
敵を愛しなさい
マタイによる福音書5章43節から48節
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
今日もまた、同じパターンで話が始まりましたね。
まず、イエス様が、あなたがたはこういうふうに聞いているだろう、と言っておいて、聖書の専門家の教えを取り上げるんですね。
あなたがたは聖書の専門家からこういうふうに教えられているだろう、ということですね。
それを取り上げた上で、それについて、「しかし、わたしは言っておく」ということで、そこからイエス様が神様の深い御心を語っていくんですね。
しかし、それも今日で最後です。
このパターンで語る最後に、イエス様はどんなことを語るのでしょうか。
まず、聖書の専門家の教えを取り上げるんですね。
「隣人を愛し、敵を憎め」ということです。
この時代の人たちはそういうふうに教えられていました。
しかし、この言葉は旧約聖書にはないんです。
イエス様の時代にはまだ新約聖書はありません。
イエス様の時代に聖書と言ったら旧約聖書のことです。
旧約聖書を読みますと、「隣人を愛しなさい」はあるんですね。
でも、それだけです。
「隣人を愛し、敵を憎め」だと何か、もともとの聖書の言葉に嫌な言葉が付け加わっている感じですよね。
実はこの、「敵を憎め」という言葉は、聖書の専門家たちが付け加えたことです。
しかしどうして、愛するのと反対の憎むことが付け加えられてしまったのでしょうか。
わざわざ付け加えなくてもいいようなことを付け加えたような感じですね。
ただ、考えてみると、これは自然なことであるようにも思うんです。
私たちは、誰かを愛するからこそ別の誰かを憎むということをします。
聖書に「隣人」という言葉が出てきますけれども、そこのところの原文を見ますと、「近くの人」という言葉であることがあります。
しかしそうなると、違う町に住んでいる人はどうなるんでしょうか。
「よそ者」になってしまいますよね。
あるいは、聖書に「隣人」と書かれているまた別の箇所を原文で読みますと、「仲間」という言葉になっている場合があります。
しかしそうなると、仲間でない人は敵になってしまうわけです。
仲間を愛する、ということはどういうことになるでしょうか。
敵を憎むことになるんですね。
つまり、隣人とはどのような人のことなのか、ということをはっきり決めてしまうと、それ以外の人は愛さない、憎む、ということになってしまうものなんです。
私たちは意識していないけれど、そういうことをいつもしていると思いますね。
その私たちにイエス様は「敵を愛しなさい」と言ったんです。
それが、神様の本当の御心だよ、ということですよね。
神様が「隣人を愛しなさい」と言った時、敵を憎めなんて考えてもいなかったんだと。
それなのに、あなたがたは仲間は愛して、敵を憎んでいる。
敵を憎んで、仲間を愛している。
そうじゃないんだ、ということですね。
考えてみると、「隣人」と言いましても、それが「近くの人」ということだったとしたら、どうなりますでしょうか。
近くにいるからと言って仲間とは限らないんですね。
だとしたら、近くにいる敵を憎んだのなら、隣人愛にならないんです。
「隣人」という言葉が「仲間」という意味だったらどうでしょうか。
仲間は、いつか敵になるかもしれないわけですよね。
歴史ドラマなんて全部そうですよ。
仲間だと思っていた人が敵になったり、敵だと思っていた人が実は自分と同じ考え方で、後から仲間になったり、一度は敵になった人が後からまた仲間になったり、場合によっては仲間なんだけど考え方が違っているとなった時には、仲間をまるで敵みたいに非難したりするんですね。
仲間と敵ははっきりとは分けられないものなんです。
それは歴史のドラマの中だけでの話ではないですね。
私たちが生きている現実も同じでしょう。
歴史ドラマとは話のスケールが違うだけですね。
スケールが違うだけでやっていることは私たちは皆、一緒なんだと思います。
結局、自分にとって都合のいい人を、都合のいい時は愛する、ということになりますね。
でもそれだと、神様が言っているような隣人愛にはならないと、イエス様は言っているんです。
