マタイによる福音書5章33節から37節
33「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
今日のイエス様のお話は、誓うということについてですね。
皆さんは誓うということをしたことがありますでしょうか。
これは大人の方々は多くの人がしたことがあるのではないかと思いますね。
多くの場合、この世で職業に就く場合、誓約をして職業に就く、ということがあるのではないかと思います。
しかし、今日イエス様は、「一切誓いを立ててはならない」とおっしゃるんですね。
そうなりますと、昔自分が誓ったことはどうなってしまうんだろうか、と思ってしまいます。
そこでよく読んでみますと、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」ということですね。
これは聖書の専門家たちの教えだったんですが、聖書の専門家たちは、偽りの誓いを立てるな、誓ったことは必ず果たせ、と教えていたんです。
まあそれはそうですね。
偽りの誓いなんて、もちろんダメなことですし、神である「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのも、もちろんそうしたいわけです。
ただ、そういう、この時代の人たちが皆聞いていた話を取り上げて、その上でイエス様は、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」とおっしゃるんですね。
これは一体どういうことでしょうか。
誓ったことをもし守れなかったら大変だから、誓わないでおいた方がよい、ということなんでしょうか。
そういうことなんだったら、まあそうかもと思いますね。
しかしこれは、そういうことではないらしいのです。
37節を見ますと、イエス様は、あなたがたはこうしなさいと言っていますね。
「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」。
然りというのは正しいという意味です。
否というのはもちろん、間違っているということですね。
正しい、正しい、間違っている、間違っている。
これでは意味が分かりません。
けれどもこれは、聖書の他の箇所を見ると分かるんですね。
ヤコブの手紙第5章12節に、こういう言葉があります。
「あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい」。
然りは然りとする。
否は否とする。
正しいことには正しいと言う。
間違っていることには間違っていると言う。
つまり、あなたがたの言葉がいつも真実であるようにしなさいということをイエス様は言ったんですね。
誓いを立てているかどうかに関係なく、いつも、真実を語りなさい。
どんな時でも言葉に偽りがあってはならない。
イエス様がおっしゃったことはそういうことです。
聖書の専門家たちは、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と教えていました。
イエス様は別に、それを否定しているわけではないですね。
ただ、イエス様がここで言っているのは、この言葉にある神の御心はもっと深いものだということなんです。
いつも真実の言葉を語りなさい。
偽りの誓いを立てないことは大事だけれども、偽りの誓いを立てなければそれでいいというものではないんだよ。
誓ったことだけ果たしたらそれでいいというものではないんだよ。
そういうことをイエス様はおっしゃっているんです。
ルールみたいな言葉を聞きますと、私たちは、守れていれば良い、守れなかったらダメだ、とそれしか考えなくなってしまうことがありますね。
イエス様がそんな私たちに言っているのは、神の言葉はそのように読むものではないということなんです。
表面的に読んでいるだけではいけないよ、ということですね。
言葉の奥にある神の御心を理解しなさいということです。
イエス様は、聖書の正しい読み方を教えてくださっているんですね。
ただここで、困ったことがありまして、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という言葉は聖書にないんですね。
しかし、この言葉の元になった言葉はあります。
ある言葉が元になって、「偽りの誓いを立てるな」という言葉が出てきたんですね。
ではその元になった言葉は何だったのかと言いますと、出エジプト記20章7節です。
