
マタイによる福音書6章5節から8節
5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
今日も「偽善者」の話ですね。
この「偽善者」という言葉なんですが、原文では「俳優、演技する人」という言葉なんですね。
では、俳優ってどんな人でしょうか。
舞台に上がって演技をするわけですね。
俳優にとっては観客から自分がどう見られているかが全てです。
観客の目に自分がどう映るかを真剣に考えて、演技していくわけです。
ただここでイエス様が言っている「偽善者、俳優」というのは、舞台に上がる実際の俳優のことではないんですね。
舞台の上に上がる本当の俳優さんでもないのに、周りの人の目に自分がどう映っているかだけを考えて生活している人がいるよ、ということなんですね。
舞台の上に上がっているわけじゃないのに、まるでそんな感じで生活している人がいるよ、ということです。
その人は、人からほめられたいということばかり考えていて、何か自分が良いことをする時には、それを自分から言いふらすんだよ、ということです。
それではダメだよということを言っているんですね。
人に見てもらうよりも、神様に見てもらって、神様からほめられるようにしなさいということなんです。
そういう気持ちでイエス様は「偽善者」という言葉をつかったんですね。
今日の話は祈りについてです。
この直前の場面では、施しについてでした。
施しについてだけではなくて祈りにおいても、とにかく人にほめられたいという気持ちばかりで、結局それが偽善になってしまうことがあるということですね。
祈りは神様と話をすることですが、神様との話ではなくなってしまって、人に見てもらってほめてもらうためのものになってしまうことがあるんだということなんです。
5節でイエス様が言っていますね。
「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」。
神様を忘れて、人が自分をどう見ているかだけが問題になっている。
だから、6節です。
「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。
私たちは大通りの角に立って祈りたがるということはないだろうと思うんです。
でも、神様を忘れて、神様に心が向かわずに、人に心が向かってしまう時というのはあることだと思います。
神様は私たちの目では見えないわけです。
でも、人は見えますね。
見たくなくても見えますね。
だから、人がいると、人に目が向いてしまうということは当然あることです。
神様を忘れて人にばかり目が向いてしまうという危険はいつでも誰にでもあることだと思うんです。
でも、人にではなく、神様に目を向けることが大切なんです。
これは私たちにとっても大切なことだと思いますね。
そして、今日、イエス様は、そのために工夫をしなさいと言っています。
6節ですよね。
「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。
これは工夫しなさい、ということですね。
人にではなく、神様に心を向けるための工夫をしなさいということです。
そして、そのことが本当に現実的に大事なことなんだということをイエス様は言います。
5節の最後を見てください。
人に見てもらおうとして祈る偽善者たちは、「すでに報いを受けている」んですね。
この、「すでに受けている」という言葉は、原文では「領収書を書いてしまった」という言葉です。
領収書を書く時はどんな時でしょうか。
お金をもらった時ですね。
あなたはもう、お金をもらって、受け取りの領収書にサインをしてしまったんだよ、と。
わざわざイエス様がこんな言葉をつかっているということは、イエス様は私たちがお金が好きなのをよくご存じだということでしょうね。
そういうふうにイエス様に思われているのは残念ですが、否定できません。
でも、偽善者はもうお金をもらってしまっているんだよ、と。
もうそれ以上は何ももらえないよ、と。
あなたはもう領収書を書いてしまったんだからね、ということなんです。
偽善者というのは、周りの人からお金をもらったようなものなんですね。
そうじゃなくて、神様からもらいなさいと言っているんです。
神様からもらえるんだということですね。
お金をもらえるくらい現実的に、神様は祈りを聞いてくださるんだということです。
祈るというのは何もあいまいなことではないんですね。
お金をもらって領収書を書くくらい、リアルなことなんだと、イエス様は言っておられるんです。
そして、それくらい現実的なことだからこそ、7節、8節ですね。
7節、8節では異邦人のことが言われています。
