今週の説教「神の働きをするとは何をすることか」(新約聖書・使徒言行録3章1-10節)

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神の働きをするとは何をすることか

 

新約聖書・使徒言行録31-10

 

1ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。2すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。3彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。4ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」7そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。9民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。10彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

 

 

 

 

 

今日は、新約聖書の使徒言行録の言葉に聞いてみたいと思います。

 

『使徒言行録』の「使徒」という言葉ですが、これはイエス様に最も近い弟子であった十二弟子を指す言葉ですね。

 

その言行録ということですので、平たく言うと、直弟子たちの言葉と行いの記録ということです。

 

この『使徒言行録』は最初に、イエス・キリストと弟子たちとの別れをまず描いています。

 

これから弟子たちの歩みが始まるんだということですね。

 

そして、弟子たちに聖霊が降ります。

 

聖霊というのは神の霊ですね。

 

神の霊が弟子たちに与えられるということは、イエス・キリストが約束してくださっていたことでした。

 

つまり弟子たちは、今まではイエス様と共に歩んでいたわけです。

 

そして、これからは聖霊と共に歩んでいくということです。

 

その弟子たちの歩みはどのようなものだったかということがこの使徒言行録3章から描かれます。

 

 

 

その最初に挙げられているのが、今日のこの癒しの奇跡なんですね。

 

とても大きな働きですよね。

 

生まれつきの障がいを治したということなんです。

 

ただ、この癒しの奇跡は、ペトロとヨハネが、「今日は癒しの業を行おう」ということで行ったということではないんですね。

 

二人の弟子は、「午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」と書かれています。

 

午前九時と午後三時に祈る習慣があったんですね。

 

ですので、二人の弟子は、いつも通りのことをいつも通りしようとしていたんです。

 

いつもの通りにしている中で、考えてもいなかったことに、神の働きをすることになったんですね。

 

いつもと変わらない一日の中に、神の業が現れたということなんです。

 

私たちで言うと、日曜日に朝十時半から礼拝がありますね。

 

その礼拝に向かう道の途中で、神の業が現れた、というようなことです。

 

ですので、今日の話は注意して聞きたいですね。

 

この話は、ペトロとヨハネだけの話ではないんです。

 

私たちにもいつ起こってもおかしくないことなんです。

 

 

 

さて、二人の弟子が神殿の入り口まで来たところで、生まれながら足の不自由な男が運ばれてきました。

 

生まれつき自分の足で立つことができない人です。

 

この時代にはこのような人は物乞いをして生きるしかなかったんですね。

 

3節でこの人はペトロとヨハネを見て、声をかけます。

 

この人はペトロとヨハネを見たんですね。

 

見たと書かれていますが、見たというより、見かけたという感じでしょうか。

 

とにかく近くを通る人皆に、この人は声をかけていたのではないかと思うんですね。

 

それに対して、二人の弟子はどうだったでしょうか。

 

この人を「じっと見た」んですね。

 

おそらくは足を止めて、この人を見つめたんです。

 

ここから、神の業が始まっていきます。

 

 

 

じっと見るとはどういうことでしょうか。

 

単に見る、ということではありませんよね。

 

じっと見るということは、相手がどのような人なのか、心の奥まで見ようとする、ということでしょう。

 

相手の人はこんなふうに言っているが、相手の本当の必要は何か。

 

この人は、本当のところ、どんなふうにならなければいけないか。

 

相手の存在と向き合う。

 

これが、聖霊と共に歩む弟子の在り方だということなんですね。

 

 

 

聖書は、人間には罪があると言います。

 

罪というのは原文では的外れという言葉です。

 

かたよって自分を愛してしまうということです。

 

つまり、人間というのは自分ばかりを見つめているものだということですね。

 

そうではなく、人のことをじっと見るようになる。

 

相手のことを真心から考えるようになる。

 

私たちがそのように変えられるというのが聖霊の働きなんです。

 

 

 

その次がまたすごい言葉ですね。

 

こんなことは普通言わないと思うんです。

 

二人の弟子は足の不自由な人に対して、「わたしたちを見なさい」と言ったんですね。

 

これは一体なんでしょうか。

 

この人は二人の弟子に、施しを求めたんです。

 

