今週の説教「神の偉大な業」(新約聖書・使徒言行録2章1-13節)

新約聖書・使徒言行録21-13

 

1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 

 

 

 

 

今日はペンテコステ。

 

クリスマスやイースターほど知られていないが、教会にとって大事な記念日。

 

弟子たちに聖霊が与えられた日である。

 

そして、この時の弟子たちだけではなく、私たちにも、望む人には誰にでも聖霊は与えられる。

 

聖霊が私たちの中に住んでくださるようになる。

 

だから、私たちはこの日を祝う。

 

 

 

ペンテコステとは「50番目」という意味の言葉である。

 

1節に「五旬祭」とあるが、それが聖書の原文のギリシャ語では「ペンテコステ」となる。

 

「旬」とは「10日」という意味。

 

つまり、「五旬祭」は50日の祭り。

 

これは、もともとは、旧約聖書の時代に神の言葉が与えられたこと祝う祭りであった。

 

50日というのは、出エジプトから50日目ということである。

 

かつて、神の言葉を与えられて、その言葉と共に生きていきなさいと言われたその日に、今度は聖霊が与えられたのである。

 

私自らがあなたと共にいる、と

 

 

 

そしてこれは、約束の通りに起こった出来事であった。

 

使徒言行録15節に、このようなイエスの言葉がある。

 

「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」。

 

 

 

「洗礼」と聞くと何か特別な専門用語のように聞こえるが、これはギリシャ語で、「どっぷりつかる」という意味の普通の言葉で、例えば船の沈没などについてつかわれた言葉である。

 

この場合は、聖霊にどっぷりつかるということ。

 

聖霊は神ご自身であるからつまり、そこから、神と共に生きていくということである。

 

ただ神を見上げているだけではない。

 

神と共に自分が在る。

 

 

 

そして、使徒言行録18節には、聖霊を与えられると「力を受ける」とある。

 

「力」という単語は原文では「デュナミス」で、この言葉がもとになって、「ダイナマイト」という言葉ができた。

 

つまり、それほどの、人知を超える力である。

 

 

 

その力はどのように働いたか。

 

それはまずは弟子たちにおいて、神を証しする力としてであった。

 

証だったら自分でもできると思うかもしれない。

 

しかし、この弟子たちはどのような者であったか。

 

イエスが逮捕されると、逃げ出した弟子たちである。

 

そして今も、その時から50日しかたっていない。

 

その時点で語りだすのは、とても危険なことであろう。

 

弟子たちも逮捕され、十字架につけられてもおかしくない。

 

 

 

神の力を与えられると、人の力を恐れなくなるということである。

 

私たちが恐れる相手は、多く、人である。

 

しかし、神の力は人の力よりも強い。

 

ダイナマイトの力は人知を超える。

 

神の力をいただいたら、何も恐れることはなくなる。

 

だから、逃げ出した弟子たちでも証できる。

 

 

 

弟子たちが語ったのは「神の偉大な業」(11節)についてであった。

 

それは、キリストの十字架の救い、神が人を救うということ。

 

当時の人々は、「救われるために自分で頑張らなくてはならない」と考えていた。

 

そうではない。

 

神が人を救う。

 

この通り、たとえ、逃げ出した弟子たちであっても。

 

 

 

214節から36節まで、ペトロは長い説教をする。

 

そして、41節で、3,000人が洗礼を受ける。

 

ダイナマイトの力である。

 

 

 

しかし、ペトロの話はどのようなものだっただろうか。

 

「あなたがたがキリストを殺した」。

 

「キリストは復活した」。

 

結局のところそういうことであり、これは、聞いている人たちが信じなければいけないような話ではない。

 

いやむしろ、誰が信じられるだろうか。

 

聖霊の力は、聞いている者にも及ぶ。

 

人知を超える力が信じさせてくださる。

 

 

 

そして、この場面は、単に宣教以上の意味がある。

 

4節で弟子たちは、「他の国々の言葉で話し出した」。

 

なぜだろうか。

 

3節に聖霊が「炎のような舌」として現れている。

 

この「舌」という単語が「言葉」という単語なのである。

 

ゆえに、その聖霊の力が及んで、弟子たちは知らないはずの外国語で話し始めた。

 

