「光の子として歩みなさい」
新約聖書・エフェソの信徒への手紙5章8節
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
「光の子として歩みなさい」と言われています。
私たちは「光の子」だということですね。
しかし、そう言われても、……という感じですね。
私たちが光の子だということは、私たちには暗闇がないということなんでしょうか。
暗闇に光を当てると暗闇は消えます。
光の子ということは、心に暗闇がないということなんでしょうか。
しかし、実際のところ、聖書も言っているとおり、私たちには罪があるんですよね。
神に背くことがあるわけです。
時には、従っているつもりで背いていることもあります。
人を傷つけることだってあります。
もっと言うと、多くの場合は知らずに傷つけているんじゃないでしょうかね。
そうなると、私たちは「光の子」と言えるのでしょうか。
私たちの中に光はあるかもしれないけれども、光が届かない暗闇の部分もあるというのが正直なところですよね。
しかし、あなたがたは「光となっている」と今日の聖書は語ります。
実際に、今現在そうなんだ、という感じですよね。
どうしてそう言えるのでしょうか。
「主に結ばれて」いるからだ、と書かれています。
「主に結ばれて」いるという言葉は、洗礼のことを指しています。
洗礼を受けることは、主に結ばれることなんですね。
洗礼という言葉は、「洗う」という字を書きますね。
罪を洗い清めることが洗礼です。
しかし、イエス様も言っている通り、罪はいつも私たちに忍び寄ってくるものです。
足元からはい上がってくるものなんですね。
だから、イエス様は弟子の足を洗ってくださるんです。
また、聖書は、人間にはそもそも神に背く性質があると言います。
体の汚れを洗い落としても、何日かすると垢が出てくるようなものであると言えるでしょうか。
しかし、洗礼というのはその時一回洗い清めるというだけのことではないんです。
洗礼を受けることはまさに、キリストに結ばれることなんです。
どうしてかと言いますと、この「洗礼」という言葉です。
「洗礼」と聞くと、何か特別な専門用語のようにも聞こえますが、この言葉は原文で見ますと、「全部浸かる」というくらいの言葉です。
別に専門用語みたいな難しい言葉ではないんですね。
この言葉は、例えば船が沈没した時にもつかわれる言葉です。
船が沈没して、全部水の中に浸かってしまうことを現わすこともある言葉なんですね。
また、お酒を飲みすぎて酔いつぶれてしまったような時にもつかわれます。
そして、洗礼を受ける時には水に浸かるということをしますね。
イエス様の時代には、川などで全身を水に浸けていました。
やっぱりこれも、「全部浸かる」ということをしたんですね。
ただ、水に全部浸かるということは、聖書的にはどういうことになるでしょうか。
聖書にノアの箱舟の物語がありますよね。
大雨で大洪水が起こって、地上のすべてが水に浸かったという物語です。
箱舟に乗っていたノアの家族と生き物たち以外、全部死んでしまったんでした。
ですから、聖書では水というのは死を意味することがあるんですね。
洗礼というのも、死なんです。
罪に対して死ぬんです。
ただ、それで終わりではありませんでして、川に全身浸かって、一度は死ぬわけですが、そこから上がってくるわけですよね。
これ、復活ということなんです。
そこから、キリストに生かされていくということですね。
洗礼というのは死と復活なんです。
キリストの十字架と復活に重なることなんですね。
だから洗礼は、キリストに結ばれることなんです。
そして、キリストは光ですよね。
キリストは暗闇を照らす光だと聖書は言います。
だから、私たちも光なんです。
私たち自身がではなくて、キリストが光で、そのキリストに結ばれているから、私たちは光だということなんです。
「以前は暗闇」だったんですよね。
聖書は、この世は暗闇であると言います。
神の目にはそうなんですね。
まあ、言われなくてもそうだなとお思いになるかもしれません。
この世が暗闇であるということは、光が届いていないということになります。
しかし、そこに光が届けば暗闇ではなくなりますね。
それがクリスマスの出来事です。
光であるキリストが、この世に、私たちのところに来てくださったんですね。
暗闇の世の中に光がともったんです。
それも、キリストがお生まれになられたのは夜ですね。
まさに暗闇に光が与えられた出来事だったんです。
