
目を澄ませて
マタイによる福音書6章22節から24節
马太福音6章22节-24节
22「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、23濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
“眼睛就是身上的灯。你的眼睛若了亮,全身就光明;你的眼睛若昏花,全身就黑暗。你里头的光若黑暗了,那黑暗是何等大呢!”
24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
“一个人不能侍奉两个主。不是恶这个爱那个,就是重这个轻那个。你们不能又侍奉神,又侍奉玛门。”
“眼睛就是身上的灯”。
……ともし火とは、暗闇を照らす光である。
灯是照亮黑暗的光。
それによって私たちは、ものを見ることができる。
因为光,我们可以看见东西。
しかし、「目が体のともし火」だと言われている。
但是,这里说“眼睛是身上的灯”。
普通、ともし火は暗闇を照らす。
通常灯照亮黑暗。
体の外を照らす。
照亮的是身体的外面。
しかし、「体のともし火は目である」と言われている。
可是,这里说“眼睛是身上的光”。
目が体を照らすというのだ。
就是说眼睛照亮身体。
体の外を照らすのではない。
不是照亮身体的外部。
目が体全体を明るくするというのだ。
眼睛照亮全身。
しかし、目が光を出すだろうか。
可是,眼睛能发光吗?
実際、目は光を受け取るものである。
实际上,眼睛接受光。
そして、キリストの話もそうである。
而基督的话也是这个意思。
「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」。
“你的眼睛若了亮,全身就光明;你的眼睛若昏花,全身就黑暗”。
目が澄んでいれば、光を取り込むことができるから、体も明るくなる。
因为眼睛若了亮,就能接受光,身体也变明亮。
目が濁っていると、光を取り込むことができないから、体も暗くなる。
如果眼睛昏花的话,就不能接受光,所以身体也就变暗了。
つまり、目は、目自体が光を放つともし火というより、光を取り入れる窓なのである。
也就是说,相比发光的灯,眼睛本身是接受光的窗户。
窓から光が入ると、部屋の中が明るくなるように、目から光が入ると、体中が明るくなる。
如同光从窗而入房间变亮那样,光进入眼睛,全身变光明。
暗闇を消してくれる。
黑暗就消失了。
その意味で、目はともし火と同じなのだ。
就这个意义来说,眼睛和灯是一样的。
……となると、もともと私たちの体は暗い、と言われていることになる。
这样就是说我们的身体原本是黑暗的。
私たちには光がない。
我们没有光。
光のない存在。
是没有光的存在。
だから、外から光を取り入れなさい。
因此,从外面获取光。
そうすることができる。
这样是可以的。
そのために、目を澄ませなさい。
为此,眼睛要了亮。
これがキリストのメッセージである。
这是基督所传达的信息。
これはもちろん、肉体の目の話ではない。
这当然不是在说肉眼。
「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」とあるが、そもそも私たちの肉体は、明るくなったり暗くなったりしない。
“你的眼睛若了亮,全身就光明”,原本我们的身体既不明亮也不黑暗。
……ということは、この「光」というのも、私たちの目に見える光のことではない。
也就是说,这“光”也不是我们眼睛能看到的光。
神の光とも言うべきものがあるということなのだ。
可以说成是神的光。
聖書の第一ページに書かれている神の最初の言葉は、「光あれ」であった。
圣经第一页写到,神最初的话语是“要有光”。
これは太陽の光ではない。
这不是太阳光。
創世記一章で、太陽がつくられるのは四日目である。
创世纪第一章中,造太阳是在第四天。
「光あれ」は一日目に言われた言葉なのだ。
而“要有光”是在第一天所说的。
しかし、その光が目で見えるか。
可是,这光眼目能见吗?
目に見えない、神の光。
神的光眼目不能见。
そういうものがあるのだというのが聖書なのである。
说有这种东西的正是圣经。
そして、神は何よりもまず、暗闇に光を与える方なのだということなのである。
比起其它任何东西,神首先在黑暗中赐予了光明。
目には見えないその光を受け取ることができるとキリストは言う。
基督说可以接受眼目不能见的光。
そのために、目を澄ませる。
为此,眼睛要了亮。
ただ神だけを見上げる。
单单举目仰望神。
光はそこから来る。
光就会从那而来。
私たちは、光を受け取ろうとしているだろうか。
我们想要接受光吗?
光を見つめているだろうか。
有专注着它吗?
私たちは太陽の光をずっと見つめていることはできない。
我们不能一直盯着太阳光。
私たちの肉体の目はそれに耐えられない。
我们的肉眼承受不了这个。
それは、神の光も同じかもしれない。
这或许和神的光一样。
何しろ私たちの体は、神の光を受け取らないのなら、暗いのだ。
如果我们的身体不接受神的光就会变黑暗。
私たちは、もしかすると、神の光を見つめるのも苦手なのかもしれない。
或许我们也很难注视于神的光。
おそらくそうだろう。
恐怕是这样的。
だからキリストは今日、こういう話をしている。
因此基督今天说了这样的话。
神の光を受け取りなさい。
要接受神的光。
受け取ることができる。
是可以接受的。
それによってあなたは体中が明るくなる。
这样你的全身就会变光明。
私たちが苦手だからそういう話をしているのだ。
因为我们难以做到,所以说了这样的话。
神をまっすぐに見上げつづけること。
直直地举目仰望神,并坚持。
見上げるだけでいい。
只要举目仰望就可以。
それだけで、私たちは全身光にあふれる。
只要这样,我们全身就充满了光明。
しかし、神を見上げていないと、一度神の光が体の中にまで入ってきても、光が消えるということもあるのだ(23節)。
可是,如果不仰望神,即使神的光曾经照进体内,也会消失。(23节)
もし私たちが神から目を背けて、他の物を見つめてしまったら光は消える。
如果我们的目光背离了神,专注于其它东西的话,光就会消失。
だから、その次の話は、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」である。
因此,接下来的话语是“谁也不能侍奉两个主”。
私たちが何を主人にしているか、と問われている。
被问道我们把谁当作主人。
神か、富か。
是神还是财富?
