今週の説教「イエスが教えた祈り(その6)」(新約聖書・マタイによる福音書6章12節)

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新約聖書・マタイによる福音書612

 

わたしたちの負い目を赦してください、

 

わたしたちも自分に負い目のある人を

 

赦しましたように。

 

 

 

 

 

「負い目」という言葉が出てきていますね。

 

申し訳ないと思う気持ちのことです。

 

申し訳ないと思うということは、相手に悪いことをしたと思っているということです。

 

それがずっと心の中に残っているということですね。

 

 

 

悪いことをしようと思って悪いことをしたのなら、申し訳ないとは思わないわけです。

 

悪いことをしようと思っていたわけではない。

 

でも、結果として、相手に悪いことになってしまった。

 

あるいは、これは悪いことではないと思っていた。

 

しかし後から考えてみると、良いことではなかった。

 

そうなると、負い目を感じることになります。

 

 

 

誠実な人ほど、負い目を感じることになるでしょうね。

 

負い目を感じることが全然ないという人はよっぽど自分中心の人です。

 

自分中心だったら負い目は感じません。

 

相手に悪いことをしたと言っても、困っているのは自分ではなく、相手なんですから、だったら負い目は感じないですね。

 

 

 

ただ、この「負い目」という言葉を原文で見てみますと、「借金」という言葉なんです。

 

負い目と借金、似ていると言えば似ていますね。

 

借金も、借金して返さないでいたら、困るのは相手です。

 

自分は困らないですね。

 

私たちはお金だけでなく、モノを貸したり借りたりするということもあります。

 

返すことを忘れてしまったり、貸したのに返ってこないということもあります。

 

そういうことは誰にでもあるのではないかと思うんですね。

 

大事なのは、そこで負い目を感じるかどうかです。

 

誠実だったら負い目を感じるわけです。

 

 

 

ただ、この「負い目」、「借金」という言葉は、私たちが礼拝の中で暗唱している言葉としては、また別の言葉で訳されていますよね。

 

「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。

 

原文では「借金」なんですが、「罪」と訳したわけです。

 

聖書では、罪が借金にたとえられることがしばしばあります。

 

罪と借金は似ているんですね。

 

借金は返さないと無くならない。

 

罪も、償わないとなくならない。

 

ちゃんと償いなさいよ、ということで、罪と借金は似ています。

 

私たちは、何かの方法で償ってほしいんですね。

 

 

 

そうなりますと、「自分に負い目のある人をゆるす」というのは大変なことですね。

 

言ってみればそれは、相手が自分から借金をした、でも、相手はお金を返してくれない、けれども、それでいい、ということなんですから。

 

つまり、相手が自分に対してしなければいけないことがあるのに、それをしないわけです。

 

相手が自分に罪を犯した。

 

相手は自分に謝らなければならない。

 

それなのに、何も言ってこない。

 

そんな状況です。

 

負い目があるはずなのに、相手は負い目を感じていないから、何もしないでいる。

 

負い目を感じているなら、謝ってくるでしょう。

 

でも、相手は申し訳ないと思っていないんです。

 

こちらは困っているのに、相手は何とも思っていない。

 

そういう状況なんですね。

 

皆さん、経験ありますよね。

 

「こちらは困っているのに、相手は何とも思っていない」という言葉でインターネット検索すると、不思議なことに出てくるのはほとんどが恋愛の話なんですね。

 

でもこれ、恋愛に限らないでしょうね。

 

どんな人間関係でも、そういうことは起こると思います。

 

悪いことをされると困る。

 

それはみんな一緒ですね。

 

でも、どこまでがセーフでどこからが悪いことなのかは人によって違います。

 

ジャッジが厳しい人もいれば、甘い人もいるわけです。

 

だから、「こちらは困っているのに、相手は何とも思っていない」というのは、いつでもどこででも起こることです。

 

親しい付き合いになればなるほど起こるでしょうね。

 

