今週の説教「ゆるしの神」(新約聖書・マタイによる福音書6章16節から18節)

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☞インターネット百科事典「ウィキペディア」による本作品の紹介記事

ゆるしの神

 

                    饶恕的神

 

マタイによる福音書616節から18

 

 马太福音616节至18

 

16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

 “你们禁食的时候,不可像那假冒为善的人,脸上带着愁容,因为他们把脸弄得难看,故意叫人看出他们是禁食。我实在告诉你们:他们已经得了他们的赏赐。你禁食的时候,要梳头洗脸,不叫人看出你禁食来,只叫你暗中的父看见。你父在暗中查看,必然报答你。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「偽善者」とは、一般的には、本当はそうではないのに、いい人のように自分を見せる人のことである。

 

所谓“伪善者”,一般是指实际上并不是什么好人,却让人看上去像是个好人。

 

しかし、この「偽善者」は、原文では「俳優、演技をする人」という言葉である。

 

 可是,“伪善者”在原文中是“演员,表演的人”一词。

 

俳優は、自分がどんな人間であっても、その役になりきる。

 

 演员的话不管自己是怎样的人,都能进入角色。

 

自分がどういう人間なのかは関係ない。

 

 自己是怎样的人不要紧。

 

自分がどういうふうに見られているのかがすべて。

 

 自己如何被人看待才是关键。

 

そういう仕事である。

 

 是这样的工作。

 

舞台に上がるというのはそういうことであるから。

 

 因为上台表演就是这么回事。

 

ただ、それを、実際の生活でやってしまうとなると、どうだろうか。

 

 不过,实际生活中也这样的话会怎样呢?

 

舞台俳優が悪いのではない。

 

 台上的演员并没什么不好。

 

舞台の上ではなくて、実際の生活の中で、自分は良い人間だ、という役を自分で作って、その役になり切って、それを周りに人にほめてもらいたくて、自分からそれを周りにアピールするようなこと……。

 

 不是在舞台上,而是在实际生活中,自编自演自己是好人的角色,因为想要被周围的人称赞,向周围的人自我炫耀,那就有点那什么了。

 

頭の中にあることは、人からほめられたいということだけである。

 

 头脑中只想着被人称赞。

 

イエス様は、その人たちは俳優みたいなものだ、俳優が舞台でやっていることを生活の中でやっている、と言っているのである。

 

 耶稣说这些人就如同演员那样,在生活中做着演员们在舞台上所做的事。

 

 

 

 

 

しかし、そうなると困ったことではあるまいか。

 

 可是,这样的话我们会感到困惑不是吗?

 

私たちの中に、誰か一人でも、人からどう見られるかを気にしない人がいるだろうか。

 

 我们中间有人不在意别人的看法吗?

 

私たちは皆、少しくらいは俳優のような面がある。

 

 我们大家多多少少都有演员的一面。

 

むしろ、それがまったくなかったら生きていけないだろう。

 

 甚至可以说不这样的话难以生存。

 

もし私たちが、心の中に思い浮かんだことをそのまましゃべってそのまま行動したとしたら、周りが迷惑するに決まっている。

 

 如果我们把心里所想的直接说出来做出来的话,肯定会给周围人带来麻烦。

 

周りが迷惑するから、周りに迷惑をかけないように、私たちは皆、少しくらいは演技をしているはずである。

 

 因为会给人带来麻烦,为了不给人造成困扰,我们大家多多少少都会演戏。

 

ということは、私たちも、事実、俳優なのだ。

 

 这样的话,我们大家事实上都是演员。

 

 

 

 

 

私たちの多くは、良いことをした時、自分からアピールはしないだろう。

 

 我们大多数人,做好事的时候,不会自我炫耀吧。

 

でもそれは、自分からアピールしたら周りが嫌がるということを知っているからそうしないというだけで、ほめられたいという気持ちはないわけではない。

 

 但那只是因为知道自我炫耀的话会遭人嫌,并非不想得到称赞。

 

ただ、ほめられるというのはそれ自体は良いことである。

 

 不过,想要被称赞本身是好的。

 

悪いことをしていたらほめられないのだから。

 

 因为做坏事的话就得不到称赞。

 