ということはもう、この人はずっと二人の弟子を見ていたはずです。

 

それなのに、「わたしたちを見なさい」と言うのは、ただ見るというのとは違う意味で、自分たちを見るように言ったということになりますね。

 

二人の弟子がこの人をじっと見たように、この人も二人の弟子をじっと見るんです。

 

お互いにしっかりと見つめ合うんですね。

 

 

 

自分が相手を見つめるだけではありません。

 

相手にも自分を見つめるように求めるんです。

 

人間同士の関係を結ぶということです。

 

そのようにしなさい、と私たちも言われているんですね。

 

私たちはまず、相手のことを良く見て、お互いに良く見合って、関係を結ぶようにと言われているんです。

 

自分を見るのではなく、相手を見る。

 

それも、お互いにそうする。

 

人間関係を結ぶ。

 

 

 

「わたしたちを見なさい」と言われたこの人は、「何かもらえると思って二人を見つめていた」とあります。

 

「何かもらえると思って」、なんですね。

 

この人の方では、相手との関係を結ぶなんて考えてもいなかったということです。

 

そういうことというのは当然起こってくることです。

 

私たちが相手のことを良く見て、相手の状態を良く知って、相手の本当の必要を考えたとしても、相手が自分のことをどういう思いで見ているかは分かりません。

 

相手は自分のことを、その人の都合でしか見ていない、ということは当然あることです。

 

というよりも、人間が罪人だというのなら、それが普通ですよね。

 

 

 

ただ、今日の話は、それでもいいんだ、という話なんです。

 

二人の弟子は言います。

 

二人の弟子は、相手の人が物欲しそうに自分を見ているということが分かっていました。

 

そこで、言います。

 

「わたしには金や銀はない」。

 

しかし続けて、「持っているものをあげよう」。

 

物欲しそうに自分を見るこの人に言ったんですね。

 

「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。

 

この言葉は何でしょうか。

 

イエス・キリストによって、この人の本当の必要が満たされるということです。

 

 

 

私たちは、どこかの誰かと人間関係を結ぼうとしても、相手は自分のことをその人の都合でしか考えないということはありえます。

 

そして、その時、相手の希望にいつも応えることができるかと言われると、そうではないですね。

 

「わたしには金や銀はない」ということはいろいろな場合にあることです。

 

しかし、キリストの弟子である私たちは、相手が希望することとは違っても、それ以上の、本当の希望を与えることができるんです。

 

それが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」ということなんですね。

 

この時代には障がいは罪の力によって起こると考えられていました。

 

そこで、弟子たちはキリストの名によって障がいに打ち勝つように励ましました。

 

罪の力に打ち勝つように励ましたということです。

 

キリストの力によって罪の力に打ち勝たせたんですね。

 

結局のところ、すべての不幸というものは罪の力によって起こると言えますが、罪の力に勝利したイエス・キリストの救いの力を宣言したということなんです。

 

それがいつだって私たちのするべきことだということですね。

 

体が治ったということが大事なのではないんです。

 

イエス様も体を治すということをしばしばなさいましたが、それは、病気や障がいは罪の力によって起こると考えられていたからです。

 

イエス様がなさったことは、罪の支配からの解放ですね。

 

そのためのいやしです。

 

病気や障がいをいやすことが目的ではないんですね。

 

罪の支配から人を解放してくださったんです。

 

私たちもするべきことは同じなんですね。

 

罪が支配している現実はいつでも、どこにでもあります。

 

その場所で、私たちは、解放の宣言をしていくんですね。

 

罪の力より神の力の方が強いということを宣言していくんですね。

 

場合によっては、言葉ではなく行いで宣言するということもあるでしょう。

 

場合によっては、ただ一言、「大丈夫ですよ」と言うだけのこともあるかもしれません。

 

場合によっては、ただ相手と共にいるということもあるかもしれません。

 

とにかく、罪の力よりも強い神の力が、自分を通して相手に及ぶことを信じるんです。

 

 

 

そのためには、私たちがまず、イエス・キリストの救いの力を信じていなくてはなりませんね。

 

イエス・キリストはどんな罪の力よりも強い。

 

そのことを信じて、感じて、毎日を生きることです。

 

