今週の説教「キリストの弟子 」(新約聖書・使徒言行録3章1-26節)

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6月16日(日)13時開場・14時開演(2時間を予定)

 

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★昭和初期に視覚障がい者として生き、生涯を教育にささげた実在の女性をモデルにした同名小説を映画化した作品です。

 

★映画のキャッチコピーは「ほんとうに大切なものは目に見えない」。

 

☞インターネット百科事典「ウィキペディア」による本作品の紹介記事

キリストの弟子

 

                                         基督的门徒

 

新約聖書・使徒言行録3126

 

 新约圣经使徒行传31-26

 

1ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。2すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。3彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。4ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」7そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。9民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。10彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

 

 申初祷告的时候,彼得、约翰上圣殿去。有一个人,生来是瘸腿的,天天被人抬来,放在殿的一个门口,那门名叫美门,要求进殿的人周济。他看见彼得、约翰将要进殿,就求他们周济。彼得、约翰定睛看他。彼得说:“你看我们。”那人就留意看他们,指望得着什么。彼得说:“金银我都没有,只把我所有的给你。我奉拿撒勒人耶稣基督的名,叫你起来行走。”于是拉着他的右手扶他起来。他的脚和踝子骨立刻就健壮了,就跳起来,站着,又行走。同他们进了殿,走着,跳着,赞美神。百姓都看见他行走,赞美神,认得他是那素常坐在殿的美门口求周济的,就因他所遇着的事,满心希奇惊讶。

 

11さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。12これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。14聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。15あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。16あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。17ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。18しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。19だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。20こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。21このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。22モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。23この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』24預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。25あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。26それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

 

 那人正在称为所罗门的廊下,拉着彼得、约翰,众百姓一齐跑到他们那里,很觉希奇。彼得看见,就对百姓说:“以色列人哪,为什么把这事当作希奇呢?为什么定睛看我们,以为我们凭自己的能力和虔诚使这人行走呢?亚伯拉罕、以撒、雅各的神,就是我们列祖的神,已经荣耀了他的仆人耶稣,你们却把他交付彼拉多。彼拉多定意要释放他,你们竟在彼拉多面前气绝了他。你们气绝了那圣洁公义者,凡求着释放一个凶手给你们。你们杀了那生命的主,神却叫他从死里复活了。我们都是为这事做见证。我们因信他的名,他的名便叫你们所看见、所认识的这人健壮了。正是他所赐的信心,叫这人在你们众人面前全然好了。弟兄们,我晓得你们作这事是出于不知,你们的官长也是如此。但神曾藉众先知的口,预言基督将要受害,就这样应验了。所以你们当悔改归正,使你们的罪得以涂抹。这样,那安舒的日子就必从主面前来到,主也必差遣所预定给你们的基督耶稣降临。天必留他,等到万物复兴的时候,就是神从创世以来,藉着圣先知的口所说的。摩西曾说:‘主神要从你们弟兄中间给你们兴起一位先知像我,凡他向你们所说的,你们都要听从。凡不听从那先知的,必要从民中全然灭绝。’从撒母耳以来的众先知,凡说预言的,也都说到这些日子。你们是先知的子孙,也承受神与你们祖宗所立的约,就是对亚伯拉罕说:‘地上万族都要因你的后裔得福。’神既兴起他的仆人,就先差他到你们这里来,赐福给你们,叫你们各人回转,离开罪恶。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教会は何をなすべきなのか。

 

 教会该做些什么呢?

 

『使徒言行録』を開きたい。

 

 翻开《使徒行传》。

 

「使徒」とは、イエス様の直接の弟子のこと。

 

 “使徒”是耶稣所收的门徒。

 

そして、この語は原文では「遣わされた者」という言葉である。

 

 而在原文中是“被派遣者”。

 

イエス様の弟子たちは、イエス様によって派遣されるものなのである。

 

 耶稣的门徒,是被耶稣所派遣的。

 

働くために、それぞれの場所に派遣されるのだ。

 

 为了做工,被派遣到各个地方。

 

 

 

 

 

弟子たちがどのように働いていったか、それを記したのが「使徒言行録」である。

 

 门徒们如何做工记载在《使徒行传》中。

 

「言行録」とは、言葉と行いの記録である。

 

 “言行录”(日文版翻译)是对言语和行为的记录。

 

まさに、弟子たちがどのような働きを成していったのかがこの3章から始まる。

 

 确实,第三章开始记录门徒们是如何做工的。

 

 

 

 

 

弟子の二人ペトロとヨハネが生まれつき足の不自由な人をいやした。

 

 门徒彼得和约翰治愈了生来瘸腿的人。

 

私たちは、そのような出来事が、弟子たちが遣わされて働いたその最初に挙げられていることに驚く。

 

