マタイによる福音書5章38節から42節
38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
今日もまた、同じパターンで話が始まりましたね。
まず、イエス様が、あなたがたはこういうふうに聞いているだろう、と言っておいて、聖書の専門家の教えを取り上げるんですね。
あなたがたは聖書の専門家からこういうふうに教えられているだろう、ということですね。
それを取り上げた上で、それについて、「しかし、わたしは言っておく」ということで、そこからイエス様が神様の深い御心を語っていくんですね。
ではまず最初に、今日、イエス様が取り上げた聖書の専門家の教えは何かと言いますと、「目には目を、歯には歯を」という言葉ですね。
良く知られた言葉です。
これ、旧約聖書にあるんですね。
旧約聖書のレビ記24章17節からのところでこれについて語られています。
人にけがをさせたら、同じけがを自分もさせられるということですね。
相手の目をつぶしたら、自分も目をつぶされるわけです。
相手の歯を折ったら、自分も歯を折られるわけです。
そういうことですと、うーん、それはそれでもうしょうがないかな、という気もします。
けれども、やっぱり何か乱暴な気がするんですよね。
復讐することを認められているということだと考えますと、どうなんだろう、という気にもなります。
でもこれ、この言葉が意味していることは、実は、人を憎んで復讐してはいけない、ということなんです。
どうしてかというと、人からけがをさせられたら、私たちは当然その人を憎むことになりますね。
憎んで復讐する、となったらどうなるでしょうか。
もし、自分の目をつぶされたとしたら、私たちは相手の命を取ってやりたいというくらいに、その人を憎むだろうと思うんですね。
自分がつぶされたのは目だけでも、相手の命まで取ってやりたいというくらいに憎むだろうと思うんです。
もし、自分の歯を折られたら、折られたのが一本だけだったとしても、相手の歯を全部折ってやりたいというくらいに恨むだろうと思うんです。
そう、私たちはやられたこと以上にやり返したいという思いがあるんです。
いや、そういう言い方をすると、そうかなあ、そうでもないけどなあ、と言われそうですね。
しかし、わたしたちは皆、やられたことは覚えているわけですよ。
いつまででも覚えていたりもします。
それに比べると、自分がやったことは覚えていないんですね。
もしかすると、自分がまずいことをしていることに自分では気づいてもいないなんていうこともあるかもしれません。
そういう私たちが、相手に仕返ししていいということになったらどうなるでしょうか。
復讐に復讐が積み重なって、大変なことになってしまうでしょうね。
その私たちに言われているのが、「目には目を、歯には歯を」ということなんですね。
これは、憎しみにまかせて仕返ししてはいけないということなんです。
「目には目を」までで止めておけ。
「歯には歯を」までで止めておけ。
それ以上はしてはいけない。
こういうことですから、実は、「目には目を、歯には歯を」という言葉が言おうとしているのは、人を憎むな、人を恨むな、ということなんです。
相手を憎んでいたら、「目には目を」だけでは済みませんから。
それがこの言葉の本当の意味なんです。
目をつぶされたのなら、相手の目をつぶすところまではしてもいいぞ、と言っているのではないんですね。
神様はこう言っているんです。
あなたがたは自分のことは置いておいて、いつも人に仕返しをしようとしている。
それではいけない、人を憎んではいけない、人を恨んではいけない。
それが神様のお考えなんですね。
そして、もし私たちが神様の御心の通り、人を憎む、人を恨むということがなくなったなら、「目には目を、歯には歯を」ということも必要ではなくなるんじゃないかな、と思うんですね。
だから、今日のイエス様の言葉ですけれども、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」って言っていますよね。
ただ、この言葉には気を付ける必要があります。
この言葉は、殴られたら殴り返さずに、殴られたままでいなさいということではないんですね。
まず「だれかがあなたの右の頬を打つなら」と言われていますが、相手の右の頬を殴る、ということは、どういう感じで殴るのでしょうか。
人類の9割は右利きだそうです。
ですから、相手を殴るとなったら右手で殴りますね。
そうすると、右手は、相手の左の頬に当たるはずです。
だからこれは、相手を普通に殴る、という話ではないんです。
もし相手の右の頬を殴ろうと思うなら、自分は普通に手を突き出して殴るのではなくて、自分の右手の手の甲で、左から右に払うようにして相手の頬を打つかたちになります。
これだったら相手の右の頬を打つことができますね。
そして、このしぐさが問題なんです。
自分の手の甲で相手の頬を打つことは、相手を侮辱することなんですね。
それも、最大に侮辱することだったんです。
