今週の説教「イエスが教えた祈り(その7)」(新約聖書・マタイによる福音書6章13節)

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「イエスが教えた祈り(その7)」

 

新約聖書・マタイによる福音書613節)

 

わたしたちを誘惑に遭わせず、

 

悪い者から救ってください。

 

 

 

 

 

今日、イエス様は、私たちを誘惑に遭わせないでくださいと祈るように教えてくださっています。

 

私たちが礼拝の中で祈る時の主の祈りの言葉としましては、「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」ということですね。

 

誘惑、試み。

 

どちらにしても、良いものではないですね。

 

悪の道に引きずり込まれてしまう、という感じでしょうか。

 

ただこの、「試み」、「誘惑」という言葉は、原文では「テストする」という言葉なんですね。

 

ですので、「試みに遭わせないでください」という祈りは、私たちをテストして不合格にするようなことをしないでください、ということなんです。

 

 

 

考えてみますと、私たちはいつもテストされているんですね。

 

まず学校で、テストに慣れさせられるということがあります。

 

社会に出ても、資格を取るためにテストを受けるということがありますし、会社の中で昇進のためにテストを受けるということもあります。

 

また、会社の中での成績が数字になるということがあります。

 

それに良いも悪いもないですね。

 

その場所その場所で、必要があってやっていることです。

 

ただ、家庭の中でも、点数を付けられるということだって、ないとは言えないですよね。

 

夫として何点か、という点数を付けられていないとも限りません。

 

そうなりますと、自分は何点だろうか、と考えてしまいます。

 

あるいは、子どもは何点か、という点数を付けている親だっていないとは限らないですね。

 

多くの人は、周りの人を見て、合格か、不合格か、点数を付けるということを、別に頭の中で数字にはしていなくても、知らない内にテストしているということはあると思うんです。

 

人は人に点数をつけるものなんでしょう。

 

無意識にそうしているんだと思います。

 

ある時は必要があって、ある時はいつものクセで、人に点数を付けている。

 

 

 

ただ、試験で不合格になってしまって道を外れていってしまうようなことがあるとたまりませんよね。

 

それだったらもう、「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という気持ちになりますね。

 

しかし、考えてみると、良い点を付けられることでミスリードされてしまうこともあります。

 

私の友人で裁判官をやめた人がいるんですね。

 

裁判官というのは点数をつけるとしたら、何点になる職業でしょうか。

 

けれども、彼は言うんですね。

 

「人からはすごい仕事をしていますねと言われてほめられる。しかし、仕事がつまらなくて仕方がない。けれども、この仕事が自分に向いているんだと自分をだましてきた。家族が幸せならそれでいいじゃないかと自分の気持ちをごまかしてきた。しかし、それで本当に生きていると言えるのか」。

 

これが、高い点数を付けてもらっている人の心の中なんですね。

 

人から高い点数を付けてもらったら、その人は幸せかと言うと、必ずしもそうではないんです。

 

試験に合格して人からほめられるということと幸せかどうかは別のことですね。

 

高い点数を付けられたことによって道を見失うこともあるんです。

 

しかし、わたしの友人は立派です。

 

自分の道に戻ったんですね。

 

 

 

ただ、今日のこの祈りは、テストしないでくださいということを神様に求めているんですね。

 

人に対してやめてくれと言っているのではないんです。

 

神様に対して言っているんです。

 

そして、「悪より救い出したまえ」ですね。

 

このテストは、悪によって行われるということなんです。

 

この「悪」は「悪い者」と訳しても良い言葉です。

 

悪い出来事や悪い人によって自分が不合格になってしまうことがないようにしてください、ということですね。

 

それを神様に求めているんです。

 

悪い出来事が起こらないようにしてください、ではないんですね。

 

悪い人を私に近づけないでください、でもないんです。

 

「悪より救い出したまえ」。

 

悪はいつも私たちの周りにある、という感じですね。

 

そこから救い出してくださいと祈りなさいということなんです。

 

悪の力によって自分が不合格になってしまわないようにしてください。

 

それを神様に祈っているんですね。

 

 

 

このテストは信仰のテストなんでしょうね。

 