出エジプト記の20章にはいわゆるモーセの十戒が書かれているんですけれども、十戒の三つ目に、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。
これが元になって、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という教えができてきたんです。
しかし、そう言われても、という感じですね。
内容がちょっと違ってしまっているような感じです。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」というのと、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのは話が違ってしまっているような感じです。
ただここで考えてみますと、そもそも、神の名をみだりに唱えるとはどういうことでしょうか。
みだりに、というのは、乱用するということですね。
つまり、神の名を自分勝手に利用することです。
それが、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」ということですね。
神を自分勝手に利用するな、と。
これはどういうことなのかと言いますと、誰かが何かを言った後で、「私の言葉は真実です。神が私を通して語っておられるんです。これが神様の御心なんです」と言ったとしたらどうでしょうか。
聞いている側としては反対しにくくなりますね。
しかしそれは神を自分勝手に利用することになりかねないわけです。
ただ単に自分の意見なのに、そこに神の名を持ち出してくるということになるかもしれないわけですね。
そんなことはするな、と言われているんです。
そこで、「偽りの誓いを立てるな」ということを考えてみますと、偽りの誓いというのは、そうするつもりがないのに、神を持ち出す、神にかけて誓うということですね。
やっぱり、神を自分勝手に利用することです。
結果として偽りになってしまった、結果として誓いを果たせなかったということはあるかもしれないですね。
それは別なんです。
自分勝手に利用したわけではないからです。
要するに、その人の心の問題なんですね。
神を利用しようという心があるかどうか。
神を持ち出して、相手が反対できないようにしてやろう、相手を黙らせてやろうという気持ちがあるかどうかが問われているんですね。
実際、神を簡単に持ち出すのは良くないと思いますね。
私たちは聖書を通して神を知るのですが、ある御言葉があったとして、けれども、また別のページには、表面的に読んだらその正反対の御言葉もあるわけなんです。
表面的に読んでいたのでは理解できないですね。
掘り下げて深めて読んで、神の御心に触れることが大事です。
イエス様がそうしておられるように、聖書を読む必要があります。
とにかく、神を自分勝手に利用するな、というのが今日の話です。
ただここで、イエス様は、「一切誓いを立ててはならない」と言っているんですね。
神に誓ってこれはこうだ、神に誓って真実だ、という言い方を一切するなということです。
そして、今日の34節の後半から36節にかけては、「これこれのものにかけて誓ってはならない」と繰り返し言われています。
天にかけても、地にかけても、エルサレムにかけても、自分の頭にかけても誓うなということですね。
とにかくどのような事であれ、誓いを立てるなということになります。
イエス様の時代には、誓う時には、神にかけて誓ったんでした。
神にかけて誓うのが恐れ多いという時には、天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、自分の頭にかけて誓ったんですね。
しかし、イエス様は言うんです。
天は神の玉座である。
だから、天にかけて誓うのは、神にかけて誓うのと同じだ。
神を持ち出して、自分の言葉が真実だと人に聞かせようという考え方をしているのなら、それがそもそも間違っている。
たとえその言葉が真実だとしても、神を持ち出すな、神を利用するな、ということですね。
地にかけて誓うな、というのも同じですね。
地は神の足台であるから。
エルサレムにかけて、というのも、「大王の都」であると言われていますが、これは、「大王である神の都」であるということです。
自分の頭にかけて誓うな、というのも、「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」、つまり、あなたの頭も神のもの、神が作り、保っておられるものであるから、それにかけて誓うな、ということです。
そうなるともう、何かにかけて誓うということはできないですね。