ですから、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というこの言葉は、殴り合いのけんかの中での言葉ではないんです。
相手からどれだけ侮辱されても、相手を憎んで復讐してはいけないということなんですね。
侮辱されたままでいなさい、ということなんです。
次に、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」とイエス様は言います。
「訴えて下着を取る」というのは、借金の差し押さえです。
借金を返せないと、裁判所に訴えられて、自分の持ち物で借金を返すということがあります。
つまり、ここのところでは、私たちは、借金を返せなくて訴えられた人であるという設定なんですね。
しかも、下着を取られそうになっているわけです。
当時は、上着と言ったらコートのことで、下着というのはコートの下に着ている服のことでした。
つまり、服を取られそうになっているんです。
ということは、私たちは、お金になるようなものを何にも持っていないという設定なんですね。
これはもうそれだけで大変なことです。
それなのにイエス様は「上着をも取らせなさい」と言うんです。
でもこれ、いくらイエス様の言葉だと言っても困ります。
人の上着というのはたとえ借金があっても、取ってはいけなかったんです。
旧約聖書の出エジプト記の22章の25節26節にそのことが書かれています。
上着というのはコートのことだと言いましたが、コートは、貧しい人にとっては、それにくるまって寝るための布団にもなったんですね。
だから、上着は取ってはいけないことになっていたんです。
これは貧しい人の権利だったんです。
けれども、イエス様は、それも取らせてやれ、というんですね。
つまり、自分の権利を主張するなということです。
しかもこれ、貧しい人にとっての最低限の権利ですよ。
でも、それなのに、自分の権利を主張するなと言われているんです。
その次には、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」と言われています。
これは聖書ではなくて、ローマ帝国の法律です。
ローマ帝国では、例えばローマ帝国の兵隊が、そこいらへんを歩いている人にでも命令することができました。
その内の一つが、「一ミリオン行くように強いる」ということなんです。
一ミリオンというのは1.5キロくらいの距離です。
1.5キロくらいまでだったら、ローマ帝国の権力で、誰にでも、たとえば荷物を運ばせる、ということができたんです。
ですから、考えてみますと、イエス様が十字架にかかる前に、十字架を背負って死刑にする場所まで歩かなければならなかったんですが、イエス様は十字架を背負う前に拷問を受けて血だらけで、途中で歩けなくなったということがありましたよね。
その時、ローマの兵隊はそこいらへんにいた人に、代わりに十字架を背負わせたということがありました。
そういうことができたわけです。
ただ、そうなりますと、ローマ帝国に支配されている人々は良い気がしないですよね。
ローマ帝国に対する抵抗運動が起こります。
イエス様の弟子に、熱心党のシモンという人がいました。
この熱心党というのが、激しい抵抗運動をしていた人たちだったんです。
全員がそんな運動に加わるわけではないですが、言ってみれば、全員、帝国に支配されることは嫌だったんです。
ですから、そういう運動は当然起こってくることになります。
しかし、そこでイエス様は、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」というんですね。
これ、イエス様が何をおっしゃっているかお分かりになりますよね。
権力に抵抗するな、と言われているんです。
常識をひっくり返すようなことが次々に言われています。
39節では、侮辱されたままでいなさい。
40節では、自分の権利を主張するな。
41節では、権力に抵抗するな。
復讐するのが当然だ、抵抗するのが当然だと思っても、そんなことをしてはいけない、どんな理由があっても人を憎んではいけない、恨んではいけない。
そういうことが言われています。
それどころか、39節では、「左の頬をも向けなさい」、40節では、「上着をも与えなさい」、41節では、「一緒に二ミリオン行きなさい」なんていうことまで言われています。
積極的に、相手を受け入れなさいということでしょうか。
受け容れられないようなことをしてくる相手を、積極的に受け入れなさいと言われているんですね。
ただここで言われている一番の中心は、人を憎んではいけないということだったんでした。
イエス様は、私たちが人を憎みやすいから、あえてここまで言っているんです。
イエス様が言いたいことは、人を憎まず、人を受け入れなさい、ということです。
これくらいの言い方をしなければいけないくらい、私たちが人を憎みやすいから、こういう言い方をしているんですね。
だいたい、「左の頬をも向けなさい」なんて、その通りにしても相手は困りますよ。