その私たちがイエス・キリストの救いの力を宣言する時、何が起こるでしょうか。

 

この人は踊り上がって立ち、歩きだしたと書かれています。

 

それだけではないですね。

 

この人は、「神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」。

 

礼拝するようになったということです。

 

キリストの力はこのように人を変えるんですね。

 

 

 

これと同じことは私たちにも起こります。

 

日曜に、教会に向かって歩いている中ででも起こりうることなんです。

 

どうぞ、皆さん、その時を待ち構えていてください。

 

信じて行動する時、キリストの力が現れます。

 

救いが起こります。

 

神的做工是什么

 

 新约圣经使徒行传31-10

 

 申初祷告的时候,彼得、约翰上圣殿去。有一个人,生来是瘸腿的,天天被人抬来,放在殿的一个门口,那门名叫美门,要求进殿的人周济。他看见彼得、约翰将要进殿,就求他们周济。彼得、约翰定睛看他。彼得说:“你看我们。”那人就留意看他们,指望得着什么。彼得说:“金银我都没有,只把我所有的给你。我奉拿撒勒人耶稣基督的名,叫你起来行走。”于是拉着他的右手扶他起来。他的脚和踝子骨立刻就健壮了,就跳起来,站着,又行走。同他们进了殿,走着,跳着,赞美神。百姓都看见他行走,赞美神,认得他是那素常坐在殿的美门口求周济的,就因他所遇着的事,满心希奇惊讶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今天想要和大家一起来聆听新约使徒行传的话语。

 

 “使徒行传”中的“使徒”一词,指的是最亲近耶稣的12个门徒。

 

 因为是言行录,简单地说就是记录门徒们的言行。

 

 “使徒行传”最先描写的是耶稣基督和门徒们的分别。

 

 就是说门徒们从此开始了他们的征程。

 

 圣灵将降在门徒们身上。

 

 圣灵就是神的灵。

 

 神的灵将降在门徒们的身上,这是耶稣的约定。

 

 就是说至今为止门徒们都是和耶稣同行的。

 

 而接下来将要和圣灵同行。

 

 使徒行传3章开始描述了门徒们的征程是怎样的。

 

 

 

 

 

 最先举的例子就是今天这个得医治的神迹。

 

 是非常了不得的做工。

 

 治好了天生的残疾。

 

 不过,这神迹并不是因为彼得和约翰想着今天要去治病而行的。

 

 经上写着两个门徒“下午三点祷告的时候去了圣殿”。

 

 上午九点和下午三点要祷告,有这样的习惯。

 

 因此,这两个门徒只是和往常一样想要去祷告而已。

 

 日复一日中,神意想不到地做了工。

 

 就是说与往常一样没什么变化的某一天,神的大能显现了。

 

 我们的话是礼拜天十点半开始的礼拜。

 

 就是说在来礼拜的路上,神的大能显现了。

 

 因此,希望大家注意听今天的内容。

 

 今天的内容不只是彼得和约翰的故事。

 

 哪天即使发生在我们身上也不足为奇。

 

 

 

 

 

 在这两个门徒来到神殿入口的时候,天生脚残疾的男人被抬了过来。

 

 是天生就不能站立的人。

 

 那个时代这样的人只能以乞讨为生。

 

 3节这人看到彼得和约翰,就搭话了。

 

 这人看了彼得和约翰。

 

 虽然写的是看到,比起看到,感觉上更像是瞥到了。

 

 总之,我觉得这人会和所有经过的人都打招呼。

 

 与此相对,两个门徒又怎么做的呢?

 

 他们定睛看那人。

 

 大概是停下脚步,盯着那人看。

 

 神的做工从这里开始了。

 

 

 

 

 

 定睛看是怎么一回事呢?

 

 不只是一般地看。

 

 定睛看是说,看对方到底是个什么样的人,想要看透他的内心。

 

 对方虽然这样说,但是他真正的需要到底是什么呢?

