今週の説教「イエスが教えた祈り(その3)」(新約聖書・マタイによる福音書6章10節前半)

新約聖書・マタイによる福音書610節前半

 

御国が来ますように。

 

 

 

 

 

今日は「御国が来ますように」という祈りを見てみたいと思います。

 

私たちが普段、礼拝の中で読む言葉としては、「み国を来たらせたまえ」ですね。

 

神様の国がこの地上に実現しますようにということです。

 

これも、イエス様が教えてくださった祈りです。

 

しかし、神様の国を実現させてくださいということは、今は、私たちの世界は、何の国だということになるでしょうか。

 

今は、聖書の言葉で言うと、罪の国だということになりそうですね。

 

聖書で罪と言ったら、神に逆らうことです。

 

神に逆らう国に、私たちは置かれている。

 

だからこそ、御国が来ますようにと祈りなさい、とイエス様は教えてくださっているんですね。

 

世界には苦しみがあります。

 

悲しみがあります。

 

しかし、神の国、この神の国という言葉は、神の支配とも訳すことができる言葉なんですが、今罪に支配されている私たちが神の支配に入れられるということ、救い出されるということ、それも聖書は約束しています。

 

神の支配が実現すると、苦しみや悲しみはなくなると聖書は描いています。

 

ですので、私たちは、この今の苦しみから助け出してください、そういう思いでこの祈りを祈ります。

 

そういうふうに祈って良いよとイエス様が言ってくださっているんですね。

 

イエス様は私たちを救いたいんです。

 

私たちを救うために、この世に来られたんですから。

 

 

 

そもそも、イエス様が伝道を始めた時の最初の言葉がありましたね。

 

「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉です。

 

聖書で「天」と言ったら「神」というのと同じことです。

 

ですから、「天の国は近づいた」というのは「神の国は近づいた」というのと同じことですね。

 

神の国が近づいたからこそ、御国を来たらせたまえと祈るように言うんですね。

 

 

 

そして、神の国はまだ来ていないのではありません。

 

1228節にイエス様のこういう言葉があります。

 

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 

イエス様は悪霊を追い出すということをなさいます。

 

悪霊というのはまさに、神に逆らう者ですね。

 

しかし、イエス様には神の霊が宿っています。

 

ですので、罪の国を追いやって、神の国を来たらせることができるんですね。

 

つまり、イエス様のいるところに神の国はあるんです。

 

ただ、私たちの現実を見ると、思い悩み苦しみというのはやっぱりあります。

 

 

 

その私たちにイエス様は今日、「御国が来ますように」と祈ることを教えてくださっています。

 

「来ますように」、なんですね。

 

来てくださいと祈ること。

 

神の国に、イエス様に、来てもらうことを願うこと。

 

イエス様の最初の言葉も、「悔い改めよ。天の国は近づいた」でした。

 

「悔い改めよ」、なんです。

 

悔い改めるのと天の国が近づいて、その天の国に入るのはコインの裏表なんです。

 

そして、「悔い改める」という言葉は、もともとは「立ち返る」という言葉です。

 

神に立ち返るんですね。

 

神に立ち返るなら、神様は私たちを受け入れてくださる。

 

それを願うことが、「御国が来ますように」と祈ることなんです。

 

 

 

私たちの中にも、神の背く部分があります。

 

つまり、罪があります。

 

これはどの人でもそうです。

 

ですから、この世に思い悩み苦しみというのはあります。

 

けれどもその中でこそ、私たちは御国が来ますようにと祈るんですね。

 

 

 

では、そういうふうにして祈る時、私たちはどのようになっていくのでしょうか。

 

ルカによる福音書19章に、ザアカイという人の話がありますね。

 

ザアカイという人は、イエス様がやってきた時、何とかして一目だけでもイエス様を見たいと木に登ったんですね。

 

どうして木に登らなければならなかったのかというと、イエス様の周りにはいつも人がたくさんいたからですね。

 

それだったら、入れてくれと言えばいいんじゃないかと思ってしまいますが、この人は町一番の嫌われ者だったんです。

 