 

 

そもそも、人類には様々な言語があるという事実を、聖書はどのように位置づけているだろうか。

 

創世記11章に、バベルの塔の物語がある。

 

その物語の中に、このような言葉が記されている。

 

「天まで届く高い塔を建てて、有名になろう」。

 

神になろうとすること。

 

それが人の思いであると聖書は言う。

 

そのような試みは、現代でも存在すると言って良いだろう。

 

最近テレビで、クローン技術が紹介されている番組を見たが、ある企業は、1,000万円でペットのクローンを作成するというサービスを提供しており、飼い主は、「この子は永遠に私と共に生き続ける」と笑った。

 

 

 

バベルの塔での、神の裁きはどのようなものだったか。

 

人の命を奪うということではなかった。

 

言葉を通じないように、ばらばらにしたのである。

 

つまり、多くの言語が存在し、そのために分かり合えないということは、人に対する神の裁きだと聖書は言っているのである。

 

 

 

人が神になろうとすると、神と人との関係が悪いものになり、その結果、人間同士も分かり合えないようになってしまう。

 

聖書はそう言っているのである。

 

しかし、今日の場面ではいろいろな言葉が通じている。

 

神と人との関係が良くなると、人間同士も分かり合えるようになるということである。

 

そのことを分かるように神が知らせてくださった。

 

神がそのようにしてくださった、ということである。

 

 

 

だから、弟子たちが知らないはずの外国語で話したのはこの時だけである。

 

この後、弟子たちは世界中に伝道しに行ったが、その時にはもう知らないはずの外国語で話したりはしない。

 

 

 

ただ、創世記111節には、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とある。

 

言葉が元通り一つになったわけではない。

 

言葉の違いはそれで良いのだ。

 

しかし、言葉が違うと話ができない。

 

話ができないのは良いことではない。

 

だから、神は今、話が通じるようにしてくださっている。

 

考えてみると、ここで、言葉を一つにしてしまうと、それ以外のすべての言葉はなくなってしまうことになる。

 

どれか一つの言葉だけが尊いということはない。

 

すべて尊いのだ。

 

神は人を尊重してくださる。

 

人に付き合ってくださる。

 

大事なのは、同じ一つのことを聞くことである。

 

「神の偉大な業」についてである。

 

 

 

ただ、13節にはこのような言葉も記されている。

 

「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」。

 

人が神を受け入れないということはある。

 

しかし、神はそれを認める。

 

無理やり人の考えをねじ曲げたりはなさらない。

 

 

 

つまり、今日の場面で起こっていることは、すべて、神の考え、神の力である。

 

その発端となったのが、弟子たちが「聖霊に満たされる」(4節)ことであった。

 

私たちもそれを求めたい。

 

満たされたということは、もともとは空っぽだったということである。

 

もし、いらないものが私たちの中にいろいろ詰まっていたら、満たされるということにならない。

 

器の中が空であるときに、満たされるということが起こってくる。

 

ただ、それは私たちが努力してそうすることではない。

 

この時の弟子たちも、何かそのために努力していたわけではないだろう。

 

神がそうしてくださる。

 

 

 

28節では、「地の果てに至るまで」、弟子たちはイエス様のことを伝えていくと言われている。

 

この時代に「地の果て」と言ったら今で言うスペインである。

 

けれども、今、こんな地球の裏側にも教会が建っている。

 

聖霊を与えられた人たちが、ペトロの後をついで、そのまた後をついで、ダイナマイトの力でずっとやってきた。

 

その結果がこの教会である。

 

聖霊の働きは、確かに、ここまで来ている。

 

私たちは、現に、神の力の中に在る。

 

 

 

「あなたがたは力を受ける」というこの言葉は、私たちに対して言われている言葉である。

 

ペトロはこの後、立ち上がってイエスのことを話し始めた。

 

「立ち上がる」とは原文では、「復活する」というのと同じ言葉である。

 

私たちも、神の力に立ち上がらされる。

 

弟子たちがそうであったように、神の力は、自分にはできないと思われることでも、できるようにしてくださる。

 

考えもしないようなことをなしとげさせてくださる。

 

できないと思うことがあったら、神の力を求めてほしい。

 