大体の人は右利きなんですから、右手より不器用な左手で頬を払うという動作をしなければならなくなる。
「上着をも与えなさい」なんて、もっと困りますよ。
それは聖書で認められている権利なんですから、いやそれは受け取れません、という話になります。
もし受け取ってしまったら、自分が訴えられますからね。
「一緒に二ミリオン行きなさい」というのもそうですよね。
命令できるのは一ミリオンまでなんですから、それ以上になったら法律違反の命令をしたことになってしまいます。
そんなことをして相手を困らせろと言っているのではないんですね。
人を憎まず、相手を受け入れなさい。
イエス様がとにかく言いたいことはこれなんです。
だから最後で、今までとちょっと違うことが言われていますよね。
「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。
相手を受け入れなさいっていうことですよね。
だから本当は今日の話は、この最後の言葉だけでもいいんですよ。
でも、私たちが頑固で人を受け入れないから、イエス様は今日、ここまで過激なことを言わなくてはいけなかったんですね。
最初の方で、「悪人に手向かってはならない」って言われていましたけれども、悪人じゃないんですよね。
私たちが自分を誇っていて、自分を主張しているから、相手が悪人になってしまう。
それも、私たちは自分の権利ばかり主張して、自己主張ばかりしている。
イエス様の目に、私たちはそう映っているんです。
イエス様は、そのような私たちに話したんです。
人を憎まず、相手を受け入れなさい。
これ、やっていきましょう。
イエス様が言っているんだから。
だってもし、イエス様が自分の権利を主張して、罪もないのに十字架にかかりたくないって言ったら、私たちどうなりますか。
人を憎まず、相手を受け入れる。
それは、イエス様が私たちになさってくださっていることなんです。
ですから、今日の言葉に従っていきましょう。
私たちにはそうする力はないのかもしれませんが、これをしてくださっているイエス様が、私たちと一緒にいてくださいます。
イエス様といっしょなら、できる。
だから、イエス様は今日、この言葉を語ってくださったんです。
復讐してはならない
不可报复
マタイによる福音書5章38節から42節
马太福音 5章38-42节
38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
“你们听见有话说:‘以眼还眼,以牙还牙。’只是我告诉你们:不要与恶人作对。有人打你的右脸,连左脸也转过来由他打;有人想要告你,要拿你的里衣,连外衣也由他拿去;有人强逼你走一里路,你就同他走二里;有求你的,就给他;有向你借贷的,不可推辞。”
今日もまた、同じパターンで話が始まりましたね。
今天又是同样的模式开始了讲道。
まず、イエス様が、あなたがたはこういうふうに聞いているだろう、と言っておいて、聖書の専門家の教えを取り上げるんですね。
首先,耶稣说你们听到的是这样的吧,提出了圣经专家的教导。
あなたがたは聖書の専門家からこういうふうに教えられているだろう、ということですね。
意思是说你们是被他们这样教导的。
それを取り上げた上で、それについて、「しかし、わたしは言っておく」ということで、そこからイエス様が神様の深い御心を語っていくんですね。
提出之后,关于这点,用“只是我告诉你们”耶稣开始讲述神的深意。
ではまず最初に、今日、イエス様が取り上げた聖書の専門家の教えは何かと言いますと、「目には目を、歯には歯を」という言葉ですね。
今天首先我们来说说耶稣提出来的圣经专家们的教导是什么呢?是“以眼还眼以牙还牙”。
良く知られた言葉です。
是大家非常熟悉的。
これ、旧約聖書にあるんですね。
旧约里也有。
旧約聖書のレビ記24章17節からのところでこれについて語られています。
旧约利未记24章17节起说到了关于这方面的内容:
人にけがをさせたら、同じけがを自分もさせられるということですね。
以伤还伤。
相手の目をつぶしたら、自分も目をつぶされるわけです。
以眼还眼。
相手の歯を折ったら、自分も歯を折られるわけです。
以牙还牙。
そういうことですと、うーん、それはそれでもうしょうがないかな、という気もします。
这样的话,嗯—,这也是无可厚非的,也会这样觉得。
けれども、やっぱり何か乱暴な気がするんですよね。
但是,总感觉有点粗暴对吧。
復讐することを認められているということだと考えますと、どうなんだろう、という気にもなります。
一想到报复一事被认同,也会在意结果会如何。
でもこれ、この言葉が意味していることは、実は、人を憎んで復讐してはいけない、ということなんです。
但是这话的意思实际上是不可憎恨、报复他人的意思。
どうしてかというと、人からけがをさせられたら、私たちは当然その人を憎むことになりますね。
为什么呢?如果被人伤到的话,我们自然会恨那个人吧。
憎んで復讐する、となったらどうなるでしょうか。
憎恨并报复的话,会变得怎样呢?