 我们会惊奇于这个神迹,门徒被派遣出去所行的第一个神迹。

 

しかしこれは、ペトロとヨハネの力ではない。

 

 可是,这不是彼得和约翰的能力。

 

キリストは弟子たちに、自分の力で人をいやしなさいと言われているのではない。

 

 基督并没有对门徒们说,你们要靠自己的大能去医治人。

 

二人は言った。

 

 二人说:

 

「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。

 

 “奉耶稣基督的名,叫你起来行走”。

 

キリストの力なのである。

 

 靠的是基督的大能。

 

人を救う力の宣言である。

 

 宣告救赎的大能。

 

ただ、救いとは、何からの救いなのか。

 

 不过,所谓的救赎是救赎什么呢?

 

罪からの救いである。

 

 从罪中救赎出来。

 

 

 

 

 

この時代には、生まれつきの障がいは罪の結果として起こると考えられていた。

 

 在这个时代,生来残疾被认为是罪的果报。

 

罪に対する罰として、障がいということが起こると考えられていた。

 

 残疾被认为是对罪的惩罚。

 

それに対して、キリストの力を宣言したのである。

 

 对此宣告基督的大能。

 

そうすると足の不自由な人が立ちあがった。

 

 于是,瘸腿的人站了起来。

 

足が治った、体が治ったということが大事なことなのではない。

 

 重要的不是治好了腿,治好了身体。

 

この時起こったことは、罪に対する勝利なのである。

 

 而是战胜了罪,当时是这事。

 

 

 

 

 

キリストも人をいやす働きをした。

 

 基督也行过医治的神迹。

 

その働きも、体を治すこと自体が目的ではない。

 

 目的也不是治病本身。

 

この時代には、たとえば重い病気はその人の罪に対する神の裁きだと考えられることがあった。

 

 在那个时代,重病被认为是神对那个人罪的审判。

 

そうなると、その人は町の中に住んではいけないということもあった。

 

 这样的话,那人可能无法住到镇上。

 

キリストはその人をいやした。

 

 基督治愈了那人。

 

そして、キリストは言う。

 

 并且说:

 

神殿の祭司に自分の体を見せなさい。

 

 给神殿的祭司看你的身体。

 

治ったことを確かめてもらいなさい。

 

 让他确认你已经治愈了。

 

どうしてそう言うのか。

 

 为什么这么说呢?

 

治ったことがはっきりしたら、その人は町の中に住むことができる。

 

 明确已经治愈的话,就能住在镇上。

 

今までは、罪深い人なんだから町から出て行けと言われていた。

 

 至今,因为罪孽深重被要求滚出小镇。

 

神からも人から切り離されていた。

 

 被人离弃与神隔绝

 

しかしもう、町に戻ることができる。

 

 但是现在已经可以回到镇上了。

 

礼拝することもできる。

 

 也可以礼拜。

 

今までは礼拝できなかった。

 

 至今都不能去礼拜。

 

今日の足の不自由な人も、満足には礼拝できない。

 

 今天那个瘸腿的人也无法心满意足地礼拜。

 

体の不自由な人は神殿の一番外側の庭までしか入ることが許されていなかったのである。

 

 瘸腿的人只被允许进到神殿最外面的院子。

 

それが、中まで入れるようにされた。

 

 而他现在可以进到里面了。

 

 

 

 

 

罪とは何か。

 

 罪是什么?

 

神に背くことである。

 

 是背弃神。

 

神に背いているということになったら、礼拝できなくなってしまう。

 

 如果背离神的话,就无法祷告。

 

神から離されてしまう。

 

 远离了神。

 

人からも、あの人は罪深い、だから神に見捨てられたんだという目で見られる。

 

这个人罪孽深重,所以被神抛弃了,世人也是这么看待他的。

 

この時代には、その人たち自身もそう思っていただろう。

 

 在那个时代,可能那些人自己也这么认为。

 

自分は神に見放された。

 

 自己被神抛弃了。

 

その苦しみはどれ程であっただろうか。

 

 这该有多痛苦啊。

 

救いとは、その苦しみから人を救い出すことである。

 

 救赎就是指把人从苦难中救出来。

 

そのためにイエス様は働いた。

 

 为此耶稣做工。

 

そして、弟子たちも同じように働くのである。

 

 弟子们也一样。

 

 

 

 

 

今、重い病気や障がいを罪だと考える人はあまりいないかもしれない。

 

 如今,或许不大有人会认为重病和残疾是罪。

 

しかし、重い病気や障がいは、本当のところ、罪ではないと言えるか。

 

 可是,重病或残疾真的可以说不是罪吗?