実際、ほめられることは私たちにとってうれしいことである。

 

 事实上,被称赞对我们来说是高兴的事。

 

良いことをしたらほめられる、悪いことをしたら叱られる、ということを、私たちみんな、小さい頃から教わってきた。

 

 做好事被称赞,做坏事被训斥,我们从小就被这样教导的。

 

ほめられたらうれしいというのは自然なこと。

 

 被称赞而开心是很正常的。

 

ただ、自分からアピールすると周りに嫌がられるので、少しくらい演技をして、それを表には出さない。

 

 只不过,因为自我炫耀而遭人嫌,所以稍微装一下,不表现出来。

 

しかしそれは、自分からアピールする人とどれくらい違うと言えるだろうか。

 

 可是,这能说和那些自我炫耀的人有多少不一样吗?

 

ほめられたいという気持ちがあるということは、私たちみんなに共通する。

 

 想要被称赞的心情,我们大家是一样的。

 

 

 

 

 

私たちはみんな、人からの評価の中で生きてきた。

 

 我们大家都活在别人的评价中。

 

時々はいい評価をもらった。

 

 有时得好评。

 

時々は悪い評価をもらった。

 

 有时得差评。

 

できれば、いつもいい評価をもらいたい。

 

 可以的话,当然是想永远得好评。

 

そう考えている内に、俳優になってしまう。

 

这样想着想着,就成了演员。 

 

 

 

 

 

今までにもイエス様はそういうことを言っておられた。

 

 到这里耶稣都在说这事。

 

6章の最初からのところに、「施しをするとき」、「祈るとき」についての言葉があった。

 

 第六章最前面是“论施舍”、“论祷告”。

 

どちらも、良いことである。

 

 不管哪个都是好事。

 

貧しい人を助ける。

 

 帮助穷人。

 

神に心を向けて祈る。

 

 心向着神祷告。

 

でも、そういう良いこと、正しいことをするときでも、外側から見たらよいことだけれど、心の中は人からほめられたいという思いになっている場合があるというのだ。

 

 但是,即使做这样的好事,表面看来确实是好的,心里却想着要得人称赞,会有这样的情况。

 

それは、断食をするときにも起こる。

 

 在禁食的时候也会发生。

 

 

 

 

 

断食とは何であるか。

 

 禁食是什么呢?

 

食事をしないことである。

 

 是指不吃东西。

 

ただ、別に断食でなくても、私たちは、気持ちが落ちこんでしまって食事ができないということがある。

 

 不过,即使不禁食,我们心情不好的时候,也会吃不下东西。

 

ものすごく悲しい時などに、である。

 

 在心情极度悲伤的时候。

 

要するに、断食は、わざと食事をしないで、悲しむことである。

 

 总之,禁食就是故意不吃东西,伤心难过。

 

言ってみれば、わざと悲しむことなのである。

 

 可以说成是故意悲伤。

 

何を悲しむのか。

 

 为什么而悲伤呢?

 

自分には罪がある。

 

 因为自己有罪。

 

神に背く部分がある。

 

 背弃了神。

 

その自分を悲しむために、食事をしないことが断食なのである。

 

 因为悲伤,所以不吃饭,这就是禁食。

 

自分が神様に背いていることを悲しむために、そうするのである。

 

 因为自己背弃神而悲伤,所以这样做。

 

これも、良いこと、正しいことのひとつであると言える。

 

 这也可以说是一件好事。

 

 

 

 

 

ところが、そういう真剣な思いも、偽善になってしまうことがあるというのである。

 

 但是,这样正经的想法,也会变成一种伪善。

 

人間は俳優だから。

 

 因为人是演员。

 

自分の罪を悲しむ場面でも、人にほめられたいと思ってしまう。

 

 为自己的罪而悲痛,也是想要得人称赞。

 

だから、断食するときに、「沈んだ顔つきをする」、「顔を見苦しくする」。

 

 因此,禁食的时候,“脸上带着愁容”,“把脸弄得难看”。

 

悲しんでいる、苦しんでいるふりをして、ほめてもらえるのを待っている。

 

 装成悲伤、痛苦的样子,等着人来称赞。

 

神様に心を向ける時なのに、人からほめられるのが本当の目的。

 