そこから、考えもしないようなことが起こってくるだろう。

 

私たちは、今日、その約束の言葉を聞いたのである。

 


神の偉大な業

 

                     神的大作为

 

新約聖書・使徒言行録21-13

 

 新约使徒行传21-13

 

1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

 五旬节到了,门徒都聚集在一处。忽然,从天上有响声下来,好像一阵大风吹过,充满了他们所坐的屋子;又有舌头如火焰显现出来,分开落在他们各人头上。他们就都被圣灵充满,按着圣灵所赐的口才说起别国的话来。

 

5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 

 那时,有虔诚的犹太人从天下各国来,住在耶路撒冷。这声音一响,众人都来聚集。各人听见门徒用众人的乡谈说话,就甚纳闷,都惊讶希奇说:“看哪,这说话的不都是加利利人吗?我们各人怎么听见他们说我们生来所用的乡谈呢?我们帕提亚人、玛代人、以拦人,和住在美索不达米亚、犹太、加帕多家、本都、亚细亚、弗吕家、旁非利亚、埃及的人,并靠近古利奈的利比亚一带地方的人,从罗马来的客旅中,或是犹太人,或是进犹太教的人,克里特和阿拉伯人,都听见他们用我们的乡谈,讲说神的大作为。”众人就都惊讶猜疑,彼此说:“这是什么意思呢?”还有人讥诮说:“他们无非是新酒灌满了。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はペンテコステ。

 

 今天是五旬节。

 

クリスマスやイースターほど知られていないが、教会にとって大事な記念日。

 

 虽不如圣诞节和复活节那样被广为人知,但对教会而言是非常重要的纪念日。

 

弟子たちに聖霊が与えられた日である。

 

 是赐予门徒圣灵的日子。

 

そして、この時の弟子たちだけではなく、私たちにも、望む人には誰にでも聖霊は与えられる。

 

 而且,不仅是当时的门徒,我们也是,无论谁,只要祈求,就赐予圣灵。

 

聖霊が私たちの中に住んでくださるようになる。

 

 圣灵住到了我们的里面。

 

だから、私たちはこの日を祝う。

 

 因此,我们庆祝这个日子。

 

 

 

 

 

ペンテコステとは「50番目」という意味の言葉である。

 

 宾特哥斯特是第五十的意思。

 

1節に「五旬祭」とあるが、それが聖書の原文のギリシャ語では「ペンテコステ」となる。

 

 第一节中的“五旬节”在原文希腊语圣经中是宾特哥斯特。

 

「旬」とは「10日」という意味。

 

 “旬”是“10天”的意思。

 

つまり、「五旬祭」は50日の祭り。

 

 也就是说,“五旬节”是第50天纪念日。

 

これは、もともとは、旧約聖書の時代に神の言葉が与えられたこと祝う祭りであった。

 

 这原本是旧约时代庆祝领受神话语的纪念日。

 

50日というのは、出エジプトから50日目ということである。

 

 50天是指出埃及第50天。

 

かつて、神の言葉を与えられて、その言葉と共に生きていきなさいと言われたその日に、今度は聖霊が与えられたのである。

 

 以前是领受神话语,与神的话语同在的日子,如今是赐下圣灵的日子。

 

私自らがあなたと共にいる、と

 

 是指我亲自与你们同在。

 

 

 

 

 

そしてこれは、約束の通りに起こった出来事であった。

 

 而这是按应许而生的。

 

使徒言行録15節に、このようなイエスの言葉がある。

 

 使徒行传15节,耶稣有说过这样的话:

 

「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」。

 

 “不多几日,你们要受圣灵的洗”。

 

 

 

 

 

「洗礼」と聞くと何か特別な専門用語のように聞こえるが、これはギリシャ語で、「どっぷりつかる」という意味の普通の言葉で、例えば船の沈没などについてつかわれた言葉である。

 

 听到“洗礼”感觉听上去像是特别的专用语,但是在希腊语中,是指“完全浸透”,只是一个普通的词,比如说船沉没等会用到的词。

 

この場合は、聖霊にどっぷりつかるということ。

 

 这里,是指被圣灵充满的意思。

 

聖霊は神ご自身であるからつまり、そこから、神と共に生きていくということである。

 