恋愛もそうですし、夫婦だともっとそういうことは起こってくるでしょう。

 

こういうことというのが起こらない場所はないんでしょうね。

 

そう考えますと、私たちは皆、周り中の人にお金を貸して、周り中の人からお金を借りて、そうして生きているということになりそうです。

 

 

 

ただ、今日イエス様が教えてくださっている祈りは、「わたしたちの負い目を赦してください」というのが先に来ているんですね。

 

人間同士のことは後なんです。

 

先に、神様、私の罪をゆるしてください、と祈るんです。

 

私たちは皆、まず、神様に対して負い目があるということです。

 

一番大きな負い目があるんです。

 

誰に対する負い目よりも、誰からの負い目よりも、一番大きな負い目は神様にあるんです。

 

ただ、神様はそれをゆるしてくださる方だから、まず、それを祈りなさいとイエス様は教えてくださったんですね。

 

 

 

神様に対して負い目がある、と言われますと、私たちは、分かるような分からないような、複雑な気持ちになりますね。

 

人間同士で負い目を感じることはありますよ。

 

でもそれ、借金のたとえで言ったら、金額で言うとどれくらいでしょうか。

 

100万円、という人がいるかもしれないですね。

 

もしかしたら、1,000万円、という人もいるかもしれないですね。

 

では、神様に対する負い目は何円くらいでしょうか。

 

イエス様がなさってくださったたとえ話に、罪の値段を1万タラントンだとした話がありますね。

 

私たちの罪の値段は1万タラントンなんです。

 

1万タラントンとは、いくらくらいになるんでしょうか。

 

これが実は、6,000億円なんです。

 

これが、私たちの、神様に対する負い目なんですね。

 

私たち人間同士の間で、1万円2万円、というのはよくあることでしょうね。

 

100万円だってあるかもしれないし、場合によっては1,000万円ということだってあるかもしれません。

 

でも、私たちは誰も、誰か他の人から、6,000億円分の嫌な思いをさせられた、ということはないんじゃないでしょうか。

 

イエス様は言うんです。

 

私たちがどれくらい神様に嫌な思いをさせているかというと、6,000億円分だ、と。

 

そこまでですか、と思ってしまいますね。

 

けれども、神様は完全な方です。

 

私たちは全然不完全ですね。

 

知識も経験も限られているわけです。

 

それなのに、ほんの小さな自分の知識と経験の中で考えて、これが正しい、と思ったらその通りにしたがるわけです。

 

でも、それが本当に正しいかどうか、ですよね。

 

 

 

正しいか間違っているか、というと、現代では、科学というものがあります。

 

科学というのは正しいと言えるものと間違っているものを分ける方法ですね。

 

1861年に、フランス科学院は、「聖書を否定する科学的事実が51もある」というパンフレットを発行しました。

 

しかし、その後100年の間に、聖書を否定した51の科学的事実の方が間違っていたということが明らかになったんですね。

 

ということは、今も科学というものはあるが、今の科学は100年後にはどうなっているでしょうか。

 

人間が一生懸命考えても、人間の考えることというのは完全ではないんですね。

 

頭のいい人たちが考えたことでも、100年経ったら全部消えてしまうんです。

 

それなのに、その時代その時代には、これが絶対に正しいんだ、と信じられている。

 

神様を無視して、自分の考えを信じている。

 

それは、神様から見たらどういうふうに映っているでしょうか。

 

もうほんとに、手の付けようがないですね。

 

どうしようもないくらい間違っているんです。

 

6,000億円というのはそういうことでしょうね。

 

どうしようもないということです。

 

私たちも、100万円とか1,000万円だったら頑張って返そうと思うかもしれません。

 

でも、6,000億円なんです。

 

呆然ですよね。

 

私たちにとってもどうしようもないんです。

 

 

 

