今週の説教「光の子として歩みなさい」(新約聖書・エフェソの信徒への手紙5章8節)

「光の子として歩みなさい」

 

新約聖書・エフェソの信徒への手紙58

 

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。

 

 

 

 

 

「光の子として歩みなさい」と言われています。

 

私たちは「光の子」だということですね。

 

しかし、そう言われても、……という感じですね。

 

私たちが光の子だということは、私たちには暗闇がないということなんでしょうか。

 

暗闇に光を当てると暗闇は消えます。

 

光の子ということは、心に暗闇がないということなんでしょうか。

 

しかし、実際のところ、聖書も言っているとおり、私たちには罪があるんですよね。

 

神に背くことがあるわけです。

 

時には、従っているつもりで背いていることもあります。

 

人を傷つけることだってあります。

 

もっと言うと、多くの場合は知らずに傷つけているんじゃないでしょうかね。

 

そうなると、私たちは「光の子」と言えるのでしょうか。

 

私たちの中に光はあるかもしれないけれども、光が届かない暗闇の部分もあるというのが正直なところですよね。

 

しかし、あなたがたは「光となっている」と今日の聖書は語ります。

 

実際に、今現在そうなんだ、という感じですよね。

 

どうしてそう言えるのでしょうか。

 

「主に結ばれて」いるからだ、と書かれています。

 

「主に結ばれて」いるという言葉は、洗礼のことを指しています。

 

洗礼を受けることは、主に結ばれることなんですね。

 

洗礼という言葉は、「洗う」という字を書きますね。

 

罪を洗い清めることが洗礼です。

 

しかし、イエス様も言っている通り、罪はいつも私たちに忍び寄ってくるものです。

 

足元からはい上がってくるものなんですね。

 

だから、イエス様は弟子の足を洗ってくださるんです。

 

また、聖書は、人間にはそもそも神に背く性質があると言います。

 

体の汚れを洗い落としても、何日かすると垢が出てくるようなものであると言えるでしょうか。

 

しかし、洗礼というのはその時一回洗い清めるというだけのことではないんです。

 

洗礼を受けることはまさに、キリストに結ばれることなんです。

 

どうしてかと言いますと、この「洗礼」という言葉です。

 

「洗礼」と聞くと、何か特別な専門用語のようにも聞こえますが、この言葉は原文で見ますと、「全部浸かる」というくらいの言葉です。

 

別に専門用語みたいな難しい言葉ではないんですね。

 

この言葉は、例えば船が沈没した時にもつかわれる言葉です。

 

船が沈没して、全部水の中に浸かってしまうことを現わすこともある言葉なんですね。

 

また、お酒を飲みすぎて酔いつぶれてしまったような時にもつかわれます。

 

そして、洗礼を受ける時には水に浸かるということをしますね。

 

イエス様の時代には、川などで全身を水に浸けていました。

 

やっぱりこれも、「全部浸かる」ということをしたんですね。

 

ただ、水に全部浸かるということは、聖書的にはどういうことになるでしょうか。

 

聖書にノアの箱舟の物語がありますよね。

 

大雨で大洪水が起こって、地上のすべてが水に浸かったという物語です。

 

箱舟に乗っていたノアの家族と生き物たち以外、全部死んでしまったんでした。

 

ですから、聖書では水というのは死を意味することがあるんですね。

 

洗礼というのも、死なんです。

 

罪に対して死ぬんです。

 

ただ、それで終わりではありませんでして、川に全身浸かって、一度は死ぬわけですが、そこから上がってくるわけですよね。

 

これ、復活ということなんです。

 

そこから、キリストに生かされていくということですね。

 

洗礼というのは死と復活なんです。

 

キリストの十字架と復活に重なることなんですね。

 

だから洗礼は、キリストに結ばれることなんです。

 

そして、キリストは光ですよね。

 

キリストは暗闇を照らす光だと聖書は言います。

 

だから、私たちも光なんです。

 

私たち自身がではなくて、キリストが光で、そのキリストに結ばれているから、私たちは光だということなんです。

 

 

 

「以前は暗闇」だったんですよね。

 