近くにいる敵を憎んだのなら、隣人愛になりませんし、仲間と敵ははっきり区別できないものです。
だとしたら、敵であっても愛するということをしない限り、隣人愛にならないんです。
隣人を愛するということは、実は、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るということなんですね。
近くの人の中にも敵がいるかもしれないし、仲間はいつか敵になるかもしれない。
そんな中で人を愛するというのなら、もう最初から、敵を愛するというつもりでないとしょうがないんです。
イエス様はここで隣人愛の本当の意味を教えてくれているんですね。
もっと言うと、敵とか仲間とか、区別するなということです。
45節で、イエス様は言いますね。
神様は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」方だということです。
神様の愛は区別しないんですね。
私たちの神様のイメージはもしかしたら、正しい人は仲間として愛する、正しくない人は敵として憎む、ということかもしれません。
世の中の正しい人ってそうじゃないですか。
でも、神様はそうではないんですね。
神様には仲間と敵の区別がないんです。
神様は仲間を作る必要はないし、誰も神様の敵ではないんです。
これは私たちとしては納得できないかもしれません。
神様は正しい人を愛し、正しくない人は憎む方であってほしいと思うかもしれません。
でももし、神様が敵を憎むような方だったら私たちはどうなるでしょうか。
私たちは誰も、神の前には正しくないんです。
聖書は言っていますね。
正しい人は一人もいないんです。
それなのに、神様は誰も区別せず誰も除外せず、恵みの太陽を上らせてくださって、恵みの雨を降らせてくださるんです。
そして、ここでは、あなたがたが神様と同じようにするのは、「あなたがたの天の父の子となるため」だと言われています。
ということは、逆に言うと、敵を愛することができないなら、私たちは神様の子どもではないということなんです。
次の46節、47節は、自分の仲間を愛するというのなら、誰だってやっているよ、という話ですね。
そんなことは徴税人でもやっているよ、異邦人でもやっているよ、ということですね。
徴税人や異邦人というのは、神様の子どもではないと思われていた人たちです。
逆に、今イエス様の話を聞いている人たちは、自分たちは神様の子どもだと思っていました。
だから、イエス様のしている神様の話を聞いているんですね。
しかし、イエス様は、そうじゃないよ、と言うんです。
神様の子どもであるかどうかは、敵を愛するかどうかで決まるんだよ。
神様が、敵を愛する方だからね。
それがイエス様のメッセージです。
ただ、最後に引っかかる言葉がありますよね。
48節で、こう言われています。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。
こう言われると、「そんなことできるはずはない」と思いますね。
と言いますか、イエス様は今、できるはずのないことを言っているんです。
もっと言うと、できるはずがないんだよと言っているんです。
どうしてかと言いますと、「完全」という言葉は聖書では神様にしかつかわれない言葉だからなんです。
人間にはつかわれない言葉なんですね。
ということは、イエス様はできないことを言っているんです。
できないと分かっておられるんです。
もっと言うと、私たちにはできないから、神様が人間の姿でこの世に来てくださったということですよね。
それがイエス様です。
そして、私たちの罪に対する罰を代わりに受けてくださったんです。
正しい人は誰もいない。
そこに、神の子が人に代わって、罰を受けてくださった。
これはどういうことでしょうか。
私たちは、今日の話でいうところの悪人だということですね。
今日の話でいうところの正しくない者だということなんです。
愛することができないどころか、十字架にかかった方がいいような悪人なんです。
神様と同じなんて、できるはずがないんです。
できないから、イエス様が来てくださったんです。
今日の話を勘違いしないで欲しいんですね。
