今週の説教「復活の主を伝える」(新約聖書・使徒言行録4章1節から22節)

 

使徒言行録41節から22

 

1ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。2二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、3二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。4しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。

 

5次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。6大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。7そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。11この方こそ、

 

『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、

 

隅の親石となった石』

 

です。12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」13議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。14しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。15そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、16言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。17しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」18そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。19しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。20わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」21議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。22このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

 

 

 

 

 

教会は何を伝えるべきか。

 

ペトロとヨハネは逮捕された。

 

しかし、逮捕されたところでも伝えるべきことはある。

 

もうどうしようもないというところでも伝えるべきことはある。

 

 

 

そして、語った時に信じる人は多い。

 

「男の数が五千人」(4節)も、である。

 

教会は何を伝えることでそのように大きくなったのか。

 

それを語っているのが今日の箇所である。

 

逮捕されても、つまり、人間の目に希望が全く見えないところでも、堂々とキリストの復活を伝えたのである。

 

 

 

逮捕され、取り調べを受ける。

 

その場には、「議員、長老、律法学者たち」、「大祭司」と「大祭司の一族」が集まった。

 

彼らは、最高法院のメンバーである。

 

つまりは国会議員である。

 

彼らは問う。

 

「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」。

 

ペトロとヨハネが成した、いやしの業が何の力によるものなのか、と問われている。

 

しかし、この質問は何なのか。

 

逮捕したのは「神殿守衛長、サドカイ派」(2節)であった。

 

逮捕した理由は「死者の中からの復活を宣べ伝えている」からということであった。

 

サドカイ派は復活を信じない。

 

聖書を読んではいるが、解釈上、復活を信じない。

 

彼らは上流階級に属していた。

 

つまり、生きている中で、ある程度満足していたのである。

 

従って、「復活」の必要を感じない。

 

しかし、サドカイ派は国会では少数派である。

 

多数派は、ファリサイ派であった。

 

律法学者などである。

 

この人たちは復活を認めていた。

 

そこで、彼らは質問した。

 

「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」。

 

おかしな魔術ではないのか、ということである。

 

つまり、ここでは、逮捕された理由と、取り調べの内容が違ってしまっているのである。

 

 

 

しかし、ペトロは落ち着いている。

 

落ち着いて答える。

 

その落ち着きはどこから来るのか。

 

「聖霊に満たされて」(8節)いたからである。

 

神の霊、神ご自身が助けてくださるのである。

 

 

 

今までは弟子たちはイエスと共にいた。

 

しかし、イエスは天に昇って行かれた。

 

それは、神が弟子たちを見放したということではない。

 

弟子たちに聖霊が与えられる。

 

神ご自身が、弟子の内に宿るようになる。

 

弟子たちは神と共に働いていく。

 

教会の歩みを神は助けるのだ。

 

 

 

イエスの名によってだということをペトロは堂々と答える。

 

その上、復活についても自分から語る。

 

もしかするとこれは、自分の身を危うくすることである。

 

しかし、ペトロは、「見たことや聞いたことを話さないではいられない」(20節)。

 

そして、断言する。

 

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。

 

救いはイエス・キリストだけにあると言い切っている。

 

しかし、その根拠はどこにあるのだろうか。

 

ペトロは他の宗教を研究したのだろうか。

 

そうではない。

 

ペトロは、自分自身の経験からの確信を語っているのである。

 

 

 

ペトロはイエスの一番弟子であると自負していた。

 

「あなたのためなら命も捨てます」と面と向かってイエスに言った。

 

しかし、イエスが逮捕されると逃げ出してしまうのだ。

 

その後、こっそりついていくが、あなたはイエスの弟子ではないのか、と問われ、「知らない」と3度も繰り返した。

 

その時、キリストは振り返ってペトロを見つめた。

 

ペトロは、「外に出て激しく泣いた」。

 

ペトロは、完全に倒れてしまった。

 

しかし今はどうか。

 

「無学な普通の人」(13節)がこんなにも堂々としている。

 

復活したキリストがペトロに出会ってくださった。

 

ペトロがキリストを見捨てても、キリストはペトロを見捨てなかった。

 

