「名画上映会」のお知らせ
6月16日(日)13時開場・14時開演(2時間を予定)
★無料の名画上映会を開催いたします。
★入場無料ですが、事前にお申し込みください。申し込み締め切りは5月20日です。
★昭和初期に視覚障がい者として生き、生涯を教育にささげた実在の女性をモデルにした同名小説を映画化した作品です。
★映画のキャッチコピーは「ほんとうに大切なものは目に見えない」。



「復活とは何か」
13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
二人の弟子がエルサレムから離れていく。
イエスが死んでしまった。
すべて終わってしまった。
もう家に帰ろう。
この二人は、暗い顔をしていた(17節)。
悲しかったのだ。
悲しくて、勝手にあきらめた。
悲しみが、人をイエスから離れさせる。
悲しみが人を間違わせる。
イエスを忘れたわけではない。
イエスの話をしながら歩いた。
「話し合い、論じ合」ったということは何を意味しているか。
あの出来事はこういうことだったのではないか。
この出来事はこういうことだったのではないか。
自分の考えの中に神の出来事を位置づけようとしたのだ。
そこに、イエスがやってくる。
そして、一緒に歩きはじめる。
後ろから追いかけてきて、一緒に歩いてくださるのである。
ご自分を見捨てた弟子たちと!
不思議なことに、二人にはそれがイエスだとは分からなかった。
「二人の目は遮られていた」(16節)とある。
「遮る」は原文では、「支配される」という言葉である。
悲しみに支配されていたのだ。
悲しみが、イエスを分からなくさせる。
悲しみが、人をイエスから離れさせるのだ。
そのような人を、イエスはどのように助けてくださるのだろうか。
イエスは何も知らないふりをして話しかける。
「その話は何のことですか」。
ご自身のことを話していることを分かっていながら、である。
弟子たちは説明する。
しかし、その説明はどうであろうか。
弟子たちは勝手に期待していた。
「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)。
彼らの言う解放とは、ローマ帝国からの解放である。
これは勝手な期待と言うしかない。
勝手な期待が期待外れに終わってしまって、勝手に絶望することになったのである。
勝手なのはそれだけではない。
仲間の女性たちがイエスが復活したと言ったのに、それを信じない(それも、それを自ら告白している)。
誰の言葉よりも、自分の考えを優先したのだ。
人間は自分勝手だと聖書は指摘する。
自分勝手だから勝手に絶望する。
そして、イエスから離れる。
それについてイエスは言う。
あなたがたは「物分かりが悪く、心が鈍い」(25節)、と。
しかし、イエスはそのような者を後ろから追いかけて、話をしてくださる。
聖書からご自分について説明してくださる。
大事なのはまず、聖書を読むことである。
絶望した時こそ、私たちは神の言葉に聞くべきなのである。
そうすると、この弟子たちのように、心が燃やされる(32節)。
二人で話し合っていた時、この二人は暗い顔をしていた(14節から17節)。
人の言葉は人を救わない。
神の言葉が人の心に火をつけるのだ。
でも、話を聞いただけでは、二人の目はまだ遮られたままである。
まだイエスが分からないでいる。
どうしてこの二人は、相手がイエスだと分かったのか。
弟子たちはイエスからパンをいただいた(30節)。
この場面の描かれ方は最後の晩餐の場面と同じである。
最後の晩餐では、パンはイエスの体であった。
弟子たちは、イエスご自身をいただいたのだ。
そうすると、「二人の目が開け、イエスだと分かった」(31節)。
大事なのは、イエスご自身をいただくことである。
そしてそれは、私たちが求めていくことではない。
イエスが与えてくださるのだ。
それによって、私たちの目は開かれる。
そうなるともう、イエスがこの目に見えるかどうかということは大事ではなくなる。
イエスの「姿は見えなくなった」(31節)。
姿が見えるかどうかは、もう大事ではない。
イエスご自身が自分の中にあるんだから。
それこそが必要十分なことなのである。
しかし、そのような出来事がこの二人に起こったのはどうしてだっただろうか。
この二人がイエスを「無理に引き留めた」(29節)からである。
イエスは別のところに行こうとしていた(28節)。
すぐ後に、「シモンに現れた」(34節)とあるので、イエスは弟子のシモンのところに行こうとしていたのかもしれない。
しかし、二人はそれを引き留めた。
どうしてそうしたのだろうか。
神の言葉を聞いて、心を燃やされたからである。
どうしてイエスがこの二人の心を燃やしてくださったのだろうか。
この二人が絶望して、イエスから離れて行こうとしていたからである。
そこにイエスは来てくださる。
まだしもエルサレムにとどまっていたシモン・ペトロのところに行くよりも先に!