「富」という言葉は原書では「マモン」と書かれている。
“财富”在原文中写的是“玛门”。
この言葉は「所有物」という意味になる。
这个词是“所有物”的意思。
ただ、新約聖書は当時、世界で一番広く使われた言葉であるギリシャ語で書かれているのだが、この「マモン」という言葉は、ギリシャ語ではない。
不过,新约圣经虽然是用当时全世界最广泛使用的语言希腊语来写的,“玛门”却不是希腊语。
イエス様や弟子たちが話した言葉であるアラム語である。
用的是耶稣和门徒所说的语言,阿拉米语。
アラム語の言葉の発音を、そのままギリシャ文字で書いてあるのだ。
把阿拉米语单词的发音,就这样用希腊语写出来了。
そんなことをするのは意味がある。
这样做是有理由的。
「マモン」というのは、外国の神の名前なのである。
“玛门”是外国的神的名字。
つまり、ここで言われているのは、神様以外のものを神様だと勘違いしていないか、ということである。
也就是说,这里要说的是,有没有把神之外的错当成神。
光から目を背けて、他の物を見つめてしまっていないか。
眼目背向光,看向了其它东西呢?
私たち自身が暗闇なんだとしたら、私たちは光以外のものを見ている方が楽だろう。
如果我们大家自身就是黑暗的话,我们更乐于看光之外的东西。
そして、聖書は、この世は暗闇だと言う。
圣经上说这世界是黑暗的。
この世の何かを見つめている方が楽なのだ。
我们更乐于专注到世界上的什么东西。
それこそ、神様を見上げるより、富……、銀行の通帳を見ている方が楽なのだ。
正是如此,比起仰望神,更乐于见到财富,银行的存折等。
その私たちに、神の光を受け取りなさいと言われている。
耶稣对这样的我们说要接受神的光。
聖書では、光は命のイメージである。
圣经中光意味着生命。
それに対して、暗闇は死のイメージになる。
与之相对应,黑暗意味着死亡。
キリストは私たちに言っている。
基督对我们说:
光の中を、生きていきなさい。
要活在光明中。
神様の光は、いつもあなたを照らしている。
神的光永远照亮你。
神様を見上げて、その光を受け取りなさい。
举目仰望神,接受神的光。
先週、テノール歌手の新垣勉さんのコンサートがあった。
上周有男高音歌手新垣勉先生的音乐会。
この人は神様の光を受け取っている人だと思わされる。
他被认为是受神的大光照耀的人。
肉体の目は見えないけれども、いつも自然な人である。
虽然肉眼看不见,但是一直都是个正常人。
どんな時でもいつも通りの人である。
不管什么时候一直都一样。
どうしていつも通りでいられるのか。
为什么可以一如往常呢?
いや、私たちがいつも通りでいられなくなることがあるのはなぜか。
我们不能一如往常又是为什么呢?
暗闇は怖い。
黑暗是可怕的。
暗闇の中だからと言って、歩けないわけではないけれども、そこから何が出てくるか分からない。
虽说是在黑暗中,但并不是无法行走,只是不清楚那里会冒出什么东西。
そして私たちは、もしかすると、暗闇の中を歩くことに慣れてしまっているかもしれない。
于是我们可能就习惯了在黑暗中行走。
しかしそれでは、いつも、いつも通りではいられない。
可是这样的话就不能一如往常了。
新垣勉さんは神から光を受け取っている。
新垣勉先生接受了神的光。
そうなると、暗闇は消える。
黑暗便消失了。
暗闇がないから、心配することがない。
因为没有黑暗,所以就没什么可担心的了。
いつも、安心していられる。
一直都能安安心心的。
新垣勉さんから感じる感覚は、それである。
从新垣勉先生那里感受到的就是这点。
キリストはしばしば言う。
基督经常说:
「安心しなさい」。
“要安心”。
私たちがなかなか安心していられないから。
因为我们很难安心。
神の光を受け取ったら、私たちは、いつも安心していられる。
如果接受神的光的话,我们也能一直安安心心的了。
キリストは私たちに安心してほしいのだ。
基督希望我们无忧无虑的。
光の中を生きてほしいのだ。
活在光明中。
……これは、親が子どもに願うことではないだろうか。
这也是父母对子女的愿望不是吗?
私たちは、親が子どもに対するように、愛されている。
我们就像父母对子女那般被爱着。
神の光もそうだろう。
神的光也是如此。