キリストがペトロを立ち上がらせてくださった。

 

キリストがペトロを復活させた。

 

キリストは倒れている人を立ち上がらせてくださる。

 

それがたとえ、ご自分を見捨てたような人間であっても。

 

 

 

それを伝えるのが教会である。

 

そうする時、教会は大きく成長する。

 

人々が立ち上がらされるということが起こってくるから。

 

生まれつき足の不自由な人が立ち上がらされた。

 

いやそれ以前にペトロ自身が立ち上がらされた。

 

倒れている人が復活させられるということが起こる。

 

実に、聖書の原文では、「復活」という言葉と「立ち上がる」という言葉は同じ言葉である。

 

人を復活させること。

 

それが教会の働きである。

 

そして、その働きはペトロの力によるのではない。

 

聖霊の力(8節)である。

 

 

 

ただ、立ち上がるとはどういうことか。

 

倒れているところから、立ち上がるということは起こる。

 

ペトロは一番弟子だと自負していた。

 

立派なことを言っていた。

 

リーダーとして振る舞って、「わたしが、わたしが」という人間だった。

 

その自分を打ち砕かれた。

 

それは、私たちにも必要なことである。

 

「わたしが」を捨てる。

 

「キリストが」を生きる。

 

それは、裏を返せば、自分に頼むことをやめるということである。

 

 

 

そのように生きる時、私たちには恐れがなくなる。

 

18節で、ペトロとヨハネは脅しを受ける。

 

キリストのことを語るなと言うことである。

 

しかし、それに対して堂々とこう答える。

 

「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。

 

彼が語るのは自分の信念ではない。

 

「見たこと、聞いたこと」である。

 

私たちも、同じことを語る。

 

私は、復活のキリストが人を復活させるのを見た。

 

私自身、復活のキリストに立ち上がらせていただいた。

 

私の人生が復活させられた。

 

自分の力でではない。

 

聖霊の力によって。

 

 

 

自分にできるだろうか、と恐れる必要はない。

 

今日の場面も、ペトロとヨハネは、話そうとして出かけて行ったのではない。

 

不意に逮捕されて、取り調べを受けている中でのことである。

 

突然暗転したかのような場面である。

 

それでも、堂々と話をして、それも、自分からはっきりと、言わなくていいことまで話して、にもかかわらず無事に釈放されたのである。

 

これが神の約束である。

 

私があなたにおいて働く。

 

私があなたを守る。

 

私があなたを豊かに用いる。

 

私たちも、その約束の中にいる。

 


復活の主を伝える

 

                   传扬复活的主

 

使徒言行録41節から22

 

 使徒行传41节至22

 

1ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。2二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、3二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。4しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。

 

 彼得和约翰对百姓说话的时候,祭司们和守殿官,并撒都该人忽然来了。因为他们教训百姓,本着耶稣,传说死人复活,就很烦恼,于是下手拿住他们。因为天已经晚了,就把他们押到第二天。但听道之人有许多信的,男丁数目约到五千。

 

5次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。6大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。7そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。11この方こそ、

 

 第二天,官府、长老和文士在耶路撒冷聚会,又有大祭司亚那和该亚法、约翰、亚历山大,并大祭司的亲族都在那里。叫使徒站在当中,就问他们说:“你们用什么能力,奉谁的名作这事呢?”那时,彼得被圣灵充满,对他们说:“治民的官府和长老啊,倘若今日因为在残疾人身上所行的善事,查问我们他是怎么得了痊愈,你们众人和以色列百姓都当知道,站在你们面前的这人得痊愈,是因你们所钉十字架、神叫他从死里复活的拿撒勒人耶稣基督的名。他是

 

『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、

 

 你们匠人所弃的石头,

 

隅の親石となった石』

 

 已成了房角的头块石头。

 

です。12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」13議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。14しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。15そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、16言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。17しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」18そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。19しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。20わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」21議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。22このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

 