まだまだ光の届かない暗闇は地上にあります。
しかし、少なくとも、キリストを受け入れて洗礼を受けた人の中には光がともっています。
その私たちに、「光の子として歩みなさい」と言われているんです。
こういうふうに言われるということは、光の子であっても、この世の暗闇になじんでしまって、自分から光から離れてしまうことがあるということでしょうね。
自分がキリストと結ばれているという事実を忘れて、キリストから離れて行ってしまうことがあるということです。
そうならないように、ということで、「光の子として歩みなさい」と言われているんです。
これは気を付けたいところですね。
私たちは目に見えないもののことは忘れがちになることがあります。
目に見えるものに目をひかれてしまいやすいからです。
あるいは、神様と共に生きていこうと決心しても、人間関係で余裕がなくなったり、経済的に余裕がなくなったりすると、せっかく与えられた光を忘れてしまうことがあります。
暗闇に取り込まれてしまうようなことが後から起こってくることがあります。
そういうことというのも、誰にでもあることです。
だから、言われているんですね。
自分が光の子であることを自覚しなさい。
あなたは以前のあなたとは違う。
かつては暗闇だったが、今は光だ。
そのことをはっきり言うんです。
目には見えない神の光があなたを照らしている。
目には見えない神の光が、あなたの中にともっている。
目には見えないとは言っても、それは、目に見える太陽の光よりも弱いということではありません。
太陽の光は毎日輝いていますけれども、神の目にはこの世は暗闇なんです。
しかし、神の光に結ばれるなら、この世の暗闇の中でも、私たちは光の子として生きていくことができると言われているんです。
この世の暗闇にとっては太陽の光なんて問題ではありません。
太陽の光はこの世の暗闇をどうすることもできません。
しかし、この世の暗闇は神の光には敵いません。
自分自身が、そのような神の光に結ばれていることに心を向けましょう。
私たちが光の子であるということにいつも心を向ける必要があります。
何しろ、私たちが置かれているこの世は暗闇なんです。
そのことにも心を向けるべきでしょうね。
だからこそ、光に結ばれなくては、私たちは正しく歩くことができないということなんです。
光に結ばれていなくては、私たちはいつか、暗闇に取り込まれてしまう。
ただこれは、必要以上に気にすることもないとも言えます。
私たち自身が光を放つようになりなさいとは言われていないんですね。
光であるキリストが、私たちのところにもう来てくださっている。
暗闇の中で右往左往している私たち、暗闇の中で道に迷っているのに、そのことに気づきもしないでいた私たちを放っておけなくて、イエス様が私たちのところに来てくださった。
神様は私たちを放っておけない。
どうしたって私たちをあきらめられない。
それくらい、言葉で言い表すことができないくらいに、私たちのことを愛している。
たとえ暗闇の中でも私たちと一緒にいたいと心から願っておられる。
だから、私たちのところに来てくださった。
私たちに対する愛が神様のすべてなんですね。
だから、私たちが神に結ばれて、私たち自身が神の光となる道を開いてくださったんです。
現に、私たちは神の光です。
光に結ばれて、光になっているんです。
神の目には、それが事実です。
それが神の現実なんです。
その神の現実を生きていきましょう。
私たちが人の現実を超えて神の現実を生きていくようにと、今、神様は光の中で私たちに語りかけておられるんです。
光の子として歩みなさい
新約聖書・エフェソの信徒への手紙5章8節
新约圣经・以弗所书5章8节
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
从前你们是暗昧的,但如今在主里面是光明的,行事为人就当像光明的子女。
「光の子として歩みなさい」と言われています。
经上说“行事为人当像光明的子女。”
私たちは「光の子」だということですね。
也就是说我们是“光明的子女”。
しかし、そう言われても、……という感じですね。
可是即使这么说,也会觉得有点……。
私たちが光の子だということは、私たちには暗闇がないということなんでしょうか。
我们是光明的子女的话,就是说我们没有暗昧是吗?
暗闇に光を当てると暗闇は消えます。
黑暗一遇到光就消失。
光の子ということは、心に暗闇がないということなんでしょうか。
光明的子女的话,心里面就没有黑暗是这个意思吗?
