マタイによる福音書6章1節から4節
1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
今日の話ですが、「善行」をする時に気を付けることがあるということですね。
この「善行」という言葉は原文では「義」という言葉なんですが、要するに神の前での正しさということですね。
神の前に正しいことをする時でも、気を付けなければならないことがあるということですね。
何に気を付けなければならないかというと、自分が良いことをしているということを人に見てもらおうとすることですね。
それが良くないんだということですね。
人に見てもらおうと思って人前で良いことをするのは、神の前に正しくないということですね。
今日は特に、「施しをするとき」についてということでイエス様がお話をなさるんですが、この、人にほめてもらおうとするなというお話がここからずっと続いていきます。
5節からは、祈るときも、人にほめてもらおうとするなということですね。
16節からは、断食をする時も、人にほめてもらおうとするなということですね。
施しも祈りも断食も「善行」ですよね。
「義」です。
神の前に正しいことです。
でも、やり方によってはまずいことになるんですね。
なるほど、と思いますね。
正しいことをする時こそ、私たちはそのやり方を良く考えなければいけないですね。
間違ったことをやるのならどんなやり方をしてもどうせ間違っているんです。
でも、正しいことをするのなら、そのやり方も正しくなくてはいけないですよね。
やり方が間違っていては台無しになるということがありますね。
その、台無しになってしまうパターンが、人にほめてもらいたいという考えなんです。
そのやり方だと正しくないことになるよということをイエス様は言っているんです。
施しをする時だけではなく、祈る時も、断食する時も、それに気を付けなさいということですね。
そのことをイエス様は三回も繰り返して言っているんです。
ということは、どういうことなのか。
私たちはイエス様からすると「人にほめてもらいたい」ということばかり考えているということですね。
イエス様の目には私たちはそうなんです。
今日の2節に「偽善者」という言葉がありますね。
この人は、人からほめられようとして、自分の前でラッパを吹き鳴らすと言うんです。
別に本当にラッパを吹いていたんじゃないでしょうね。
私は良いことをしていますよ、ということを自分からアピールしているということです。
それではダメだということですね。
ただ、ここで「偽善者」と言われていますが、何か少し、私たちが「偽善者」と言う時と言葉のつかい方が違うような気がします。
私たちが「偽善者」と言った場合には、本当は悪い人なのに良い人みたいに自分を見せる人のことですよね。
でも、このイエス様の話の中では、この偽善者は別に本当に悪い人というわけではないような感じですよね。
ただ、自分から、私は良い人間ですよ、とアピールしてしまっただけですね。
実はこの「偽善者」という言葉は、原文では、「俳優、演技をする人」という言葉なんです。
俳優は、自分がどんな人間であっても、その役になりきるわけですよね。
そして、自分がどういうふうに観客から見られているのかを考えます。
そういう仕事ですよね。
舞台に上がるというのはそういうことです。
そのために俳優さんたち、ものすごい努力をして、舞台に上がるんです。
でも、それを、実際の生活でやってしまうのはどうかということなんですね。
俳優さんが悪いのではないんです。
舞台ではなくて、実際の生活の中で、自分は良い人間だ、という役を自分で作って、その役になり切って、それを周りに人にほめてもらいたくて、自分からそれを周りにアピールする。
イエス様はその人たちは俳優みたいなものだ、俳優が舞台でやっていることを生活の中でやっている、と言っているんですね。
しかし、そうなると困ったことですよね。
私たちの中に、誰か一人でも、人からどう見られるかを気にしない人がいるでしょうか。
つまり、私たちは皆、少しくらいは俳優みたいな面があるんですね。
むしろ、それがなかったら生きていけないでしょうね。
もし私たちが、心の中に思い浮かんだことをそのまましゃべってそのまま行動したとしたら、周りが迷惑するに決まっています。
周りが迷惑するから、周りに迷惑をかけないように、私たちは皆、少しくらいは演技をしているはずなんです。
ということは、私たちも俳優なんです。
私たちの多くは、良いことをした時、自分からアピールはしないだろうと思います。
でもそれは、自分からアピールしたら周りが嫌がるということを知っているからそうしないというだけで、ほめられたいという気持ちはないわけではないですよね。
