」、これを、まさにこの自分のことだと受け止めたんです。
“为你们生了救世主。”把这确确实实当作自己的事情而接受了。
だから、自分が出かけていくんです。
因此,自己去了。
人間の言葉を退けて、仕事だとか用事だとか、自分の都合も退けて、語りかけられている神の言葉を、自分のことだと受け止める。
不管世人的话,工作啊,要事啊,自己方不方便啊都不管,把神所说的话当成自己的事情接受。
自分のことだと受け止める時、私たちは動かされていく。
当作自己的事情接受时,我们就会被感动。
そうすると、どういうことが起こりましたか。
接下来会有什么事情发生呢?
神の言葉が実現していくんですね。
神的话会应验。
17節に、羊飼いたちは、「その光景を見」たと書かれています。
17节写着,牧羊的人他们“看见这光景”。
この「光景」という言葉は、15節の「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」の「出来事」という言葉と同じ言葉です。
这“光景”一词,和15节的“看看所成的事,就是主所指示我们的”中的“所成的事”是同一个词。
そして、15節の「出来事」という単語も、17節の「光景」という単語も、どちらも「言葉」という単語なんですね。
而15节的“所成的事”一词和17节的“光景”一词,都是“话语”这个单词。
羊飼いたちは、神の言葉を見ようとして出かけたということです。
牧羊的人他们想要见证神的话语所以去了。
そして、神の言葉を実際に見たわけです。
于是,真的见证到了。
つまり、神の言葉は目に見える形で実現するものなんだということですね。
也就是说,神的话语用眼睛看得见的形态应验了。
よく考えてみれば、この時、羊飼いたちが見たのは、そんな素晴らしい場面ではないですね。
仔细想想的话,当时,牧羊的人他们看到的不是什么了不起的场景。
一組の夫婦がいて、赤ちゃんが飼い葉桶に寝かされている。
有一对夫妻和一个婴孩睡在马槽里。
飼い葉桶に寝かされているということですから、場所は馬小屋だったのでしょう。
因为是睡在马槽里,所以地点应该是马圈。
ある夫婦が、長い旅をしてこなければならなくなって、そして、泊めてくれる宿もなかったので、馬小屋で子どもを産んだ。
某对夫妇,因为必须要长途跋涉,而且没有入住的地方,所以把孩子生在了马圈里。
それは悲しい現実ですね。
这是可悲的现实。
それを、羊飼いたちは見たんです。
牧羊的人他们看到了这些。
けれどもここで羊飼いたちは、「どうして救い主がこんなところに生まれなければならなかったんですか」とは言いません。
但是牧羊的人他们并没有在那里说:“为什么救世主必须要生在这样的地方呢?”
神の言葉が実現しているからです。
因为神的话应验了。
ということは、救い主が馬小屋で生まれるということも、神の目にふさわしいことだったということですね。
也就是说,救世主生在马圈一事在神眼里也是适宜的。
救い主、神の子イエスは、ここで、私たちの側に立ってくださっているんです。
救世主,神子耶稣,此刻与我们同在。
イエス様の両親が長い旅をしてベツレヘムに来なければならなかったのは、ローマの皇帝が住民登録を命じたからでした。
耶稣父母必须千里迢迢赶回伯利恒是因为罗马皇帝下令要进行户口登记。
だから、自分の先祖の町に、自分の本籍地に来なければならなかった。
因此,必须要到自己的祖籍。
そして、その町に来たものの、お腹の大きい女性がいるというのに、誰も泊めてもくれなかった。
虽然回到了那里,又是大腹便便的女子,却没有人提供住宿。
イエス様は、人の力に追いやられて、人の心に追いやられて、馬小屋にまで追いやられて、そこでお生まれになられたんですね。
耶稣受人的权势所迫,也受人心所迫,被逼到马圈,生在了那里。
言ってみれば、イエス様は、人の罪のただ中でお生まれになられたんです。
可以说,耶稣降生在人的罪恶之中。
それが馬小屋なんです。
就是马圈。
それは、生まれてくる場所としては、最もふさわしくない場所です。
作为出生地,这是最不适合的。
だからこそ、羊飼いたちは、そして私たちも、信じることができます。
正因为如此,牧羊人他们,还有我们才能够相信。
この方は、私たちの罪も、悲しみも苦しみも担ってくださる、どんな時も、私たちの側に立ってくださる、そのような救い主だ。
这个人正是,担当我们的罪和悲苦,无论何时,都与我们同在的救世主。
そして、このような場所だからこそ、誰でも救い主に近づくことができます。
而正是因为这样的地方,谁都可以靠近救世主。
もしこれが、普通の家だったり、宿屋だったり、もしかしてお城のような場所だったりすれば、どうでしょうか。
如果是普通的人家,客栈,又或者是城堡那样的地方,会怎样呢?