もし、自分の目をつぶされたとしたら、私たちは相手の命を取ってやりたいというくらいに、その人を憎むだろうと思うんですね。
如果我们的眼睛被弄瞎了的话,我想我们会想要了对方性命如此这般地恨那人吧。
自分がつぶされたのは目だけでも、相手の命まで取ってやりたいというくらいに憎むだろうと思うんです。
即使自己被伤的只是眼睛,会想要了对方的性命这般恨吧。
もし、自分の歯を折られたら、折られたのが一本だけだったとしても、相手の歯を全部折ってやりたいというくらいに恨むだろうと思うんです。
如果,自己的牙齿被打断的话,即使被打断的只是一颗,会想要打断对方所有的牙齿这般恨吧。
そう、私たちはやられたこと以上にやり返したいという思いがあるんです。
是的,我们会想要还击给对方超过我们所受到的伤害。
いや、そういう言い方をすると、そうかなあ、そうでもないけどなあ、と言われそうですね。
啊,要这么说,好像是这样吧,又不至于此吧,可能会被这么说吧。
しかし、わたしたちは皆、やられたことは覚えているわけですよ。
可是我们大家都记得所受的伤害。
いつまででも覚えていたりもします。
有的会永远都记着。
それに比べると、自分がやったことは覚えていないんですね。
相对的,我们自己做过的却不记得。
もしかすると、自分がまずいことをしていることに自分では気づいてもいないなんていうこともあるかもしれません。
或许我们自己都意识不到我们做了过分的事。
そういう私たちが、相手に仕返ししていいということになったらどうなるでしょうか。
这样的我们,一旦决定报复对方的话会变成怎样呢?
復讐に復讐が積み重なって、大変なことになってしまうでしょうね。
冤冤相报的话,会变得不可收拾吧。
その私たちに言われているのが、「目には目を、歯には歯を」ということなんですね。
对这样的我们所说的就是“以眼还眼以牙还牙”这事。
これは、憎しみにまかせて仕返ししてはいけないということなんです。
是说不能任由怨恨来采取报复。
「目には目を」までで止めておけ。
“以眼还眼”到此为止。
「歯には歯を」までで止めておけ。
“以牙还牙”就行了。
それ以上はしてはいけない。
不能过了。
こういうことですから、実は、「目には目を、歯には歯を」という言葉が言おうとしているのは、人を憎むな、人を恨むな、ということなんです。
因此,实际上,“以眼还眼以牙还牙”说的是不能憎恨他人的意思。
相手を憎んでいたら、「目には目を」だけでは済みませんから。
因为憎恨对方的话,就不只是“以眼还眼”就能了结的。
それがこの言葉の本当の意味なんです。
这才是这句话的真正意思。
目をつぶされたのなら、相手の目をつぶすところまではしてもいいぞ、と言っているのではないんですね。
并没有说如果被弄瞎了眼睛的话,也可以去弄瞎对方的眼睛。
神様はこう言っているんです。
神说的是这个。
あなたがたは自分のことは置いておいて、いつも人に仕返しをしようとしている。
你们把自己的事放在一边,总想着要报复别人。
それではいけない、人を憎んではいけない、人を恨んではいけない。
不可以这样,不可以憎恨别人。
それが神様のお考えなんですね。
这是神所考虑的。
そして、もし私たちが神様の御心の通り、人を憎む、人を恨むということがなくなったなら、「目には目を、歯には歯を」ということも必要ではなくなるんじゃないかな、と思うんですね。
如果我们如神所想的,不憎恨他人的话,我想“以眼还眼以牙还牙”也就变得没有必要了。
だから、今日のイエス様の言葉ですけれども、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」って言っていますよね。
所以,今天耶稣说“有人打你的右脸,连左脸也转过来让他打”。
ただ、この言葉には気を付ける必要があります。
不过要注意这句话。
この言葉は、殴られたら殴り返さずに、殴られたままでいなさいということではないんですね。
并不是指被打了不要还手,就这样被打的意思。
まず「だれかがあなたの右の頬を打つなら」と言われていますが、相手の右の頬を殴る、ということは、どういう感じで殴るのでしょうか。
先说“有人打你的右脸”,打对方右脸,是怎样打的呢?
