今週の説教「豚に真珠」(新約聖書・マタイによる福音書7章1節から6節)

 

マタイによる福音書71節から6

 

1「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。6神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 

 

 

 

 

「裁く」は原文では、「見分ける、判断する」ということ。

 

つまり、必ずしも、マイナスに判断することだけではない。

 

 

 

私たちは人を見ると、その人がどういう人なのかを判断しようとする。

 

口に出すことはなくても、自分のはかりで人をはかる、自分の物差しで人をはかる、ということがある。

 

そして、心の中で、この人のこういうところはいいな、この人のこういうところはまずいな、と思っている。

 

「裁く」とは、私たちがいつもしていることである。

 

 

 

しかし、イエス様が今言っている「裁く」というのは心の中でのことではない。

 

3節、4節にこうある。

 

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか」。

 

イエス様の言う「裁く」ということである。

 

「あなたにはこういう良くない所があるから、それが無くなるように、一緒に頑張りましょう。私もお手伝いしますよ」というようなことを相手に対して言うことである。

 

考えようによっては、それは親切なことかもしれない。

 

しかし、問題は、「自分の目に丸太がある」ということ。

 

「自分の目に丸太がある」のに、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言う資格はない。

 

私たちは、人を見ると、その人にこういう問題があるな、ということにすぐに気づく。

 

私たちは人のことに気づくのが得意。

 

逆に、自分の問題には気づきにくい。

 

それは事実である。

 

しかし、いつもいつも、私の問題が大きくて、相手の問題は小さいということがあるだろうか。

 

 

 

イエス様がそう言うには理由がある。

 

1節後半に、「あなたがたも裁かれないようにするためである」とある。

 

そのことが、2節でもう少し詳しく書かれている。

 

「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。

 

これはどういうことか。

 

私たちはみんな、自分のはかりを持っていて、自分のはかりで人をはかる。

 

しかし、そのはかりは人によって違っている。

 

でもここでは、私たちは、私たち自身のはかりではかられる、と言われている。

 

人はそんなことはしない。

 

その人のはかりで私たちをはかる。

 

ということは、これは、誰から裁かれるということなのか。

 

神様に裁かれるということである。

 

神様は、私たちが人を裁いているように、私たちを裁く。

 

そして、私たちが人を裁いているように私たちが裁かれたら、私たちは困ったことになる、ということも言われていることになる。

 

自分のはかりで量るんだったら大丈夫じゃないかと思ってしまうが、そうではない、というのだ。

 

私たちは、自分のことには気が付きにくい。

 

人のことは分かっても、自分のことは分かりにくい。

 

私たちが人を見た時に気づくその人の問題はおが屑のような小さなもの。

 

しかし、神様が私たちを見た時に気づく私たちの問題は、丸太のように大きなものなのである。

 

あなたは気づいていないけれどもね……、とイエス様は言う。

 

 

 

私たちはいつも、厳しい目で人を見ているかもしれない。

 

ほんの小さなおが屑でも見落とさずに、まるでそれを丸太であるかのように考える。

 

そして、心の中では「この人は迷惑だな」と思いながら、「おが屑を取らせてください」と言う。

 

しかし、その私たちは、神様の目にどう見えているのか。

 

目に丸太がある。

 

つまり、何も分かっていない。

 

それなのに、人を裁こうとする。

 

まるで自分が神になったつもりで、「おが屑を取らせてください」。

 

罪深いものである。

 

 

 

丸太とは何か。

 

人間の罪である。

 

私たちは自分の罪になかなか気づけない。

 

自分の罪に気づかず、人の罪を見つけ出して、自分の方が相手よりもずっと上の立場のつもりで、相手に対して、「おが屑を取らせてください」と言う。

 

 

 

しかし、一体どうすれば私たちは自分の目からおが屑を取り除けるのか。

 

取り除けないのだ。

 

自分では分からないことなのだから。

 

神の目で見たら丸太があることが分かる、ということだから。

 