誰も近づくことはできません。
谁都无法靠近。
まして、羊飼いというのは、当時の社会の最も下に位置付けられていた人たちです。
况且,牧羊人在当时是社会地位最低下的人。
彼らには戸籍がありませんでした。
他们连户口都没有。
だから、ローマの皇帝が住民登録を命じたのに、彼らは先祖の町に行こうともしないんですね。
因此,虽然罗马皇帝下令要户口登记,他们却没有回祖先的住地。
いつも通り仕事をしているんです。
而是和平常一样工作。
イエス様が馬小屋以外の場所でお生まれになられたとしたら、そんな人たちが、イエス様に近づくことができるでしょうか。
如果耶稣在马圈之外的地方出生的话,那些人能靠近耶稣吗?
馬小屋だからこそ、誰でも近づくことができるのです。
正因为是马圈,谁都可以靠近。
イエス様の救いからは、誰も漏れることはないんですね。
耶稣的救恩不会遗漏任何人。
救い主は徹底して私たちの側に立ってくださるんです。
救世主是完完全全与我们同在。
私たちの罪も、悲しみも苦しみも担ってくださり、どんな人でもご自分のそばに招いてくださるんです。
担当我们的罪及悲苦,不管什么人都呼召到自己的身边。
救い主が、神の子が、私たちと同じ人間として生まれてきてくださるということ、それだけでももう十分に私たちの側に立っていてくださることなんですけれども、ここまで身を低くして、私たちの側に回ってくださったんです。
救世主,神子,与我们一样作为人降生,只是这就已经足够能与我们同在了,但是却如此降低身份,环绕在我们的身边。
羊飼いたちは、その御心が分かったんじゃないですか。
牧羊人明白了神的心意,不是吗?
だから、どうしてこんなところに、とは言わずに、素直に大喜びしたんじゃないですか。
因此,没有说为什么是这样的地方,而是发自内心的大欢喜,不是吗?
そして、その時、神の言葉が実現する時、神の言葉が実現して、私たちが喜びに満たされる時、私たちは変えられるんですね。
而当神的话应验的时候,神的话应验我们充满喜乐的时候,我们就会改变。
17節で、羊飼いたちは天使が話してくれたことを人々に知らせていますよね。
17节,牧羊的人把天使说的话向人们传开了。
証人だったということです。
就是做证人。
けれども、それで終わりではないんですね。
不止如此。
羊飼いたちは最後、神をあがめ、賛美しながら帰っていくんです。
他们最后称颂赞美神,回去了。
賛美する者に変えられる。
变成了赞美的人。
神に感謝し、神をほめたたえるようにされる。
变得会感谢赞美神。
神様は、私たちが最終的に、喜びにあふれて賛美するようになることを望んでおられるんですね。
神希望我们最终可以充满喜乐地赞美。
それが神様の望みなんです。
这是神希望的。
だってそうじゃないですか。
不是吗?