人類の9割は右利きだそうです。
据说人90%都是右手灵活。
ですから、相手を殴るとなったら右手で殴りますね。
因此,打对方的话是用右手打的吧。
そうすると、右手は、相手の左の頬に当たるはずです。
这样的话右手打到的应该是对方的左脸。
だからこれは、相手を普通に殴る、という話ではないんです。
因此,这不是一般的殴打对方。
もし相手の右の頬を殴ろうと思うなら、自分は普通に手を突き出して殴るのではなくて、自分の右手の手の甲で、左から右に払うようにして相手の頬を打つかたちになります。
要是想打对方右脸的话,不是一般地伸出手殴打,是用自己的右手手背,从左向右横扫那样打对方的脸。
これだったら相手の右の頬を打つことができますね。
这样的话才能打到对方的右脸。
そして、このしぐさが問題なんです。
而这动作是问题所在。
自分の手の甲で相手の頬を打つことは、相手を侮辱することなんですね。
用自己的手背去打对方,是侮辱对方的意思。
それも、最大に侮辱することだったんです。
而且是最大的侮辱。
ですから、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というこの言葉は、殴り合いのけんかの中での言葉ではないんです。
因此,“有人打你的右脸,连左脸也转过来由他打”,不是相互殴打这种场合中的话。
相手からどれだけ侮辱されても、相手を憎んで復讐してはいけないということなんですね。
无论从对方那里受到多大的侮辱,也不可以恨对方报复对方,是这个意思。
侮辱されたままでいなさい、ということなんです。
就这么被侮辱吧,是这个意思。
次に、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」とイエス様は言います。
然后,耶稣说“有人想要告你,要拿你的里衣,连外衣也由他拿去”。
「訴えて下着を取る」というのは、借金の差し押さえです。
“告你要拿你的里衣”,说的是借钱的抵押。
借金を返せないと、裁判所に訴えられて、自分の持ち物で借金を返すということがあります。
要是借的钱不还的话,在法院被告了,可以用自己的东西偿还,有这样的事。
つまり、ここのところでは、私たちは、借金を返せなくて訴えられた人であるという設定なんですね。
也就是说,在这里,假定了我们是借钱不还,被人告的人。
しかも、下着を取られそうになっているわけです。
而且里衣像要被拿走。
当時は、上着と言ったらコートのことで、下着というのはコートの下に着ている服のことでした。
在当时,上衣是指外套,内衣是指外套里面的衣服。
つまり、服を取られそうになっているんです。
也就是说衣服像要被拿走了。
ということは、私たちは、お金になるようなものを何にも持っていないという設定なんですね。
这也就是假定了我们没有任何值钱的东西。
これはもうそれだけで大変なことです。
就这已经很糟糕了。
それなのにイエス様は「上着をも取らせなさい」と言うんです。
即便这样,耶稣却说,“连外衣也由他拿去”。
でもこれ、いくらイエス様の言葉だと言っても困ります。
但是,就算是耶稣的话也很令人为难啊。
人の上着というのはたとえ借金があっても、取ってはいけなかったんです。
外衣是即便欠债也不能拿走的东西。
旧約聖書の出エジプト記の22章の25節26節にそのことが書かれています。
旧约出埃及记22章25、26节写着这事。
上着というのはコートのことだと言いましたが、コートは、貧しい人にとっては、それにくるまって寝るための布団にもなったんですね。
外衣就是外套,外套的话,对于穷人来说,也是裹着睡觉的被褥。
だから、上着は取ってはいけないことになっていたんです。
因此,不能拿走外衣。
これは貧しい人の権利だったんです。
这是穷人的权力。
けれども、イエス様は、それも取らせてやれ、というんですね。
但是,耶稣说连这也让他们拿走。
つまり、自分の権利を主張するなということです。
也就是说,不要伸张自己的权利。
しかもこれ、貧しい人にとっての最低限の権利ですよ。