 

 那人真正必须的是要成为什么样。

 

 与对方面对面。

 

 这就是与圣灵同行的门徒该有的状态。

 

 

 

 

 

 圣经上说人是有罪的。

 

 罪在原文中是指偏离。

 

 偏爱自己。

 

 也就是说,人只关注自己。

 

 但是耶稣的门徒他们不是,定睛看向他人。

 

 真心为对方着想。

 

 我们能变成这样就是圣灵的做工。

 

 

 

 

 

 接下来又是很不寻常的话。

 

 我想这话一般是不会说的。

 

 他们对脚残疾的人说:“你看我们”。

 

 这到底是什么意思呢?

 

 这人向门徒二人求周济。

 

 这也就是说他应该已经在看这二人了。

 

 然而却说“你看我们”,这就和一般的看不同了,是说要看我们。

 

 像门徒二人定睛看这人那样,他也要定睛看他们。

 

 互相注视。

 

 

 

 

 

 不只是自己注视对方。

 

 要求对方也要注视自己。

 

 就是要结交友谊。

 

 也叫我们这样做。

 

 是说我们首先要好好关注对方,并且互相关注,才能结交。

 

 不是看自己,是看对方。

 

 双方都要这么做。

 

 才能结交友谊。

 

 

 

 

 

 被说“你看我们”的那个人,“就留意看他们,指望得着什么”。

 

 是“指望得着什么”。

 

 这人还没有想要和对方结交。

 

 这种情况很正常。

 

 即使我们仔细观察对方,详细了解对方的情况,思考对方真正的需要,还是不知道对方如何看待自己。

 

 对方只会根据他的需要来看自己,这也是很正常的。

 

 更何况,人是有罪的,所以这很正常。

 

 

 

 

 

 只是今天的内容是说,即便这样也没关系。

 

 门徒二人说。

 

 他们知道对方是想要东西才看向自己的。

 

 于是就说:

 

 “金银我都没有”

 

 但是接着又说“要把我所有的给你”。

 

 对想要东西而看向自己的人说:

 

 “我奉拿撒勒人耶稣基督的名,叫你起来行走”。

 

 这话是什么意思呢?

 

 靠耶稣基督来满足他真正的需要。

 

 

 

 

 

 我们可能也遇到过想要和哪里的某人结交,但是对方却只考虑他自己的需要。

 

 那样的时候,并不一定总能回应对方的需求。

 

 “金银我都没有”这种事很多场合都可能有。

 

 可是,我们作为基督的门徒,可以供应他们真正所需要的,即便与他们所希望的不一样。

 

 这就是“奉拿撒勒人耶稣基督的名,叫你起来行走”。

 

 那个时代残疾被认为是因罪而生的。

 

 所以门徒们奉耶稣之名鼓励他要战胜残疾。

 

 就是鼓励他要战胜罪之力。

 

 以耶稣的大能战胜了罪之力。

 

 在最后宣告说,虽然所有的不幸都是因罪而生的,但是耶稣救赎的力量能战胜罪。

 

 无论何时这都是我们该做的。

 

 身体得医治并不重要。

 

 耶稣也经常医治,因为认为疾病啊残疾啊都应罪而生的。

 

 耶稣所做的是让他们从罪中解放出来。

 

 为此而医治的。

 

 医治疾病残疾不是目的。

 

 是为了能从罪中解放出来。

 

 我们该做的也是一样的。

 

罪支配这一现实无论何时何地都会有。

 

 我们要在那些地方宣告解放。

 

 要宣告相比罪之力,神的力量更强大。

 

 有些场合,不一定是言语,可能是用行为来宣告。

 

 有些场合可能只要说一句话“不会有事的”。

 

 有些场合可能只要与对方在一起就可以。

 

 总之,通过自己让对方相信神的大能胜过罪。

 

 

 

 

 

 为此,我们首先要相信耶稣基督的救赎。

 

 耶稣基督比任何罪的力量都要强大。

 

 相信并感受,如此过每一天。

 

 我们宣告耶稣基督的救赎的时候,会发生什么呢?

 

 经上写着那人跳起来,站着,又行走。

 

 不仅如此。

 

 那人“赞美神,和他们一起进了殿”。

 

 就是去礼拜了。

 

 基督的力量如此改变了人。

 

 

 

 

 

 我们也会遇到同样的事。

 

 礼拜天,来教会的路上也可能会发生这样的事。

 

 请大家等候这一刻。

 

 相信并行动的时候,基督的大能就显现了。

 

就会有救赎。