 除他以外,别无拯救。因为在天下人间,没有赐下别的名,我们可以靠着得救。”他们见彼得、约翰的胆量,又看出他们原是没有学问的小民,就希奇,认明他们是跟过耶稣的。又看见那治好了的人和他们一同站着,就无话可驳。于是吩咐他们从公会出去,就彼此商议说:“我们当怎样办这两个人呢?因为他们诚然行了一件明显的神迹,凡住耶路撒冷的人都知道,我们也不能说没有。唯恐这事越传扬在民间,我们必须恐吓他们,叫他们不再奉这名对人讲论。”于是叫了他们来,禁止他们总不可奉耶稣的名讲论、教训人。彼得、约翰说:“听从你们,不听从神,这在神面前合理不合理,你们自己酌量吧!我们所看见、所听见的,不能不说。”官长为百姓的缘故,想不出法子刑罚他们,又恐吓一番,把他们释放了。这是因众人为所行的奇事,都归荣耀与神。原来藉着神迹医好的人有四十多岁了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教会は何を伝えるべきか。

 

 教会该传达些什么呢?

 

ペトロとヨハネは逮捕された。

 

 彼得和约翰被捕了。

 

しかし、逮捕されたところでも伝えるべきことはある。

 

 但是,就算在被捕的地方也有该传达的信息。

 

もうどうしようもないというところでも伝えるべきことはある。

 

 即便是在毫无办法的地方依然有该传达的信息。

 

 

 

 

 

そして、語った時に信じる人は多い。

 

 而且,说的时候有很多人信了。

 

「男の数が五千人」(4節)も、である。

 

 “男丁数目约到五千”(第4节)。

 

教会は何を伝えることでそのように大きくなったのか。

 

 教会到底通过传达什么使得如此壮大呢?

 

それを語っているのが今日の箇所である。

 

 今天的内容说的就是这个。

 

逮捕されても、つまり、人間の目に希望が全く見えないところでも、堂々とキリストの復活を伝えたのである。

 

 即使被捕,在世人眼里看似毫无希望的地方,依然毫无畏惧地传达基督复活的信息。

 

 

 

 

 

逮捕され、取り調べを受ける。

 

 被捕受审讯。

 

その場には、「議員、長老、律法学者たち」、「大祭司」と「大祭司の一族」が集まった。

 

 那里聚集了“官府、长老、文士”以及“大祭司”和“大祭司的亲族”。

 

彼らは、最高法院のメンバーである。

 

 他们是最高法院的成员。

 

つまりは国会議員である。

 

 也就是国会议员。

 

彼らは問う。

 

 他们问到:

 

「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」。

 

 “你们用什么能力,奉谁的名作这事呢?”

 

ペトロとヨハネが成した、いやしの業が何の力によるものなのか、と問われている。

 

 被问到彼得和约翰是用什么能力医治的?

 

しかし、この質問は何なのか。

 

 这问题什么意思呢?

 

逮捕したのは「神殿守衛長、サドカイ派」(2節)であった。

 

 逮捕他们的是“守殿官并撒都该人”(第2节)。

 

逮捕した理由は「死者の中からの復活を宣べ伝えている」からということであった。

 

 逮捕的理由是因为“传达死里复活的信息”。

 

サドカイ派は復活を信じない。

 

 撒都该人不相信复活。

 

聖書を読んではいるが、解釈上、復活を信じない。

 

 虽然读圣经,但是不相信复活。

 

彼らは上流階級に属していた。

 

 他们属于上流阶层。

 

つまり、生きている中で、ある程度満足していたのである。

 

 就是说生活富足到了一定的程度。

 

従って、「復活」の必要を感じない。

 

 因此,不觉得有“复活”的必要。

 

しかし、サドカイ派は国会では少数派である。

 

 可是,撒都该人在国会中是少数派。

 

多数派は、ファリサイ派であった。

 

 多数是法利赛人。

 

律法学者などである。

 

 是律法专家。

 

この人たちは復活を認めていた。

 

 他们承认复活。

 

そこで、彼らは質問した。

 

 因此他们问到:

 

「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」。

 

 “你们用什么能力,奉谁的名作这事呢?”

 

おかしな魔術ではないのか、ということである。

 

 是不是什么古怪的魔术啊,是这个意思。

 

つまり、ここでは、逮捕された理由と、取り調べの内容が違ってしまっているのである。

 

 就是说,在这里,逮捕的理由和审讯的内容不一样。

 

 

 

 

 

しかし、ペトロは落ち着いている。

 

 可是,彼得很冷静。

 

落ち着いて答える。

 

 沉着地应答。

 

その落ち着きはどこから来るのか。

 

 这份冷静从何而来?