しかし、実際のところ、聖書も言っているとおり、私たちには罪があるんですよね。
可是,实际上,正如圣经上说的,我们是有罪的。
神に背くことがあるわけです。
因为我们背弃神。
時には、従っているつもりで背いていることもあります。
也有时候想着要跟随的却背离了。
人を傷つけることだってあります。
会有伤害人的时候。
もっと言うと、多くの場合は知らずに傷つけているんじゃないでしょうかね。
甚至可以说,很多情况下是在无意识中伤害的对吧?
そうなると、私たちは「光の子」と言えるのでしょうか。
这样的话,我们能称为“光明的子女”吗?
私たちの中に光はあるかもしれないけれども、光が届かない暗闇の部分もあるというのが正直なところですよね。
我们的里面或许是有光,但是也有光照不到的暗黑之地,这是事实吧。
しかし、あなたがたは「光となっている」と今日の聖書は語ります。
可是,今天的经文说你们“是光明的”。
実際に、今現在そうなんだ、という感じですよね。
事实上,现在就是,是这么觉得的吧。
どうしてそう言えるのでしょうか。
为什么这么说呢?
「主に結ばれて」いるからだ、と書かれています。
因为经上写着“与主相连”。
「主に結ばれて」いるという言葉は、洗礼のことを指しています。
“与主相连”指的是洗礼。
洗礼を受けることは、主に結ばれることなんですね。
受洗礼就是与主相连。
洗礼という言葉は、「洗う」という字を書きますね。
洗礼一词写作“清洗”。
罪を洗い清めることが洗礼です。
洗清罪恶就是洗礼。
しかし、イエス様も言っている通り、罪はいつも私たちに忍び寄ってくるものです。
可是,正如耶稣也说,罪总会偷偷靠近我们。
足元からはい上がってくるものなんですね。
从我们的脚底爬上来。
だから、イエス様は弟子の足を洗ってくださるんです。
所以,耶稣为门徒洗脚。
また、聖書は、人間にはそもそも神に背く性質があると言います。
另外圣经上说人类最初就有背弃神的本性。
体の汚れを洗い落としても、何日かすると垢が出てくるようなものであると言えるでしょうか。
即使洗去了身体的污秽,几天后又会生出污秽来,可以说人就是如此不是吗?
しかし、洗礼というのはその時一回洗い清めるというだけのことではないんです。
可是,所谓洗礼,不是说当时一下就洗干净了。
洗礼を受けることはまさに、キリストに結ばれることなんです。
受了洗礼之后就真的与神联结了。
どうしてかと言いますと、この「洗礼」という言葉です。
要说为什么,这就是洗礼的真谛。
「洗礼」と聞くと、何か特別な専門用語のようにも聞こえますが、この言葉は原文で見ますと、「全部浸かる」というくらいの言葉です。
一听到“洗礼”,可能听起来是什么特别的专用语,但是看原文的话,也就相当于“全部浸泡”这样的意思。
別に専門用語みたいな難しい言葉ではないんですね。
并不是什么特别难的专用语。
この言葉は、例えば船が沈没した時にもつかわれる言葉です。
像船沉没时也用这词。
船が沈没して、全部水の中に浸かってしまうことを現わすこともある言葉なんですね。
表示船沉没了全部浸泡在水中所用的词。
また、お酒を飲みすぎて酔いつぶれてしまったような時にもつかわれます。
另外,在饮酒过量酩酊大醉的时候也会用。
そして、洗礼を受ける時には水に浸かるということをしますね。
而受洗礼时要浸泡在水里。
イエス様の時代には、川などで全身を水に浸けていました。
在耶稣的时代,全身都要浸泡在河里。
やっぱりこれも、「全部浸かる」ということをしたんですね。
显然这也是“全部浸泡”了。
ただ、水に全部浸かるということは、聖書的にはどういうことになるでしょうか。
只是这全部浸泡在水里,在圣经中是指什么呢?
