今週の説教「イエスが教えた祈り」(新約聖書・マタイによる福音書6章9節)

「イエスが教えた祈り」

 

新約聖書・マタイによる福音書69

 

だから、こう祈りなさい。

 

『天におられるわたしたちの父よ、

 

御名が崇められますように。

 

 

 

 

 

主の祈りですね。

 

イエス様が教えてくださった祈りです。

 

それで、主の祈り、ということなんですね。

 

この祈りをクリスチャンの多くは暗唱しているでしょうね。

 

私はその時はクリスチャンではなかったのですが、キリスト教の幼稚園に通っていましたので、この主の祈りはいつもお昼寝の時間の前に祈っていました。

 

短い祈りですので、幼稚園児でもすぐに覚えられますね。

 

そして、後になっても覚えているんです。

 

20代後半になって、教会に行ったときからこれだけは何となく覚えていました。

 

ただ、幼稚園だとゆっくり祈りますね。

 

ですので、教会でみんなで主の祈りを祈る時には早いペースで祈りますので、なかなか付いて行けなくて、しばらくしてからみんなに合わせて祈ることができるようになりましたね。

 

 

 

先週も、祈りの話でしたよね。

 

神様は私たちの願いをすべて知っておられるのです。

 

願う前から知っておられる。

 

先週、繰り返されていた言葉ですが、神様は「あなたの父」なんですね。

 

イエス様がそう言っておられましたよね。

 

だから、イエス様が今日教えてくださっている祈りの最初の言葉は「天におられる私たちの父よ」なんです。

 

私たちは父に祈るんです。

 

「だから、こう祈りなさい」っておっしゃっていますけど、そういうことですよね。

 

 

 

まして、神の子イエス様がそう言っているんです。

 

これは、神の側から、こういうふうに祈りなさい、と言われているということですよね。

 

そう考えると、主の祈りというのは大事ですよ。

 

いえ、そもそも、祈りというのがこの上なく大事です。

 

祈りというのは神様との交わりです。

 

私たちと神様との関係は祈りに現れるんですね。

 

私たちが普段祈ることに、私たちと神様との関係が現れるんです。

 

では、私たちはどんなことを祈っているでしょうか。

 

全員に共通している部分もあれば、一人一人で全然違う部分もあるでしょう。

 

ただ、何かを願うということは共通しているのではないかと思いますね。

 

でも、何かを願う時、どういうふうに願うかというところは、一人一人違っているのではないかと思うんです。

 

人によっては直接願うだけかもしれないですね。

 

それは別に悪いことではありません。

 

神様を信頼しているから、ストレートに祈れるわけですからね。

 

ですが、もしかすると、人によっては、条件を付けたりして、その祈りが聞かれたかどうか、はっきり分かるように祈ることがあるかもしれないですね。

 

これこれこういう状況になったら、神様が背中を押してくださっている、と考えさせてください、とか。

 

それもいいと思うんですね。

 

御心がなかなか分かりにくい状況があったりなんかすると、そうやって祈るのも一つの工夫ですよね。

 

そういうふうに祈った人が聖書にも出てきます。

 

旧約聖書にアブラハムという人がいますね。

 

そのアブラハムという人に息子がおりまして、イサクという人でした。

 

そのイサクのお嫁さんを探すために、アブラハムの家の召し使いが旅に出たんですね。

 

その時、その召し使いは、神様、イサクのお嫁さんになる人が現れたら、これこれこういう出来事を起こしてください、というふうに、条件を付けて祈ったんですね。

 

アブラハムの家の召し使いが旅をして、井戸のそばに行きました。

 

当時、水汲みは女性の仕事でした。

 

ですので、井戸で待っていれば女の人がやってくるでしょう。

 

そこで、祈ったんですね。

 

私が水を飲ませてくださいとお願いした時に、水を飲ませてくれる人、というのが第一の条件です。

 

井戸の水は勝手に飲んではいけないんですね。

 

ですので、井戸の持ち主にお願いして、飲んでいいですよ、と言われてから飲むことになります。

 

要するに、その女の人が井戸の持ち主の家族であること、そして、旅人に水を飲ませてくれる人、というのが一つの条件です。

 

そして、もう一つ、この召し使いが付けた条件は、水を飲ませてくださいとお願いした時に、召し使いが連れてきたらくだにも水を飲ませてあげましょう、と言ってくれることですね。