異邦人のように「くどくど」祈る必要はない。
言葉数を多くする必要はない。
私たちはお金をもらって領収書を書くだけのことなんだ。
シンプルなことなんだ。
だから、長く祈る必要はないということですね。
どうして異邦人は長く祈るんでしょうか。
長く祈るというのは、それだけ神様が遠いということですね。
神様が遠いと思っているから、長く祈って神様を動かす必要がある。
でも、聖書を知らない異邦人はそうやって祈るけれども、神様はあなたから遠くないんだ、とイエス様は言っているんですね。
神様はもうお金をあなたに手渡そうとしているんだ。
あなたはお金を受け取って領収書を書く。
もう手が届くところに神様はいるんだ。
神様はあなたのそばにいる。
要するに、これは短い祈りでいいとか長く祈っても仕方がないとか、祈りの長さ自体がどうのということではないんです。
心の距離ですよね。
神様はあなたのそばにおられるということ。
長く祈らなくては聞こえないような遠くに神様がいるのではないんです。
ですので、長く祈ってもいいんですよね。
そばにいてくれる方と長く話したいときというのはあるものです。
長い短いの問題ではないんです。
時には言葉にならなくてもいいんじゃないですか。
私も良く、何も言わずにじっと礼拝堂に座っていることがありますけれども。
そしてもう一つ、「くどくどと述べる」というのは、異邦人たちが、呪文のような言葉を唱えたり、異邦人が信じる神の名前を一つ一つ挙げて、それで祈っていたことを指しているようです。
しかし、それはどうなのかということですね。
それって感覚としては祈るという感覚ではないですよね。
だって、呪文ですよ。
呪文の力で神を動かして、自分の言うことを聞かせるという感覚ですよね。
あるいは、神の名前を唱えて、神を自分の思い通りに動かそうという感覚です。
そんな感覚は必要ないんですね。
神様はあなたのそばで、あなたの祈りを聞いています、とイエス様は言いたいんですね。
だから、「彼らのまねをしてはならない」と言うんです。
何しろ、8節です。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。
だから、私たちの祈りは聖書を知らない人たちの祈りとは、決定的に違うんですね。
異邦人にとっては神は遠いんです。
だから、長く祈らなくてはいけないし、呪文を唱えたり神の名前を唱えて神を動かさなくてはいけないんです。
でも、神様はそのような方ではないとイエス様は言うんですね。
何しろ、「願う前から」私たちに「必要なものをご存じ」なんです。
「願う前から」ですよ。
私たちが、自分の必要なものに自分で気づく前から、神様はご存じなんです。
もっと言うと、私たちが、自分で必要だと思っているものよりも、もっと本当に私たちに必要なものをご存じだということにもなるでしょうね。
たとえば、お金が必要だと思っていたけれども、そうではなくて、人との出会いが必要だった、というようなことがあるかもしれないですよね。
とにかく、神様は私たちに関心を持っておられるんです。
そして、私たちのすぐそばにいて、私たちのことを良くご覧になっていて、私たちのことを良く知っておられて、私たちがまだ何も考えない内から、私たちの必要を考えてくださるんです。
それは間違いないことですね。
今、イエス様が私たちにこのことを伝えてくださっています。
イエス様は神の子ですね。
神の子が、私たちと一緒にいたくて、居ても立ってもいられなくて、私たちのところに来てくださった。
それがイエス様ですよね。
これは私たちがそうしてくれと願ったわけではないですよね。
神が人になって私のところに来てくれなんて、そんな大胆なことを願った人は誰もいないんです。
でも、神様は私たちが願う前から私たちの必要をよくご存じで、私たちのところに来てくださった。
神はそういう方なんです。
そして、そのイエス様だからこそ、神様のことを今日、「あなたの父」、「あなたがたの父」だと言っています。
父なんです。
私の父なんです。
私たちの父なんです。
もちろん、イエス様にとっては父ですね。
でも、イエス様にとってだけではない。
神様はどこの誰だか分からないような遠くの神ではないんです。
私の父なんです。
その父との交わりが祈りなんですね。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と聞くと、祈っても祈らなくても同じなのではないか、と思ってしまいそうですね。
もちろんそれは、神様に願いをかなえてもらおう、ということではそうですね。
祈ればそれだけ実現する可能性が高まるということではありません。