悪い出来事や悪い人によって自分が不合格になってしまうというのは、信仰を失ってしまうということでしょうね。

 

悪が自分を不合格にする、ということですと、そういうことでしょう。

 

普通の試験だと、そういうことではないですからね。

 

この祈りは、神様、私の信仰を守ってください、という祈りなんですね。

 

 

 

私たちとしては、それは大丈夫だと思うかもしれませんね。

 

けれども、実際に、信仰を失ってしまったという人はいるんです。

 

私は以前、こういう人に出会ったことがあります。

 

「昔クリスチャンだったけど、卒業しました」。

 

卒業って、……聖書にありますかね。

 

しかし、信仰があるというのはどういうことなんでしょうか。

 

自分自身よりも、神様が第一ということですよね。

 

それが神に従うということ、信仰ということです。

 

しかし、私たちは自分の思いを優先してしまうことがありますよね。

 

神様に従うか、自分に従うか、そういうテストが聖書にもありますね。

 

旧約聖書の一番最初、創世記の3章です。

 

アダムとエバの物語ですね。

 

蛇がエバのところにやってきて、だますんですね。

 

神の言葉に従わないようにさせようということですね。

 

悪い者がやってきて、アダムとエバを不合格にさせようとしたということです。

 

神様が食べてはいけないと言っていた木の実があったけれども、それを食べたら賢くなるよ、と言って食べさせようとしたんですね。

 

エバはその木の実を見て、おいしそうだし、賢くなりそうだ、ということで、食べてしまったんですね。

 

蛇にだまされたと言えばだまされたんですが、結局、自分の気持ちを優先してしまったということです。

 

神様の言いつけよりも自分の気持ちを第一にしてしまったというのがこの物語なんです。

 

不合格になったということですね。

 

 

 

考えてみると、私たちは毎日、そのテストにあっているんですよね。

 

いろいろな形で。

 

神様よりも自分を第一にするように、という蛇の誘惑は毎日毎日ありますね。

 

時には、ほめられることが私を神様から引き離す力になっているということもあるかもしれないですよね。

 

いろいろな出来事が、私を神様から引き離す力になりますね。

 

けれども私たちは、今まではこの通り教会に帰ってきたわけです。

 

今までは大丈夫でした。

 

でも、御心よりも自分の心が第一ということがずっと続いたらどうなるでしょうか。

 

卒業、ですね。

 

新しく洗礼を受けた人は、洗礼を受けてから5年で半数が教会を離れると言われています。

 

人間の信仰というのはそう強いものではないんですね。

 

だから、イエス様はこのように祈るように教えてくださったんですね。

 

もし私たちの信仰がある程度強いのなら、別の祈り方を教えたはずです。

 

例えば、「私たちを悪い者よりも強くしてください」とか。

 

そうではないんですね。

 

「悪い者から救い出してください」とあなたは祈りなさい、ということ。

 

これはどういうことでしょうかね。

 

このままではあなたはダメになるよ、ということですね。

 

それが私たちなんです。

 

イエス様は私たちをそういうふうに見ておられるんですね。

 

大体、「誘惑に遭わせないでください」ですよ。

 

「誘惑に勝てるように」ではないんですね。

 

勝てないから、こういう祈りを教えてくださったんです。

 

アダムもエバも誘惑に負けたじゃないですか。

 

それが人間の現実だと聖書は言っているんですね。

 

 

 

そんな弱い私たちなのに、今もこうして教会に来ているんですよね。

 

これは、神様が私たちを救い出してくださっている証拠ですよ。

 

「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」。

 

この祈りは、私たちの祈りの中で、一番神様が聞いてくださっている祈りなんです。

 

神様は私たちの祈りを聞いて、私たちを守って、ちゃんと教会に連れ帰って来てくださっているんです。

 

 

 

神様はどういう方なのか。

 

私たちの力では勝つことができない戦いから、私たちを救い出してくださる方なんです。

 

だから私たちは、神様を第一にしている限り、倒されてしまうことがないんです。

 

この祈りを祈りつづけていきましょう。

 

神様は私たちの祈りを聞いてくださる方なんです。