何にかけて誓っても、神にかけて誓ったことになるからです。
そして、こうなってくるともう、誓うとか誓わないとかいう話ではないんですね。
私たちがどこで何を言ったとしても、それは全て神の前での言葉です。
神の前でない場所はどこにもないということなんです。
だから、「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさいということになるんですね。
いつも自分の口で真実を語りなさい。
いつも神の御前に立っているつもりでいなさい。
もちろん、結果として自分が言ったことが後から間違っていたと分かるようなことはある。
それは問題ではない。
今日言われているのは、神を利用しない、ということだから。
そして、それを守れていればセーフということではなくて、もっと積極的に、神の前に立って真実を語っていきなさいということを、イエス様は教えておられるんです。
だから、教会では、誓約ということをするんですね。
神の前に誓うということをします。
していいんですよ。
それは神を利用しているのではないからです。
神の前に立つ者として、自分の口で真実を語っていく、その一つとして、誓約ということがあるんです。
私たちがそうする時、神様は喜んでおられると思いますよ。
神の前に心から誓っているんだから。
これからも、神の前に立つ者として、自分の口で真実を語っていきましょう。
そして、そのような気持ちというのが、神を利用する思いから一番遠いんだと思います。
そして、私たちのそのような思いを神様は喜んでくださって、私たちがそのように生きることができるように、力を与えてくださるに違いないと思うのです。
誓ってはならない
不可起誓
マタイによる福音書5章33節から37節
马太福音5章33-37节
33「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
“你们又听见有吩咐古人的话,说:‘不可背誓,所起的誓,总要向主谨守。’只是我告诉你们,什么誓都不可起。不可指着天起誓,因为天是神的座位;不可指着地起誓,因为地是他的脚凳;也不可指着耶路撒冷起誓,因为耶路撒冷是大君的京城;又不可指着你的头起誓,因为你不能使一根头发变黑变白了。你们的话,是,就说是;不是,就说不是;若再多说,就是出于那恶者。
今日のイエス様のお話は、誓うということについてですね。
今天耶稣的话是关于起誓。
皆さんは誓うということをしたことがありますでしょうか。
大家有发过誓吗?
これは大人の方々は多くの人がしたことがあるのではないかと思いますね。
我想大人们大多数都有过吧?
多くの場合、この世で職業に就く場合、誓約をして職業に就く、ということがあるのではないかと思います。
大多数情况下,社会上就业的话会有宣誓就职不是吗?
しかし、今日イエス様は、「一切誓いを立ててはならない」とおっしゃるんですね。
可是,今天耶稣说“什么誓都不可起”。
そうなりますと、昔自分が誓ったことはどうなってしまうんだろうか、と思ってしまいます。
要是这样的话,会想那以前发过誓又会怎样呢?
そこでよく読んでみますと、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」ということですね。
这里仔细读的话,是说“不可起假誓,向主所起的誓,必须要谨守。”
これは聖書の専門家たちの教えだったんですが、聖書の専門家たちは、偽りの誓いを立てるな、誓ったことは必ず果たせ、と教えていたんです。
这是圣经专家所教导的,他们说不可起假誓,所起的誓必要谨守。
まあそれはそうですね。
确实是如此。
偽りの誓いなんて、もちろんダメなことですし、神である「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのも、もちろんそうしたいわけです。
起假誓自然是不行的,“向主所起的誓,必须要谨守”当然也是想这样做的。
ただ、そういう、この時代の人たちが皆聞いていた話を取り上げて、その上でイエス様は、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」とおっしゃるんですね。
只是,当时的人们接受了所听到的说法,而耶稣却说:“只是我告诉你们,什么誓都不可起。”
これは一体どういうことでしょうか。
这到底是怎么一回事呢?
誓ったことをもし守れなかったら大変だから、誓わないでおいた方がよい、ということなんでしょうか。
所起的誓如果不能遵守的话会很严重,所以还是不要起誓为好,是这个意思吗?