祈ればそれだけ実現する可能性が高まるというのはそれこそ、神を知らない異邦人の祈りじゃないですか。
自分の言葉で神を動かしてやろうっていう。
でも、神様は私たちの本当の必要を全部ご存じなんです。
神様は私たちが祈ったから初めてそれに気付く、ということはないんですね。
私たちが祈る前からご存知です。
私たちが何か願い事をする場合、その願いが私たちにとって本当に必要なのなら、それは必ずかなえられるし、それが本当には必要ではないとしたら、どんなに願ってもかなえられないでしょう。
かなえられる場合でも、神様が考える、それを実現させるのに一番いい時というのはあるでしょうね。
それでは祈ることには意味がないかというとそんなことはありません。
私たちのそばに、私たちのことをいつも見守ってくださっている神様がおられるんです。
神様は私たちの本当の必要をいつも考えてくださる、父のような方です。
私たちを愛して、私たちを放っておけない、一人にしておけないといつも思ってくださっている方です。
私たちはその子どもです。
だから祈るんですよ。
神様と話をするんです。
祈ることができるというのは、そのような神様と交わることで、もうそれ自体が祝福の時ですよね。
そして、だからこそ、私たちは、どんな願いでも神様に打ち明けるんです。
報いを求めて祈る
マタイによる福音書6章5節から8節
马太福音6章5-8节
5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」
“你们祷告的时候,不可像那假冒为善的人,爱站在会堂里和十字架路口上祷告,故意叫人看见。我实在告诉你们,他们已经得了他们的赏赐。你祷告的时候,要进你的内屋,关上门,祷告你在暗中的父。你父在暗中察看,必然报答你。你们祷告,不可像外邦人,用许多重复话,他们以为话多了必垂听。你们不可效法他们,因为你们没有祈求以先,你们所需用的,你们的父早已知道了。
今日も「偽善者」の話ですね。
今天也是“伪善者”的话题。
この「偽善者」という言葉なんですが、原文では「俳優、演技する人」という言葉なんですね。
“伪善者”一词,在原文中是“演员,演戏的人”。
では、俳優ってどんな人でしょうか。
那么演员是怎样的人呢?
舞台に上がって演技をするわけですね。
是上台演戏的。
俳優にとっては観客から自分がどう見られているかが全てです。
对演员来说,观众如何看待自己是一切。
観客の目に自分がどう映るかを真剣に考えて、演技していくわけです。
认真思考自己该如何在观众面前表现,然后表演出来。
ただここでイエス様が言っている「偽善者、俳優」というのは、舞台に上がる実際の俳優のことではないんですね。
不过这里耶稣所说的“伪善者,演员”,不是上台表演的真正的演员。
舞台の上に上がる本当の俳優さんでもないのに、周りの人の目に自分がどう映っているかだけを考えて生活している人がいるよ、ということなんですね。
是说虽然不是上台的真演员,却只考虑自己在周围人眼中的印象如何,有那样过活的人。
舞台の上に上がっているわけじゃないのに、まるでそんな感じで生活している人がいるよ、ということです。
有人并不上台,却感觉像演员那般生活,说的是这个。
その人は、人からほめられたいということばかり考えていて、何か自分が良いことをする時には、それを自分から言いふらすんだよ、ということです。
那人光想着从别人那里得表扬,自己做什么好事的时候,会自我吹嘘,说的是这个。
それではダメだよということを言っているんですね。
说这样是不行的。
人に見てもらうよりも、神様に見てもらって、神様からほめられるようにしなさいということなんです。
比起让人看到,更要让神看到,得神的称赞,说的是这个。
そういう気持ちでイエス様は「偽善者」という言葉をつかったんですね。
因为这种心情,耶稣用了“伪善者”一词。
今日の話は祈りについてです。
今天的话题是关于祷告。
この直前の場面では、施しについてでした。
这之前的内容是关于施舍。
施しについてだけではなくて祈りにおいても、とにかく人にほめられたいという気持ちばかりで、結局それが偽善になってしまうことがあるということですね。
不只是关于施舍,还说了即便祷告,只要带着想得人称赞这样的心情的话,结果就会变为伪善。
祈りは神様と話をすることですが、神様との話ではなくなってしまって、人に見てもらってほめてもらうためのものになってしまうことがあるんだということなんです。
祷告是和神说话,但是却变成了不是和神说话,而是为了让人看到得到人的赞赏。
5節でイエス様が言っていますね。
第5节耶稣说:
「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」。
“伪善者爱站在会堂里和十字路口上祷告,故意叫人看见。“