 虽然是心向神的时候,但是得人称赞才是真正的目的。

 

良いこと、正しいことをしていることをアピールして、ほめられたいのだ。

 

 将自己做的好事表现出来,是为了想要得称赞。

 

 

 

 

 

ただここでイエス様は、断食なんてそんなことはやめてしまえ、とは言わなかった。

 

 不过这里耶稣并没有说不要禁食。

 

「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(1718節)。

 

 “你禁食的时候,要梳头洗脸,不叫人看出你禁食来,只叫你暗中的父看见。你父在暗中察看,必然报答你。”(1718节)

 

断食していることを人に気づかれないように。

 

 不要叫人看出你禁食。

 

人に気づかれなかったら、人からの報いは受けないで済む。

 

 不让人发现的话,就得不到人的赏赐。

 

神様からの報いがいただける。

 

 但是能得到神的赏赐。

 

神様からの報いを求めなさい。

 

 求从神而来的赏赐。

 

神様は報いてくださる。

 

 神会有赏赐。

 

 

 

 

 

ほめられたいという思いを捨てなさいという話ではない。

 

 不是说要放下想要被称赞的这种想法。

 

私たちは、ほめられたいという思いを捨てられない。

 

 我们无法放下这种想法。

 

人からの評価の中でずっと生きてきたから。

 

 因为我们永远活在他人的评价中。

 

神様にほめられるようにしなさいということである。

 

 为得神的称赞而行。

 

神様がほめてくださるようなやり方をしなさいということである。

 

 用神会赞同的方式去做。

 

イエス様は、良いことをしたら必ず報いがあると言っている。

 

 耶稣说做好事的话必得报答。

 

ただ、人に見られて人からほめられると、もう、人から報いをいただいたことになる。

 

 不过,被人看见被人称赞的话,已经得了人的报答。

 

そうなると、それ以上の報いはもうない。

 

 这样的话,就不会有更大的报答。

 

もう報いをもらったわけだから。

 

 因为已经得了报答。

 

逆に、人に気づかれなかったら、報いがなかった、ということではない。

 

 相反的,不被人察觉,并不是就没有报答了。

 

その時こそ、神様が報いてくださるのだ。

 

 那时正是神的报答临到的时候。

 

そして、それこそが大事なのである。

 

 这才是最重要的。

 

 

 

 

 

そして、今日の話では、人からほめられるか、神様からほめられるかは、どちらかしかないということになる。

 

 今天的内容中,得人称赞还是得神称赞,只能二选一。

 

人にほめられて、神様にもほめられるということはない。

 

 既被人称赞,又被神称赞这样的事是没有的。

 

人からほめられたら、報いはもうそれで終わり。

 

 如果得了人的称赞,报答就结束了。

 

もうそれで報いを受けたのだから、それ以上の神様からの報いはない。

 

 因为已经得了报答了,就不会得神的报答了。

 

私たちは、人からほめられるか神様からほめられるか、どちらかしかない。

 

 人的称赞还是神的称赞,我们只能得一个。

 

 

 

 

 

そうことになるということは、神様はそれくらい、私たちのことを良く見ておられるということである。

 

 事情会这样是因为,神如此关注着我们。

 

18節ではその神様のことが、「隠れたことを見ておられる父」だと言われている。

 

 18节说这样的神是“在暗中查看的父”。

 

演技して、隠したつもりでも、神様には隠せない。

 

 即使想装着掩盖起来,对神是隐瞒不了的。

 

神様には偽善は通用しない。

 

 对神伪善不管用。

 

神様はすべてをご覧になりながら、私たちに報いを与えようとスタンバイしている。

 

 神查看我们的一切,随时预备报答我们。

 

 

 

 

 

加えて言うと、演技をやめろとも言われていない。

 

 另外,这里并没有说不要装。

 

イエス様が言ったことは、断食をするとき、断食をしていないようなポーズを取れということである。

 

 耶稣所说的是禁食的时候,要摆出不禁食的姿态来。

 

これは、演技しろということである。

 

 这也是演戏。

 

私たちは演技をやめられない。

 

 我们不能不装。

 

ずっと演技してきたから。

 

 因为一直都在装。

 

 

 

 

 