今日の話を、「神様は私たち善人に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるだけではなく、悪人にもそうしてくださっている。だから私たちも、自分の敵に親切にしてやろう」というふうに聞いたら間違いです。
私たちが悪人なんです。
敵を愛するなんてできないんです。
もしできるのなら、イエス様は私たちのところに来る必要はなかったでしょうね。
私たちにはできないということをイエス様は最初から分かっておられます。
だからここで、「完全」という言葉をつかったんですね。
それなのにイエス様がここまで話をしたのは、できなくても分かってほしいことがあるからです。
私たちは仲間と敵を区別します。
神様は区別しないんです。
私たちにとっては仲間と敵を区別することは当たり前のことで、敵を愛するなんて想像もつかないけれども、神様から見ると、人間のあり方には全然愛がないんです。
ある意味これは仕方ありません。
悪人なんだから。
でも、だからこそ、神様の愛を知ってほしい。
イエス様は、神様の愛を知らない私たちに、神様の愛を知ってほしいと願っておられる。
その愛は、悪人の罪を代わりに背負うような愛です。
自分が代わりに罰を受けてでも、あなたは生きてほしい、そんな愛です。
その愛を味わってほしい。
神様の愛を感じてほしい。
太陽の光にも、雨にも、神様の恵みをもっと深く感じてほしい。
私たちは正しくないんですよ。
悪人なんです。
でも神様は、その私たちを命がけで愛する方なんです。
私たちにできることがあるとしたら、こんな私たちを愛してくださる神様に感謝することだけなんでしょうね。
私にとってある人が仲間なのか敵なのかは大きなことです。
しかし、もっと大きなところで、神様は、私も、私の敵も、愛してくださっています。
私たちは愛のない世界に住んでいるけれども、神様はその私たちを大きな愛で包んでくださっているんです。
そのことに心を向けたいですね。
本当の意味では愛のない私たちが、本当の愛に包まれている。
そして、そのことを伝えてくださったイエス様が、私たちにおっしゃってくださいます。
わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
完全な方が、この不完全で愛のない私たちと共にいてくださっているんです。
こんな感謝なことがあるでしょうか。
敵を愛するということを、無理にやろうとしなくていいんです。
それは「完全」な方のすることです。
ただ、忘れないでください。
悪人である私たち、愛のない私たちが、神様の大きな愛に包まれているんです。
敵を愛しなさい
要爱你的仇敌
マタイによる福音書5章43節から48節
马太福音5章43-48节
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
“你们听见有话说:‘当爱你的邻居,恨你的仇敌。’只是我告诉你们:要爱你们的仇敌,为那逼迫你们的祷告。这样,就可以作你们天父的儿子。因为他叫日头照好人,也照歹人;降雨给义人,也给不义的人。你们若单爱那爱你们的人有什么赏赐呢?就是税吏不也是这样行吗?你们若单请你弟兄的安,比人有什么长处呢?就是外邦人不也是这样行吗?所以你们要完全,像你们的天父完全一样。”
今日もまた、同じパターンで話が始まりましたね。
今天也是同样的模式开始了讲道。
まず、イエス様が、あなたがたはこういうふうに聞いているだろう、と言っておいて、聖書の専門家の教えを取り上げるんですね。
首先,耶稣说你们所听到的是这样的吧,提出了圣经专家的教导。
あなたがたは聖書の専門家からこういうふうに教えられているだろう、ということですね。
意思是说你们是被他们这样教导的。
それを取り上げた上で、それについて、「しかし、わたしは言っておく」ということで、そこからイエス様が神様の深い御心を語っていくんですね。
提出之后,关于这点,用“只是我告诉你们”耶稣开始讲述神的深意。
しかし、それも今日で最後です。
而今天这也是最后一次了。
このパターンで語る最後に、イエス様はどんなことを語るのでしょうか。
用这一模式讲道的最后部分,耶稣说了些什么呢?