 

そういう女の人がいたら、その人がイサクのお嫁さんになる人だと考えさせてください。

 

条件を付けて祈ったんです。

 

こういう祈り、皆さんはどう思いますか。

 

これ、何かこう、ここまではっきり条件を付けてしまうと、何だか神様を試しているような気持ちになってしまうかもしれませんが、これくらい条件を付けていいんですね。

 

だって、その祈りをして、祈り終わる前に、イサクのお嫁さんになる人がやってきたということなんですね。

 

この祈りで良かったんです。

 

こういう人がいたら、結婚相手だと考えさせてください。

 

こういう条件の通りになったら、こういうことだと考えさせてください。

 

そういう祈りをしていいんですね。

 

条件を付けて祈るのは何か大胆なことをしているような気持ちになるかもしれません。

 

でも、神様はすべての上に立つ方なので、どんな条件を付けたとしても、失礼にはならないですね。

 

だって、どんな条件でも、神様には難しくないから。

 

それだって、神様との一つの付き合い方です。

 

そこに神様との関係がある。

 

 

 

ある人は、小さい頃、神様が本当にいるのかどうかわからなくて悩んだことがあったんだそうです。

 

そこで祈りました。

 

神様、もし神様がいるのなら、明日、雪を降らせてください。

 

冬のことだったんですね。

 

次の日、朝起きると、すぐにカーテンを開けました。

 

でも、雪は積もっていなかったんです。

 

ものすごく気持ちが落ち込んだんだそうです。

 

でも、お昼になると雪が降ったんですね。

 

そうすると、朝、落ち込んでしまったことが神様に対して申し訳なくて仕方がない。

 

その人は大きくなって、牧師になったんですね。

 

 

 

祈りは神様とつながることです。

 

神様とのキャッチボールですね。

 

私たちは何を、どんなふうに祈っているでしょうか。

 

そこに、神様と私たちの関係が現れます。

 

そして、私たちの人生が変わるんですね。

 

 

 

そして、神様も、私たちが祈ることを求めておられますね。

 

そもそも、旧約聖書で、神殿が作られた時、神様が何と言ったでしょうか。

 

神殿ですよ。

 

神殿が作られた時。

 

神殿というのは色々なことをするところですね。

 

ささげものをすることもあります。

 

奉仕をすることもありますね。

 

ただ、神様が言ったことはこういうことでした。

 

「今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける」(歴代誌下7:15)。

 

神様は私たちの祈りを待っておられるんです。

 

 

 

聖書の他の箇所に、こういう言葉もありますね。

 

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ書56:7)。

 

神様が一番に求めるのは祈りです。

 

だから、ある王様はこう言ったんですね。

 

「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない」(サムエル記上12:23)。

 

祈らないことは罪なんです。

 

神に背くことなんです。

 

そうですよね。

 

私たちの祈りに、神様と私たちとの関係が現れるんです。

 

そうなると、祈らないということは、神様に背中を向けることですよね。

 

 

 

何年か前に、東部中会の学生会の夏のキャンプでメッセージをしたことがありました。

 

そこで、学生たちに聞いたんですね。

 

一日にどれくらい祈っていますか。

 

30人くらいの大学生がいました。

 

何と、その内3人は「祈らない」と答えたんですね。

 

祈らないのはダメですね。

 

それは、自分は神様と関係がないと言っているのと同じです。

 

夏のキャンプに来ている人だから、みんな、神様を信じている、って言うと思うんですよ。

 

でも、そんなこと言っても祈らないって言うんだったら、神様と関係のないところで生きています、っていうことになりますよね。

 

それは信じていることにならないです。

 

神様はいる、でも自分とは関係がない。

 

それは神様がいないのと同じです。

 

祈りは神様とつながることです。

 

そして、私たちが神様とどんなふうにつながっているのかが祈りに現れるですね。

 

 

 

その、祈りというもの、神様とのつながりのあり方を神の側から教えられた、というのが主の祈りです。

 

神様が私たちとどういう関係を持ちたいと願っておられるでしょうか。

 

それが主の祈りです。

 

神様と私たちの関係は、この祈りにあるんですね。

 

こんなに短い祈りなんですが、ここに神様との関係のすべてがある。

 

その最初の言葉が「天におられる私たちの父よ」ですね。

 