ほめられるというのはそれ自体は良いことです。
悪いことをしていたらほめられないんですから。
実際、ほめられたらうれしいですしね。
良いことをしたらほめられる、悪いことをしたら叱られる、ということを、私たちみんな、小さい頃から教わってきたから、ほめられたらうれしいというのは自然なことです。
ただ、自分からアピールすると周りに嫌がられるので、少しくらい演技をして、それを表に出さないんです。
でもそれって、自分からアピールする人とどれくらい違うんでしょうか。
ほめられたいという気持ちがあるということは、俳優も俳優でない人たちも同じではないかと思うんですね。
では、どうすれば良いのかというと、3節、4節ですね。
右の手のすることを左の手に知らせるな。
そして、人目につかせないようにしなさい、ということですね。
「人目に付かない」ということではないんですよ。
「人目に付かない」というのは、人が気付かないというだけのことです。
「人目に付かない」ではなく、「人目に付かせない」ように、と言われています。
自分からわざわざ隠れてするんですね。
自分から隠すんです。
それで、右の手のすることを左の手に知らせるなということですね。
右手と左手はバラバラではありません。
つながっているわけです。
でも、自分の中でも、隠してしまうくらいにしなさい、ということですね。
心の隅にしまっておいて、もう表に出さないようにしなさい、ということです。
要するに、偽善者と正反対のことを積極的に心がけなさいと言われているんです。
偽善者と正反対になりなさいということです。
しかし、そうなりますと困ったことですね。
私たちも、偽善者も、心の中は同じなんです。
ほめられたらうれしいという思いがある。
ただ、偽善者は、変な話、演技力がないんですよね。
ほめられたいから、ほめられるようにする。
ただそれだけ。
演技してないんですよ。
ストレートすぎるんです。
でも、私たちは演技しますね。
演技して、自分をちゃんと作り上げて、自分からそんなことをアピールしたりはしないんです。
でも、ほめられたらうれしいという気持ちがあるというのは皆同じです。
ただイエス様の話は、ほめられたいという思いを捨てなさいという話ではないんですよね。
神様にほめられるようにしなさいということです。
神様がほめてくださるようなやり方をしなさいということなんです。
1節でイエス様は言っていましたね。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。
神様から報いをいただけるようにしなさいということなんです。
隠れたところでやったら、報いが何にもないわけではないんですね。
というか、イエス様は、良いことをしたら必ず報いがあると言っているんです。
ただ、人に見られて人からほめられると、もう、人から報いをいただいたことになるよ、ということですね。
そうなると、それ以上の報いはもうないんです。
もう報いをもらったわけですから。
逆に、人に気づかれなかったら、報いがなかった、ということではないんです。
その場合こそ、神様が報いてくださるんです。
そして、それこそ、私たちが求めているものですよね。
神の前に正しいことをして、人からほめられても、神様からほめられなかったら何にもならないじゃないですか。
人に気づかれなくても、神様からほめられるなら、もうそれ以上望むことはないですよね。
そして、人からほめられるか、神様からほめられるかは、どちらかしかないというのが今日の話です。
今日の話は施しをする時の話だが、施しをする時でも祈る時でも断食する時でも、人にもほめられて、神様にもほめられるということはないんです。
人からほめられたら、報いはもうそれで終わりなんです。
もうそれで報いを受けたんだから、それ以上の神様からの報いはないんです。
私たちは、人からほめられるか神様からほめられるか、どちらかしかないんです。
そうことになるということは、神様はそれくらい、私たちのことを良く見ておられるということになりますね。
私たちが周りの人に何を言ったかということも含めて、全部ちゃんと見ておられるんです。
4節ではその神様のことが、「隠れたことを見ておられる父」だと言われていますけれども、本当にそうですよね。
演技して、隠したつもりでも、神様には隠せないんです。
神様には偽善は通用しないんです。
そうなると、神様は私のことを全部知っておられるのか、と恐ろしくなってしまいますが、私たちは最初から、神様の御心に適うような者ではないんですね。
私たちは誰も、神様の御心に適わない者です。
