今週の説教「イエスが教えた祈り(その4)」(新約聖書・マタイによる福音書6章10節後半)

新約聖書・マタイによる福音書610節後半

 

御心が行われますように、

 

天におけるように地の上にも。

 

 

 

 

 

イエス様が教えてくださった祈り、主の祈りですね。

 

私たちが礼拝の中で読む言葉としては、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」ということですね。

 

神様の御心がこの世に実現しますように。

 

そういう祈りの言葉です。

 

イエス様が、このことを祈りなさいと教えてくださったんですね。

 

神様の御心がこの世に実現したら、どんなふうになるでしょうか。

 

愛と知恵にあふれる世界。

 

私たちのことをすべて分かった上での愛が、私たちみんなに一杯に注がれる。

 

素晴らしいことです。

 

しかし、御心の実現を求める祈りをしなさいとイエス様が教えてくださったということは、逆に言うと、この世に御心はなっていないということになります。

 

それはそうですよね。

 

愛がなかったり知恵がなかったり。

 

そのために心にも平和がなくなってしまうことというのはあります。

 

 

 

神様のような愛がない、知恵がない、というのは人間の問題ですね。

 

人間はそういう者です。

 

そういう者である人間が「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るようにおしえられているんですね。

 

ただ、神様とは程遠い者である人間がこういうふうに祈る時、本当のところ、何を祈り求めているでしょうか。

 

御心を求める言葉を口にしながら、本当のところ、自分の心が実現することを求めているのではないでしょうか。

 

もしかすると、自分の考えていることが御心と同じだと無意識に思っているということがあるかもしれません。

 

私は先ほど、御心が実現するのは神様の愛と知恵にあふれることで、素晴らしいことだと言いましたけれども、それは私の考えですね。

 

私の心です。

 

 

 

御心を求めるというのはどういうことでしょうか。

 

自分の心ではなく、神様の御心を求めることですね。

 

場合によっては、自分の考えを捨てることが、御心を求めることなんです。

 

 

 

これは先週の、「み国を来たらせたまえ」も同じですね。

 

自分の国、ではないんです。

 

神の国を求めるんです。

 

原文では、国という言葉は支配とも訳せる言葉なんですが、自分の支配ではなく、神様の支配を求めることです。

 

自分が支配者ではないんですね。

 

神様が支配者なんです。

 

自分を捨てて、神様の側に、ということなんですね。

 

 

 

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」というのもそういうことです。

 

もし御心が実現するとしたら、私たちは何も変わらないということはないですね。

 

私たちが私たちだから、この世が御心と違うんです。

 

ですから、御心が実現するということは、私たちが変えられるということです。

 

 

 

ただこの主の祈りは、そもそも、神様に対してどのように呼びかける祈りだったでしょうか。

 

「父よ」と呼びかけるんですね。

 

神様は私たちの父です。

 

ですから、御心というのは、自分の子どもに対する父親の思いです。

 

つまり、私たちは恐れる必要はないんですね。

 

御心が実現しますように、というのでは、自分がどうなってしまうか分からない、というようなことではないんです。

 

私たちは、子どもとして、父親を見上げる。

 

親の考えることと子どもの考えることは違います。

 

御心がなりますようにと祈っても、自分の思いは実現しないでしょう。

 

そこにおいて実現するのは父親の愛、子どもに対する父親の思いなんです。

 

ただ、私たちはそれを信頼して良いということなんですね。

 

 

 

イエス様ご自身にとっても、この祈りは楽なことではありませんでした。

 

十字架に付けられる前の夜、イエス様は祈りましたね。

 

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。

 

汗を流して必死で祈ったんでした。

 

「過ぎ去らせてください」ですよ。

 

神の子イエス様の思いと父なる神様の思いでも、違うんです。

 

私たちの思いと神様の思いが違っていても当然ですよね。

 

イエス様はその時、こらえきれないくらいの思いで祈ったんですね。

 

誰にでも耐えられないことはあるんですね。

 

けれども、最終的に何が実現しましたか。

 

父なる神は十字架の後、神の子を復活させたんですね。

 

父の力は死の力よりも強いんですね。

 

そして最後に、神の子は天に挙げられたんですね。

 

それが我が子に対する父の御心でした。

 

 

 

私たちにも父の御心が理解できないということはあります。

 

あって当然ですね。

 

しかし、わたしたちが理解できないような、受け入れられないような出来事を通して、神様が御心を実現していってくださるんです。

 

私たちには予想もできなかったような大きな祝福を実現してくださるんですね。

 

最後に実現するのは神様の愛です。

 

それを信じていいんです。

 

私たちは十字架と復活を知っているじゃないですか。

 

御心が地上に実現したことを知っているじゃないですか。

 

それが救いの出来事だったと知っているじゃないですか。

 

十字架で終わりではないんです。

 

私たちの現実も。

 

 

 

そして、その中でイエス様が祈ったのが、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」ということでした。

 

だから、私たちも祈るんですね。

 

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。

 

「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」という気持ちを込めて。

 

 

 

この祈りを祈ることは楽なことではありません。

 

ただ、私たちがこのような祈りを祈ることができるのは大きな慰めだと思うんです。

 

イエス様ほどではなくても、私たちも、自分の願いが全く実現しない、自分の願いと全く違うことが起こってくるということに苦しむことがあります。

 

しかし、イエス様は、まさにそのような状況で、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られたんですね。

 

そして、その後に、神の恵みが実現していったんです。

 

自分の思いを捨てて、御心の実現を祈る時、考えもしなかったような祝福にあふれるんですね。

 

私たちも、困難にある時こそ、祈りたいですね。

 

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。

 

これは、最後に必ず恵みの御心が実現すると信じているからこそ、こう祈ることができるんです。

 

神様が私の父だから、こう祈ることができるんです。

 

私たちがこの祈りを祈ることができるのは、それ自体がかけがえのない恵みなんです。

 

耶稣所教导的祷告(4)

 

 新约圣经马太福音610节后半节

 

 愿你的旨意行在地上,

 

如同行在天上。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耶稣所教导的祷告,也就是主祷文。

 

 我们在礼拜时所念的话是“愿你的旨意如同行在天上那样,也行在地上”。

 

 愿神的旨意在这世间实现。

 

 是这样的祷告词。

 

 耶稣教导说要祷告这个。

 

 神的旨意在这世间实现的话,将会变得如何呢?