まず、聖書の専門家の教えを取り上げるんですね。
首先提出圣经专家的教导。
「隣人を愛し、敵を憎め」ということです。
是说“当爱你的邻舍,恨你的仇敌”。
この時代の人たちはそういうふうに教えられていました。
那个时代的人是这样被教导的。
しかし、この言葉は旧約聖書にはないんです。
可是,这话在旧约里面是没有的。
イエス様の時代にはまだ新約聖書はありません。
耶稣的时代还没有新约。
イエス様の時代に聖書と言ったら旧約聖書のことです。
耶稣的时代说圣经的话就是指旧约圣经。
旧約聖書を読みますと、「隣人を愛しなさい」はあるんですね。
如果读旧约的话,“当爱你的邻舍”是有的。
でも、それだけです。
但是,只有这。
「隣人を愛し、敵を憎め」だと何か、もともとの聖書の言葉に嫌な言葉が付け加わっている感じですよね。
“当爱你的邻舍,恨你的仇敌”总感觉是在原来的圣经内容中加入了令人讨厌的话。
実はこの、「敵を憎め」という言葉は、聖書の専門家たちが付け加えたことです。
实际上“恨你的仇敌”这话是圣经专家们加上去的。
しかしどうして、愛するのと反対の憎むことが付け加えられてしまったのでしょうか。
可是为什么要加上与爱相对的恨呢?
わざわざ付け加えなくてもいいようなことを付け加えたような感じですね。
感觉像是特意加上了不加也可以的内容。
ただ、考えてみると、これは自然なことであるようにも思うんです。
不过要是细想一下的话,也会觉得这是很自然的事。
私たちは、誰かを愛するからこそ別の誰かを憎むということをします。
正是因为我们爱一些人所以会恨另外一些人。
聖書に「隣人」という言葉が出てきますけれども、そこのところの原文を見ますと、「近くの人」という言葉であることがあります。
圣经中出现了“邻舍”一词,如果看原文的话,这里用的是“附近的人”一词。
しかしそうなると、違う町に住んでいる人はどうなるんでしょうか。
可是这样的话,不住在同一个镇的人呢?
「よそ者」になってしまいますよね。
就成了“外人”了对吧。
あるいは、聖書に「隣人」と書かれているまた別の箇所を原文で読みますと、「仲間」という言葉になっている場合があります。
圣经中写到“邻舍”的其它章节,读原文的话,有的地方用了“朋友”一词。
しかしそうなると、仲間でない人は敵になってしまうわけです。
可是这样的话,不是朋友的那些人就成了仇敌。
仲間を愛する、ということはどういうことになるでしょうか。
爱朋友就变成什么呢?
敵を憎むことになるんですね。
会恨仇敌吧。
つまり、隣人とはどのような人のことなのか、ということをはっきり決めてしまうと、それ以外の人は愛さない、憎む、ということになってしまうものなんです。
就是说,要明确界定邻舍是怎样的人的话,就是不爱、恨除此之外的人。
私たちは意識していないけれど、そういうことをいつもしていると思いますね。
我们虽然意识不到,却一直是这样做的吧。
その私たちにイエス様は「敵を愛しなさい」と言ったんです。
耶稣对这样的我们说“要爱你们的仇敌”。
それが、神様の本当の御心だよ、ということですよね。
这才是神真正的心意。
神様が「隣人を愛しなさい」と言った時、敵を憎めなんて考えてもいなかったんだと。
神说“当爱你的邻舍”的时候,想都没想到恨仇敌之类的事。
それなのに、あなたがたは仲間は愛して、敵を憎んでいる。
而你们却爱朋友,恨仇敌。
敵を憎んで、仲間を愛している。
恨仇敌,爱朋友。
そうじゃないんだ、ということですね。
不是这样的,说的是这事。
考えてみると、「隣人」と言いましても、それが「近くの人」ということだったとしたら、どうなりますでしょうか。
想想看,就算是“邻舍”,如果是附近的人的话,又会怎样呢?
近くにいるからと言って仲間とは限らないんですね。
虽说住在附近,并不一定就是朋友。
だとしたら、近くにいる敵を憎んだのなら、隣人愛にならないんです。
这样的话,恨住在附近的仇敌的话,就无法爱邻舍了。
「隣人」という言葉が「仲間」という意味だったらどうでしょうか。
“邻舍”如果是“朋友”之意的话又如何呢?