先週の話に出てきました。
私たちは「悪者」なんですね。
「正しくない者」なんです。
自分の力ではどうしようもないんです。
だからこそ、神の子がこの世に来てくださったんですよね。
そして、私たちのところに来てくださるんです。
これは私たちが何か良いことをしたから報いが与えられているということではないですよね。
私たちが何か良いことをしたから、それに対して神様が報いてくださったという話ではないんです。
私たちは、愛されているんです。
神様は私たちを愛さずにいられないんですね。
ということは、私たちは何も、報いを求める必要なんてないんです。
これ以上ない神様の愛の中に私たちは置かれているんです。
もし私たちが、今、現に、神様の大きな愛の中にあることを考えたら、人からほめられたいなんて思わないですね。
ほめられる必要がない。
そんなことどうでもいい。
神様が私を愛しているんだから。
もうそれだけで十分すぎますね。
ですから、神様がこの私をどう思ってくださっているか、そのことに心を向けましょう。
神様に愛されていることを感じる喜びが、一番の報いです。
どこからの報いを求めるか
该求哪里的赏赐呢
マタイによる福音書6章1節から4節
1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
“你们要小心,不可将善事行在人的面前,故意叫他们看见;若是这样,就不能得你们天父的赏赐了。所以,你施舍的时候,不可在你面前吹号,像那假冒为善的人在会堂里和街道上所行的,故意要得人的荣耀。我实在告诉你们,他们已经得了他们的赏赐。你施舍的时候,不要叫左手知道右手所作的;要叫你施舍的事行在暗中,你父在暗中查看,必然报答你。
今日の話ですが、「善行」をする時に気を付けることがあるということですね。
今天要讲的是在行“善行”的时候需要注意的事。
この「善行」という言葉は原文では「義」という言葉なんですが、要するに神の前での正しさということですね。
“善行”一词在原文中用的是“义”这个词,也就是说在神面前的正义。
神の前に正しいことをする時でも、気を付けなければならないことがあるということですね。
即使是在神面前行义的时候,也有必须要注意的事,说的是这个。
何に気を付けなければならないかというと、自分が良いことをしているということを人に見てもらおうとすることですね。
说到必须要注意什么,那就是想要别人看到自己所做的好事。
それが良くないんだということですね。
这样并不好。
人に見てもらおうと思って人前で良いことをするのは、神の前に正しくないということですね。
想着要让人看到而在人面前做好事的话,在神面前是不义的。
今日は特に、「施しをするとき」についてということでイエス様がお話をなさるんですが、この、人にほめてもらおうとするなというお話がここからずっと続いていきます。
今天耶稣特别讲述了关于“施舍的时候”的内容,从这里开始一直要讲不要妄想得人荣耀的论述。
5節からは、祈るときも、人にほめてもらおうとするなということですね。
第五节起,说的是祈祷的时候也别想着得人的荣耀。
16節からは、断食をする時も、人にほめてもらおうとするなということですね。
16节起,说的是禁食的时候也不要想着得人荣耀。
施しも祈りも断食も「善行」ですよね。
施舍,祈祷,禁食都是“善行”。
「義」です。
是“义”。
神の前に正しいことです。
在神面前是义事。
でも、やり方によってはまずいことになるんですね。
但是,会因做法而变为不妥。
なるほど、と思いますね。
原来如此,会这样觉得吧。
正しいことをする時こそ、私たちはそのやり方を良く考えなければいけないですね。
正因为是在行义的时候,我们必须要好好思考做法。
間違ったことをやるのならどんなやり方をしてもどうせ間違っているんです。
如果是做错事,不管怎么做反正都是错。
でも、正しいことをするのなら、そのやり方も正しくなくてはいけないですよね。
但是,如果是行义的话,做法也必须正确。
やり方が間違っていては台無しになるということがありますね。
做法一错就白费了。
その、台無しになってしまうパターンが、人にほめてもらいたいという考えなんです。
白费所说的是想着要得人的荣耀。
そのやり方だと正しくないことになるよということをイエス様は言っているんです。
耶稣说这种做法会变为不义。
施しをする時だけではなく、祈る時も、断食する時も、それに気を付けなさいということですね。
不只在施舍的时候,祈祷时,禁食时也要注意。
そのことをイエス様は三回も繰り返して言っているんです。
这事耶稣反复说了三遍。
ということは、どういうことなのか。
这是怎么回事呢?
