「イエスが教えた祈り(その5)」

新約聖書・マタイによる福音書6章11節
私たちに必要な糧を今日与えてください。
イエス様が教えてくださった祈りの言葉を一つ一つ見ていっているところです。
実は、今日のところからが、主の祈りの後半になるんですね。
前半と後半に分けることができるんです。
内容がここから変わってくるんですね。
前半の三つの祈りの言葉はどれも、神様を見つめた祈りでした。
「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が行われますように」ということでしたけれども、どれも、神様を見つめる祈りだったんですね。
そして、ここからは、「わたしたち」をこのように扱ってください、という祈りになります。
もし、私たちが、神様に、まずこれを第一に、ということで祈るとしたら何を祈るでしょうか。
人によってそれぞれだろうと思いますね。
もちろん、イエス様が教えてくださっているとおり、まずは食べ物だ、という人もいるでしょう。
しかし、家族が第一だ、という人もいるでしょうね。
もしかすると、仕事が第一だ、という人もいるかもしれません。
いろいろな意見が出てきそうですね。
その日その日で、何が一番大切なのかが変わってくる、ということもありそうです。
その私たちに、イエス様は、あなたがたにとっては食べ物が第一だ、と言っておられるんですね。
「糧」という言葉がつかわれていますけれども、これは原文では「パン」という言葉です。
要するに、パンという一つの言葉で、食事を表しているんですね。
食べ物が第一なんだよ、とイエス様が言っているんです。
そして、次の12節では何を祈るのかと言いますと、「ゆるし」ですね。
13節では「救い」です。
これ、イエス様はすごいことを言っているような気がしますね。
ゆるしや救いより、パンが第一だって言っているんです。
どうしてでしょうか。
考え込んでしまいそうですね。
私たちはそんなに食い意地が張っているんでしょうか。
ただ、この祈りの言葉をよく見てみると、ハッとしますね。
「与えてください」って祈っているんですね。
ご飯を与えてください。
この、「与えてください」という感覚を、イエス様は伝えようとしておられるんじゃないでしょうか。
私たちの側での感覚としては、食べ物は自分でお金を出して、自分で買うものですよね。
それも、お店に行けばいくらでも食べ物が並んでいるわけです。
何を買うのか、選ぶのに迷うくらいです。
と言いますか、日本は食べ物が余っていて、食べ物を捨てているんです。
食品全体の三分の一を捨てているんだそうです。
三食に一食捨てている、ということですね。
食べ物が余っていて、多くの人は、それを手に入れるのに苦労はしないわけです。
けれども、イエス様は、「ご飯を与えてください」と祈るように教えるんですね。
世界では、栄養不足の子供が6秒に1人の割合で死んでいます。
胸が痛むことですが、今もまた一人、という感じですね。
イエス様の時代には、食べ物というと、感覚としては、今の日本の感覚よりもそういう感覚の方が近かったかもしれません。
ただ、大事なことは、イエス様の時代の人々も、今の私たちも、食べ物というのは基本的に自分で手に入れるものだという感覚だったと思うんですね。
その私たちに、イエス様は、「私たちに必要な糧を今日与えてください」と祈りなさいと言ったんですね。
「与えてください」なんですよ。
「自分の力で手に入れられますように」ってことじゃないんです。
「神様、与えてください」ということなんです。
イエス様は言っておられるんですね。
「食べ物というのは神様から与えられるものだ」。
私たちは、考えを改めなければならないんです。
旧約聖書の詩篇46編11節に、こういう言葉がありますね。
「力を捨てよ、知れ、わたしは神」。
自分の力を捨てるということと神様を知るということが並べて書かれています。
力を捨てることと神を知ることはコインの裏表なんですね。
だから、自分の力に頼っている内は神を知ることはできないんです。
力があろうがなかろうが、それを捨てたところに神様が働いてくださる。
私たちが自分の力でどうにかしようとしているのなら、神様はそこには働いてくださらないんです。
神様は人間の考えを尊重なさる方ですから。
聖書のどのページを見ても、神様が人間の考えをねじまげて、無理やり自分の思うとおりにしたということは書かれていません。
私たちが神に向き合うということは、私たちが自分の力を捨てることに始まるんですね。
そうする時、神様が与えてくださるということが起こってきます。
力を捨てたところに神様が働いてくださるんです。