ただ、ここで言われていることは深い。

 

 不过,这里所说的更有深意。

 

断食をするとき、断食をしていないようなポーズを取れということだが、断食は、自分の罪を悲しむことである。

 

 禁食的时候,要摆出不禁食的姿态,但是禁食是为自己的罪而悲痛。

 

だとすると、断食をするとき、断食をしていないようなポーズを取れ、というのは、自分の罪を悲しみながら、悲しんでいないようなふりをしろ、ということである。

 

 这样的话,禁食的时候,摆出不禁食的姿态就是说虽然为自己的罪而悲痛,却要装作不难过的样子。

 

しかし、悲しむべき時に悲しんでいないふりをするのは難しいことではないのか。

 

 可是,难过的时候装作不难过是很难的,不是吗?

 

 

 

 

 

施しをするとき、募金をするようなとき、こっそりやる、名前を出さずに匿名でやるというのは容易なことである。

 

 施舍的时候,捐钱的时候,偷偷地匿名捐献很容易。

 

祈るとき、部屋で一人で祈るというのも、何も難しいことではない。

 

 祈祷的时候,一个人在房间里祷告,也一点都不难。

 

しかし、悲しむ時に悲しんでいないふりをするというのは……。

 

 可是,伤心的时候装作不伤心的话……

 

 

 

 

 

「罪」という言葉は「的外れ」という言葉からきている。

 

 “罪”一词来自于“偏离靶心”。

 

偏って自分を愛するという的外れである。

 

 偏爱自己就是偏离了靶心。

 

それに対して神様はどんな人でも同じように愛する。

 

 与此相对,神不管什么人都一样地爱。

 

その神様から見たら、私たちの罪はどれくらいだろうか。

 

 在这样的神看来,我们的罪该有多深啊?

 

自分の罪を見つめるなら、悲しまないわけにはいかない。

 

 定睛看自己的罪,必定悲伤不已。

 

 

 

 

 

イエス様は、できないことをしろと言っているのではない。

 

 耶稣没有要我们做我们做不到的事。

 

ほめられたいという思いを捨てなさいとは言わなかった。

 

 没有说放下想要得人称赞的想法。

 

演技をやめろとも言わなかった。

 

 也没有说不要再装了。

 

無理なことは言わない方である。

 

 不会勉强我们。

 

だとするとこれは、「悲しまなくていい」ということではないか。

 

 那样的话就是说“不用悲伤也没有关系”。

 

 

 

 

 

ではどうして私たちは自分の罪を悲しまなくていいのか。

 

 那么为什么我们不用悲伤呢?

 

神はどんな人でも愛する。

 

 因为神不管什么人都爱。

 

どんな罪深い人でも愛する。

 

 不管罪孽多深他都爱。

 

神は、罪をゆるす神である。

 

 神是饶恕的神。

 

 

 

 

 

私たちの罪は深刻なものであることだろう。

 

 我们罪恶深重。

 

しかし、神は、自分の罪に目を向ける人をゆるす方である。

 

 可是,神饶恕正视自己罪恶的人。

 

だから、自分の罪を悲しみなさい、と言っておいて、しかし、悲しんでいないふりをしなさい、そうしていいし、そうすることができる、ということではないのか。

 

 因此,虽然说要为自己的罪而悲痛,但是,装作不悲痛也可以,也可以这样做,不是吗?

 

自分の罪に目を向けることは必要なことである。

 

 正视自己的罪是必要的。

 

それをやめろとは言われていない。

 

 没有说不要这样做。

 

ただ、自分の罪に目を向けたら、神はあなたを許す。

 

 但是,正视自己罪的话,神就会饶恕你

 

それが神からの報いだ。

 

 这就是神的报答。

 

キリストはそう言っているのではないか。

 

 基督这么说了。

 

 

 

 

 

自分の罪に目を向けたい。

 

 希望大家正视自己的罪。

 

それはどのように見えるだろうか。

 

 这看起来是怎样的呢?

 

どのように見えたとしても、神の前に自分の罪を見つめるなら、神は人を許す。

 

 不管看起来如何,在神面前定睛认自己的罪,神就会饶恕人。

 

神は、許しの神である。

 

神是饶恕的神。