私たちはイエス様からすると「人にほめてもらいたい」ということばかり考えているということですね。
在耶稣看来,我们尽考虑“想得人的荣耀”这事。
イエス様の目には私たちはそうなんです。
在耶稣的眼里,我们确是这样的。
今日の2節に「偽善者」という言葉がありますね。
今天第二节中有“伪善者”一词。
この人は、人からほめられようとして、自分の前でラッパを吹き鳴らすと言うんです。
说那人想要得人的荣耀,在自己面前吹喇叭。
別に本当にラッパを吹いていたんじゃないでしょうね。
并不真的是吹喇叭。
私は良いことをしていますよ、ということを自分からアピールしているということです。
我在做好事,自己做自我宣传,说的是这个。
それではダメだということですね。
这是不行的。
ただ、ここで「偽善者」と言われていますが、何か少し、私たちが「偽善者」と言う時と言葉のつかい方が違うような気がします。
只是这里所说的“伪善者”,总感觉和我们说“伪善者”时的用法有点不一样。
私たちが「偽善者」と言った場合には、本当は悪い人なのに良い人みたいに自分を見せる人のことですよね。
我们说“伪善者”的时候,明明是坏人却让人看起来自己是好人,是这样的情形。
でも、このイエス様の話の中では、この偽善者は別に本当に悪い人というわけではないような感じですよね。
但是,耶稣话里的那伪善者并非真的是坏人,有这种感觉吧。
ただ、自分から、私は良い人間ですよ、とアピールしてしまっただけですね。
只不过自己宣传自己是好人,仅此而已吧。
実はこの「偽善者」という言葉は、原文では、「俳優、演技をする人」という言葉なんです。
实际上,“伪善者”一词,在原文中,是指“演员,表演的人”。
俳優は、自分がどんな人間であっても、その役になりきるわけですよね。
不管自己是怎样的人,演员都能完全进入角色。
そして、自分がどういうふうに観客から見られているのかを考えます。
而且,思考观众会如何看待自己。
そういう仕事ですよね。
是这样的工作吧。
舞台に上がるというのはそういうことです。
登上舞台就是指这事。
そのために俳優さんたち、ものすごい努力をして、舞台に上がるんです。
演员们为此千辛万苦才登上舞台。
でも、それを、実際の生活でやってしまうのはどうかということなんですね。
但是,在实际生活中这样做的话会怎样呢?
俳優さんが悪いのではないんです。
演员并不坏。
舞台ではなくて、実際の生活の中で、自分は良い人間だ、という役を自分で作って、その役になり切って、それを周りに人にほめてもらいたくて、自分からそれを周りにアピールする。
不是在舞台上,而是在实际生活中,自导自演自己是好人,并且自己向周围宣传,想要得到周围人的称赞。
イエス様はその人たちは俳優みたいなものだ、俳優が舞台でやっていることを生活の中でやっている、と言っているんですね。
耶稣说那些人就好比是演员,把演员在舞台上所做的搬到了生活中。
しかし、そうなると困ったことですよね。
可是,那样的话就为难了。
私たちの中に、誰か一人でも、人からどう見られるかを気にしない人がいるでしょうか。
我们中间,有不在意别人看法的吗,一个都没有吧?
つまり、私たちは皆、少しくらいは俳優みたいな面があるんですね。
也就是说,我们大家多少都有演员的一面。
むしろ、それがなかったら生きていけないでしょうね。
甚至可以说,没有的话就不能生存吧。
もし私たちが、心の中に思い浮かんだことをそのまましゃべってそのまま行動したとしたら、周りが迷惑するに決まっています。
如果我们把心中所想的就这样说出来做出来的话,肯定会给周围带来困扰。
周りが迷惑するから、周りに迷惑をかけないように、私たちは皆、少しくらいは演技をしているはずなんです。
因为会困扰到周围的人,所以为了不给他人带来困扰,我们大家都会稍微表演一番。
ということは、私たちも俳優なんです。
就是说我们也是演员。
私たちの多くは、良いことをした時、自分からアピールはしないだろうと思います。
我想我们大多数人在做好事的时候,都不会自我宣传吧。
でもそれは、自分からアピールしたら周りが嫌がるということを知っているからそうしないというだけで、ほめられたいという気持ちはないわけではないですよね。
但那是因为知道要是自我宣传的话会遭周围人嫌弃,所以没有这样做,并非不想被称赞。
ほめられるというのはそれ自体は良いことです。
想被称赞本身是好事。
悪いことをしていたらほめられないんですから。
因为做坏事的话就得不到称赞。
実際、ほめられたらうれしいですしね。
真被表扬的话会很开心的。
良いことをしたらほめられる、悪いことをしたら叱られる、ということを、私たちみんな、小さい頃から教わってきたから、ほめられたらうれしいというのは自然なことです。
做好事得称赞,做坏事得批评,因为我们大家小时候就是这样被教育的,被表扬的话自然就很开心。
ただ、自分からアピールすると周りに嫌がられるので、少しくらい演技をして、それを表に出さないんです。
不过,因为自我吹捧的话会被周围人嫌弃,所以稍微装一装,不把这表现出来。
でもそれって、自分からアピールする人とどれくらい違うんでしょうか。
但这和自我吹捧的人有多少区别呢?