神様は私たちのことをすべてよく知っておられるんです。

 

そして、ただ知っているというだけではなくて、私たちの父なんです。

 

神様が父で、私たちは子ども。

 

そういう間柄なんですね。

 

そこに心を向けなさい、ということですね。

 

「天におられる私たちの父よ」。

 

そういうふうに祈りなさい。

 

そういうふうに祈られたいと神様も思っているんだよ。

 

こう言われますともう、この最初の言葉に、すべてがあるという感じですね。

 

「父よ」っていうこの言葉を大事にしたいですね。

 

この言葉は祈りを始める時の形だけの言葉ではないんですね。

 

何となく、父よ、と呼びかけているということではないんです。

 

その後に何を祈るかよりも、この言葉が大事なんだと思いますね。

 

神様は私たちの父です。

 

父と子の関係がここにあるんです。

 

父と子の関係って何でしょうか。

 

一番深い関係と言ってもいいですね。

 

切っても切れない関係ですよね。

 

だから、この祈りができるということはもう最高の恵みです。

 

ここの部分を何となく祈るのはもったいないですよ。

 

この最初の言葉だけでも心から口にすることができれば、もうそれだけで十分、というくらいのことだと思います。

 

 

 

だからこそ、気を付けたいですね。

 

主の祈りは本当に簡単な祈りです。

 

幼稚園児でもすぐに覚えられるくらいのものです。

 

イエス様が、これだけで十分だ、と言っているんです。

 

本当に心から祈るなら、これだけで十分なんです。

 

 

 

ただ私たちは時々、先週の異邦人の祈りをしてしまうことがありますね。

 

実際、なかなか祈りが聞かれないことというのはあるわけです。

 

そういう時、私たちは焦って、それこそ先週の異邦人のようにくどくどと呪文を唱えるように祈ることがないとは言えない。

 

神様に何とかして動いてもらおうとして祈るんです。

 

でもイエス様は言うんですね。

 

異邦人のまねをしてはならない。

 

神様を知らない人たちのまねをしてはならない。

 

神様はあなたの父だ。

 

あなたのことをあなた自身よりもよく知っている。

 

だから、神様にお任せしなさい。

 

神様を信頼しなさい。

 

父として頼りなさい。

 

そうすれば、父なる神様があなたを助けてくれる。

 

神様とそういう関係になりなさい。

 

神様を動かそうとするのではなく、神様を信頼するようにしなさい。

 

 

 

主の祈りは、神様と私たちの関係を正しくするものなんですね。

 

主の祈りにはすべてがあります。

 

そのような祈りを私たちは教えてもらったんですね。

 

ですので、大昔には、洗礼を受けて、教会のメンバーになった人にだけ、この主の祈りが教えられたという時代もありました。

 

それもありうる話ですよね。

 

神様との関係はこれだっていう、もう最後の答えのようなことを教えてもらっているんです。

 

こういう関係を持ちなさい。

 

神様はあなたとこういう関係になりたい。

 

逆に言って、心から主の祈りを祈れるなら、もうそれだけで洗礼を受けて良いんだと思いますね。

 

 

 

この祈りを祈りながら、生きていきたいと思います。

 

それは、神様と共に生きることです。

 

神様はいつだって私たちの父です。

 

だって、一度父になったら、もう父でなくなることはないんですから。

 

もちろん、私たちがわがままなことを祈るなら、それは聞かれないでしょう。

 

また、聞いてくださるにしても、一番いい時というのはどんなことにもあるでしょうね。

 

外国のある牧師は言っています。

 

その牧師は親のいない子どもを集めた施設を運営していたんですね。

 

人が足りない、お金が足りないで困ることがあるわけです。

 

しかし、神様に祈ると、本当に必要な時に、本当に必要な分だけ、いつも、与えられてきた、とその牧師は言うんですね。

 

与えられなかった時には、後になってから、それが必要ではなかったと分かった。

 

神様は父である。

 

誰にとっても、親のいない子どもにとっても、永遠の、まことの父である。

 

その父に、祈っていきましょう。

 


的祷告

 

 太福音69

 

 所以,你祷告要这样说

 

 “我在天上的父,

 

 愿人都尊你的名圣。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 是主祷文。

 

 教的祷告。

 

 所以叫主祷文。

 

 祷告基督徒大多都能背吧。

 