 

「聖霊に満たされて」(8節)いたからである。

 

 因为“被圣灵充满”。(第8节)

 

神の霊、神ご自身が助けてくださるのである。

 

 神的灵,神亲自来帮助他。

 

 

 

 

 

今までは弟子たちはイエスと共にいた。

 

 迄今为止门徒们都和耶稣在一起。

 

しかし、イエスは天に昇って行かれた。

 

 可是,耶稣升天而去了。

 

それは、神が弟子たちを見放したということではない。

 

 这并不是说神抛弃了门徒。

 

弟子たちに聖霊が与えられる。

 

 门徒被赐予了圣灵。

 

神ご自身が、弟子の内に宿るようになる。

 

 神住在了门徒的里面。

 

弟子たちは神と共に働いていく。

 

 门徒与神共同做工。

 

教会の歩みを神は助けるのだ。

 

 神帮助教会前进。

 

 

 

 

 

イエスの名によってだということをペトロは堂々と答える。

 

 彼得光明正大地回答说是奉耶稣的名。

 

その上、復活についても自分から語る。

 

 而且,他开始讲述复活。

 

もしかするとこれは、自分の身を危うくすることである。

 

 这或许会让他惹祸上身。

 

しかし、ペトロは、「見たことや聞いたことを話さないではいられない」(20節)。

 

 可是,彼得“不能不说所看见、所听见的”。

 

そして、断言する。

 

 因此,他断言说:

 

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。

 

 “除他以外,别无拯救。因为在天下人间,没有赐下别的名,我们可以靠着得救。”

 

救いはイエス・キリストだけにあると言い切っている。

 

 他断言说只有耶稣能拯救。

 

しかし、その根拠はどこにあるのだろうか。

 

 可是,这根据在哪里呢?

 

ペトロは他の宗教を研究したのだろうか。

 

 彼得研究其它宗教了吗?

 

そうではない。

 

 并没有。

 

ペトロは、自分自身の経験からの確信を語っているのである。

 

 彼得所说的是从自身经验得着的信心。

 

 

 

 

 

ペトロはイエスの一番弟子であると自負していた。

 

 彼得自认为是耶稣的第一大弟子。

 

「あなたのためなら命も捨てます」と面と向かってイエスに言った。

 

 他当着耶稣的面说“我可以为你舍命”。

 

しかし、イエスが逮捕されると逃げ出してしまうのだ。

 

 可是,耶稣被捕后他却逃跑了。

 

その後、こっそりついていくが、あなたはイエスの弟子ではないのか、と問われ、「知らない」と3度も繰り返した。

 

 后来,偷偷地跟上去,被问到你是耶稣的弟子吗,他连着三次说“不知道”。

 

その時、キリストは振り返ってペトロを見つめた。

 

 那时,基督回头看向彼得。

 

ペトロは、「外に出て激しく泣いた」。

 

 彼得“出去痛哭”。

 

ペトロは、完全に倒れてしまった。

 

 彼得完全跌倒了。

 

しかし今はどうか。

 

 可是现在呢?

 

「無学な普通の人」(13節)がこんなにも堂々としている。

 

 “没有学问的小民”(13节)如此义正言辞。

 

復活したキリストがペトロに出会ってくださった。

 

 复活的基督来见彼得了。

 

ペトロがキリストを見捨てても、キリストはペトロを見捨てなかった。

 

 即使彼得抛弃了基督,基督却没有抛弃彼得。

 

キリストがペトロを立ち上がらせてくださった。

 

 基督让彼得站了起来。

 

キリストがペトロを復活させた。

 

 让彼得复活了。

 

キリストは倒れている人を立ち上がらせてくださる。

 

 基督让跌倒的人站起来。

 

それがたとえ、ご自分を見捨てたような人間であっても。

 

 哪怕是曾经放弃他的人。

 

 

 

 

 

それを伝えるのが教会である。

 

 传达此信息的就是教会。

 

そうする時、教会は大きく成長する。

 