私たちは自分では気づいていない。

 

気づいているのは神様だけ。

 

取り除けるのも神様だけである。

 

それをしてくださったのが十字架である。

 

神様は「あなたの目に丸太が入っているから取らせてください」などと言ったりしない。

 

何にも言わずに十字架にかかってくださる。

 

イエス様はそうしてくださった。

 

何も言わずに、人の罪をすべて引き受けて、自分が身代わりになって、罰を受けてくださる。

 

 

 

「まず自分の目から丸太を取り除け」ということが言われているが、これは、神の子が自分の罪を代わりに背負ってくださったということを見つめなさい、ということである。

 

「そうすれば、はっきり見えるようになる」と言われているが、これは、神の子が身代わりにならなければならないくらいに自分の罪が大きいということが私たちにも分かってくるということである。

 

それだけでなく、そのような大きい罪でもゆるしてくださる神様の愛の大きさが分かってくるということである。

 

そうなると、「兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。

 

私たちを通して、その人にも神様の愛が届けられる。

 

自分が神になったつもりで「おが屑を取らせてください」というのではなく、自分がいただいている神様の愛で、その人を愛する。

 

そうするときに、その人のおが屑が取り除かれる。

 

神様が働いてくださるということである。

 

だから、私たちにはそうすることができる。

 

 

 

6節には、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」という話がなされている。

 

この話は、私たちが今すでに神聖なものを持っている、真珠のような値打ちのあるものを持っているから言えることである。

 

ただ、私たちがその神様の愛を他の人にも受け取ってほしいと思っても、相手が嫌がるということはあるのだということなのだ。

 

むしろ、それは当然のことである。

 

神様から見たら、人間の目にはみんな丸太が入っている。

 

分からない人はいる。

 

「犬」とは、この時代の言葉で、異邦人のことである。

 

神様を知らない人のことである。

 

「豚」とは、この時代には汚れたもののことであった。

 

つまり、神様の愛を伝えても、その値打ちが分からない人というのはいる。

 

だから、私たちは相手を選ぶ必要はある。

 

ただ、愛することを止めないこと。

 

足で踏みにじられたり、かみつかれたら、殴ってやれ、とは言われていない。

 

相手を選びなさいということなのだ。

 

 

 

もっと大事なことがある。

 

イエス様ご自身、足で踏みにじられて、かみつかれて、十字架にかけられた。

 

それでも、イエス様は、愛することを止めなかった。

 

最後まで一言も文句を言わずに、愛しつづけた。

 

私たちに与えられているのは、そのような愛である。

 

だからこれは、「相手に合わせた仕方で愛しなさい」という話である。

 

それを考えていきたい。

 

 

 

とにかく、私たちには神聖なものが与えられていると言われている。

 

真珠が与えられていると言われている。

 

それは間違いない。

 

そして、その真珠を、私たちが誰かに与えるようにと言われている。

 

与えたらなくなるのかな、とは考えなくていい。

 

神様がもし、「この人は他の人にたくさん与える人だ」と思ったら、もっとたくさんくださるはずである。

 

とにかく、与えるように言われているのだから、私たちの手から真珠が無くなることはないのである。

 


豚に真珠

 

投珠与豕

 

マタイによる福音書71節から6

 

 马太福音716

 

1「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。6神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 

 “你们不要论断人,免得你们被论断。因为你们怎样论断人,也必怎样被论断;你们用什么量器量给人,也必用什么量器给你们。为什么看见你弟兄眼中有刺,却不想自己眼中有梁木呢?你自己眼中有梁木,怎能对你弟兄说‘容我去掉你眼中的刺’呢?你这假冒为善的人!先去掉自己眼中的梁木,然后才能看得清楚,去掉你弟兄眼中的刺。不要把圣物给狗,也不要把你们的珍珠丢在猪前,恐怕它践踏了珍珠,转过来咬你们。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「裁く」は原文では、「見分ける、判断する」ということ。