 

重い病気や障がいを抱えた子どもを持つ親御さんは、世間から、自分の子どもに罪があるかのように感じさせられると言う。

 

 有重病或残疾孩子的父母,世人的眼光让他们觉得自己的孩子似乎有罪。

 

これは20年以上前の話だが、こういう話を聞いた。

 

 20多年前我曾听到过这样的话。

 

その人の子どもは私と同じ世代だったのだが、その子には重い障がいがあった。

 

 这人的孩子和我一样大,但是这孩子是重度残疾。

 

その人は自分の子どもが3歳くらいの時に、自分の子どもに重い障がいがあるという診断を受けた。

 

 这人在孩子三岁的时候,被诊断出自己的孩子重度残疾。

 

その時、「子どもを殺して自分の死のうと思った」。

 

 那时,“想要杀了孩子自己也一起死”

 

障がいは罪だ。

 

 残疾是罪。

 

自分にとっても子どもにとっても。

 

 自己也是,孩子也是。

 

自分も子どもも神から遠く離れてしまっている。

 

 自己和孩子都远离了神。

 

生きていられない。

 

 活不下去了。

 

だから、そんなことを考えてしまったのだろう。

 

 因此,才会这样想吧。

 

そういう話はめったに聞かないかもしれない。

 

 这种事可能不大听得到。

 

しかし、神はいない、と思って絶望している人が現実にどれだけたくさんいるだろうか。

 

 可是,认为没有神而绝望的人现实中有很多吧。

 

 

 

 

 

私たちはそこにおいて、神の力を宣言する。

 

 我们大家在这里宣告神的大能。

 

どんな力よりも神の力は強いということを宣言する。

 

 宣告神的力量比什么都强。

 

6節に、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とある。

 

 第六节说“我奉耶稣基督的名叫你起来行走”。

 

そうすると、8節、9節の出来事が起こってくる。

 

 于是就有了第89节的事情。

 

足が不自由だった人が、神様を賛美している。

 

 瘸腿的人赞美神。

 

自分から礼拝するようになった。

 

 自己去礼拜了。

 

それも、大喜びで。

 

 而且也大大欢喜。

 

この人も、絶望から救い出されたのだ。

 

 这人也是从绝望中被解救了出来。

 

だから大喜びしている。

 

 因此,大大欢喜。

 

生まれた時からこの人は、人からお金をもらって生きるしかなかった。

 

 这人从出生起,只能靠向人讨钱为生。

 

絶望というより、もうあきらめてしまっていたかもしれない。

 

 比起绝望,或许可以说已经放弃自己的人生了。

 

でも、神はあきらめない。

 

 但是,神没有放弃。

 

人があきらめても神は人をあきらめない。

 

 人就算放弃自己,神也不会放弃人。

 

 

 

 

 

私たちも、同じように神の力を宣言する。

 

 我们也要同样宣告神的大能。

 

私たちのすることは、それだけでいい。

 

 我们要做的只要这点就可以了。

 

ペトロも、この人をいやした時、それ以上のことはしていない。

 

 彼得也是,在医治这人的时候,除此之外也没有做其它。

 

知恵を絞ってアドバイスをしたわけではない。

 

 不是绞尽脑汁给出建议。

 

イエス様のことを説明したわけでもない。

 

 不是说明耶稣的事情。

 

お金をあげたわけでもない。

 

 也不是给钱。

 

「わたしには金や銀はない」(6節)。

 

 “金银我都没有”(第6节)

 

持っていないものはあげられない。

 

 给不了自己没有的东西。

 

神様が必ずあなたを助けてくださいます。

 

 神必定帮你。

 

ただ、そう信じ、神の力を宣言した。

 

 只宣告要相信神的大能。

 

そこに、神の力が働くのである。

 

 神在这里做工。

 

 

 

 

 

これについて、ある牧師のメッセージを聞いたことがある。

 

 关于这,听到过某位牧师的讲道。

 

苦しんでいる人がいたら、祈ってあげなさい。

 

 如果有处于苦难中的人,为他祷告。

 

そして、「もう大丈夫だ」と言ってあげなさい。

 

 对他说“已经没事了”。

 

何も起こらなかったらどうしよう、と心配しなくていい。

 

 不必担心要是什么都不发生的话怎么办。

 

イエス様の力なんだから。

 

 因为有耶稣的大能。

 

自分の力じゃないんだから。

 

 因为不是靠自己的力量。

 

だから、自分に責任はない。

 

 因此,自己没有责任。

 

ただ、宣言する。

 

 只要宣告。

 

神がそれを実現させる。

 

 神就会实现。

 

 

 

 

 

そうすると、どういうことになっていくか。

 

 这样的话会变为怎样呢?