そのどうしようもないところで、私たちの罪に対する罰を受けてくださったのが、イエス様でした。

 

十字架にかかってくださったのは神の子だったんですね。

 

人間ではないんです。

 

人間には6,000億円は返せないですね。

 

私たちの罪に対する償いをするには、神の子が命を投げ出さなければならなかったんです。

 

人間にはどうしようもないから、神の子が引き受けてくださったんです。

 

 

 

大事なのはそこですね。

 

私たちの罪をイエス様が代わりに償ってくださったんです。

 

その時には、人は誰もゆるしてくださいなんて言わなかったのに、ご自分からそうなさってくださった。

 

神様はゆるしてくださる方なんです。

 

私たちの罪を6,000億円なんて言っている。

 

どうしようもない人間だと言っている。

 

でも、見捨てないんです。

 

私たちのためなら、命だって投げ出すんです。

 

私たちの中の、ただの一人だって、失われてほしくないんです。

 

自分が身代わりになっても構わないんです。

 

それくらい、もうまともではないくらいの思いで、私たちを愛しているんです。

 

 

 

ただ、それでも、私たちが神様と同じように完全になれるわけでありません。

 

私たちは、借金を帳消しにしてもらっただけですから。

 

私たちは相変わらず間違いつづけていくんです。

 

だから、祈るんですね。

 

「わたしたちの負い目を赦してください、

 

わたしたちも自分に負い目のある人を

 

赦しましたように」。

 

 

 

神様は私たちの負い目を必ずゆるしてくださいます。

 

私たちはそのことを知っています。

 

イエス様が実際にして見せてくださったことですからね。

 

6,000億円だって帳消しにしてくださるんです。

 

私たちは神様のゆるしの中を生きているということです。

 

 

 

だから、私たちも、人の罪をゆるします。

 

私たちはゆるしの中を生きているんだから、人をゆるせるんですね。

 

もし私たちが人をゆるせないなら、それって、私たちが、自分が神様にゆるされているということを信じていないということです。

 

だって、自分は6,000億円分ゆるされたのに、人には100万円分ゆるせないなんて、そんなことはないじゃないですか。

 

イエス様も、たとえ話の中でそういうことではいけないと言っておられますけれども。

 

ゆるしの中を生きているから、ゆるすことができる。

 

ゆるせないというのは、自分がゆるされていることが分かっていないということです。

 

 

 

そして、気を付けていただきたいのは、これは交換条件ではないんだということです。

 

私たちが人をゆるすから、神様も私をゆるしてください、ということではないんですね。

 

だって、イエス様が十字架にかかる時、誰も、私の代わりに罪を償ってくださいなんて言わなかったですよ。

 

私たちが何も言わない先から、神様は私たちをゆるしてくださったんです。

 

そのゆるしの中を生きるから、私たちも人をゆるすんです。

 

大体、私たちが人をゆるすとしても、せいぜい100万円とかの話ですよね。

 

100万円ゆるしましたから、6,000億円ゆるしてくださいなんて、そんなことは言えません。

 

私たちはただひたすら、ゆるしの中を生きるんです。

 

ゆるされていることを喜んで、喜んで人をゆるすんです。

 

そういうふうに生きていきなさい、とイエス様は言っているんですね。

 

 

 

私たちは皆、周り中の人にお金を貸しているし、周り中の人から借金しています。

 

周りの人から嫌な思いをさせられて、周りの人に嫌な思いをさせて、その中で、それこそ借金の取り立てをしてやりたいという思いを抱いて生きている。

 

そんな生き方はしなくていい、とイエス様は言っているんですね。

 

ゆるされていることを喜んで、喜んで人をゆるしなさい。

 

これが、イエス様が教えてくださっている新しい生き方なんです。

 

 

 

借金を帳消しにするというのは楽なことではありません。

 

貸したお金が返ってこないんですから。

 

つまり、自分が損をするということなんです。

 