そういうことなんだったら、まあそうかもと思いますね。
或许会想大概是这样吧。
しかしこれは、そういうことではないらしいのです。
可是,好像又不是这样。
37節を見ますと、イエス様は、あなたがたはこうしなさいと言っていますね。
看37节的话,耶稣说你们要这样做。
「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」。
“你们要说,‘是,是’,‘否,否’。”
然りというのは正しいという意味です。
是就是对的意思。
否というのはもちろん、間違っているということですね。
否当然就是错的意思。
正しい、正しい、間違っている、間違っている。
对,对,错,错。
これでは意味が分かりません。
就这的话意思搞不清楚。
けれどもこれは、聖書の他の箇所を見ると分かるんですね。
但是,如果看了圣经的其它地方就明白了。
ヤコブの手紙第5章12節に、こういう言葉があります。
雅各书5章12节,有这样的话。
「あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい」。
“你们说话,是就说是,不是就说不是。”
然りは然りとする。
是就说是。
否は否とする。
不是就说不是。
正しいことには正しいと言う。
对的就说是对的。
間違っていることには間違っていると言う。
错的就说是错的。
つまり、あなたがたの言葉がいつも真実であるようにしなさいということをイエス様は言ったんですね。
也就是说,你们所说的总要真实,耶稣说的是这个。
誓いを立てているかどうかに関係なく、いつも、真実を語りなさい。
起不起誓没有关系,要一直说真话。
どんな時でも言葉に偽りがあってはならない。
无论何时都不能说假话。
イエス様がおっしゃったことはそういうことです。
耶稣说的是这个。
聖書の専門家たちは、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と教えていました。
圣经专家教导说:“不可起假誓,向主所起的誓,必须要谨守。”
イエス様は別に、それを否定しているわけではないですね。
耶稣并没有否定这点。
ただ、イエス様がここで言っているのは、この言葉にある神の御心はもっと深いものだということなんです。
只是,耶稣在这里要说的是在这话里面,神有更深的旨意。
いつも真実の言葉を語りなさい。
总要说真话 。
偽りの誓いを立てないことは大事だけれども、偽りの誓いを立てなければそれでいいというものではないんだよ。
不发假誓固然很重要,但并不是说不起假誓就可以了。
誓ったことだけ果たしたらそれでいいというものではないんだよ。
也不是说只要履行誓言就可以了。
そういうことをイエス様はおっしゃっているんです。
耶稣要说的是这点。
ルールみたいな言葉を聞きますと、私たちは、守れていれば良い、守れなかったらダメだ、とそれしか考えなくなってしまうことがありますね。
一听到规则之类的话,我们会认为遵守就行,不遵守不行,只会这么想。
イエス様がそんな私たちに言っているのは、神の言葉はそのように読むものではないということなんです。
耶稣要对如此思考的我们说的是,神的话语不是这样来解读的。
表面的に読んでいるだけではいけないよ、ということですね。
不能只读表面的。
言葉の奥にある神の御心を理解しなさいということです。
要理解言语深处神的心意。
イエス様は、聖書の正しい読み方を教えてくださっているんですね。
耶稣在教圣经的正确解读方法。
ただここで、困ったことがありまして、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という言葉は聖書にないんですね。
只是在这里有令人困惑的地方,圣经上并没有“不可起假誓,向主所起的誓,必须要谨守。”这样的话。
しかし、この言葉の元になった言葉はあります。
但是,这话的源头是有的。
ある言葉が元になって、「偽りの誓いを立てるな」という言葉が出てきたんですね。
以某句话为源头,解读出了“不可起假誓,向主所起的誓,必须要谨守。”这样的话。
ではその元になった言葉は何だったのかと言いますと、出エジプト記20章7節です。
那么这源头是什么呢?在出埃及20章7节。
出エジプト記の20章にはいわゆるモーセの十戒が書かれているんですけれども、十戒の三つ目に、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。
出埃及记20章写的是通常所说的十诫,十诫中的第三点是“不可妄称你神的名。”
これが元になって、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という教えができてきたんです。
以这话为源头,便有了“不可起假誓,向主所起的誓,必须要谨守。”这样的教条。
しかし、そう言われても、という感じですね。
可是,会有种虽然这么说这样的感觉吧。
内容がちょっと違ってしまっているような感じです。
感觉内容还是稍微有点不一样的。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」というのと、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのは話が違ってしまっているような感じです。
觉得“不可妄称耶和华你的神。”和“不可起假誓。向主所起的誓,必须要谨守。”是不一样的。
ただここで考えてみますと、そもそも、神の名をみだりに唱えるとはどういうことでしょうか。
只是,这里我们要想一想,原本,妄称神的名到底是指什么呢?
