今週の説教「キリストの弟子 」(新約聖書・使徒言行録3章1-26節)

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★映画のキャッチコピーは「ほんとうに大切なものは目に見えない」。

 

☞インターネット百科事典「ウィキペディア」による本作品の紹介記事

キリストの弟子

 

新約聖書・使徒言行録3126

 

1ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。2すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。3彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。4ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」7そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。9民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。10彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

 

11さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。12これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。14聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。15あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。16あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。17ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。18しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。19だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。20こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。21このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。22モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。23この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』24預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。25あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。26それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

 

 

 

 

 

教会は何をなすべきなのか。

 

『使徒言行録』を開きたい。

 

「使徒」とは、イエス様の直接の弟子のこと。

 

そして、この語は原文では「遣わされた者」という言葉である。

 

イエス様の弟子たちは、イエス様によって派遣されるものなのである。

 

働くために、それぞれの場所に派遣されるのだ。

 

 

 

弟子たちがどのように働いていったか、それを記したのが「使徒言行録」である。

 

「言行録」とは、言葉と行いの記録である。

 

まさに、弟子たちがどのような働きを成していったのかがこの3章から始まる。

 

 

 

弟子の二人ペトロとヨハネが生まれつき足の不自由な人をいやした。

 

私たちは、そのような出来事が、弟子たちが遣わされて働いたその最初に挙げられていることに驚く。

 

しかしこれは、ペトロとヨハネの力ではない。

 

キリストは弟子たちに、自分の力で人をいやしなさいと言われているのではない。

 

二人は言った。

 

「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。

 

キリストの力なのである。

 

人を救う力の宣言である。

 

ただ、救いとは、何からの救いなのか。

 

罪からの救いである。

 

 

 

この時代には、生まれつきの障がいは罪の結果として起こると考えられていた。

 

罪に対する罰として、障がいということが起こると考えられていた。

 

それに対して、キリストの力を宣言したのである。

 

そうすると足の不自由な人が立ちあがった。

 

足が治った、体が治ったということが大事なことなのではない。

 

この時起こったことは、罪に対する勝利なのである。

 

 

 

キリストも人をいやす働きをした。

 

その働きも、体を治すこと自体が目的ではない。

 

この時代には、たとえば重い病気はその人の罪に対する神の裁きだと考えられることがあった。

 

そうなると、その人は町の中に住んではいけないということもあった。

 

キリストはその人をいやした。

 

そして、キリストは言う。

 

神殿の祭司に自分の体を見せなさい。

 

治ったことを確かめてもらいなさい。

 

どうしてそう言うのか。

 

治ったことがはっきりしたら、その人は町の中に住むことができる。

 

今までは、罪深い人なんだから町から出て行けと言われていた。

 

神からも人から切り離されていた。

 

しかしもう、町に戻ることができる。

 

礼拝することもできる。

 

今までは礼拝できなかった。

 

今日の足の不自由な人も、満足には礼拝できない。

 

体の不自由な人は神殿の一番外側の庭までしか入ることが許されていなかったのである。

 

それが、中まで入れるようにされた。

 

 

 

罪とは何か。

 

神に背くことである。

 

神に背いているということになったら、礼拝できなくなってしまう。

 

神から離されてしまう。

 

人からも、あの人は罪深い、だから神に見捨てられたんだという目で見られる。

 

この時代には、その人たち自身もそう思っていただろう。

 

自分は神に見放された。

 

その苦しみはどれ程であっただろうか。

 

救いとは、その苦しみから人を救い出すことである。

 

そのためにイエス様は働いた。

 

そして、弟子たちも同じように働くのである。

 

 

 

今、重い病気や障がいを罪だと考える人はあまりいないかもしれない。

 

しかし、重い病気や障がいは、本当のところ、罪ではないと言えるか。

 

重い病気や障がいを抱えた子どもを持つ親御さんは、世間から、自分の子どもに罪があるかのように感じさせられると言う。

 

これは20年以上前の話だが、こういう話を聞いた。

 

その人の子どもは私と同じ世代だったのだが、その子には重い障がいがあった。

 

その人は自分の子どもが3歳くらいの時に、自分の子どもに重い障がいがあるという診断を受けた。

 

その時、「子どもを殺して自分の死のうと思った」。

 

障がいは罪だ。

 

自分にとっても子どもにとっても。

 

自分も子どもも神から遠く離れてしまっている。

 

生きていられない。

 