聖書は、この世は暗闇であると言います。

 

神の目にはそうなんですね。

 

まあ、言われなくてもそうだなとお思いになるかもしれません。

 

この世が暗闇であるということは、光が届いていないということになります。

 

しかし、そこに光が届けば暗闇ではなくなりますね。

 

それがクリスマスの出来事です。

 

光であるキリストが、この世に、私たちのところに来てくださったんですね。

 

暗闇の世の中に光がともったんです。

 

それも、キリストがお生まれになられたのは夜ですね。

 

まさに暗闇に光が与えられた出来事だったんです。

 

まだまだ光の届かない暗闇は地上にあります。

 

しかし、少なくとも、キリストを受け入れて洗礼を受けた人の中には光がともっています。

 

その私たちに、「光の子として歩みなさい」と言われているんです。

 

こういうふうに言われるということは、光の子であっても、この世の暗闇になじんでしまって、自分から光から離れてしまうことがあるということでしょうね。

 

自分がキリストと結ばれているという事実を忘れて、キリストから離れて行ってしまうことがあるということです。

 

そうならないように、ということで、「光の子として歩みなさい」と言われているんです。

 

これは気を付けたいところですね。

 

私たちは目に見えないもののことは忘れがちになることがあります。

 

目に見えるものに目をひかれてしまいやすいからです。

 

あるいは、神様と共に生きていこうと決心しても、人間関係で余裕がなくなったり、経済的に余裕がなくなったりすると、せっかく与えられた光を忘れてしまうことがあります。

 

暗闇に取り込まれてしまうようなことが後から起こってくることがあります。

 

そういうことというのも、誰にでもあることです。

 

だから、言われているんですね。

 

自分が光の子であることを自覚しなさい。

 

あなたは以前のあなたとは違う。

 

かつては暗闇だったが、今は光だ。

 

そのことをはっきり言うんです。

 

目には見えない神の光があなたを照らしている。

 

目には見えない神の光が、あなたの中にともっている。

 

目には見えないとは言っても、それは、目に見える太陽の光よりも弱いということではありません。

 

太陽の光は毎日輝いていますけれども、神の目にはこの世は暗闇なんです。

 

しかし、神の光に結ばれるなら、この世の暗闇の中でも、私たちは光の子として生きていくことができると言われているんです。

 

この世の暗闇にとっては太陽の光なんて問題ではありません。

 

太陽の光はこの世の暗闇をどうすることもできません。

 

しかし、この世の暗闇は神の光には敵いません。

 

自分自身が、そのような神の光に結ばれていることに心を向けましょう。

 

私たちが光の子であるということにいつも心を向ける必要があります。

 

何しろ、私たちが置かれているこの世は暗闇なんです。

 

そのことにも心を向けるべきでしょうね。

 

だからこそ、光に結ばれなくては、私たちは正しく歩くことができないということなんです。

 

光に結ばれていなくては、私たちはいつか、暗闇に取り込まれてしまう。

 

ただこれは、必要以上に気にすることもないとも言えます。

 

私たち自身が光を放つようになりなさいとは言われていないんですね。

 

光であるキリストが、私たちのところにもう来てくださっている。

 

暗闇の中で右往左往している私たち、暗闇の中で道に迷っているのに、そのことに気づきもしないでいた私たちを放っておけなくて、イエス様が私たちのところに来てくださった。

 

神様は私たちを放っておけない。

 

どうしたって私たちをあきらめられない。

 

それくらい、言葉で言い表すことができないくらいに、私たちのことを愛している。

 

たとえ暗闇の中でも私たちと一緒にいたいと心から願っておられる。

 

だから、私たちのところに来てくださった。

 

私たちに対する愛が神様のすべてなんですね。

 

だから、私たちが神に結ばれて、私たち自身が神の光となる道を開いてくださったんです。

 

現に、私たちは神の光です。

 

光に結ばれて、光になっているんです。

 

神の目には、それが事実です。

 

それが神の現実なんです。

 

その神の現実を生きていきましょう。

 

私たちが人の現実を超えて神の現実を生きていくようにと、今、神様は光の中で私たちに語りかけておられるんです。