みだりに、というのは、乱用するということですね。
妄称是指乱用。
つまり、神の名を自分勝手に利用することです。
也就是说,私自乱用神的名。
それが、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」ということですね。
这就是“不可妄称你神的名。”
神を自分勝手に利用するな、と。
就是不可私自乱用神的名。
これはどういうことなのかと言いますと、誰かが何かを言った後で、「私の言葉は真実です。神が私を通して語っておられるんです。これが神様の御心なんです」と言ったとしたらどうでしょうか。
什么意思呢?如果有人在说了什么之后,称“我说的是真的,是神通过我来说的,这是神的旨意。”会怎样?
聞いている側としては反対しにくくなりますね。
听的人很难反对吧。
しかしそれは神を自分勝手に利用することになりかねないわけです。
可是这有可能是私自乱用神的名义。
ただ単に自分の意見なのに、そこに神の名を持ち出してくるということになるかもしれないわけですね。
可能只是自己的意见,却在这里搬出了神的名义。
そんなことはするな、と言われているんです。
说的是不能做这样的事。
そこで、「偽りの誓いを立てるな」ということを考えてみますと、偽りの誓いというのは、そうするつもりがないのに、神を持ち出す、神にかけて誓うということですね。
这里来思考一下“不可起假誓”这话,并没打算起假誓,却搬出神,指着神起誓。
やっぱり、神を自分勝手に利用することです。
还是私自乱用神的名。
結果として偽りになってしまった、結果として誓いを果たせなかったということはあるかもしれないですね。
结果可能成了欺骗,也可能是实现不了誓言。
それは別なんです。
这是另一回事。
自分勝手に利用したわけではないからです。
因为并非私自乱用。
要するに、その人の心の問題なんですね。
总之,是这个人的内心的问题。
神を利用しようという心があるかどうか。
有没有想要利用神的心思。
神を持ち出して、相手が反対できないようにしてやろう、相手を黙らせてやろうという気持ちがあるかどうかが問われているんですね。
搬出神,想要让对方无法反对,想要对方闭嘴,有没有这种想法才是问题所在。
実際、神を簡単に持ち出すのは良くないと思いますね。
事实上,简单地把神搬出来这不好,会这样想吧。
私たちは聖書を通して神を知るのですが、ある御言葉があったとして、けれども、また別のページには、表面的に読んだらその正反対の御言葉もあるわけなんです。
我们通过圣经知道神,圣经上有某句话,在另外一页上却有一句表面上读起来与之相反的话。
表面的に読んでいたのでは理解できないですね。
读个表面的话没法理解。
掘り下げて深めて読んで、神の御心に触れることが大事です。
深挖下去,触摸到神的心意,这是很重要的。
イエス様がそうしておられるように、聖書を読む必要があります。
我们有必要像耶稣那样读圣经。
とにかく、神を自分勝手に利用するな、というのが今日の話です。
总之,今天要说的是不能私自乱用神的名。
ただここで、イエス様は、「一切誓いを立ててはならない」と言っているんですね。
只是在这里,耶稣说“什么誓都不可起。”
神に誓ってこれはこうだ、神に誓って真実だ、という言い方を一切するなということです。
向神发誓说这个是这样的,向神发誓说这是事实,这样的话一概不可说。
そして、今日の34節の後半から36節にかけては、「これこれのものにかけて誓ってはならない」と繰り返し言われています。
而今天的34节后半节到36节,反复说“不可指着这个那个起誓”。
天にかけても、地にかけても、エルサレムにかけても、自分の頭にかけても誓うなということですね。
不可指着天,指着地,指着耶路撒冷,指着自己的头起誓。
とにかくどのような事であれ、誓いを立てるなということになります。
总之,不管什么事,都不能起誓。
イエス様の時代には、誓う時には、神にかけて誓ったんでした。
耶稣的时代,起誓的时候是指着神起誓的。
神にかけて誓うのが恐れ多いという時には、天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、自分の頭にかけて誓ったんですね。