 我当时虽然不是基督徒,但上的是基督教幼儿园,主祷文会在午睡前祷告。

 

 是很短的祷告,所以即使是幼儿园的小朋友也能住。

 

 而且之后也一直都得。

 

 25以后去教会后就主祷文多少还记得。

 

 ,幼儿园祷告得很慢的。

 

 而在教会大家祷告主祷文的候是用快奏祷告的,所以我很跟上,一段时间以后才能跟上大家一起祷告。

 

 

 

 

 

 上周也是祷告的话题

 

 神知道我所有的祈求。

 

 在我祈求以先就知道了。

 

 上周反复的,神是“你父”。

 

 的。

 

 所以,今天耶所教的祷告中一开始就是“我在天上的父”。

 

 在向父祷告。

 

 正因如此,耶稣对们说“所以,你这样说

 

 

 

 

 

 而且是神子耶稣这样说的。

 

 也就是神要我们这样祷告。

 

 这样想的,主祷文非常之重要。

 

 不,祷告本来就是无比重要的。

 

 祷告是和神交通。

 

 和神的关系是通祷告来体的。

 

 和神的关系在我平常的祷告中体

 

 那么,我们该祷告什么呢?

 

 有大家都相同的内容,也有每个人完全不同的内容。

 

 我想有事祈求一点是相同的,

 

 但是我想,在祈求的候,如何祈求一点每个人都是不一的。

 

 有的人可能只会直接祈求。

 

 并不是什么坏事。

 

 相信神,所以直接祈求。

 

 但是,或有人了清楚地明白神是否垂听我的祷告而附加条件。

 

 如果这样情况的认为是神在背后支持之的。

 

 这样也可以。

 

 如果有以理解神的心意这类状况,那么这样祷告也是一种方法。

 

 这样祷告的人圣上也有出

 

 中有叫伯拉罕的人。

 

 伯拉罕有个儿子叫以撒。

 

 以撒找新娘,将伯拉罕家的仆人派了出去。

 

 候,仆人祷告,神啊,如果以撒的新娘出要有这样的事显现,他这样附加了条件祷告。

 

 伯拉罕家的仆人出远门,来到了水井

 

 ,打水是女人的工作。

 

 所以,要是等在水井就会有女人来。

 

 所以在那里祷告。

 

 她要水喝时给我水喝的人,是第一个条件。

 

 井里的水是不能随便喝的。

 

 所以,拜托井的主人,允才能喝。

 

 也就是个女子是井主的家人,而且要给过路人水喝,是一个条件。

 

 个仆人附加的另一个条件是,水喝的同,也骆驼喝水。

 

 如果有这样的女子,就她做以撒的新娘。

 

 附加条件祷告。

 

 这样的祷告大家怎么想?

 

 得如此清晰地附加条件的,感像在探神,但是这样附加条件也是可以的。

 

 ,如此祷告束之前,成以撒新娘的人就来了。

 

 祷告

 

 如果有这样的人的,就作为结象。

 

 符合条件的,就成了。

 

 如此祷告也可以。

 

 得附加条件祷告的有点大胆。

 

 但是,神是站在一切之上的那一位,不管附加什么条件都不会失礼。

 

 ,不管是什么条件,神来都不是事。

 

 是和神的一种交流方式。

 

 是和神有关系的。

 

 

 

 

 

 有人在小候,不知道神是否真的存在此而烦恼

 

 于是祷告。

 

 神啊,如果你真的存在的,明天下雪来。

 

 是冬天的事吧。

 

 第二天一早起来,上打开窗帘。

 

 但是雪没有

 

 他心情非常失落。

 

 但是,到中午的候下雪了。

 

 于是,因早上的事感到万分抱歉。

 

 大后成了牧

 

 

 

 

 

 祷告是与神的联结

 

 是与神一一的互相投接球。

 

 祈祷什么、如何祷告?

 

 那体了神与我的关系。

 

 而且改了我的人生。

 

 

 

 

 

 而且神也渴求我祷告。

 

 里,最初建神殿的候,神了什么呢?