そのような祈りを、イエス様は、わたしたちにとってまず第一のこととして祈るように教えたんです。
ご飯を食べるというのは、毎日のあたりまえのことです。
しかし、それでこそ、体が作られ、命が守られる、最も大事なことでもあります。
そしてそれを、私たちは自分の力で食べ物を手に入れて食べている、と思っているわけです。
そうなると、私たちは、一番大事なことは自分の力でやっています、ということになってしまいますね。
それも、毎日当たり前のようにやっています、となると、もうこれは神様よりも自分が上になってしまうわけです。
一番大事なことは自分の力でやっていて、神様はちょっとしたサポートをするだけ。
そこで、イエス様は言うんですね。
自分の力を捨てて、神様に大いに働いていただきなさい。
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」とは、そういうことです。
そして、「今日与えてください」なんだから、私たちはこの祈りを毎日祈ります。
これを祈ると、毎日は、神様が私の命を養ってくださる日になります。
食べることは毎日の当たり前のことですけれども、私たちは糧を求めて毎日忙しくしているとも言えますね。
私たちの毎日は糧を求めて一生懸命になっているような毎日です。
そこを神様にお任せするんです。
私たちのするべき生き方は、食べ物のために忙しくするような生き方ではない。
神様の恵みを喜ぶ生き方なんだ。
それがイエス様の言いたかったことではないでしょうか。
ところで、この祈り、私たちが礼拝の中で祈る言葉としては、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という言葉ですよね。
「日用の」という言葉が、この福音書では、「必要な」となっています。
これはどちらが正しいのかなあと思いますが、原文では、「存在の上での」というような言葉がつかわれていました。
食べ物はもちろん、私たちが存在する上で必要なものです。
だから、聖書では「必要」となっているんですね。
ただ、「今日与えてください」と祈るこの祈りは毎日祈る祈りだから、毎日のということで、「日用」というふうに訳されたんでしょうね。
大事なことは、私たちの存在そのものを、神様が養ってくださっているということです。
私たちの存在そのものを神様が支えてください、という祈りなんですね。
そう考えると、もう、祈りということそのものが、食事のようなものですね。
私たちは神様に祈ることによって、存在が支えられていく。
祈りは存在を支える食事です。
そして、考えてみますと、イエス様は、最後の晩餐の時に何をしてくださいましたか。
弟子たちと最後に一緒にいた夜、イエス様がなさってくださったこと、それは、糧を、パンを弟子たちに与えてくださったということですね。
しかも、そのパンに、イエス様は意味を与えてくださった。
これは、私の体である、と。
それを差し出してくださったんです。
命を与えてくださったんですね。
イエス様が最後になさってくださったこと、それは、弟子たちにご自分の命を与える、ということでした。
そう考えますと、「糧を与えてください」と祈るこの祈りは、最後の晩餐の食卓につながっているとも言えますね。
イエス様がそれに応えてくださるのが聖餐式です。
イエス様は、私たちの命を、何よりも大事に思ってくださっているんです。
ご自分自身の命よりも、私たちの命を大事に思ってくださっているんです。
安心して、今日のこの祈りを、これからも祈っていきましょう。
主が、命をかけて私たちを支えてくださいます。
耶稣所教导的祷告(其5)
新约圣经・马太福音6章11节
我们日用的饮食,今天赐给我们。
我们在一句一句地看耶稣所教的祷告词。
事实上,今天的内容是主祷文的后半部分。
主祷文可以分为前半部分和后半部分。
内容从这里开始变了。
前半部分三句祷告词都着眼于神。
“愿人都尊你的名为圣,愿你的国降临,愿你的旨意行在地上如同行在天上”,不管哪一点,都是着眼于神的祷告。
而这里开始,请这样对待“我们”,是这样的祷告。
如果要我们向神祈求第一需要的东西的话会祈求什么呢?
我想因人而异会各不相同。
当然,也会有人像耶稣所教导的那样,先求食物。
可是,也有人会第一先祈祷家人吧。
或许也有人会是工作第一。
似乎会出现很多的意见。
什么是最重要的每一天似乎也会有变化。
耶稣对我们大家说,对你们而言,食物是第一位的。
虽然这里用的是“粮食”,在原文中用的却是“面包”。
总之,“面包”一词所代表的就是食物。
耶稣说食物是第一位的。
而接下来的12节所求的是什么呢?是“赦免”。
13节是“救赎”。
感觉得到耶稣在说很重要的事。
他说比起赦免与救赎,食物是第一位的。
为什么呢?