 

 “论断”在原文中是“辨别,判断”的意思。

 

つまり、必ずしも、マイナスに判断することだけではない。

 

 也就是说,未必只是不好的判断。

 

 

 

 

 

私たちは人を見ると、その人がどういう人なのかを判断しようとする。

 

 我们见到人,就想要判断这人是怎样的人。

 

口に出すことはなくても、自分のはかりで人をはかる、自分の物差しで人をはかる、ということがある。

 

 即使嘴里不说出来,还是会以自己的标准去衡量人。

 

そして、心の中で、この人のこういうところはいいな、この人のこういうところはまずいな、と思っている。

 

 于是心中就会想这个人这一点好,那一点不好。

 

「裁く」とは、私たちがいつもしていることである。

 

 “论断人”我们一直都在做。

 

 

 

 

 

しかし、イエス様が今言っている「裁く」というのは心の中でのことではない。

 

 可是,耶稣今天所说的“论断”不是心里的论断。

 

3節、4節にこうある。

 

 34节有这样的话:

 

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか」。

 

 “为什么看见你弟兄眼中有刺,却不想自己眼中有梁木呢?你自己眼中有梁木,怎能对你弟兄说‘容我去掉你眼中的刺呢’?”

 

イエス様の言う「裁く」ということである。

 

 耶稣所说的“论断”是指这个。

 

「あなたにはこういう良くない所があるから、それが無くなるように、一緒に頑張りましょう。私もお手伝いしますよ」というようなことを相手に対して言うことである。

 

 “因为你有这样的问题,为了改掉这个毛病,我们一起努力。我会帮助你的”跟对方这样说。

 

考えようによっては、それは親切なことかもしれない。

 

 或许有人会觉得这样很好。

 

しかし、問題は、「自分の目に丸太がある」ということ。

 

 问题是“自己眼中有梁木”。

 

「自分の目に丸太がある」のに、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言う資格はない。

 

 “自己眼中有梁木”,就没有资格说“容我去掉你眼中的刺”。

 

私たちは、人を見ると、その人にこういう問題があるな、ということにすぐに気づく。

 

 我们一见着人立马就注意到这人有这样的问题。

 

私たちは人のことに気づくのが得意。

 

 我们擅长于留意别人。

 

逆に、自分の問題には気づきにくい。

 

 相反的,却难以发现自己的问题。

 

それは事実である。

 

 这是事实。

 

しかし、いつもいつも、私の問題が大きくて、相手の問題は小さいということがあるだろうか。

 

 可是,一直都是自己的问题大,对方的问题小,不是吗?

 

 

 

 

 

イエス様がそう言うには理由がある。

 

 耶稣这样说是有理由的。

 

1節後半に、「あなたがたも裁かれないようにするためである」とある。

 

 第一节的后半节,“免得你们被论断”。

 

そのことが、2節でもう少し詳しく書かれている。

 

 第二节稍微详细地写到:

 

「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。

 

 “你们用什么量器量给人,也必用什么量器量给你们。”

 

これはどういうことか。

 

 这什么意思呢?

 

私たちはみんな、自分のはかりを持っていて、自分のはかりで人をはかる。

 

 我们大家内心都有一杆秤,用自己的这杆秤去衡量他人。

 

しかし、そのはかりは人によって違っている。

 

 可是,这杆秤却因人而异。

 

でもここでは、私たちは、私たち自身のはかりではかられる、と言われている。

 

 但是这里说,我们会被我们自己的量器来量。

 

人はそんなことはしない。

 

 人不会做这样的事。

 

その人のはかりで私たちをはかる。

 

 会有人用他的量器来衡量我们。

 

ということは、これは、誰から裁かれるということなのか。

 

 那么,有谁来裁定我们呢?