ほめられたいという気持ちがあるということは、俳優も俳優でない人たちも同じではないかと思うんですね。
想要被称赞的心情,演员和非演员都是一样的,不是吗?
では、どうすれば良いのかというと、3節、4節ですね。
那么,怎么做才好呢?第3第4小节。
右の手のすることを左の手に知らせるな。
不要叫左手知道右手所作的。
そして、人目につかせないようにしなさい、ということですね。
就是说别让人发现。
「人目に付かない」ということではないんですよ。
不是“不显眼”。
「人目に付かない」というのは、人が気付かないというだけのことです。
“不显眼”只是别人发现不了。
「人目に付かない」ではなく、「人目に付かせない」ように、と言われています。
说的不是“不显眼”而是“不让人看到”。
自分からわざわざ隠れてするんですね。
自己故意隐藏起来。
自分から隠すんです。
自己遮掩起来。
それで、右の手のすることを左の手に知らせるなということですね。
这就是不要叫左手知道右手所作的。
右手と左手はバラバラではありません。
不是左右手分开了。
つながっているわけです。
还是连着的。
でも、自分の中でも、隠してしまうくらいにしなさい、ということですね。
但是,内心要隐藏起来,要做到这程度,是这样的意思。
心の隅にしまっておいて、もう表に出さないようにしなさい、ということです。
放在心里,不表现出来,要这样做。
要するに、偽善者と正反対のことを積極的に心がけなさいと言われているんです。
总之是说要积极地留心去做和伪善者相反的事。
偽善者と正反対になりなさいということです。
要做和伪善者完全相反的事情。
しかし、そうなりますと困ったことですね。
可是,要这样做的话很为难。
私たちも、偽善者も、心の中は同じなんです。
我们大家和伪善者的内心是一样的。
ほめられたらうれしいという思いがある。
被称赞的话就很开心,有这样的想法。
ただ、偽善者は、変な話、演技力がないんですよね。
只是,伪善者,没有怪话和演技。
ほめられたいから、ほめられるようにする。
因为想要被称赞,就那样去做。
ただそれだけ。
仅仅如此。
演技してないんですよ。
没有装。
ストレートすぎるんです。
过于直接。
でも、私たちは演技しますね。
但是我们大家会装。
演技して、自分をちゃんと作り上げて、自分からそんなことをアピールしたりはしないんです。
将自己很好地伪装,不自我吹捧。
でも、ほめられたらうれしいという気持ちがあるというのは皆同じです。
但是,被称赞就很开心,这样的心情大家都是一样的。
ただイエス様の話は、ほめられたいという思いを捨てなさいという話ではないんですよね。
不过耶稣所说的,不是舍弃想要被称赞的想法。
神様にほめられるようにしなさいということです。
是说要得神的称赞。
神様がほめてくださるようなやり方をしなさいということなんです。
说的是要得神的称赞。
1節でイエス様は言っていましたね。
在第一节耶稣说了。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。
“你们要小心,不可将善事行在人的面前,故意叫他们看见;若是这样,就不能得你们天父的赏赐了。”
神様から報いをいただけるようにしなさいということなんです。
说的是要得神的赏赐。
隠れたところでやったら、報いが何にもないわけではないんですね。
并不是说在隐蔽的地方做的话就没有任何赏赐了。
というか、イエス様は、良いことをしたら必ず報いがあると言っているんです。
耶稣说做好事必定有回报。
ただ、人に見られて人からほめられると、もう、人から報いをいただいたことになるよ、ということですね。
不过,要是被人看到得了称赞,就已经从人那里得了赏赐了,是这个意思。
そうなると、それ以上の報いはもうないんです。
那样的话,更大的赏赐就没有了。
もう報いをもらったわけですから。
因为已经得了赏赐了。
逆に、人に気づかれなかったら、報いがなかった、ということではないんです。
相反的,如果没有被人发现,没有赏赐,那就不是这样了。
その場合こそ、神様が報いてくださるんです。
这种情况,才能得神的赏赐。
そして、それこそ、私たちが求めているものですよね。
这才是我们该求的。
神の前に正しいことをして、人からほめられても、神様からほめられなかったら何にもならないじゃないですか。
在神面前行义事,即便被人称赞,没有得到神的称赞的话就毫无意义,不是吗?