会陷入思考吧。
我们如此贪吃吗?
不过要是好好看这祈祷词的话,便恍然大悟。
祈祷说“请赐予我们”。
请赐予我们食物。
耶稣想要传达的不就是“请赐予我们”这种感觉吗?
就我们的话会觉得,食物是自己掏钱自己买的东西。
去店里的话要多少有多少食物就在那摆放着。
多到让你困惑于选什么买好。
话说日本食物有剩余且在丢弃。
听说食品的三分之一是丢掉的。
就是说每三份会丢掉一份。
食品过多,大多数人不用太辛苦就能获取。
但是,耶稣教导我们要祷告说“请赐予我们食物”。
世界上每六秒就有一个营养不足的孩子死去。
现在又有一人死去了,会感觉到心痛。
耶稣的时代,说起食物,感觉上比起现在的日本,或许更接近那种想法。
不过重要的是,耶稣时代的人们也好,现在的我们也好,大家都觉得食物基本就是要靠自己获取。
对这样的我们,耶稣要我们祷告说“我们日用的饮食,今天赐给我们”。
是“赐给我们”。
不是“愿用我们自己的双手获取”。
而是“神啊,请赐予我们”。
耶稣是这样说的。
“食物是神所赐予的”。
我们必须要改变思维方式。
旧约诗篇46篇11节,有这样的话:(中文版圣经46篇10节)
“你们要放下一己之力,要知道我是神”。
弃一己之力与知道神并列写在一起。
舍弃自己的力量与知道神如同硬币的正反面。
因此,凭一己之力之时是无法知晓神的。
不管有没有力量,舍弃之后,神就会做工。
我们老想凭自己的力量做事的话,神就不会在那里做工。
因为神尊重人的想法。
不管看圣经的哪一页,都没有写神扭曲人的想法,强迫人按照神的想法去行。
我们面向神,就是从舍弃自己的力量开始。
那时候,神会有神的恩赐。
舍弃自己的力量神就会做工。
耶稣教导我们这样的祷告,我们要当作第一重要的来祈求。
吃饭是每天理所当然的事情。
这也正是强身健体,维持生命最重要的事情。
所以我们会认为依靠自己的力量获取食物吃。
这样的话,会变成,这最重要的事是我们凭自己的力量在做。
每天理所当然地做着,这样的话,就已经把自己放在神之上了。
最重要的事情是靠自己的力量在做,神只是稍微提供一下帮助。
在这里,耶稣说:
舍弃自己的力量,神会大大地做工。
“我们日用的饮食,今天赐给我们”,说的就是这个。
因为“今天赐给我们”,所以我们每天祷告。
只要每天祷告,每一天都是神供养我们的日子。
虽然吃是每天理所当然的事,也可以说我们每天都在为寻求食物而忙碌。
我们每天都在为食物而拼命。
把这交给神。
我们该有的生活方式,不是为食物而忙碌那样的生活。
而是因神的恩惠而喜乐的生活。
这是耶稣想要说的,不是吗?
我们礼拜中祷告词是“我们日用的饮食,今天赐给我们”。
“日用”一词,在这福音书里用的是“必要”。
我们会想哪一个正确呢? 在原文中用的是“生存所需的”。
食物当然是我们生存所必须的。
因此,圣经中用了“必要”。
不过,因为每天祷告“今天赐予我们”,每天就被翻译成了“日用”。
重要的是,神供养我们生存所需的。
请供应我们生存所需的,是这样的祷告。
这样想的话,祷告本身就和饮食一样了。
我们通过向神祈祷,得以生存下去。
祷告是支撑我们生存下去的食粮。
想一想,耶稣在最后的晚餐时做了什么呢?
与弟子们在一起的最后一晚,耶稣所做的,是赐予弟子们食物,面包。
而且,耶稣也赋予了这面包意义。
说这是我的身体。
把这献出来了。
献出了生命。
耶稣最后所做的,是把自己的生命献给了弟子们。
这样想的话,祷告“赐予食物”,也可以联系到最后的晚餐。
耶稣对此的回应是圣餐式。
耶稣认为我们的生命比什么都重要。
相比他自己的生命,认为我们的生命更为重要。
今天的祷告,今后也一起放心祷告吧。
主会用生命来守护我们。