皆から罪深い人だと思われていたんですね。

 

それに、背が低い人でしたから、背伸びしても無理です。

 

そこで、走って先回りして、木に登ったんですね。

 

木に登ったということは、ザアカイとしては、イエス様に話しかけるつもりはなかったでしょうね。

 

木の上から話しかけるなんて失礼ですから。

 

ザアカイとしては、一目だけでも見たい、という気持ちだったんでしょうね。

 

ですけれども、そのザアカイに、イエス様の方から声をかけてくださって、イエス様はその日、ザアカイの家に泊まることになったんですね。

 

ザアカイはどれくらいうれしかったでしょうかね。

 

この人は、イエス様に対して言いました。

 

「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。だまし取っていたものは四倍にして返します」。

 

この人は人々から税金を集める仕事をしていました。

 

税金はいくらでも集めても良くて、たくさん集めた中から決められた分を役所に納めたら、後は自分のものにしてしまって良かったんですね。

 

ですから、税金を集める仕事をしている人たちは嫌われていたんです。

 

ですけれども、この人はイエス様に言ったんです。

 

「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。だまし取っていたものは四倍にして返します」。

 

それに対してイエス様は言ったんですね。

 

「今日、救いがこの家を訪れた」。

 

ザアカイのところに、神の国が来たんです。

 

神の国が来ると、こういうことになるんですね。

 

 

 

神の国が来るというのは、現実の問題が解決されるということではありません。

 

いつもと同じ現実が私たちの目の前にあり続けます。

 

ザアカイも、町の人たちから罪深い人だと思われている現実に変わりはありません。

 

ただ、その現実をどういう気持ちで生きていくのかということは、決定的に変わりましたね。

 

ザアカイは悔い改めました。

 

神様に立ち返りました。

 

そして、大きな喜びにあふれたんですね。

 

神の子イエス様に愛されていることを知る喜びです。

 

これ以上の喜びはないくらいの喜びです。

 

現実は変わりません。

 

ですけれども、ザアカイはその喜びによって現実を乗り越えたんですね。

 

 

 

「御国が来ますように」と祈る時に大事なのは、私たちを愛してくださる神様、イエス様にしっかりと心を向けることです。

 

そこに気持ちを集中して祈るのが、この、「御国が来ますように」なんですね。

 

イエス様に心を向けましょう。

 

イエス様は私たちのところに来てくださる方です。

 

さっきの話は何も、ザアカイにだけ特別に起こった話ではないんです。

 

 

 

イエス様はいつも、私たちの側に立ってくださる方です。

 

十字架の上でも、イエス様は人々の罪のゆるしを祈ってくださったんです。

 

そして、イエス様の出来事はそこで終わらないんですね。

 

復活してくださった。

 

死の力に打ち勝ったんです。

 

死の力も乗り越えたんです。

 

死というのは私たちを一番強く支配する力ですよね。

 

ですから、私たちは、私たちのそばにおられるイエス様と共に、どんな時でも、たとえ死の力を前にしても、そのところで、「み国を来たらせたまえ」と祈るんです。

 

 

 

この世にいる限り、私たちは苦しみの出来事から抜け出すことはできないでしょう。

 

そういう出来事はいつも必ず起こってきます。

 

けれども、その中で、私たちはイエス様に心を向けて祈ります。

 

そうして、現実を乗り越えていくんです。

 

神様に愛されている喜びを知って、現実の中にあっても、現実に打ち負かされずに生きるんです。

 

 

 

いつか、神の国はこの世に実現します。

 

それはイエス様が約束してくださったことですね。

 

そして、私たちはそれを待ち望みながら、「御国が来ますように」と祈ります。

 

祈っていいんです。

 

イエス様が祈っていいと言ってくださったんですから。

 

私たちが神の国にふさわしい、とイエス様が言ってくださっているんです。

 

 

 

この祈りを祈りながら、イエス様と共に、生きていきましょう。

 

この現実の中を、生きていきましょう。