人に気づかれなくても、神様からほめられるなら、もうそれ以上望むことはないですよね。
即使没被人发现,如果得了神的称赞,就不会奢望其它了吧。
そして、人からほめられるか、神様からほめられるかは、どちらかしかないというのが今日の話です。
得人的称赞,还是得神的称赞,只能选其一,这就是今天的话题。
今日の話は施しをする時の話だが、施しをする時でも祈る時でも断食する時でも、人にもほめられて、神様にもほめられるということはないんです。
今天的话题是施舍的时候,施舍时也好,祈祷时也好,禁食时也好,既得人称赞又得神称赞这样的事情是没有的。
人からほめられたら、報いはもうそれで終わりなんです。
如果得了人的赞赏,那么赏赐就到此结束了。
もうそれで報いを受けたんだから、それ以上の神様からの報いはないんです。
因为已经得了赏赐,更大的神的赏赐就没有了。
私たちは、人からほめられるか神様からほめられるか、どちらかしかないんです。
对我们来说,是得人的称赞,还是得神的称赞,只能选其一。
そうことになるということは、神様はそれくらい、私たちのことを良く見ておられるということになりますね。
神如此清楚地看到我们所做的。
私たちが周りの人に何を言ったかということも含めて、全部ちゃんと見ておられるんです。
包括我们对周围的人说什么,神全都看得清清楚楚。
4節ではその神様のことが、「隠れたことを見ておられる父」だと言われていますけれども、本当にそうですよね。
第4节说神是“在暗中查看的父”,确实如此。
演技して、隠したつもりでも、神様には隠せないんです。
即使想要装,想要隐藏,对神却不能。
神様には偽善は通用しないんです。
对神伪善是没有用的。
そうなると、神様は私のことを全部知っておられるのか、と恐ろしくなってしまいますが、私たちは最初から、神様の御心に適うような者ではないんですね。
那样的话,虽然害怕神会不会知道我们全部的事,但是,我们从一开始就不合神的心意。
私たちは誰も、神様の御心に適わない者です。
我们谁都不合神的心意。
先週の話に出てきました。
上周的内容说到了
私たちは「悪者」なんですね。
我们都是“恶人”。
「正しくない者」なんです。
是“不义”的。
自分の力ではどうしようもないんです。
依靠自己的力量什么都做不了。
だからこそ、神の子がこの世に来てくださったんですよね。
正因为如此,神子来到这世上。
そして、私たちのところに来てくださるんです。
来到我们这里。
これは私たちが何か良いことをしたから報いが与えられているということではないですよね。
这并不是因为我们做了什么好事而得到的赏赐。
私たちが何か良いことをしたから、それに対して神様が報いてくださったという話ではないんです。
并不是因为我们做了什么好事,神就此给与相应的赏赐。
私たちは、愛されているんです。
我们被神所爱。
神様は私たちを愛さずにいられないんですね。
神禁不住爱我们。
ということは、私たちは何も、報いを求める必要なんてないんです。
就是说我们没必要求任何的赏赐。
これ以上ない神様の愛の中に私たちは置かれているんです。
我们在神无上的爱里。
もし私たちが、今、現に、神様の大きな愛の中にあることを考えたら、人からほめられたいなんて思わないですね。
如果我们现在想着我们此刻处于神的大爱中的话,就不会想得人称赞之类的事。
ほめられる必要がない。
没必要得人的称赞。
そんなことどうでもいい。
那样的事情无所谓。
神様が私を愛しているんだから。
因为神爱着我。
もうそれだけで十分すぎますね。
这就足够了。
ですから、神様がこの私をどう思ってくださっているか、そのことに心を向けましょう。
因此,让我们的心里记挂着神是如何认定我们的。
神様に愛されていることを感じる喜びが、一番の報いです。
感受神的爱所带来的喜乐是最大的赏赐。