でも、イエス様は、この私一人のためだけでも、6,000億円の損を引き受けてくださったんですね。

 

イエス様は大変な損を引き受けてくださったんです。

 

私たちも、ゆるす時に損をします。

 

ゆるすということは損をするということです。

 

ものすごい損をすることだってあるかもしれません。

 

ただ、私たちが損をするというのは、私たちが、キリストと同じ体験をするということです。

 

それは、キリストの側に立つことなんです。

 

そこでこそ、私たちは、ゆるされていることのありがたさが分かるんじゃないでしょうか。

 

それでこそ、私たちは、本当にゆるしの中を生きることができるんじゃないでしょうか。

 

新しい生き方をしましょう。

 

ゆるすことは損をすることだと言いましたが、ゆるせないことはもっと損をすることです。

 

これはイエス様がたとえ話の中で語っておられることですが、6,000億円ゆるされたある人は、自分が貸していた100万円をゆるさなかったんです。

 

そうすると、どうなったか。

 

その人は、牢屋に入れられてしまったんですね。

 

ゆるせないということは損をすることです。

 

ゆるせないというのは、たった100万円のために6,000億円を失うようなことなんです。

 

ゆるされていることを喜んで、喜んで人をゆるす、イエス様が開いてくださった、新しい人生を生きていきましょう。

 


耶稣所教导的祷告(6)

 

 新约圣经马太福音612

 

 免我们的债

 

  如同我们免了人的债。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出现了“負い目”这个词。(“負い目”日文版圣经对债的翻译,其日文解释有内疚的意思)

 

 是指感到内疚的心情。

 

 觉得内疚是指觉得对人家做了坏事。

 

 这种感觉一直缠绕在心头。

 

 如果想要做坏事而去做的话,就不会觉得内疚了。

 

 没有想要做坏事。

 

 但结果对人家做了坏事。

 

 或者觉得这并不是坏事。

 

 可是后来想想,觉得不是好事。

 

 这样的话,就感觉内疚了。

 

 

 

 

 

越是诚实的人,越容易觉得内疚。

 

 完全不觉得内疚的人是非常自我的。

 

 自我的人不会有内疚的感觉。

 

 虽说对人做了坏事,因为为难的不是自己,而是对方,所以不觉得内疚。

 

 

 

 

 

 但是,“負い目这词如果翻看原文圣经的话,是“债”的意思。

 

 内疚与债,要说相似的话确实有相似之处。

 

 债也是,如果借了不还的话,为难的是对方。

 

 自己不会为难。

 

 不只是钱,我们还借进借出各种东西。

 

 有忘记还的,也有借出去了没有还回来的。

 

 我想这种事情谁都有。

 

 重要的是,会不会觉得内疚。

 

 诚实的话就会觉得内疚。

 

 

 

 

 

 不过,“内疚”“债”,在我们礼拜时背诵的话中,又是另外的翻译。

 

 “原谅我们的罪,如同我们原谅人的罪”。

 

 原文中的“债”,翻成了“罪”。

 

 圣经中经常把罪比喻成债。

 

 罪和债很相似。

 

 债不还不会变无。

 

 罪也是,不赎罪也不会变无。

 

 要好好赎罪,这一点罪与债很相近。

 

 我们总是希望对方用尽办法补偿我们对吧。

 

 

 

 

 

 这样的话,“原谅那些欠自己债的人”就很困难了吧。

 

 换句话就是,人家借了自己的钱没有还,而自己却说没事不用还的,是这样的情况。

 

 也就是说,对方必须要对自己做的事却没有做。

 

 人家对自己犯了罪。

 

 对方必须要道歉。

 

 然而却什么也没有说。

 

 是这种情况。

 

 本该觉得愧疚的,而对方却由于不感到内疚,就什么也没做。

 

 要是觉得内疚的话,就会来道歉。

 

 但是对方不觉得内疚。

 