神様を忘れて、人が自分をどう見ているかだけが問題になっている。
忘了神,只想着人如何看待自己,这就成问题了。
だから、6節です。
因此第6节。
「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。
“你祷告的时候,要进你的内屋,关上门,祷告你在暗中的父。”
私たちは大通りの角に立って祈りたがるということはないだろうと思うんです。
我想我们不会想要站在十字路口祷告吧。
でも、神様を忘れて、神様に心が向かわずに、人に心が向かってしまう時というのはあることだと思います。
但是我想,忘记神,心不向神却向着人的时候是有的。
神様は私たちの目では見えないわけです。
神是我们的眼睛看不见的。
でも、人は見えますね。
但是看得见人。
見たくなくても見えますね。
即便不想看也看得见。
だから、人がいると、人に目が向いてしまうということは当然あることです。
所以一有人的话,眼睛自然就转向人了。
神様を忘れて人にばかり目が向いてしまうという危険はいつでも誰にでもあることだと思うんです。
我想忘记神,眼目只看向人这样的危险不管什么时候什么人都会有。
でも、人にではなく、神様に目を向けることが大切なんです。
但是,重要的是眼目要转向神而不是人。
これは私たちにとっても大切なことだと思いますね。
我想这对我们来说也是很重要的。
そして、今日、イエス様は、そのために工夫をしなさいと言っています。
今天耶稣说要为此而想办法。
6節ですよね。
在第6节吧。
「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。
“你祷告的时候,要进你的内屋,关上门,祷告你在暗中的父。”
これは工夫しなさい、ということですね。
这就是找方法。
人にではなく、神様に心を向けるための工夫をしなさいということです。
说的是为了心向神而不是人所找的办法。
そして、そのことが本当に現実的に大事なことなんだということをイエス様は言います。
耶稣说这实际上真的很重要。
5節の最後を見てください。
请看第5节的最后。
人に見てもらおうとして祈る偽善者たちは、「すでに報いを受けている」んですね。
为让人看到而祷告的伪善者们,“已经得了赏赐”。
この、「すでに受けている」という言葉は、原文では「領収書を書いてしまった」という言葉です。
“已经得了赏赐”在原文中是说“写了收据了”。
領収書を書く時はどんな時でしょうか。
写收据是什么时候呢?
お金をもらった時ですね。
拿到钱的时候吧。
あなたはもう、お金をもらって、受け取りの領収書にサインをしてしまったんだよ、と。
说你们已经拿了钱,在收据上签好名了。
わざわざイエス様がこんな言葉をつかっているということは、イエス様は私たちがお金が好きなのをよくご存じだということでしょうね。
耶稣特地用这样的话,因为他非常清楚我们喜欢钱。
そういうふうにイエス様に思われているのは残念ですが、否定できません。
虽然有点遗憾被耶稣这么认为,却不可否认。
でも、偽善者はもうお金をもらってしまっているんだよ、と。
可是,说伪善者已经拿了钱了。
もうそれ以上は何ももらえないよ、と。
其它什么都拿不到了。
あなたはもう領収書を書いてしまったんだからね、ということなんです。
就是说因为你已经写了收据了。
偽善者というのは、周りの人からお金をもらったようなものなんですね。
所谓伪善者就是指如同从周围人那里拿到钱那样的人。
そうじゃなくて、神様からもらいなさいと言っているんです。
说不该那样,要从神那里获得。
神様からもらえるんだということですね。
说的是可以从神那里获得。
お金をもらえるくらい現実的に、神様は祈りを聞いてくださるんだということです。
神垂听我们的祷告就如能拿到钱那般真实。
祈るというのは何もあいまいなことではないんですね。
祷告不是什么暧昧的事。
お金をもらって領収書を書くくらい、リアルなことなんだと、イエス様は言っておられるんです。
耶稣说,祷告就如同拿到钱,写收据那般真实的事。
そして、それくらい現実的なことだからこそ、7節、8節ですね。
正因为是如此真实的事,所以有7、8节的内容。
7節、8節では異邦人のことが言われています。
7、8节说了外邦人的事。
異邦人のように「くどくど」祈る必要はない。
不要像外邦人那样“絮絮叨叨”地祷告。
言葉数を多くする必要はない。
没必要话多。
私たちはお金をもらって領収書を書くだけのことなんだ。
我们只拿钱写收据。
シンプルなことなんだ。
是很简单的事情。
だから、長く祈る必要はないということですね。
因此,没必要冗长地祷告。
どうして異邦人は長く祈るんでしょうか。
为什么外邦人祷告很长呢?