 这样做,教会就会蓬勃发展。

 

人々が立ち上がらされるということが起こってくるから。

 

 因为人站起来了。

 

生まれつき足の不自由な人が立ち上がらされた。

 

 生来残疾的人站起来了。

 

いやそれ以前にペトロ自身が立ち上がらされた。

 

 在这之前彼得自己先站起来了。

 

倒れている人が復活させられるということが起こる。

 

 跌倒的人复活了。

 

実に、聖書の原文では、「復活」という言葉と「立ち上がる」という言葉は同じ言葉である。

 

 事实上,圣经原文中,“复活”一词和“站立起来”是同一个词。

 

人を復活させること。

 

 让人复活。

 

それが教会の働きである。

 

 是教会的工作。

 

そして、その働きはペトロの力によるのではない。

 

 而这不是因彼得的大能。

 

聖霊の力(8節)である。

 

 是圣灵的大能。

 

 

 

 

 

ただ、立ち上がるとはどういうことか。

 

 那么站立起来是指什么呢?

 

倒れているところから、立ち上がるということは起こる。

 

 是指从倒下的地方站立起来。

 

ペトロは一番弟子だと自負していた。

 

 彼得自认为是第一大弟子。

 

立派なことを言っていた。

 

 说大话。

 

リーダーとして振る舞って、「わたしが、わたしが」という人間だった。

 

 摆领导架子,成天“我,我”,是这样的人。

 

その自分を打ち砕かれた。

 

 这个自我被支离破碎了。

 

それは、私たちにも必要なことである。

 

 我们也有必要这样做。

 

「わたしが」を捨てる。

 

 舍弃“自我”。

 

「キリストが」を生きる。

 

 活出“基督”。

 

それは、裏を返せば、自分に頼むことをやめるということである。

 

 这反过来说就是不再依赖自我。

 

 

 

 

 

そのように生きる時、私たちには恐れがなくなる。

 

 这样过活的时候,我们将不再恐惧。

 

18節で、ペトロとヨハネは脅しを受ける。

 

 18节,彼得和约翰受到威胁。

 

キリストのことを語るなと言うことである。

 

 不准他们说基督的事。

 

しかし、それに対して堂々とこう答える。

 

 可是他们对此却义正言辞地回答说:

 

「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。

 

 “听从你们不听从神,这在神面前合理不合理,你们自己酌量吧!我们所看见、所听见的,不能不说。”

 

彼が語るのは自分の信念ではない。

 

 他们所说的不是自己的信念。

 

「見たこと、聞いたこと」である。

 

 而是“所看见,所听到的”。

 

私たちも、同じことを語る。

 

 我们也说同样的事。

 

私は、復活のキリストが人を復活させるのを見た。

 

 我看到复活的基督让人复活。

 

私自身、復活のキリストに立ち上がらせていただいた。

 

 我自己也因复活的基督而站立起来。

 

私の人生が復活させられた。

 

 我的人生复活了。

 

自分の力でではない。

 

 不是靠自己的力量。

 

聖霊の力によって。

 

 而是靠圣灵的大能。

 

 

 

 

 

自分にできるだろうか、と恐れる必要はない。

 

 没必要担心自己能行吗?

 

今日の場面も、ペトロとヨハネは、話そうとして出かけて行ったのではない。

 

 今天的场景也是,彼得和约翰不是因为想要说而出去的。

 

不意に逮捕されて、取り調べを受けている中でのことである。

 

 而是意外被捕,在受审讯过程中的场景。

 

突然暗転したかのような場面である。

 

 就像是突然暗转的场景。

 

それでも、堂々と話をして、それも、自分からはっきりと、言わなくていいことまで話して、にもかかわらず無事に釈放されたのである。

 

 即便如此,依然光明正大畅所欲言,而且连不该说的也明明白白地说了,然而却无罪释放了。

 

これが神の約束である。

 

 这就是神的应许。

 

私があなたにおいて働く。

 

 我运行在你的里面。

 

私があなたを守る。

 

 我必保守你。

 

私があなたを豊かに用いる。

 

 我要大大地使用你。

 

私たちも、その約束の中にいる。

 

我们也活在这应许中。