聖書にノアの箱舟の物語がありますよね。
圣经里有挪亚方舟的故事吧。
大雨で大洪水が起こって、地上のすべてが水に浸かったという物語です。
因为大雨引发洪水,地上的一切都浸泡在水里的故事。
箱舟に乗っていたノアの家族と生き物たち以外、全部死んでしまったんでした。
除了进入方舟的挪亚的家人和那些活物之外,全部都死了。
ですから、聖書では水というのは死を意味することがあるんですね。
因此,在圣经中水有死的意思。
洗礼というのも、死なんです。
洗礼的话也是死。
罪に対して死ぬんです。
对罪而言是死了。
ただ、それで終わりではありませんでして、川に全身浸かって、一度は死ぬわけですが、そこから上がってくるわけですよね。
不过,没有就此结束,全身浸在河里,虽然一度死去,但是又从那里上来了。
これ、復活ということなんです。
这就是复活。
そこから、キリストに生かされていくということですね。
从此,将活在基督里。
洗礼というのは死と復活なんです。
所谓洗礼就是死且复活。
キリストの十字架と復活に重なることなんですね。
基督的十字架是和复活重叠的吧。
だから洗礼は、キリストに結ばれることなんです。
因此洗礼是与基督相联结。
そして、キリストは光ですよね。
而且基督是光。
キリストは暗闇を照らす光だと聖書は言います。
经上说基督是照亮黑暗的光。
だから、私たちも光なんです。
因此,我们也是光。
私たち自身がではなくて、キリストが光で、そのキリストに結ばれているから、私たちは光だということなんです。
我们自己并不是光,基督是光,因为与基督相连,我们也成了光。
「以前は暗闇」だったんですよね。
“从前是暗昧的”。
聖書は、この世は暗闇であると言います。
圣经说这世间是黑暗的。
神の目にはそうなんですね。
在神的眼里是这样的。
まあ、言われなくてもそうだなとお思いになるかもしれません。
即使圣经上不这么说或许我们也会这么觉得吧。
この世が暗闇であるということは、光が届いていないということになります。
世间是黑暗的,也就是说光没有照到。
しかし、そこに光が届けば暗闇ではなくなりますね。
可要是光能照到的话就不再是黑暗了吧。
それがクリスマスの出来事です。
于是就有了圣诞。
光であるキリストが、この世に、私たちのところに来てくださったんですね。
光之基督来到了这个世界,来到了我们这里。
暗闇の世の中に光がともったんです。
光点亮在黑暗的人世间。
それも、キリストがお生まれになられたのは夜ですね。
并且,基督出生也是在夜间。
まさに暗闇に光が与えられた出来事だったんです。
真的是在黑暗中注入光。
まだまだ光の届かない暗闇は地上にあります。
地上依然还有光没有照到的地方。
しかし、少なくとも、キリストを受け入れて洗礼を受けた人の中には光がともっています。
可是,至少,光照亮在接受基督并受洗的人的里面。
その私たちに、「光の子として歩みなさい」と言われているんです。
并对我们这些人说“行事为人当像光明的子女”。
こういうふうに言われるということは、光の子であっても、この世の暗闇になじんでしまって、自分から光から離れてしまうことがあるということでしょうね。
之所以被这么说,是因为即使是光明的子女,也可能会融入这世间的黑暗,自己主动远离光明。
自分がキリストと結ばれているという事実を忘れて、キリストから離れて行ってしまうことがあるということです。
忘记自己与基督相联结的事实,时而会远离基督。
そうならないように、ということで、「光の子として歩みなさい」と言われているんです。
为了不让我们变成那样,告诉我们“行事为人当像光明的子女”。
これは気を付けたいところですね。
这点要注意。
私たちは目に見えないもののことは忘れがちになることがあります。
我们往往容易忘记眼睛看不见的东西。
目に見えるものに目をひかれてしまいやすいからです。
因为容易被眼睛看得到的东西所吸引。
あるいは、神様と共に生きていこうと決心しても、人間関係で余裕がなくなったり、経済的に余裕がなくなったりすると、せっかく与えられた光を忘れてしまうことがあります。
又或者即使决定了要与神同行,一旦人际关系紧张了,经济不宽裕了,可能就把好不容易得来的光明给忘了。