 

 是神殿哦。

 

 建神殿的候。

 

 神殿是行各种活所。

 

 有献祭。

 

 也有侍奉。

 

 ,神的是

 

 “我必眼看、耳听,在此所献的祷告。代志下715

 

 神等待着我的祷告。

 

 

 

 

 

 的其它地方也有这样

 

 “我的殿必称万民祷告的殿”(以赛亚书567

 

 神最渴求的是祷告。

 

 所以,有王这样说

 

 “至于我,断不停止祷告,以至得罪耶和。”(撒母耳1223

 

 不祷告是罪。

 

 是背弃神。

 

 是。

 

 的祷告中,体了神与我的关系。

 

 这样不祷告就是背向神。

 

 

 

 

 

 几年前,我给东部中会的学生夏令讲过道。

 

 在那里问过学生。

 

 一天祷告多少呢?

 

 共有30个左右的大学生。

 

 居然其中3人回答“不祷告”。

 

 不祷告的是不行的。

 

 自己与神没关系是一的。

 

 是来夏令会的人所以我想大家都是信神的。

 

 但是,即使了相信神,要是不祷告的就会成在与神不相关的地方活。

 

 不能是相信神

 

 有神但是和自己没有关系。

 

 和没神是一的。

 

 祷告是与神联结

 

 而我与神如何联结在祷告中体

 

 

 

 

 

 与神相接的那一位从神那里学到的祷告就是主祷文。

 

 神希望和我保持怎的关系呢?

 

 就是主祷文。

 

 神和我的关系,在祷告中。

 

 如此短的祷告,但是却包含与神的关系的全部。

 

 第一句是“我在天上的父”。

 

 神知全部的事。

 

 而且不只是知道,他是我的父。

 

 神是父,我是子。

 

 这样的关系。

 

 要把心放在点上,的是个。

 

 “我在天上的父。

 

 这样祷告。

 

 神也认为这样祷告。

 

 这样说,感第一句中已包含了全部,有种感吧。

 

 想珍“父”吧。

 

 这词不只是祷告开始用的形式上的

 

 不是无意中叫出来的父。

 

 得相比后面祷告什么,这话重要。

 

 神是我的父。

 

 包含着父子关系。

 

 父子关系又是什么呢?

 

 可以是最深的关系吧。

 

 是切都切不断的关系。

 

 因此,能这样祷告已是最大的恩惠了。

 

 部分稀里糊涂祷告的就太可惜了。

 

 第一句如果可以从心底里念出来的就已了,我得可以到如此重要的程度。

 

 

 

 

 

 正因如此,希望大家要注意。

 

 主祷文真的是很简单的祷告。

 

 简单幼儿园的小朋友都能

 

 稣说了。

 

 真正从内心深祷告的就足了。

 

 

 

 

 

 只是我常常会做上周异邦人那的祷告。

 

 实际上,有祷告以被垂听的候。

 

 这样候,我会焦躁,正是如此,不能不会像上周的外邦人那喋喋不休地念咒祷告。

 

 如何也想要惊神而祷告。

 

 但是耶稣说

 

 不要学异邦人。

 

 不要学不知道神的人。

 

 神是你的父。

 

 比你自己更清楚你的情况。

 

 因此,托付予神。

 

 神。

 

 当作父来依

 

 ,天父神会帮助你。

 

 要与神成为这样的关系。

 

 不是想着要去惊神,而是要信神。

 

 

 

 

 

 主祷文确定了神和我的关系

 

 主祷文包含了一切。

 

 这样的祷告我受教了。

 

 很久以前,只有受了洗,成教会的一之后,才会被教主祷文,曾有过这样期。

 

 是有可能的。

 

 与神的关系是这样的,如最后的解答那般被教

 

 要保持这样的关系。

 

 神希望与你成为这样的关系。

 

 而言之,自内心地念主祷文的,我想只要点就可以受洗礼了。

 

 

 

 

 

 想要如此祷告而活。

 

 就是与神同在。

 

 神永都是我的父。

 

 ,一旦成了父,就是父了。

 

 当然,我任性地祈求的他也是不会听的。

 

 另外,尽管听了,任何事都有

 

 国外的某个牧师说的。

 

 位牧收养没有父母的孩子,开了孤儿院。

 

 会有因人手不足、金不足而遇到困候。

 

 可是,位牧师说,一跟神祷告,神是只在真正需要的候,供真正需要的份。

 

 没有供的,之后会明白是不需要的。

 

 神是父。

 

 不管对谁,即便是于没有父母的孩子,他也是永的、真正的父。

 

位父祷告吧!