
新約聖書・マタイによる福音書6章9節
だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
祈りは大切ですね。
何しろそれは神様に声をかけることです。
神様に声をかけるんですよね。
総理大臣に声をかける、大統領に声をかけるということになったとしても、大変なことです。
私なんか、想像もできないことですね
でも、神様に声をかけるというのはそれ以上のことです。
私たちは普段から祈っていますから気付かないんですが、すごいことですよ。
とんでもないことなんです。
それだけでなく、祈りが大切だ、というのは、祈りには、神様との関係が現れるからなんですね。
いろいろな祈り方があると思います。
その、それぞれの祈りに、神様との関係がどういうものなのかが現れてきます。
ストレートにお願いするような祈りがあると思います。
もしかすると、祈りが聞かれたかどうかが分かるように条件を付けて祈るという場合もあるかもしれません。
いずれにしても、祈りには、神様との関係、神様との付き合い方が現れるものなんですね。
そして、大事なことは、イエス様は、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるように教えてくださったということです。
神様は私たちの父なんです。
偉い人なのかもしれないけれども、本当のところどういう人なのかも分からないような人ではないんですね。
テレビで見る政治家や大企業の社長とは違うんです。
神様は父です。
この私の父なんです。
だから、神様に信頼して祈りなさい。
イエス様はそう言っているんですね。
そして、今日は、主の祈りのその最初の祈りの内容を見ていきます。
「御名が崇められますように」ということですね。
「御名」、「神様のお名前」ということですけれども、この時代、名前というものは存在そのものを指しました。
ですので、「御名」というのは神様ご自身のことですね。
つまり、この祈りの言葉は、神様が崇められますように、という意味になります。
ただ、普段から教会にいらしている方は、この主の祈りを暗唱している方も多いと思いますが、主の祈りを祈る時、どういう言葉で祈っていますかね。
「願わくは御名を崇めさせたまえ」なんですね。
ここで、「あれ?」と思いますね。
「崇められますように」と「崇めさせたまえ」では、意味が違うんじゃないでしょうか。
「崇めさせたまえ」というのは、「崇めさせてください」という感じですね。
私に崇めさせてください、という感じです。
崇めるのは私ということになります。
それに対して、「崇められますように」というのでは、皆が神様をあがめてくれたらいいなあ、という感じに聞こえますね。
これはどちらがいいんでしょうか。
その前に、知っておきたいことがあります。
原文では、「崇める」というのは「聖なるものとする」という言葉なんですね。
神をあがめるというのは、神を聖なるものとするということなんですね。
しかしそれだと、神様が聖なるものではないということになってしまいます。
聖なるものではないから、それを聖なるものとするんだ、という話なんでしょうか。
おかしな話ですね。
いえ、神様は聖なる方です。
しかし、神様が聖なる方として扱われていないという現実があります。
旧約聖書エゼキエル書36章16節以下などを見ますと、そういうことが書かれているんですね。
要するに、神様は聖なる方なんですが、人が神様を聖なる方として扱わないんですね。
神様をあがめないんです。
これはいつの時代のどこの国でもそういう現実があるでしょうね。
人は神様に背く者であると聖書は言っています。
人は神様を聖なる方として扱わないものなんです。
そこで、旧約聖書エゼキエル書36章にどういうことが書かれているかというと、神様ご自身が、人間が汚した神様の御名を聖なるものとする、ということが書かれているんです。
ここで大事なのは、どういう方法で神様がご自分を聖なるものとなさるのか、ということです。
ご自分が汚されている。
そこにおいて、神様が、ご自分が聖なる方であることを示す。
そう聞きますと、皆さんはどんな方法を思いつきますでしょうか。
神に背く人々を裁く、という方法を思い浮かべるかもしれませんね。
それだって、神様の御名を聖なるものとすることですね。
でも、神様のなさり方は違いました。
神様は、人を救うことによって、ご自分の名を回復させたんです。
人の罪をゆるし、人が再出発できるようにすることによって、神様が聖なる方であると明らかにしたんですね。
神の業を行うことによって、神が聖なる方であることが明らかになるのです。
そして、それによって、人が神をあがめるようになるのです。
そう考えますと、「御名が崇められますように」というのは、私を救ってください、ということですね。
「御名を崇めさせたまえ」でも同じです。
「崇められますように」も「崇めさせたまえ」も、神様を聖なる方としてあがめることができるように、神様の救いの業を行ってください、救ってください、ということなんです。
ただここで、気を付けたいことがあります。
旧約聖書エゼキエル書36章16節以下なんですが、ここのところで神様の名を汚している人たちというのはどういう人たちだったでしょうか。
神の名を汚しているのは、神様が選んだ人々なんですね。
すでに神様が救ってくださって、神様のものとされた人々が、神様を忘れて、神様に背いているんです。
神様が選んだ人々、すでに神様が救ってくださって、神様のものとされた人々、これは今で言うと、教会の人々、私たちのことですね。
私たちが神の名を汚すことがあるんです。
これは気を付けたいところですよね。
私たちもどこかで神様を汚しているかもしれない。
いえ、きっとそうですね。
私たちにももともと、神様に背く性質があるわけですから。
しかし、神様は私たちを滅ぼさないんです。
ゆるして再出発させてくださる。
人があがめるようになる。
だからこそ、心したいですね。
私たちは御名を汚していないでしょうか。
汚しているはずなんですね。
人間は神に背く者です。
私なんて毎日です。
従っているつもりでも背いている、そういう者です。
でも、そんな人間でも神様はゆるしてくださり、その度に、再出発させてくださるんですね。
私はこの通りここに立っております。
神の名を汚しても、ゆるしてくださり、再出発する力を与えてくださるのが神様なんですね。
この祈りを祈っていきたいと思います。
この祈りこそ、私たちが救われている証なのです。
耶稣所教导的祷告(其3)
新约圣经・马太福音6章10节前半节
愿你的国降临。
今天想要大家看“愿你的国降临”这部分祷告。
我们平常在礼拜中念的是“让你的国降临”。
是希望神的国可以在地上实现。
这也是耶稣所教导的祷告。
可是,让神的国实现,那么我们现在的世界是什么国度呢?