指着神起誓感到诚惶诚恐的时候,便指着天、指着地、指着耶路撒冷、指着自己的头起誓的。
しかし、イエス様は言うんです。
可是耶稣说。
天は神の玉座である。
天是神的座位。
だから、天にかけて誓うのは、神にかけて誓うのと同じだ。
因此,指着天起誓和指着神起誓是一样的。
神を持ち出して、自分の言葉が真実だと人に聞かせようという考え方をしているのなら、それがそもそも間違っている。
搬出神,试图使别人听信自己说的是真实的,这种想法原本就是不对的。
たとえその言葉が真実だとしても、神を持ち出すな、神を利用するな、ということですね。
即便说的是真的,也不要搬出神,不要利用神。
地にかけて誓うな、というのも同じですね。
指着地其实也一样。
地は神の足台であるから。
地是神的脚凳。
エルサレムにかけて、というのも、「大王の都」であると言われていますが、これは、「大王である神の都」であるということです。
指着耶路撒冷也是,“大王的京城”就是“作为大王的神的城”。
自分の頭にかけて誓うな、というのも、「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」、つまり、あなたの頭も神のもの、神が作り、保っておられるものであるから、それにかけて誓うな、ということです。
不可指着自己的头起誓也是,“你不能使一根头发变黑变白了。”也就是说,你的头也是神的,神所造的,所保守的,所以不能指着这起誓。
そうなるともう、何かにかけて誓うということはできないですね。
这样的话,不能指着任何东西起誓。
何にかけて誓っても、神にかけて誓ったことになるからです。
因为不管指着什么,都会变成指着神起誓。
そして、こうなってくるともう、誓うとか誓わないとかいう話ではないんですね。
这样的话早已不是什么起不起誓的话题了。
私たちがどこで何を言ったとしても、それは全て神の前での言葉です。
我们不管在哪里说了什么,全部都是在神面前说的。
神の前でない場所はどこにもないということなんです。
没有什么地方不是在神的面前。
だから、「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさいということになるんですね。
因此,是就说是,不是就说不是。
いつも自分の口で真実を語りなさい。
要一直用自己的嘴说真话。
いつも神の御前に立っているつもりでいなさい。
要始终当做是站在神的面前。
もちろん、結果として自分が言ったことが後から間違っていたと分かるようなことはある。
当然,自己所说的后来发现是错的,会有这种情况。
それは問題ではない。
这不是问题。
今日言われているのは、神を利用しない、ということだから。
因为今天所说的,是不可利用神。
そして、それを守れていればセーフということではなくて、もっと積極的に、神の前に立って真実を語っていきなさいということを、イエス様は教えておられるんです。
而并不是遵守这一点就安全了,是要更积极地站在神的面前,说真话,耶稣这样教导我们。
だから、教会では、誓約ということをするんですね。
因此,在教会里我们也起誓。
神の前に誓うということをします。
在神面前起誓。
していいんですよ。
是可以的。
それは神を利用しているのではないからです。
因为没有利用神。
神の前に立つ者として、自分の口で真実を語っていく、その一つとして、誓約ということがあるんです。
我们要站在神面前口说真话,有把这一点作为誓约的。
私たちがそうする時、神様は喜んでおられると思いますよ。
我想我们这么做的时候,神是很高兴的。
神の前に心から誓っているんだから。
因为我们在神面前所发的誓言是由心而出的。
これからも、神の前に立つ者として、自分の口で真実を語っていきましょう。
今后,也让我们站在神的面前,口说真话。
そして、そのような気持ちというのが、神を利用する思いから一番遠いんだと思います。
而且,我想这样的想法会和利用神的想法相去甚远。
そして、私たちのそのような思いを神様は喜んでくださって、私たちがそのように生きることができるように、力を与えてくださるに違いないと思うのです。
我想我们这样的想法是神所喜悦的,神必定会赐予我们力量,让我们可以如此过活。