 因为圣灵是神本身,所以就是指从此以后与神同在的意思。

 

ただ神を見上げているだけではない。

 

 不单单是仰望神。

 

神と共に自分が在る。

 

 而是与神同在。

 

 

 

 

 

そして、使徒言行録18節には、聖霊を与えられると「力を受ける」とある。

 

 使徒行传18节,圣灵降临的话,“必得着能力”。

 

「力」という単語は原文では「デュナミス」で、この言葉がもとになって、「ダイナマイト」という言葉ができた。

 

 “能力”一词原文是“大能奇事”,这词原来的意思是“炸药”。

 

つまり、それほどの、人知を超える力である。

 

 也就是说,如炸药般超越人认知的威力。

 

 

 

 

 

その力はどのように働いたか。

 

 这能力是如何运行的呢?

 

それはまずは弟子たちにおいて、神を証しする力としてであった。

 

 首先是门徒为神做见证,这样的能力。

 

証だったら自分でもできると思うかもしれない。

 

 做见证的话大家或许会觉得自己也可以。

 

しかし、この弟子たちはどのような者であったか。

 

 可是,那些门徒是怎样的人呢?

 

イエスが逮捕されると、逃げ出した弟子たちである。

 

 是耶稣一被捕,就逃跑的门徒。

 

そして今も、その時から50日しかたっていない。

 

 而且现在也才过了50天而已。

 

その時点で語りだすのは、とても危険なことであろう。

 

 那种时候做见证的话,是非常危险的。

 

弟子たちも逮捕され、十字架につけられてもおかしくない。

 

 门徒也有可能被逮捕,被钉十字架。

 

 

 

 

 

神の力を与えられると、人の力を恐れなくなるということである。

 

 一旦被赐予了神的大能,就不再惧怕人的势力了。

 

私たちが恐れる相手は、多く、人である。

 

 我们所惧怕的是人多。

 

しかし、神の力は人の力よりも強い。

 

 可是,神的大能强过人。

 

ダイナマイトの力は人知を超える。

 

 炸药的威力超越人的智慧。

 

神の力をいただいたら、何も恐れることはなくなる。

 

 得着神的大能,就无所畏惧了。

 

だから、逃げ出した弟子たちでも証できる。

 

 所以,即便是出逃的门徒也能做见证。

 

 

 

 

 

弟子たちが語ったのは「神の偉大な業」(11節)についてであった。

 

 门徒所说的是关于“神的大作为”(11节)。

 

それは、キリストの十字架の救い、神が人を救うということ。

 

 这是指基督十字架的救恩,神救赎人的事。

 

当時の人々は、「救われるために自分で頑張らなくてはならない」と考えていた。

 

 当时的人们认为,“为了被救赎,自己必须要努力”。

 

そうではない。

 

 不是这样的。

 

神が人を救う。

 

 神救赎所有人。

 

この通り、たとえ、逃げ出した弟子たちであっても。

 

 哪怕是出逃的门徒。

 

 

 

 

 

214節から36節まで、ペトロは長い説教をする。

 

 214节至36节,彼得讲了很长的道。

 

そして、41節で、3,000人が洗礼を受ける。

 

 而在41节,3000人受洗。

 

ダイナマイトの力である。

 

 炸药的威力。

 

 

 

 

 

しかし、ペトロの話はどのようなものだっただろうか。

 

 可是,彼得所说的是什么呢?

 

「あなたがたがキリストを殺した」。

 

 “你们杀了基督”。

 

「キリストは復活した」。

 

 “基督复活了”。

 

結局のところそういうことであり、これは、聞いている人たちが信じなければいけないような話ではない。

 

 结果有那么多人受洗,而这并不是听的人必须要信的内容。

 

いやむしろ、誰が信じられるだろうか。

 

 甚至可以说,有谁会信呢?

 

聖霊の力は、聞いている者にも及ぶ。

 

 圣灵的大能也临到了听的人。

 

人知を超える力が信じさせてくださる。

 

 超越人智慧的大能让他们信了。

 

 

 

 

 

そして、この場面は、単に宣教以上の意味がある。

 

 而这场景,不单是传教,有更深远的意义。

 

4節で弟子たちは、「他の国々の言葉で話し出した」。

 

 4节门徒们“说起别国的话来”。

 

なぜだろうか。

 

 为什么呢?