如果用圣经的话说的话,似乎就是罪恶的国度。
圣经中说到罪的话,是指违背神。
我们现在正处在违背神的国度中。
正因为如此,耶稣教导我们要祷告说“愿你的国降临”。
世间有苦难。
有悲伤。
可是,神的国,这词也可以翻译成神的支配,就是说现在被罪支配的我们可以进入到神的支配,可以被救赎,圣经中也有这样的约定。
圣经上写着,如果实现了神的支配,苦难和悲伤就没有了。
因此,我们思想着“请将我从这苦难中救赎出来”,来祷告这段主祷文。
耶稣说,像这样祷告就好。
耶稣想要救赎我们。
因为他为了救赎我们,来到了这世间。
耶稣最初开始传道的时候说过这话。
“天国近了,你们应当悔改!”
圣经上的“天”,和“神”是同一个意思。
因此,“天国近了”和“神的国近了”是一样的。
正因为神的国近了,所以说要祷告“愿你的国降临”。
神的国并不是还没有临到。
12章28节,耶稣说了这样的话。
“我若靠着神的灵赶鬼,这就是神的国临到你们了”。
耶稣做了驱逐恶灵的事。
恶灵自然是悖逆神的。
但是神的灵在耶稣的里面。
因此,可以赶走罪恶之国,让神的国降临。
也就是说,神的国就在耶稣所在的地方。
不过,看看我们的现实,还是有劳苦愁烦。
耶稣今天正在教这样的我们祷告“愿你的国降临”。
是“愿降临”。
祈祷降临。
期盼神的国、耶稣降临。
耶稣最初的话语是“天国进了,你们应当悔改”。
是“你们要悔改”。
悔改和天国近了,进入天国就好比是硬币的正反面。
而“悔改”这词,原先是回去的意思。
回到神那里去。
回到神那里的话,神就会接受我们。
期盼这个,就是祈祷“愿你的国降临”。
我们的里面,也会有背离神的时候。
也就是有罪。
谁都是这样的。
因此,会为俗世劳苦愁烦。
可是,正因为在这俗世中,我们才会祈求“愿你的国降临”。
那么,这样祷告的时候,我们会变得怎样呢?
路加福音19章,有撒该的故事。
撒该这人,在耶稣到来的时候,因为无论如何也想要看耶稣一眼就爬到了树上。
为什么必须要爬树呢,因为耶稣周围总是有很多人。
那样的话我们会想,说下让我进去不就好了吗,但这个人是镇上最让人讨厌的人。
被大家认为是罪恶深重的人。
而且,因为个子很矮,所以就算伸直了背也没用。
于是,跑过去抢先爬上了树。
既然爬上了树,说明撒该并没打算和耶稣搭话。
因为从树上搭话会很失礼。
撒该只想见一下耶稣,哪怕一眼也好,就这心思。
可是,耶稣向撒该打了招呼,那天住到了撒该的家里。
撒该是多么地高兴啊。
那人对耶稣说:
“我把所有的一半给穷人,我若讹诈了谁,就还他四倍。”
这人做的是向人收税金的工作。
不管收多少税金都行,众多税金当中规定的部分交给政府,剩下的部分占为己有。
因此,收税金的人令人厌恶。
可是那人对耶稣说:
“我把所有的一半给穷人,我若讹诈了谁,就还他四倍。”
对此,耶稣说:
“今天救恩到了你家。”
神的国临到了撒该那里。
这就是神的国降临。
神的国降临并不是说解决了现实的问题。
和平常一样的现实问题依然在我们的眼前。
撒该也是,他被周围的人认为是罪恶深重的人,这一点现实并没有改变。
不过,以什么心态在这现实世界中生存,这一点完全改变了。
撒该悔改了。
回到了神那里。
并且充满了喜乐。
知道被神子耶稣所爱而喜乐。
没有比这更喜乐的喜乐了。
但是,撒该因这喜乐而超脱了现实。
“愿你的国降临”,祷告的时候重要的是,我们的心要牢牢地记挂爱我们的神、耶稣。
心思集中在这点上祷告,就是“愿你的国降临”。
让我们心向着耶稣。
耶稣是来到我们这里的那一位。
刚才的故事并不是说只有撒该是特别的。
耶稣一直都在我们身边。
即使在十字架上,耶稣也为原谅人的罪而祷告。
并且,耶稣所做的并没有到此结束。
他复活了。
战胜了死亡。
并超越了死亡。
死是支配我们最厉害的力量。
因此,我们与在我们身边的耶稣一起,不管什么时候,即便在死亡面前,到那时候,也要祷告“愿你的国降临”。
只要在这俗世中,我们就无法从苦难中脱离出来。
这样的事必定一直会发生。
但是,我们的心向着耶稣祷告。
这样就能超越现实。
知晓被神所爱的喜乐,即使身处现实,也不会被现实打败而继续生存下去。
总有一天神的国会实现。
这是耶稣所约定的。
而我们要期盼着,祷告“愿你的国降临”。
可以这样祷告。
因为耶稣说可以这样祷告。
耶稣说我们配得上神的国。
祷告这话语,与耶稣一同。
活在这现实中吧。