長く祈るというのは、それだけ神様が遠いということですね。
祷告长是因为神相对地离得远。
神様が遠いと思っているから、長く祈って神様を動かす必要がある。
因为觉得神离得远,所以有必要长时间祷告以惊动神。
でも、聖書を知らない異邦人はそうやって祈るけれども、神様はあなたから遠くないんだ、とイエス様は言っているんですね。
虽然不知道圣经的异邦人如此祷告,耶稣却说,神离你们并不远。
神様はもうお金をあなたに手渡そうとしているんだ。
神已经要把钱递到你手里了。
あなたはお金を受け取って領収書を書く。
你领了钱写好收据。
もう手が届くところに神様はいるんだ。
神已经在触手可及的地方了。
神様はあなたのそばにいる。
神就在你的身边。
要するに、これは短い祈りでいいとか長く祈っても仕方がないとか、祈りの長さ自体がどうのということではないんです。
也就是说,简短的祷告也好,冗长的祷告也罢,不是祷告长短本身如何。
心の距離ですよね。
而是心的距离。
神様はあなたのそばにおられるということ。
要说的是,神就在你身边。
長く祈らなくては聞こえないような遠くに神様がいるのではないんです。
不是说神远到不祷告长一点就听不到。
ですので、長く祈ってもいいんですよね。
所以,长时间祷告也可以。
そばにいてくれる方と長く話したいときというのはあるものです。
也有想和身边的人长聊的时候。
長い短いの問題ではないんです。
不是时间长短的问题。
時には言葉にならなくてもいいんじゃないですか。
有时即使没话也行不是吗?
私も良く、何も言わずにじっと礼拝堂に座っていることがありますけれども。
我也经常什么都不说一动不动地坐在礼拜堂里。
そしてもう一つ、「くどくどと述べる」というのは、異邦人たちが、呪文のような言葉を唱えたり、異邦人が信じる神の名前を一つ一つ挙げて、それで祈っていたことを指しているようです。
而另一种“絮絮叨叨讲述”指的是外邦人念着咒语那样的词,把他们所信的神的名字一一列举出来那样的祷告。
しかし、それはどうなのかということですね。
可是,那又有什么用呢。
それって感覚としては祈るという感覚ではないですよね。
感觉上不像是祷告吧。
だって、呪文ですよ。
因为是咒语。
呪文の力で神を動かして、自分の言うことを聞かせるという感覚ですよね。
感觉是用咒语之力惊动神,让他听自己的话。
あるいは、神の名前を唱えて、神を自分の思い通りに動かそうという感覚です。
或者说,感觉像是念神的名字,想要神按自己所想的行动。
そんな感覚は必要ないんですね。
这样的感觉根本不需要。
神様はあなたのそばで、あなたの祈りを聞いています、とイエス様は言いたいんですね。
耶稣说神就在你的身边,倾听你的祷告,
だから、「彼らのまねをしてはならない」と言うんです。
所以说“不可效法他们”。
何しろ、8節です。
就是第8节。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。
“你们没有祈求以先,你们所需用的,你们的父早已知道了。”
だから、私たちの祈りは聖書を知らない人たちの祈りとは、決定的に違うんですね。
因此,我们的祷告和不知晓圣经的人的祷告绝对是不一样的。
異邦人にとっては神は遠いんです。
对外邦人来说神很遥远。
だから、長く祈らなくてはいけないし、呪文を唱えたり神の名前を唱えて神を動かさなくてはいけないんです。
因此,必须要长时间祷告,必须念着咒语背诵神的名字来惊动神。
でも、神様はそのような方ではないとイエス様は言うんですね。
但是,耶稣说我们的神不是这样的。
何しろ、「願う前から」私たちに「必要なものをご存じ」なんです。
因为“祈求以先”我们“所需用的,就早已知道了”。
「願う前から」ですよ。
是“祈求以先”哦。
私たちが、自分の必要なものに自分で気づく前から、神様はご存じなんです。
在我们注意到自己所需的东西之前,神就已经知道了。
もっと言うと、私たちが、自分で必要だと思っているものよりも、もっと本当に私たちに必要なものをご存じだということにもなるでしょうね。
甚至可以说,神知道我们真正需要的,比我们自己认为的更为必要的东西。
たとえば、お金が必要だと思っていたけれども、そうではなくて、人との出会いが必要だった、というようなことがあるかもしれないですよね。
比如说,虽然觉得钱是必要的,但或许有时候并非如此,与人的相遇更为必要,是吧?