 

3節に聖霊が「炎のような舌」として現れている。

 

 3节圣灵如“火焰般的舌头”显现出来。

 

この「舌」という単語が「言葉」という単語なのである。

 

 “舌头”就是“话语”的意思。

 

ゆえに、その聖霊の力が及んで、弟子たちは知らないはずの外国語で話し始めた。

 

 因着圣灵的大能,门徒们开始说本不知晓的外语。

 

 

 

 

 

そもそも、人類には様々な言語があるという事実を、聖書はどのように位置づけているだろうか。

 

 人类有各种语言,最初在圣经中是如何说明的呢?

 

創世記11章に、バベルの塔の物語がある。

 

 创世纪11章有巴别塔的故事。

 

その物語の中に、このような言葉が記されている。

 

 故事中写有这样的话:

 

「天まで届く高い塔を建てて、有名になろう」。

 

 “建一座塔,塔顶通天,为传扬我们的名”。

 

神になろうとすること。

 

 想要成为神。

 

それが人の思いであると聖書は言う。

 

 圣经上说这是人的想法。

 

そのような試みは、現代でも存在すると言って良いだろう。

 

 可以说,这样的尝试,即使是现代也存在。

 

最近テレビで、クローン技術が紹介されている番組を見たが、ある企業は、1,000万円でペットのクローンを作成するというサービスを提供しており、飼い主は、「この子は永遠に私と共に生き続ける」と笑った。

 

 我最近在电视上看了介绍克隆技术的节目,某企业收1000万提供克隆宠物的服务,饲养主笑道说“它可以永远和我生活在一起了”。

 

 

 

 

 

バベルの塔での、神の裁きはどのようなものだったか。

 

 就巴别塔,神的审判是什么呢?

 

人の命を奪うということではなかった。

 

 不是夺了人的性命。

 

言葉を通じないように、ばらばらにしたのである。

 

 而是让语言不通,分散至各地。

 

つまり、多くの言語が存在し、そのために分かり合えないということは、人に対する神の裁きだと聖書は言っているのである。

 

 就是说,存在多种语言,因此人们不能相互理解,是经上所说的神对人的审判。

 

 

 

 

 

人が神になろうとすると、神と人との関係が悪いものになり、その結果、人間同士も分かり合えないようになってしまう。

 

 人想成为神,神和人的关系就恶化,其结果导致人和人之间也无法相互沟通。

 

聖書はそう言っているのである。

 

 圣经上是这么说的。

 

しかし、今日の場面ではいろいろな言葉が通じている。

 

 可是,今天的内容是各种语言都通了。

 

神と人との関係が良くなると、人間同士も分かり合えるようになるということである。

 

 神和人的关系一变好,人与人之间也就能相互沟通了。

 

そのことを分かるように神が知らせてくださった。

 

 神告诉我们,让我们明白此事。

 

神がそのようにしてくださった、ということである。

 

 神如此而为。

 

 

 

 

 

だから、弟子たちが知らないはずの外国語で話したのはこの時だけである。

 

 因此,门徒只在那个时候用他们不会的外语说话。

 

この後、弟子たちは世界中に伝道しに行ったが、その時にはもう知らないはずの外国語で話したりはしない。

 

 后来,门徒们去到世界各地传道,那时已经不用他们不懂的外语说了。

 

 

 

 

 

ただ、創世記111節には、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とある。

 

 不过,创世纪111节写有,“全世界用同样的语言,说同样的话”。

 

言葉が元通り一つになったわけではない。

 

 语言并没有如原先那样只有一种。

 

言葉の違いはそれで良いのだ。

 

 语言不通也很好。

 

しかし、言葉が違うと話ができない。

 

 可是,语言不同的话就不能沟通。

 

話ができないのは良いことではない。

 

 不能沟通并不是什么好事。

 

だから、神は今、話が通じるようにしてくださっている。

 

 因此,神今天让我们可以沟通。

 

考えてみると、ここで、言葉を一つにしてしまうと、それ以外のすべての言葉はなくなってしまうことになる。

 

 仔细想想,这里如果让语言统一的话,其它的语言势必就会消失。

 