だから、そんなことを考えてしまったのだろう。

 

そういう話はめったに聞かないかもしれない。

 

しかし、神はいない、と思って絶望している人が現実にどれだけたくさんいるだろうか。

 

 

 

私たちはそこにおいて、神の力を宣言する。

 

どんな力よりも神の力は強いということを宣言する。

 

6節に、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とある。

 

そうすると、8節、9節の出来事が起こってくる。

 

足が不自由だった人が、神様を賛美している。

 

自分から礼拝するようになった。

 

それも、大喜びで。

 

この人も、絶望から救い出されたのだ。

 

だから大喜びしている。

 

生まれた時からこの人は、人からお金をもらって生きるしかなかった。

 

絶望というより、もうあきらめてしまっていたかもしれない。

 

でも、神はあきらめない。

 

人があきらめても神は人をあきらめない。

 

 

 

私たちも、同じように神の力を宣言する。

 

私たちのすることは、それだけでいい。

 

ペトロも、この人をいやした時、それ以上のことはしていない。

 

知恵を絞ってアドバイスをしたわけではない。

 

イエス様のことを説明したわけでもない。

 

お金をあげたわけでもない。

 

「わたしには金や銀はない」(6節)。

 

持っていないものはあげられない。

 

神様が必ずあなたを助けてくださいます。

 

ただ、そう信じ、神の力を宣言した。

 

そこに、神の力が働くのである。

 

 

 

これについて、ある牧師のメッセージを聞いたことがある。

 

苦しんでいる人がいたら、祈ってあげなさい。

 

そして、「もう大丈夫だ」と言ってあげなさい。

 

何も起こらなかったらどうしよう、と心配しなくていい。

 

イエス様の力なんだから。

 

自分の力じゃないんだから。

 

だから、自分に責任はない。

 

ただ、宣言する。

 

神がそれを実現させる。

 

 

 

そうすると、どういうことになっていくか。

 

今日の場面の後半では、みんな驚いてペトロとヨハネのところに集まってきた。

 

それに対してペトロは何をするか。

 

説教である。

 

ここからが、説明であり、アドバイスである。

 

まずは宣言。

 

宣言した後で、説明とアドバイスという流れである。

 

 

 

まず、ペトロは何を言っているか。

 

自分の力ではないんだ。

 

イエスの力なんだ。

 

それを説明する。

 

そして、イエス様についても説明する。

 

死から復活した方である。

 

つまり、神の力は死の力よりも強い。

 

そして、アドバイスも。

 

19節に、「悔い改めて立ち帰りなさい」と勧める。

 

神様に向き直りなさいということである。

 

「自分の罪が消し去られるように」とも言っている。

 

これは、ここにいる人たちは、キリストを十字架に付けろと叫んだ人たちだから特にこういう言い方をしている。

 

しかし、「悔い改めて立ち帰りなさい」、神様に心を向けなさいというのは、私たちの周りにいる人たちにも当てはまる。

 

悔い改めるはもともとの言葉では「帰る」という言葉である。

 

神のもとに帰る。

 

つまり、人は、いつでも神に心を向けて良い。

 

帰るということは、もともと神のもとにいたということだから。

 

もともと人間は神のもとにいるべきものだということだから。

 

 

 

20節からの所では、旧約聖書の言葉を引用しながら話している。

 

旧約聖書を知っている人たちを相手にして、相手に分かる言い方をしているということである。

 

イエス・キリストは神から遣わされた救い主だということ。

 

こんなにスラスラと説明はできないかもしれないが、私たちが知っていることだけ言えばいい。

 

そして、最後の26節。

 

「それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」。

 

これが大切である。

 

神は人を祝福したいと願っておられるのである。

 

そのために、まず、「悪から離れさせる」。

 

この世は罪のもとにあると聖書は言う。

 

そこから救い出して、神の祝福に入れることこそが、神の目標なのである。

 

 

 

祝福に入れられると、私たちはどうなるか。

 

20節に「慰めの時」とある。

 

今まで私たちは罪に苦しめられてきた。

 

そのことを神は知っている。

 

それは、自分の罪かもしれない。

 

人の罪かもしれない。

 

世の罪かもしれない。

 

しかし、もう苦しまなくていい。

 

あなたは私のそばにいなさい。

 

喜んでいなさい。

 

かくして、神の祝福は慰めとなる。

 

 

 

神の力を宣言することから、これらすべては始まる。

 

神の業の突端を、神は私たちにゆだねておられる。