神様は、人には前もって何も知らせずに、人を救うご計画を進めることもできます。
神可以事先什么都不通知人,进行救赎计划。
それでも、何の問題もありません。
即使这样也完全没有问题。
けれども神様は、人と心を一つにすることを望んでおられるんですね。
但是,神希望与人同心合一。
神様は、人が喜びに満たされて賛美するようになることを望んでおられる。
神希望人能充满喜乐地赞美。
そのようにして、人と心を一つにすることを望んでおられる。
希望这样与人同心合一。
だから、御言葉を与えてくださるんですね。
因此,有神的话语临到。
マリアに対しても、ザカリアに対しても。
对马利亚也好,对撒迦利亚也好。
神さまはご自分のなさることを御言葉で知らせてくださるんですね。
神把自己要行的事通过话语让他们知晓。
それは、人が喜びに満たされて賛美するようになるためにです。
这是为了让人能充满喜乐地赞美。
マリアもザカリアも神さまを賛美しました。
玛利亚也好撒迦利亚也好都赞美了神。
神の言葉が実現する時、人は賛美する者に変えられるんですね。
神的话语应验的时候,人就会变成赞美者。
今回は、羊飼いたちが賛美することになりました。
这次是牧羊的人他们在赞美。
それは、私たちもです。
我们也是。
神さまの言葉が実現していくことで、人が救いに入れられていく。
神的话会应验,人会被救赎。
そして、心から喜んで神さまをほめたたえるようになっていく。
而后发自内心地喜乐赞美神。
私たちが礼拝の中でしている賛美も、そういうものですね。
我们在礼拜时的赞美也是如此。
だから私たちも、もう、ただの証人ではないんです。
因此我们已经不单单是见证人了。
それを通り越して、賛美する者なんです。
已经超越成了赞美者了。
私たちはみんな、この羊飼いであり、マリアであり、ザカリアなんです。
我们是牧羊的人,是玛利亚,也是撒迦利亚。
賛美した後、羊飼いたちは帰っていきました。
赞美之后,牧羊的人回去了。
現実に帰っていくんですね。
回到了现实生活中。
しかし、仕事場から勝手に離れた羊飼いですよ。
可是,他们是擅离职守的牧羊人。
雇い主はこの羊飼いたちをクビにするかもしれませんね。
雇主可能会解雇他们。
たとえもう一度誰かに雇ってもらえたとしても、休みなしの厳しい労働が待っています。
即使再次被谁雇佣,等待他们的将是全年无休的辛苦工作。
世間の人たちの視線も冷たいものだったことでしょう。
世人的目光也是一样的冷漠吧。
けれども、羊飼いたちは、それまでと同じ場所に置かれて、同じものを見ても、受け取り方、感じ方はもうまったく変わってしまったと思うんですね。
但是,牧羊的人他们即使身处与之前相同之地,看到相同之事,接受方式,思考方式,我想已经完全不同了。
厳しい現実の中にあっても、賛美にあふれて生きていったんだと思うんですね。
即使是在残酷的现实中,我想他们也是满了赞美地活着。
その日から、新しい生活をスタートさせていったんだと思います。
我想从那天起,他们开启了崭新的生活。
救いに入れられているからです。
因为救恩在他们的里面。
そして、神と心を一つにしているからです。
因为与神同心合一。
私たちもそのようであっていいんです。
我们也可以这样。
救いは、この私たちにおいて実現している。
救恩也应验在我们身上。
私たちのための救い主が、私たちのところに来てくださった。
为我们而生的救主,来到了我们这里。
だから、私たちはこの礼拝に自分からやってきたんだし、礼拝の中で賛美をしている。
因此,我们各自来这里礼拜,并在礼拜中赞美。
私たちも、神と心を一つにしている。
我们也与神同心合一。
羊飼いたちと私たちには、何の違いもありません。
牧羊人和我们没有任何区别。
賛美しながら、それぞれの現実に帰っていきましょう。
一边赞美一边回到各自的实际生活中去吧。
そこでも、神を賛美しましょう。
在那里也要赞美神。
神はいつも、私たちの側におられるからです。
因为神永远与我们同在。
私たちがどんな悲しみ苦しみにあっても、神様は必ず、私たちを抱きしめてくださるからです。
因为无论我们如何悲苦,神一定会紧紧地拥抱我们。
賛美しましょう。
赞美吧。
そして、羊飼いたちがそうしたように、このクリスマスから、新しい生活をスタートさせていきましょう。
并且,像牧羊人那样,从圣诞开始,让我们开启新的生活。