どれか一つの言葉だけが尊いということはない。

 

 并非只有某一种语言是了不起的。

 

すべて尊いのだ。

 

而是全都了不起。

 

神は人を尊重してくださる。

 

 神尊重人。

 

人に付き合ってくださる。

 

 与所有人交通。

 

大事なのは、同じ一つのことを聞くことである。

 

 重要的是,我们倾听同一件事。

 

「神の偉大な業」についてである。

 

 关于“神的大作为”。

 

 

 

 

 

ただ、13節にはこのような言葉も記されている。

 

 不过,13节还记录了这样的话。

 

「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」。

 

 “他们无非是醉在新葡萄酒中”。

 

人が神を受け入れないということはある。

 

 人不接受神。

 

しかし、神はそれを認める。

 

 但是,神认可这事。

 

無理やり人の考えをねじ曲げたりはなさらない。

 

 他不强制改变人的想法。

 

 

 

 

 

つまり、今日の場面で起こっていることは、すべて、神の考え、神の力である。

 

 也就是说,发生今天这样的场面,都是神的意念,神的大能。

 

その発端となったのが、弟子たちが「聖霊に満たされる」(4節)ことであった。

 

 起因是门徒们“被圣灵充满”(第4节)。

 

私たちもそれを求めたい。

 

 我们也渴求被圣灵充满。

 

満たされたということは、もともとは空っぽだったということである。

 

 被充满是指原先是空的。

 

もし、いらないものが私たちの中にいろいろ詰まっていたら、満たされるということにならない。

 

 如果不要的东西硬塞到我们的里面,就不会被充满了。

 

器の中が空であるときに、満たされるということが起こってくる。

 

 容器空的时候,才会被充满。

 

ただ、それは私たちが努力してそうすることではない。

 

 只是这并非我们努力就可以的。

 

この時の弟子たちも、何かそのために努力していたわけではないだろう。

 

 当时的门徒们,也没有为此做什么努力。

 

神がそうしてくださる。

 

 这么做了。

 

 

 

 

 

18節では、「地の果てに至るまで」、弟子たちはイエス様のことを伝えていくと言われている。

 

 18节说,门徒要传讲耶稣的事迹“直到地极”。

 

この時代に「地の果て」と言ったら今で言うスペインである。

 

 当时所说的“地极”,是指今天的西班牙。

 

けれども、今、こんな地球の裏側にも教会が建っている。

 

 但是如今,在这地球的另一端也建了教会。

 

聖霊を与えられた人たちが、ペトロの後をついで、そのまた後をついで、ダイナマイトの力でずっとやってきた。

 

 赐予圣灵的人,继彼得之后,之后的之后,因着爆发的威力一直进行着。

 

その結果がこの教会である。

 

 结果就有这教会。

 

聖霊の働きは、確かに、ここまで来ている。

 

 圣灵,真真切切地运行到了这里。

 

私たちは、現に、神の力の中に在る。

 

 我们大家现在也在神的大能之中。

 

 

 

 

 

「あなたがたは力を受ける」というこの言葉は、私たちに対して言われている言葉である。

 

 “你们就必得着能力”这话,是对我们所说的。

 

ペトロはこの後、立ち上がってイエスのことを話し始めた。

 

 彼得后来站起来开始讲述耶稣的事迹。

 

「立ち上がる」とは原文では、「復活する」というのと同じ言葉である。

 

 “站起来”在原文中和“复活”是同一个词。

 

私たちも、神の力に立ち上がらされる。

 

 我们大家也会因着神的大能站立起来。

 

弟子たちがそうであったように、神の力は、自分にはできないと思われることでも、できるようにしてくださる。

 

 如同门徒们那样,即使是自己认为不可能的事,因着神的大能,变为可能。

 

考えもしないようなことをなしとげさせてくださる。

 

 让我们完成意料之外的事。

 

できないと思うことがあったら、神の力を求めてほしい。

 

 如果有做不到的事,希望大家祈求神的大能。

 

そこから、考えもしないようなことが起こってくるだろう。

 

 今后,或许会有意想不到的事发生。

 

私たちは、今日、その約束の言葉を聞いたのである。

 

我们今天听到了这应许的话语。