可这是穷人最起码的权力。
でも、それなのに、自分の権利を主張するなと言われているんです。
然而却说不要伸张。
その次には、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」と言われています。
接下来说“有人强逼你走一里路,你就同他走二里”。
これは聖書ではなくて、ローマ帝国の法律です。
这不是圣经里的,而是罗马帝国的法律。
ローマ帝国では、例えばローマ帝国の兵隊が、そこいらへんを歩いている人にでも命令することができました。
罗马帝国时期,罗马士兵可以命令那里的行人。
その内の一つが、「一ミリオン行くように強いる」ということなんです。
其中就有一点“强逼走一里路”。
一ミリオンというのは1.5キロくらいの距離です。
一里的话差不多1.5公里的距离。
1.5キロくらいまでだったら、ローマ帝国の権力で、誰にでも、たとえば荷物を運ばせる、ということができたんです。
1.5公里左右的话,以罗马帝国的权力,可以让任何人做搬运货物之类的事。
ですから、考えてみますと、イエス様が十字架にかかる前に、十字架を背負って死刑にする場所まで歩かなければならなかったんですが、イエス様は十字架を背負う前に拷問を受けて血だらけで、途中で歩けなくなったということがありましたよね。
因此,试想一下,耶稣在钉十字架之前,必须背着十字架走到刑场,因为耶稣在背十字架前备受拷问浑身是血,中途走不动了,有这事吧。
その時、ローマの兵隊はそこいらへんにいた人に、代わりに十字架を背負わせたということがありました。
当时,罗马士兵让那里的一个人代替耶稣背十字架。
そういうことができたわけです。
这事是可以的。
ただ、そうなりますと、ローマ帝国に支配されている人々は良い気がしないですよね。
不过,这样的话,被罗马帝国支配的人不会觉得好受吧。
ローマ帝国に対する抵抗運動が起こります。
引发了对罗马帝国的抵抗运动。
イエス様の弟子に、熱心党のシモンという人がいました。
耶稣弟子当中,有一个叫热心党西蒙的人。
この熱心党というのが、激しい抵抗運動をしていた人たちだったんです。
热心党就是强烈抵抗的那些人。
全員がそんな運動に加わるわけではないですが、言ってみれば、全員、帝国に支配されることは嫌だったんです。
并不是全员加入这种运动,但是可以说,全员厌恶被帝国支配。
ですから、そういう運動は当然起こってくることになります。
所以,自然就发生了这样的运动。
しかし、そこでイエス様は、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」というんですね。
可是在这里耶稣说“有人强逼你走一里路,你就同他走二里。”
これ、イエス様が何をおっしゃっているかお分かりになりますよね。
大家明白耶稣这是在说什么吧。
権力に抵抗するな、と言われているんです。
在说不要向权力抵抗。
常識をひっくり返すようなことが次々に言われています。
接连说了几件颠覆常识的事。
39節では、侮辱されたままでいなさい。
39节,就这样被侮辱吧。
40節では、自分の権利を主張するな。
40节,不要伸张自己的权力。
41節では、権力に抵抗するな。
41节,不要抵抗权力。
復讐するのが当然だ、抵抗するのが当然だと思っても、そんなことをしてはいけない、どんな理由があっても人を憎んではいけない、恨んではいけない。
即便认为报复是应当的,抵抗是应当的,也不能做这样的事,不管有什么理由也不能憎恨别人。
そういうことが言われています。
说了这样的事。
それどころか、39節では、「左の頬をも向けなさい」、40節では、「上着をも与えなさい」、41節では、「一緒に二ミリオン行きなさい」なんていうことまで言われています。
岂止如此,39节“连左脸也转过来让他打”,40节,“连外衣也由他拿去”,41节,“就同他走二里”,甚至还说了这些。
積極的に、相手を受け入れなさいということでしょうか。
是积极地接受对方的意思吗?