 

 是充满爱与智慧的世界。

 

 了解我们的全部,在此基础上的爱会满满地浇灌在我们大家的身上。

 

 是非常好的事。

 

 可是,耶稣教导我们要祈求神的旨意实现,反而言之就是,神的旨意在这世上并未实现。

 

 确实如此。

 

 没有爱也没有智慧。

 

 因此内心里面也变得没有平安。

 

 

 

 

 

 没有神那样的爱和智慧,这是人的问题。

 

 人就是这样的。

 

 这样的人被教导说要如此祷告:“愿你的旨意行在地上如同行在天上”。

 

 只是,与神相差甚远的人如此祷告的时候,真正所求的是什么呢?

 

 口里所说的虽然是神的旨意,真正所求的却是实现自己的心意,不是吗?

 

 或许无意识地会认为自己所想的与神的旨意是一样的。

 

 我刚才说神的旨意实现是满了神的爱和智慧,是了不起的事,但这只是我的想法。

 

 我的心思。

 

 

 

 

 

 求神的旨意到底是指什么呢?

 

 不是求自己的心意,而是祈求神的旨意。

 

 某些情况下,舍弃自己的想法,才是祈求神的旨意。

 

 

 

 

 

 这和上周的“愿你的国降临”是一样的。

 

 不是求自己的国。

 

 而是求神的国。

 

 在原文中,国一词也可以翻译成支配,所求的不是自己的支配,而是神的支配。

 

 自己不是支配者。

 

 神才是支配者。

 

 舍己去到神那里,说的是这个。

 

 

 

 

 

 “愿你的旨意行在地上,如同行在天上”,说的也是这个。

 

 如果神的旨意实现的话,我们并不是什么都不会改变。

 

 因为我们就是我们,这世间是与神的旨意相违的。

 

 所以,神的旨意实现就是说我们也会被改变。

 

 

 

 

 

 只是这主祷文,原先是如何称呼神向他祷告的呢?

 

是称为“父”吧。

 

 神是我们的父。

 

 因此,神的旨意就是父亲对于自己的孩子的心意。

 

 也就是说,我们没有必要害怕。

 

 愿神的旨意实现,不是说不知道自己会变为怎样,不是这样的事。

 

 我们作为孩子,尊敬我们的父亲。

 

 父母所想的与孩子所想的不同。

 

 即便祈祷神的旨意实现,自己的想法也不会实现。

 

 这里所实现的是父亲的爱,是父亲对孩子的心意。

 

 我们对此信赖就好。

 

 

 

 

 

 即便是对耶稣自己而言,这祷告也不是那么轻松愉快的。

 

 被钉十字架前一晚,耶稣这样祷告:

 

 “我父啊,倘若可行,求你叫这杯离开我,然而不要照我的意思,只要照你的意思”。

 

 耶稣流着汗拼命祷告。

 

 “请让这杯离开”。

 

 就连神子耶稣的心思也与神的不一样。

 

 我们的心思即使与神不同也是理所当然的。

 

 耶稣那时觉得难以承受这样的苦杯而为此祷告。

 

 谁都有难以承受的事。

 

 可是,最终实现了什么呢?

 

 被钉十字架之后,父神让神子复活了。

 

 父亲的力量比死更强大。

 

 而最后,神子升天了。

 

 这就是神对于我们子女的心意。

 

 

 

 

 

 我们也会有不理解父亲心意的时候。

 

 有也是理所当然的。

 

 可是,通过我们无法理解、无法接受的事情,神将实现他的旨意。

 

 赐予我们意想不到的大大的祝福。

 

 最后实现的是神的爱。

 

 我们信他就是了。

 

 我们知道十字架和复活不是吗?

 

 知晓神的旨意在地上实现不是吗?

 

 这就是知晓了救恩不是吗?

 

 没有因着十字架而结束。

 

 我们所在的现实也是。

 

 

 

 

 

 其中耶稣所祷告的是“不要照我的意思,只要照你的意思”。

 

 因此,我们也祷告。

 

 “愿你的旨意行在地上,如同行在天上”。

 

 也包含了“不要照我的意思,只要照你的意思”这样的心情。

 

 

 

 

 

 如此祷告并不轻松。

 

 不过我想我们能这样祷告是莫大的欣慰。

 

 即使不像耶稣那般,我们也会因自己所求的完全实现不了,因事与愿违而痛苦。

 

 可是,耶稣正是在这样的情况下,祈求“不要照我的意思,只要照你的意思”。

 

 而后,神的恩惠临到了。

 

 舍弃自己的想法,祈求神的旨意的时候,意想不到的祝福就会被充满。

 

 我们也正是在困难的时候,会想要祷告吧。

 

 “愿你的旨意行在地上,如同行在天上”。

 

 正是因为我们相信神的恩惠最终必定实现,才会如此祷告。

 

 因为神是我们的父亲,才会这样祷告。

 

我们能如此祷告,本身就是无比宝贵的恩惠。