暗闇に取り込まれてしまうようなことが後から起こってくることがあります。
之后又被黑暗给笼罩了,这样的事时有发生。
そういうことというのも、誰にでもあることです。
谁都会有这样的事。
だから、言われているんですね。
所以这样说。
自分が光の子であることを自覚しなさい。
要自觉意识到自己是光明的子女。
あなたは以前のあなたとは違う。
和之前的你是不一样的。
かつては暗闇だったが、今は光だ。
以前是黑暗,而现在是光明。
そのことをはっきり言うんです。
说得很清楚。
目には見えない神の光があなたを照らしている。
眼目所不能见的神的光照耀着你。
目には見えない神の光が、あなたの中にともっている。
眼目所不能见的神的光,点亮在你的里面。
目には見えないとは言っても、それは、目に見える太陽の光よりも弱いということではありません。
虽说眼目不能见,但并不比眼目所能见的太阳光弱。
太陽の光は毎日輝いていますけれども、神の目にはこの世は暗闇なんです。
太阳光虽然每天都光辉灿烂,但是在神眼里世间是黑暗的。
しかし、神の光に結ばれるなら、この世の暗闇の中でも、私たちは光の子として生きていくことができると言われているんです。
可是与神联结的话,即使处在俗世的黑暗里,我们也能作为光明的子女活下去,是这么说的。
この世の暗闇にとっては太陽の光なんて問題ではありません。
对于世间的黑暗来说,太阳光之类的完全不是问题。
太陽の光はこの世の暗闇をどうすることもできません。
太阳光对世间的黑暗无能为力。
しかし、この世の暗闇は神の光には敵いません。
可是,世间的黑暗敌不过神的光。
自分自身が、そのような神の光に結ばれていることに心を向けましょう。
与这样的神之光相联结这事,我们自身要打心底里倾心向往。
私たちが光の子であるということにいつも心を向ける必要があります。
我们是光明的子女这事有必要一直记挂在心里。
何しろ、私たちが置かれているこの世は暗闇なんです。
因为我们所在的世间是黑暗的。
そのことにも心を向けるべきでしょうね。
这事也应该要留心。
だからこそ、光に結ばれなくては、私たちは正しく歩くことができないということなんです。
正因为如此,不与光联结,我们就不能正确行事。
光に結ばれていなくては、私たちはいつか、暗闇に取り込まれてしまう。
不与光联结,我们总有一天会被黑暗吞没。
ただこれは、必要以上に気にすることもないとも言えます。
不过也可以说没有必要过分在意。
私たち自身が光を放つようになりなさいとは言われていないんですね。
没有说我们自己要散发光。
光であるキリストが、私たちのところにもう来てくださっている。
光之基督已经来到了我们这里。
暗闇の中で右往左往している私たち、暗闇の中で道に迷っているのに、そのことに気づきもしないでいた私たちを放っておけなくて、イエス様が私たちのところに来てくださった。
在黑暗中东跑西窜的我们,虽然在黑暗中迷了路,甚至都没有意识到,但耶稣并没有把我们放在一边,而是来到了我们这里。
神様は私たちを放っておけない。
神没有把我们放在一边。
どうしたって私たちをあきらめられない。
无论如何都不放弃我们。
それくらい、言葉で言い表すことができないくらいに、私たちのことを愛している。
如此这般,言语都难以表达,这般爱着我们。
たとえ暗闇の中でも私たちと一緒にいたいと心から願っておられる。
即便在黑暗中,内心也希望和我们在一起。
だから、私たちのところに来てくださった。
所以来到了我们这里。
私たちに対する愛が神様のすべてなんですね。
爱我们是神的全部。
だから、私たちが神に結ばれて、私たち自身が神の光となる道を開いてくださったんです。
因此,我们与神联结,也打开了我们自己成为神之光的道路。
現に、私たちは神の光です。
现在我们是神的光。
光に結ばれて、光になっているんです。
与光相连,便成了光。
神の目には、それが事実です。
在神眼里这就是事实。
それが神の現実なんです。
这就是神的真实。
その神の現実を生きていきましょう。
活出神的真实吧。
私たちが人の現実を超えて神の現実を生きていくようにと、今、神様は光の中で私たちに語りかけておられるんです。
现在神正在对处于光明中的我们说,要超越人的现实,活出神的真实来。