仲間は、いつか敵になるかもしれないわけですよね。
朋友哪天也可能会变成仇敌。
歴史ドラマなんて全部そうですよ。
历史剧之类的全都这样演。
仲間だと思っていた人が敵になったり、敵だと思っていた人が実は自分と同じ考え方で、後から仲間になったり、一度は敵になった人が後からまた仲間になったり、場合によっては仲間なんだけど考え方が違っているとなった時には、仲間をまるで敵みたいに非難したりするんですね。
认为是朋友的人会变成仇敌,认为是仇敌的人事实上和自己想法相同,后来成了朋友;一度是仇敌,后来成了朋友,而有些场合,虽然是朋友,想法不同的时候,简直就如同仇敌般责难朋友。
仲間と敵ははっきりとは分けられないものなんです。
朋友和仇敌很难清晰地划分界限。
それは歴史のドラマの中だけでの話ではないですね。
这不只是历史剧中的情节。
私たちが生きている現実も同じでしょう。
我们的现实生活也同样如此。
歴史ドラマとは話のスケールが違うだけですね。
只是和历史剧的规模不一样。
スケールが違うだけでやっていることは私たちは皆、一緒なんだと思います。
我想只是规模不一样,所做的我们大家都一样。
結局、自分にとって都合のいい人を、都合のいい時は愛する、ということになりますね。
结果就成了恰当的时候爱恰当的人。
でもそれだと、神様が言っているような隣人愛にはならないと、イエス様は言っているんです。
耶稣说要是这样的话,就无法做到神所说的爱邻舍。
近くにいる敵を憎んだのなら、隣人愛になりませんし、仲間と敵ははっきり区別できないものです。
如果恨住在附近的仇敌的话,就不能爱邻舍,朋友和仇敌是无法清楚区分开来的。
だとしたら、敵であっても愛するということをしない限り、隣人愛にならないんです。
要是这样的话,只要不爱仇敌,就做不到爱邻舍。
隣人を愛するということは、実は、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るということなんですね。
爱邻舍实际上就是爱仇敌,为迫害自己的人祷告。
近くの人の中にも敵がいるかもしれないし、仲間はいつか敵になるかもしれない。
附近的人中或许有仇敌,又或许朋友哪天变成了敌人。
そんな中で人を愛するというのなら、もう最初から、敵を愛するというつもりでないとしょうがないんです。
这种情况下爱人的话,从一开始就没打算爱仇敌的话是做不到的。
イエス様はここで隣人愛の本当の意味を教えてくれているんですね。
耶稣在这里是教大家爱邻舍真正的含义。
もっと言うと、敵とか仲間とか、区別するなということです。
甚至可以说,是教我们不要去区分仇敌和朋友。
45節で、イエス様は言いますね。
45节,耶稣说:
神様は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」方だということです。
“他叫日头照好人,也照歹人;降雨给义人,也给不义的人。”神是这样的神。
神様の愛は区別しないんですね。
神的爱对谁都一样,没有区别。
私たちの神様のイメージはもしかしたら、正しい人は仲間として愛する、正しくない人は敵として憎む、ということかもしれません。
我们对神的印象或许是把义人当作朋友来爱,把不义的人当作仇敌来恨。
世の中の正しい人ってそうじゃないですか。
世间的义人不就是如此吗?
でも、神様はそうではないんですね。
但是,神不是这样的。
神様には仲間と敵の区別がないんです。
在神没有朋友与仇敌之分。
神様は仲間を作る必要はないし、誰も神様の敵ではないんです。
神没必要交朋友,谁也不是神的仇敌。
これは私たちとしては納得できないかもしれません。
我们或许无法认同这点。
神様は正しい人を愛し、正しくない人は憎む方であってほしいと思うかもしれません。
或许我们希望神爱义人,恨不义之人。
でももし、神様が敵を憎むような方だったら私たちはどうなるでしょうか。
但是如果神恨仇敌的话我们又会如何呢?
