今週の説教「神の偉大な業」(新約聖書・使徒言行録2章1-13節)

新約聖書・使徒言行録21-13

 

1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 

 

 

 

 

今日はペンテコステ。

 

クリスマスやイースターほど知られていないが、教会にとって大事な記念日。

 

弟子たちに聖霊が与えられた日である。

 

そして、この時の弟子たちだけではなく、私たちにも、望む人には誰にでも聖霊は与えられる。

 

聖霊が私たちの中に住んでくださるようになる。

 

だから、私たちはこの日を祝う。

 

 

 

ペンテコステとは「50番目」という意味の言葉である。

 

1節に「五旬祭」とあるが、それが聖書の原文のギリシャ語では「ペンテコステ」となる。

 

「旬」とは「10日」という意味。

 

つまり、「五旬祭」は50日の祭り。

 

これは、もともとは、旧約聖書の時代に神の言葉が与えられたこと祝う祭りであった。

 

50日というのは、出エジプトから50日目ということである。

 

かつて、神の言葉を与えられて、その言葉と共に生きていきなさいと言われたその日に、今度は聖霊が与えられたのである。

 

私自らがあなたと共にいる、と

 

 

 

そしてこれは、約束の通りに起こった出来事であった。

 

使徒言行録15節に、このようなイエスの言葉がある。

 

「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」。

 

 

 

「洗礼」と聞くと何か特別な専門用語のように聞こえるが、これはギリシャ語で、「どっぷりつかる」という意味の普通の言葉で、例えば船の沈没などについてつかわれた言葉である。

 

この場合は、聖霊にどっぷりつかるということ。

 

聖霊は神ご自身であるからつまり、そこから、神と共に生きていくということである。

 

ただ神を見上げているだけではない。

 

神と共に自分が在る。

 

 

 

そして、使徒言行録18節には、聖霊を与えられると「力を受ける」とある。

 

「力」という単語は原文では「デュナミス」で、この言葉がもとになって、「ダイナマイト」という言葉ができた。

 

つまり、それほどの、人知を超える力である。

 

 

 

その力はどのように働いたか。

 

それはまずは弟子たちにおいて、神を証しする力としてであった。

 

証だったら自分でもできると思うかもしれない。

 

しかし、この弟子たちはどのような者であったか。

 

イエスが逮捕されると、逃げ出した弟子たちである。

 

そして今も、その時から50日しかたっていない。

 

その時点で語りだすのは、とても危険なことであろう。

 

弟子たちも逮捕され、十字架につけられてもおかしくない。

 

 

 

神の力を与えられると、人の力を恐れなくなるということである。

 

私たちが恐れる相手は、多く、人である。

 

しかし、神の力は人の力よりも強い。

 

ダイナマイトの力は人知を超える。

 

神の力をいただいたら、何も恐れることはなくなる。

 

だから、逃げ出した弟子たちでも証できる。

 

 

 

弟子たちが語ったのは「神の偉大な業」(11節)についてであった。

 

それは、キリストの十字架の救い、神が人を救うということ。

 

当時の人々は、「救われるために自分で頑張らなくてはならない」と考えていた。

 

そうではない。

 

神が人を救う。

 

この通り、たとえ、逃げ出した弟子たちであっても。

 

 

 

214節から36節まで、ペトロは長い説教をする。

 

そして、41節で、3,000人が洗礼を受ける。

 

ダイナマイトの力である。

 

 

 

しかし、ペトロの話はどのようなものだっただろうか。

 

「あなたがたがキリストを殺した」。

 

「キリストは復活した」。

 

結局のところそういうことであり、これは、聞いている人たちが信じなければいけないような話ではない。

 

いやむしろ、誰が信じられるだろうか。

 

聖霊の力は、聞いている者にも及ぶ。

 

人知を超える力が信じさせてくださる。

 

 

 

そして、この場面は、単に宣教以上の意味がある。

 

4節で弟子たちは、「他の国々の言葉で話し出した」。

 

なぜだろうか。

 

3節に聖霊が「炎のような舌」として現れている。

 

この「舌」という単語が「言葉」という単語なのである。

 

ゆえに、その聖霊の力が及んで、弟子たちは知らないはずの外国語で話し始めた。

 

 

 