 

今日の場面の後半では、みんな驚いてペトロとヨハネのところに集まってきた。

 

 今天内容的后半部分,大家都很惊奇,就围到彼得和约翰那里。

 

それに対してペトロは何をするか。

 

 对此,彼得做了什么?

 

説教である。

 

 说教。

 

ここからが、説明であり、アドバイスである。

 

 这里开始,既是说明,也是建议。

 

まずは宣言。

 

 首先是宣告。

 

宣言した後で、説明とアドバイスという流れである。

 

 宣告之后是说明和建议,是这样的流程。

 

 

 

 

 

まず、ペトロは何を言っているか。

 

 首先,彼得说了什么。

 

自分の力ではないんだ。

 

 不是自己的能力。

 

イエスの力なんだ。

 

 是耶稣的大能。

 

それを説明する。

 

 说明这点。

 

そして、イエス様についても説明する。

 

 于是,对耶稣进行说明。

 

死から復活した方である。

 

 是死里复活的那一位。

 

つまり、神の力は死の力よりも強い。

 

 就是说,神的大能强过死亡。

 

そして、アドバイスも。

 

 然后,是建议。

 

19節に、「悔い改めて立ち帰りなさい」と勧める。

 

 19节,劝告说“你们当悔改归正”。

 

神様に向き直りなさいということである。

 

 就是要转向神。

 

「自分の罪が消し去られるように」とも言っている。

 

 也说了“使你们的罪得以抹去”。

 

これは、ここにいる人たちは、キリストを十字架に付けろと叫んだ人たちだから特にこういう言い方をしている。

 

 这是因为这里的人叫嚷着要把基督订到十字架上,所以特地这么说的。

 

しかし、「悔い改めて立ち帰りなさい」、神様に心を向けなさいというのは、私たちの周りにいる人たちにも当てはまる。

 

 可是,“你们当悔改归正”,心归向神,这也适用于我们周围的人。

 

悔い改めるはもともとの言葉では「帰る」という言葉である。

 

 悔改原先是“回归”一词。

 

神のもとに帰る。

 

 回到神那里。

 

つまり、人は、いつでも神に心を向けて良い。

 

 就是说,人随时可以心归向神。

 

帰るということは、もともと神のもとにいたということだから。

 

 回归是因为本来就是在神那里的。

 

もともと人間は神のもとにいるべきものだということだから。

 

 因为人原本就应该在神那里。

 

 

 

 

 

20節からの所では、旧約聖書の言葉を引用しながら話している。

 

 20节开始,引用旧约的话来讲。

 

旧約聖書を知っている人たちを相手にして、相手に分かる言い方をしているということである。

 

 把知晓旧约的人作为对象,用对方知道的话来说。

 

イエス・キリストは神から遣わされた救い主だということ。

 

 耶稣基督是神差遣来的救世主。

 

こんなにスラスラと説明はできないかもしれないが、私たちが知っていることだけ言えばいい。

 

 可能没办法很顺畅地说,只说我们知道的就行。

 

そして、最後の26節。

 

 而最后的26节:

 

「それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」。

 

 “神既兴起他的仆人,就先差他到你们这里来,赐福给你们,叫你们各人回转,离开罪恶”。

 

これが大切である。

 

 这很重要。

 

神は人を祝福したいと願っておられるのである。

 

 神要赐福与人。

 

そのために、まず、「悪から離れさせる」。

 

 为此,首先,“离开罪恶”。

 

この世は罪のもとにあると聖書は言う。

 

 圣经上说这世界是罪恶的根源。

 

そこから救い出して、神の祝福に入れることこそが、神の目標なのである。

 

 从这里解救出来,赐予神的祝福,正是神的目标。

 

 

 

 

 

祝福に入れられると、私たちはどうなるか。

 

 祝福临到的话,我们会怎样呢?

 

20節に「慰めの時」とある。

 

 20节说“安舒的时刻”。(中文版圣经第19节)

 

今まで私たちは罪に苦しめられてきた。

 

 至今我们被罪折磨。

 

そのことを神は知っている。

 

 神知道这事。

 

それは、自分の罪かもしれない。

 

 这可能是自己的罪。

 

人の罪かもしれない。

 

 可能是别人的罪。

 

世の罪かもしれない。

 

 可能是世界的罪。

 

しかし、もう苦しまなくていい。

 

 可是,不用再痛苦了。

 

あなたは私のそばにいなさい。

 

 你到我身边来。

 

喜んでいなさい。

 

 要欢喜。

 

かくして、神の祝福は慰めとなる。

 

 如此,神的祝福就成了安慰。

 

 

 

 

 

神の力を宣言することから、これらすべては始まる。

 

 因为宣告了神的大能,这一切开始了。

 

神の業の突端を、神は私たちにゆだねておられる。

 

 神将他做工的开端交托给了我们。