 自己这里很为难,对方却不以为然。

 

 是这种状况。

 

 大家有经验吧。

 

 “自己很为难,而对方丝毫不觉得”这话在网上一搜,不可思议的是大部分都是恋爱的话题。

 

 但是这并不局限于恋爱吧。

 

 我想不管是什么关系,都会有这样的事。

 

 被人使坏而为难。

 

 这点大家都一样。

 

 但是,到什么地步不要紧,什么地步开始变糟糕了,这个界限设定因人而异。

 

 有界定严厉的人也有比较宽松的人。

 

 因此,“自己很为难,对方却丝毫不觉得”这种情况不管什么时候什么地方都会发生。

 

 关系越近越容易发生是吧?

 

 谈恋爱也是,夫妻之间这种事情更多吧。

 

 这种事情无处不在。

 

 这样想的话,我们大家似乎就是借给人钱,问人家借钱,这样生存着。

 

 

 

 

 

 但是,今天耶稣所教导的祷告,先出现的是“免了我们的债”。

 

 人与人之间的债在后面。

 

 首先祈求神原谅我们的罪。

 

 我们大家首先愧对于神。

 

 是最大的亏欠。

 

 相比对人的亏欠或是来自于他人的亏欠,最大的亏欠是对神。

 

 但是,神会原谅我们,所以耶稣教导说先要祈祷这个。

 

 

 

 

 

 说到对神有亏欠,我们似懂非懂,心情比较复杂。

 

 与人之间的愧疚之感很容易感受到。

 

 这要是比作债的话,金额大概是多少呢?

 

 或许有人会说是100万日币。

 

 或许也有人说是1000万日币。

 

 那么,对神所欠的债又是多少呢?

 

 在耶稣的比喻中,有说到过罪的价格相当于一万塔伦特。

 

 我们的罪是一万塔伦特。

 

 一万塔伦特的话,大概多少呢?

 

 实际上是6000亿日币。

 

 这就是我们欠神的债。

 

 我们相互之间经常会欠个一两万日元。

 

 或许有100万日元的,特殊情况也有可能有1000万日元的。

 

 但是我们谁也不会招到如欠6000亿日元那般的嫌弃,对吧?

 

 耶稣说:

 

 说到我们做了让神有多嫌弃的事,就好比欠了6000亿日元的债。

 

 我们会想,竟然到了这地步吗?

 

 但是神是完全的。

 

 我们是极度不完全的。

 

 知识和经验都是有限的。

 

 然而,如此渺小的自己凭着有限的知识和经验来考量,觉得这是对的就会去做。

 

 但是,这样真的是正确的吗?却有待商榷。

 

 

 

 

 

 说到正确与否,现在的话有科学。

 

 科学是区分正确与否的方法。

 

 1861年法国科学院发行了叫做《否定圣经的51处科学依据》的宣传册。

 

 可是,后来的100年间,证实了否定圣经的51处科学依据是错误的。

 

 也就是说,现在虽有科学,但是现在的科学100年以后会是什么情况?

 

 即使人类拼命思考,人所想的也是不完全的。

 

 即便是头脑好的人想出来的东西,经过100年也全没有了。

 

 然而,在各个时代都相信这是绝对正确的。

 

 无视神,相信自己的想法。

 

 这在神看来是怎样的呢?

 

 真的是已经束手无策了。

 

 已经错到无药可救的地步了。

 

 6000亿日元的话就是这状况。

 

 毫无办法了。

 

 我们或许会觉得100万日元1000万日元的话努力一下还能还。

 

 但是,是6000亿日元。

 

 傻眼了吧。

 

 对我们而言根本无能为力。

 

 

 

 

 

 在我们毫无办法的情况下,为我们的罪受罚的是耶稣。

 

 被钉十字架的是神的儿子。

 

 不是人。

 

 人无法偿还6000亿日元的债。

 

 要赎我们的罪,神子必须献出生命。

 