そもそも、人類には様々な言語があるという事実を、聖書はどのように位置づけているだろうか。

 

創世記11章に、バベルの塔の物語がある。

 

その物語の中に、このような言葉が記されている。

 

「天まで届く高い塔を建てて、有名になろう」。

 

神になろうとすること。

 

それが人の思いであると聖書は言う。

 

そのような試みは、現代でも存在すると言って良いだろう。

 

最近テレビで、クローン技術が紹介されている番組を見たが、ある企業は、1,000万円でペットのクローンを作成するというサービスを提供しており、飼い主は、「この子は永遠に私と共に生き続ける」と笑った。

 

 

 

バベルの塔での、神の裁きはどのようなものだったか。

 

人の命を奪うということではなかった。

 

言葉を通じないように、ばらばらにしたのである。

 

つまり、多くの言語が存在し、そのために分かり合えないということは、人に対する神の裁きだと聖書は言っているのである。

 

 

 

人が神になろうとすると、神と人との関係が悪いものになり、その結果、人間同士も分かり合えないようになってしまう。

 

聖書はそう言っているのである。

 

しかし、今日の場面ではいろいろな言葉が通じている。

 

神と人との関係が良くなると、人間同士も分かり合えるようになるということである。

 

そのことを分かるように神が知らせてくださった。

 

神がそのようにしてくださった、ということである。

 

 

 

だから、弟子たちが知らないはずの外国語で話したのはこの時だけである。

 

この後、弟子たちは世界中に伝道しに行ったが、その時にはもう知らないはずの外国語で話したりはしない。

 

 

 

ただ、創世記111節には、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とある。

 

言葉が元通り一つになったわけではない。

 

言葉の違いはそれで良いのだ。

 

しかし、言葉が違うと話ができない。

 

話ができないのは良いことではない。

 

だから、神は今、話が通じるようにしてくださっている。

 

考えてみると、ここで、言葉を一つにしてしまうと、それ以外のすべての言葉はなくなってしまうことになる。

 

どれか一つの言葉だけが尊いということはない。

 

すべて尊いのだ。

 

神は人を尊重してくださる。

 

人に付き合ってくださる。

 

大事なのは、同じ一つのことを聞くことである。

 

「神の偉大な業」についてである。

 

 

 

ただ、13節にはこのような言葉も記されている。

 

「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」。

 

人が神を受け入れないということはある。

 

しかし、神はそれを認める。

 

無理やり人の考えをねじ曲げたりはなさらない。

 

 

 

つまり、今日の場面で起こっていることは、すべて、神の考え、神の力である。

 

その発端となったのが、弟子たちが「聖霊に満たされる」(4節)ことであった。

 

私たちもそれを求めたい。

 

満たされたということは、もともとは空っぽだったということである。

 

もし、いらないものが私たちの中にいろいろ詰まっていたら、満たされるということにならない。

 

器の中が空であるときに、満たされるということが起こってくる。

 

ただ、それは私たちが努力してそうすることではない。

 

この時の弟子たちも、何かそのために努力していたわけではないだろう。

 

神がそうしてくださる。

 

 

 

28節では、「地の果てに至るまで」、弟子たちはイエス様のことを伝えていくと言われている。

 

この時代に「地の果て」と言ったら今で言うスペインである。

 

けれども、今、こんな地球の裏側にも教会が建っている。

 

聖霊を与えられた人たちが、ペトロの後をついで、そのまた後をついで、ダイナマイトの力でずっとやってきた。

 

その結果がこの教会である。

 

聖霊の働きは、確かに、ここまで来ている。

 

私たちは、現に、神の力の中に在る。

 

 

 

「あなたがたは力を受ける」というこの言葉は、私たちに対して言われている言葉である。

 

ペトロはこの後、立ち上がってイエスのことを話し始めた。

 

「立ち上がる」とは原文では、「復活する」というのと同じ言葉である。

 

私たちも、神の力に立ち上がらされる。

 

弟子たちがそうであったように、神の力は、自分にはできないと思われることでも、できるようにしてくださる。

 

考えもしないようなことをなしとげさせてくださる。

 

できないと思うことがあったら、神の力を求めてほしい。

 

そこから、考えもしないようなことが起こってくるだろう。

 

私たちは、今日、その約束の言葉を聞いたのである。