私たちは安心して絶望していい。
私たちが絶望してイエスから離れようとする時、それは、イエスが私たちを追いかけてくる時なのだ。
その時、イエスがどのような姿で私たちを訪れるのかは分からない。
ただ、その時私たちは聖書の言葉を聞き、心を変えられる。
イエスご自身が私たちの内に住んでくださる。
二人の弟子はすぐにエルサレムに戻った(33節)。
そして、他の弟子たちと喜びを分かち合った。
復活の出来事は、ただイエスが復活したという出来事ではない。
弟子たちの心が復活させられたのだ。
二人の弟子たちは、イエスから離れていく悲しみの旅をしていた。
しかし、その同じ道を、喜びにあふれて引き返すことになった。
私たちは、安心して絶望して良い。
イエスが、私たちの心を復活させてくださるのだから!
复活是什么
路加福音24章13节至35节
正当那日,门徒中有两个人往一个村子去,这村子名叫以马忤斯,离耶路撒冷约有二十五里。他们彼此谈论所遇见的一切事。正谈论相问的时候,耶稣亲自就近他们,和他们同行,只是他们的眼睛迷糊了,不认识他。耶稣对他们说:“你们走路彼此谈论的是什么事呢?”他们就站住,脸上带着愁容。二人中有一个名叫革流巴的回答说:“你在耶路撒冷做客,还不知道这几天在那里所出的事吗?”耶稣说:“什么事呢?”他们说:“就是拿撒勒人耶稣的事。他是个先知,在神和众百姓面前,说话行事都有大能。祭司长和我们的官府竟把他解去,定了死罪,钉在十字架上。但我们素来所盼望要赎以色列民的,就是他。不但如此,而且这事成就,现在已经三天了。再者,我们中间有几个妇女使我们惊奇,她们清早到了坟墓那里,不见他的身体,就回来告诉我们说:‘看见了天使显现,说他活了’。又有我们的几个人往坟墓那里去,所遇见的,正如妇女们所说的,只是没有看见他”。耶稣对他们说:“无知的人哪,先知所说的一切话,你们的心信得太迟钝了。基督这样受害,又进入他的荣耀,岂不是应当的吗?”于是从摩西和众先知起,凡经上所指着自己的话,都给他们讲解明白了。
将近他们所去的村子,耶稣好像还要往前行,他们却强留他说:“时候晚了,日头已经平西了,请你同我们住下吧!”耶稣就进去,要同他们住下。到了坐席的时候,耶稣拿起饼来,祝谢了,擘开,递给他们。他们的眼睛明亮了,这才认出他来。忽然耶稣不见了。他们彼此说:“在路上,他和我们说话、给我们讲解圣经的时候,我们的心岂不是火热的吗?”他们就立时起身回耶稣撒冷去,正遇见十一个使徒和他们的同人聚集在一处,说:“主果然复活,已经现给西门看了。”两个人就把路上所遇见和擘饼的时候怎么被他们认出来的事,都述说了一遍。
两个门徒离耶路撒冷而去。
耶稣死了。
一切都结束了。
还是回家吧。
这两个人脸上带着愁容(17节)。
很难过。
因为难过就任意放弃了。
悲痛让人离弃耶稣。
悲痛让人犯错。
不是忘了耶稣。
一边谈论着耶稣一边走着。
“互相交谈,互相讨论”是什么意思呢?