私たちは誰も、神の前には正しくないんです。
在神的面前,我们都是不义的。
聖書は言っていますね。
圣经上说的吧。
正しい人は一人もいないんです。
义人一个都没有。
それなのに、神様は誰も区別せず誰も除外せず、恵みの太陽を上らせてくださって、恵みの雨を降らせてくださるんです。
然而,神不区分任何人不排除任何人,让恩惠的太阳升起,让恩泽的雨降下。
そして、ここでは、あなたがたが神様と同じようにするのは、「あなたがたの天の父の子となるため」だと言われています。
而且在这里说,你们和神一样的话,“就可以做你们天父的儿子”。
ということは、逆に言うと、敵を愛することができないなら、私たちは神様の子どもではないということなんです。
反而言之,不能爱仇敌的话,我们就不是神的儿子。
次の46節、47節は、自分の仲間を愛するというのなら、誰だってやっているよ、という話ですね。
接下来的46、47节,说的是爱自己的朋友的话,谁都这样行的。
そんなことは徴税人でもやっているよ、異邦人でもやっているよ、ということですね。
连税吏、外邦人也这样行。
徴税人や異邦人というのは、神様の子どもではないと思われていた人たちです。
税吏和外邦人那些人不被认为是神的儿子。
逆に、今イエス様の話を聞いている人たちは、自分たちは神様の子どもだと思っていました。
相反的,现在听耶稣讲道的人他们觉得自己是神的儿子。
だから、イエス様のしている神様の話を聞いているんですね。
所以在听耶稣所行的神的话语。
しかし、イエス様は、そうじゃないよ、と言うんです。
可是,耶稣说不是这样的。
神様の子どもであるかどうかは、敵を愛するかどうかで決まるんだよ。
是否是神的儿子是由是否爱仇敌所决定的。
神様が、敵を愛する方だからね。
因为神是爱仇敌的那一位。
それがイエス様のメッセージです。
这是耶稣所传达的信息。
ただ、最後に引っかかる言葉がありますよね。
不过,最后有一段相关的话。
48節で、こう言われています。
48节说:
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。
“所以你们要完全,像你们的天父完全一样。”
こう言われると、「そんなことできるはずはない」と思いますね。
这样说的话,大家会想“这样的事不可能做到”吧。
と言いますか、イエス様は今、できるはずのないことを言っているんです。
耶稣现在所说的是不可能做到的事。
もっと言うと、できるはずがないんだよと言っているんです。
甚至可以说,他就在说你们是不可能做到的。
どうしてかと言いますと、「完全」という言葉は聖書では神様にしかつかわれない言葉だからなんです。
为什么呢?因为“完全”一词在圣经中只用于神。
人間にはつかわれない言葉なんですね。
不能用于人。
ということは、イエス様はできないことを言っているんです。
所以说耶稣说的不可能做到。
できないと分かっておられるんです。
他知道我们做不到。
もっと言うと、私たちにはできないから、神様が人間の姿でこの世に来てくださったということですよね。
可以说,因为我们做不到,所以神化为人的样子来到了这世间。
それがイエス様です。
就是耶稣。
そして、私たちの罪に対する罰を代わりに受けてくださったんです。
而且代替我们接受罪的惩罚。
正しい人は誰もいない。
谁都不是义人。
そこに、神の子が人に代わって、罰を受けてくださった。
在这里神子替人受罪。
これはどういうことでしょうか。
这是什么意思呢?
私たちは、今日の話でいうところの悪人だということですね。
我们是今天话题中的恶人。
今日の話でいうところの正しくない者だということなんです。
今天话题中的不义之人。
愛することができないどころか、十字架にかかった方がいいような悪人なんです。
岂止是不能爱,是最好钉十字架那样的恶人。
神様と同じなんて、できるはずがないんです。
不可能做到和神一样。
できないから、イエス様が来てくださったんです。
因为做不到,所以耶稣来了。
今日の話を勘違いしないで欲しいんですね。
希望对今天的内容不要误会。
今日の話を、「神様は私たち善人に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるだけではなく、悪人にもそうしてくださっている。だから私たちも、自分の敵に親切にしてやろう」というふうに聞いたら間違いです。
如果把今天的内容听成“神不仅叫日头照好人,降雨给好人;也给坏人。所以我们要亲切地对待仇敌。”那样的话就错了。
私たちが悪人なんです。
我们才是恶人。
敵を愛するなんてできないんです。
爱仇敌什么的是不可能的。
もしできるのなら、イエス様は私たちのところに来る必要はなかったでしょうね。
如果我们行的话,耶稣就没必要到我们这里来了是吧?