受け容れられないようなことをしてくる相手を、積極的に受け入れなさいと言われているんですね。
是说要积极接纳做了难以容忍之事的对方。
ただここで言われている一番の中心は、人を憎んではいけないということだったんでした。
不过这里所说的最重要的,是不能厌恶人。
イエス様は、私たちが人を憎みやすいから、あえてここまで言っているんです。
因为我们容易厌恶人,所以耶稣硬说到这份上。
イエス様が言いたいことは、人を憎まず、人を受け入れなさい、ということです。
耶稣想说的是不要厌恶人,要接纳他人。
これくらいの言い方をしなければいけないくらい、私たちが人を憎みやすいから、こういう言い方をしているんですね。
因为我们容易厌恶人到了非说不可的地步,所以耶稣这样说了。
だいたい、「左の頬をも向けなさい」なんて、その通りにしても相手は困りますよ。
“连左脸也转过来由他打”,这么做的话大概对方也会很为难。
大体の人は右利きなんですから、右手より不器用な左手で頬を払うという動作をしなければならなくなる。
大部分人都是右手灵活,所以变成,必须要用不如右手麻利的左手横扫。
「上着をも与えなさい」なんて、もっと困りますよ。
“连外衣也由他拿去”更加让人为难。
それは聖書で認められている権利なんですから、いやそれは受け取れません、という話になります。
因为是圣经认可的权力,所以会说这可不能拿。
もし受け取ってしまったら、自分が訴えられますからね。
因为要是拿了的话,自己也会被告的。
「一緒に二ミリオン行きなさい」というのもそうですよね。
“就同他走二里”也是一样。
命令できるのは一ミリオンまでなんですから、それ以上になったら法律違反の命令をしたことになってしまいます。
因为可以命令的是一公里,超过的话就是下了违法的命令了。
そんなことをして相手を困らせろと言っているのではないんですね。
并不是说要这么做让对方为难。
人を憎まず、相手を受け入れなさい。
而是不厌恶人,要接纳人。
イエス様がとにかく言いたいことはこれなんです。
总之耶稣想说的是这个。
だから最後で、今までとちょっと違うことが言われていますよね。
因此最后,说了和目前为止有点不一样的话。
「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。
“有求你的,就给他;有向你借贷的,不可推辞。”
相手を受け入れなさいっていうことですよね。
要接纳对方的意思。
だから本当は今日の話は、この最後の言葉だけでもいいんですよ。
因此今天真正要说的,就最后的话也可以。
でも、私たちが頑固で人を受け入れないから、イエス様は今日、ここまで過激なことを言わなくてはいけなかったんですね。
但是,因为我们顽固不接受他人,所以耶稣今天必须要说如此过度的话。
最初の方で、「悪人に手向かってはならない」って言われていましたけれども、悪人じゃないんですよね。
最初说“不要与恶人作对”,其实并不真的是恶人。
私たちが自分を誇っていて、自分を主張しているから、相手が悪人になってしまう。
因为我们夸耀自己,主张自己的意见,所以对方就变成了恶人。
それも、私たちは自分の権利ばかり主張して、自己主張ばかりしている。
这也是我们尽伸张自己的权力,一个劲地贯穿自我主张。
イエス様の目に、私たちはそう映っているんです。
我们在耶稣眼里是这样的。
イエス様は、そのような私たちに話したんです。
耶稣对这样的我们说:
人を憎まず、相手を受け入れなさい。
不要憎恶人,要接受对方。
これ、やっていきましょう。
让我们一起这样做吧。
イエス様が言っているんだから。
因为耶稣说的。
だってもし、イエス様が自分の権利を主張して、罪もないのに十字架にかかりたくないって言ったら、私たちどうなりますか。
要是耶稣主张自己的权力,明明没有罪所以不想被钉十字架的话,我们会怎样?
人を憎まず、相手を受け入れる。
不要憎恶人,要接受对方。
それは、イエス様が私たちになさってくださっていることなんです。
这是耶稣对我们所做的。
ですから、今日の言葉に従っていきましょう。
因此让我们遵循今天的话语。
私たちにはそうする力はないのかもしれませんが、これをしてくださっているイエス様が、私たちと一緒にいてくださいます。
或许我们没有力量这样做,但是如此行的耶稣会与我们同在。
イエス様といっしょなら、できる。
有耶稣在的话就可以。
だから、イエス様は今日、この言葉を語ってくださったんです。
因此,耶稣今天讲述了这些话语。