 因为人已经无能为力了,所以神子担当了。

 

 

 

 

 

 重要的是这。

 

 耶稣代替我们赎了罪。

 

 那个时候,谁也没说请原谅我们,是耶稣自己这么做的。

 

 神是赦免的神。

 

 他说我们的罪相当于6000亿日元的债。

 

 说我们已经无法挽救了。

 

 但是,神没有抛弃我们。

 

他为我们舍命。

 

 不希望我们中间有一人迷失。

 

 哪怕牺牲自己也在所不惜。

 

 如此这般非同寻常地爱着我们。

 

 

 

 

 

 只是,即便如此,我们也无法变得同神那般完全。

 

 因为我们只是被清了帐而已。

 

 我们仍然在继续错下去。

 

 所以,要祷告:

 

 “免我们的债,  如同我们免了人的债。”

 

 

 

 

 

 

 

 神必定会原谅我们。

 

 我们知道这一点。

 

 因为耶稣让我们真真切切地看到了。

 

 6000亿日元的债清了。

 

 我们活在神的饶恕中。

 

 

 

 

 

 因此,我们也要原谅人的罪。

 

 因为我们活在饶恕中,所以也能饶恕人。

 

 要是我们不饶恕人的话,这就是说我们不相信自己被神饶恕了。

 

 因为自己被免了6000亿日元的债,却不能免人家100万日元的债,这样的事情不大会有吧?

 

 耶稣也在比喻中说不能行这样的事。

 

 因为活在饶恕中,所以也能宽恕人。

 

 不能饶恕就是不晓得自己被饶恕。

 

 

 

 

 

 而要注意的是,这不是交换条件。

 

 因为我们饶恕了别人,所以神也饶恕我们,不是这样的。

 

 因为耶稣被钉十字架的时候,谁也没说请代替我们赎罪。

 

 在我们还什么都没说的时候,神就已经赦免了我们。

 

 因为活在这赦免中,所以我们也要宽恕他人。

 

 基本上即便我们原谅他人,充其量也就如100万日元的程度了。

 

 不能说因为我们免了他人100万日元,所以也被免了6000亿日元。

 

 我们只要一心一意活在赦免中。

 

 因被饶恕而喜乐,并且愿意宽恕他人。

 

 耶稣说要这样过活。

 

 

 

 

 

 我们大家有把钱借给他人的,也有借人家钱的。

 

 有被人嫌弃的,也有嫌弃人的,正因为如此,想着要催债,抱着这样的想法过活。

 

 耶稣说不要过这样的生活。

 

 喜乐于被饶恕,并且也要乐意宽恕人。

 

 这是耶稣所教导的新的生活方式。

 

 

 

 

 

 把债消了不是什么愉快的事情。

 

 因为借出去的钱回不来了。

 

 就是说自己损失了。

 

 但是,耶稣即使只为我一个人,也愿意承受6000亿日元的损失。

 

 耶稣承受了不得了的损失。

 

 我们宽恕人的时候也会受损失。

 

 饶恕就是损失。

 

 或许是相当大的损失。

 

 但是,我们受损失就是体验与基督同样的经历。

 

 就是我们站在了基督的身旁。

 

 正是在那样的时刻,我们才能明白宽恕的重要性不是吗?

 

 也正是在那样的时刻,我们可以真正地活在饶恕中,不是吗?

 

 让我们开启崭新的生活方式。

 

 虽然说饶恕是会有损失,但是不饶恕是更大的损失。

 

 这在耶稣的比喻中说到了,被免了6000亿日元债的人,没有免人家100万日元的债。

 

 后来如何了呢?

 

 那人被关进了牢房。

 

 不饶恕才是损失。

 

 不饶恕就好比是为了100万日元损失了6000亿日元。

 

喜乐于被饶恕,并且愿意饶恕人,让我们活出耶稣为我们开辟的崭新的人生。