私たちにはできないということをイエス様は最初から分かっておられます。
耶稣一开始就知道我们是做不到的。
だからここで、「完全」という言葉をつかったんですね。
所以这里用了“完全”一词。
それなのにイエス様がここまで話をしたのは、できなくても分かってほしいことがあるからです。
然而,耶稣说到现在是因为有希望我们能明白的事,哪怕我们做不到。
私たちは仲間と敵を区別します。
我们区分朋友和仇敌。
神様は区別しないんです。
神不区分。
私たちにとっては仲間と敵を区別することは当たり前のことで、敵を愛するなんて想像もつかないけれども、神様から見ると、人間のあり方には全然愛がないんです。
对于我们而言区分朋友和仇敌是理所当然的,爱仇敌之类的想都不会去想的,但是在神看来,人所做的丝毫没有爱。
ある意味これは仕方ありません。
某种意义上说这是没办法的事。
悪人なんだから。
因为我们都是恶人。
でも、だからこそ、神様の愛を知ってほしい。
但是,正因为如此,所以希望我们知晓神的爱。
イエス様は、神様の愛を知らない私たちに、神様の愛を知ってほしいと願っておられる。
耶稣想让不晓得神的爱的我们,知晓神的爱。
その愛は、悪人の罪を代わりに背負うような愛です。
这爱是代替恶人背负罪恶这样的爱。
自分が代わりに罰を受けてでも、あなたは生きてほしい、そんな愛です。
即使自己代罪受罚也希望你活着,是这样的爱。
その愛を味わってほしい。
希望大家体味这样的爱。
神様の愛を感じてほしい。
感受神的爱。
太陽の光にも、雨にも、神様の恵みをもっと深く感じてほしい。
太阳光也好,雨也好,希望大家更深地感受神的恩惠。
私たちは正しくないんですよ。
我们是不义的。
悪人なんです。
是恶人。
でも神様は、その私たちを命がけで愛する方なんです。
但是神舍命来爱这样的我们,他是这样的神。
私たちにできることがあるとしたら、こんな私たちを愛してくださる神様に感謝することだけなんでしょうね。
我们能做到的,也只是感谢给予我们爱的神。
私にとってある人が仲間なのか敵なのかは大きなことです。
对我们而言,某个人是朋友还是敌人是大事。
しかし、もっと大きなところで、神様は、私も、私の敵も、愛してくださっています。
可是,更伟大的是,神既爱我们,也爱我们的仇敌。
私たちは愛のない世界に住んでいるけれども、神様はその私たちを大きな愛で包んでくださっているんです。
我们虽然住在没有爱的世界,神却用大爱包围着我们。
そのことに心を向けたいですね。
希望大家心里记着这一点。
本当の意味では愛のない私たちが、本当の愛に包まれている。
真正的意思是无爱的我们,被真爱包围着。
そして、そのことを伝えてくださったイエス様が、私たちにおっしゃってくださいます。
而且,把这事传达给我们的耶稣,对我们说:
わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
我与你们同在,直到世界的末了。
完全な方が、この不完全で愛のない私たちと共にいてくださっているんです。
完全的那一位,与不完全的没有爱的我们同在。
こんな感謝なことがあるでしょうか。
还有比这更值得感谢的吗?
敵を愛するということを、無理にやろうとしなくていいんです。
爱仇敌这样的事,不用勉强去做也没问题。
それは「完全」な方のすることです。
这是“完全”的那位所做的。
ただ、忘れないでください。
不过请不要忘记:
悪人である私たち、愛のない私たちが、神様の大きな愛に包まれているんです。
作为恶人的我们,没有爱的我们,被神的大爱包围着。