那事该是这样的。
这事该是那样的。
想要以自己的想法来评价神的作为。
耶稣来到了他们那里。
而且与他们同行。
耶稣从后面追上来,并与他们同行。
和舍弃自己的门徒一起。
不可思议的是,两个门徒不知道这就是耶稣。
16节有写说他们的眼睛被遮了。
“遮”的原文是“被支配”。
被痛苦所支配。
痛苦让他们认不出耶稣。
痛苦让他们远离耶稣。
耶稣是如何帮助这样的人的呢?
耶稣装作什么都不知道跟他们搭话。
“你们谈论的是什么呢?”
虽然明白说的是自己的事。
门徒作了说明。
可是,这说明是怎样的呢。
门徒们自以为是地期待。
“我们素来所盼望要解放以色列民的,就是他”(21节)。
他们所说的解放,是指从罗马帝国手中解放出来。
这只能说是自以为是的期待。
自以为是的期待最终偏离了真正的期许,变成了自我放弃。
自以为是的不只是如此。
一起的妇女们已经告诉了他们耶稣复活了,但是他们却不相信(这也是他们自己的想法)。
比起任何人的话,优先考虑自己的。
圣经指出人是自以为是的。
因为自以为是所以自我放弃。
于是离开耶稣。
关于这,耶稣说:
你们“无知,心性迟钝”(25节)。
可是,耶稣从后面追赶那样的人,并且打招呼搭话。
用圣经上的话对自己的事给出说明。
重要的是首先要读圣经。
正是在绝望的时候,我们更应该聆听神的话语。
这样的话,就会像门徒们那样,内心被火热燃烧(32节)。
二人谈论的时候,脸上带着愁容(14节至17节)。
人的话救不了人。
神的话语燃烧人的内心。
但是,只听到耶稣的话,那两人眼睛还是迷糊的。
还不知道是耶稣。
那两人是如何知道对方就是耶稣的呢?
门徒从耶稣那里拿了饼(30节)。
这个场面的描写和最后的晚餐一样。
最后的晚餐中,饼是耶稣的身体。
门徒得到了耶稣。
于是,“他们的眼睛明亮了,这才认出耶稣来”(31节)。
重要的是得到耶稣。
而这不是我们求来的。
是耶稣赏赐的。
因为这,我们的眼目明亮了。
这样的话,能否用眼睛看见耶稣已经不重要了。
耶稣“不见了”(31节)。
耶稣的身影看不看得见已经不重要了。
因为他已经在我们的里面。
这才是真正重要的。
可是,这样的事为何发生在他们二人身上呢?
因为他们“强留”了耶稣(29节)。
耶稣想要去别的地方(28节)。
就在后面写到“现给西门看了”(34节),所以耶稣可能是想去门徒西门那里。
可是那两人强留了他。
为什么这么做呢?
因为听了神的话语,内心被燃烧了。
为什么耶稣要燃烧这两个人的内心呢?
因为他们绝望了,想离开耶稣。
于是耶稣来了。
先去留在耶路撒冷的西门彼得那里也就算了,但他却先来了他们这里。
我们放心就好,绝望也没关系。
我们绝望地离开耶稣的时候,就是耶稣追上我们的时候。
我们不知道那时耶稣会是以怎样的姿态到访。
不过,到那时我们聆听圣经的话语,内心就会有所改变。
耶稣自己来到我们的里面。
那二人立刻回了耶路撒冷(33节)。
而且,与其他门徒一起分享喜悦的心情。
复活不只是耶稣的复活。
门徒们的内心也复活了。
两个门徒离开耶稣踏上悲伤的旅程。
可是又满心喜乐地原路返回了。
我们放心,哪怕绝望也没事的。
因为耶稣会让我们的内心复活。