とにかく、神様は私たちに関心を持っておられるんです。
总之,神关注着我们。
そして、私たちのすぐそばにいて、私たちのことを良くご覧になっていて、私たちのことを良く知っておられて、私たちがまだ何も考えない内から、私たちの必要を考えてくださるんです。
就在我们的近旁,好好地看着我们,清楚地知道我们的一切,在我们还什么都没想到的时候,神已经为我们考虑到了我们所需要的。
それは間違いないことですね。
这是肯定的。
今、イエス様が私たちにこのことを伝えてくださっています。
此刻耶稣正在向我们传达这一点。
イエス様は神の子ですね。
耶稣是神的儿子。
神の子が、私たちと一緒にいたくて、居ても立ってもいられなくて、私たちのところに来てくださった。
神子想要与我们同在,为此坐立不安,于是来到了我们这里。
それがイエス様ですよね。
这就是耶稣。
これは私たちがそうしてくれと願ったわけではないですよね。
并不是我们希望他这么做的。
神が人になって私のところに来てくれなんて、そんな大胆なことを願った人は誰もいないんです。
让神化成人来到我们这里,这样大胆的事谁都不会去想。
でも、神様は私たちが願う前から私たちの必要をよくご存じで、私たちのところに来てくださった。
但是,神在我们祈求以先就很清楚我们所需要的,所以来到了我们这里。
神はそういう方なんです。
神是这样的神。
そして、そのイエス様だからこそ、神様のことを今日、「あなたの父」、「あなたがたの父」だと言っています。
正因为是耶稣,今天把神说成了“你父”,“你们的父”。
父なんです。
是父亲。
私の父なんです。
是我的父亲。
私たちの父なんです。
是我们的父亲。
もちろん、イエス様にとっては父ですね。
对耶稣来说当然是父亲。
でも、イエス様にとってだけではない。
但是,不仅仅是对耶稣而言。
神様はどこの誰だか分からないような遠くの神ではないんです。
我们的神不是远到连谁都分不清那般远在天边的神。
私の父なんです。
而是我的父亲。
その父との交わりが祈りなんですね。
与这位父亲的沟通是靠祷告。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と聞くと、祈っても祈らなくても同じなのではないか、と思ってしまいそうですね。
一听到“你们没有祈求以先,你们所需用的,你们的父早已知道了。”,会想说那是不是祷告不祷告都一样呢?
もちろんそれは、神様に願いをかなえてもらおう、ということではそうですね。
当然是希望能实现向神祈求的。
祈ればそれだけ実現する可能性が高まるということではありません。
不是说只要祷告了实现的可能性就提高。
祈ればそれだけ実現する可能性が高まるというのはそれこそ、神を知らない異邦人の祈りじゃないですか。
只要祷告就能提高实现的可能性,这正是不知道神的外邦人的祷告,不是吗?
自分の言葉で神を動かしてやろうっていう。
想要用自己的话感动神。
でも、神様は私たちの本当の必要を全部ご存じなんです。
但是,我们真正的需要,神全部都知道。
神様は私たちが祈ったから初めてそれに気付く、ということはないんですね。
并不是我们祷告了以后神才留意到。
私たちが祈る前からご存知です。
我们祈求以先就知道了。
私たちが何か願い事をする場合、その願いが私たちにとって本当に必要なのなら、それは必ずかなえられるし、それが本当には必要ではないとしたら、どんなに願ってもかなえられないでしょう。
我们所求的如果是我们真正需要的,必定能实现,如果不是真正需要的,怎么求都不会实现。
かなえられる場合でも、神様が考える、それを実現させるのに一番いい時というのはあるでしょうね。
即使能实现,神也要考虑使之实现的最佳时机。
それでは祈ることには意味がないかというとそんなことはありません。
那么是不是祷告就没有意义了呢?当然不是。
私たちのそばに、私たちのことをいつも見守ってくださっている神様がおられるんです。
神一直都在我们身边,保守着我们。
神様は私たちの本当の必要をいつも考えてくださる、父のような方です。
神就如父亲那般总考虑着我们真正的需要。
私たちを愛して、私たちを放っておけない、一人にしておけないといつも思ってくださっている方です。
他爱我们,不放弃我们,不让我们形单影只,总是这样为我们考虑。
私たちはその子どもです。
我们是这些孩子。
だから祈るんですよ。
所以要祷告。
神様と話をするんです。
要与神说话。
祈ることができるというのは、そのような神様と交わることで、もうそれ自体が祝福の時ですよね。
祷告就是与神交通,本身就已经是祝福的时刻了。
そして、だからこそ、私たちは、どんな願いでも神様に打ち明けるんです。
正因为如此,不管什么愿望,我们都可以毫无保留地对神说。