 

神様に裁かれるということである。

 

 神来裁定。

 

神様は、私たちが人を裁いているように、私たちを裁く。

 

 如同我们裁定别人那样,神来裁定我们。

 

そして、私たちが人を裁いているように私たちが裁かれたら、私たちは困ったことになる、ということも言われていることになる。

 

 还说到,要是像我们裁定他人那样,我们也被裁定的话,我们会陷入苦楚。

 

自分のはかりで量るんだったら大丈夫じゃないかと思ってしまうが、そうではない、というのだ。

 

 用自己的量器量的话会觉得应该没问题,但是这里说并不是这样。

 

私たちは、自分のことには気が付きにくい。

 

 我们很难注意到自己的事。

 

人のことは分かっても、自分のことは分かりにくい。

 

 对别人的事情很清楚,却搞不清自己的事。

 

私たちが人を見た時に気づくその人の問題はおが屑のような小さなもの。

 

 我们见到人的时候注意到的是那人细碎的小问题。

 

しかし、神様が私たちを見た時に気づく私たちの問題は、丸太のように大きなものなのである。

 

 可是,神看我们的时候,注意到的是我们梁木一般的大问题。

 

あなたは気づいていないけれどもね……、とイエス様は言う。

 

 虽然你自己没有注意到……耶稣这样说。

 

 

 

 

 

私たちはいつも、厳しい目で人を見ているかもしれない。

 

 可能我们总是用苛刻的目光去看别人。

 

ほんの小さなおが屑でも見落とさずに、まるでそれを丸太であるかのように考える。

 

 即使是一点点碎渣都不拉下,把它当成梁木般来看待。

 

そして、心の中では「この人は迷惑だな」と思いながら、「おが屑を取らせてください」と言う。

 

 于是,一边心里想着“这人会很为难吧”,一边说“容我去掉你眼中的刺”。

 

しかし、その私たちは、神様の目にどう見えているのか。

 

 可是,这样的我们,在神看来又如何呢?

 

目に丸太がある。

 

 眼中有梁木。

 

つまり、何も分かっていない。

 

 总之,自己什么都不知道。

 

それなのに、人を裁こうとする。

 

 即使这样,却要论断人。

 

まるで自分が神になったつもりで、「おが屑を取らせてください」。

 

 简直就把自己当成神那般,说“容我去掉你眼中的刺”。

 

罪深いものである。

 

 罪孽深重。

 

 

 

 

 

丸太とは何か。

 

 梁木是什么呢?

 

人間の罪である。

 

 是人的罪。

 

私たちは自分の罪になかなか気づけない。

 

 我们很难注意到自己的罪。

 

自分の罪に気づかず、人の罪を見つけ出して、自分の方が相手よりもずっと上の立場のつもりで、相手に対して、「おが屑を取らせてください」と言う。

 

 意识不到自己的罪,却能看出别人的罪,老感觉自己比对方高人一等,对别人说“容我去掉你眼中的刺”。

 

 

 

 

 

しかし、一体どうすれば私たちは自分の目からおが屑を取り除けるのか。

 

 可是,到底该怎么做我们才能去掉自己眼中的碎渣呢?

 

取り除けないのだ。

 

 去不掉的。

 

自分では分からないことなのだから。

 

 因为自己都不知道。

 

神の目で見たら丸太があることが分かる、ということだから。

 

 因为只有神的眼目方能看出这梁木的存在。

 

私たちは自分では気づいていない。

 

 我们自己意识不到。

 

気づいているのは神様だけ。

 

 注意到的只有神。

 

取り除けるのも神様だけである。

 

 能去掉的也只有神。

 

それをしてくださったのが十字架である。

 

 付诸实施的便是十字架。

 

神様は「あなたの目に丸太が入っているから取らせてください」などと言ったりしない。

 

 神没有说“因为你眼中有梁木,容我为你去掉。”

 

何にも言わずに十字架にかかってくださる。

 

 什么都没有说被钉了十字架。

 

イエス様はそうしてくださった。

 

 耶稣是这样做的。

 

何も言わずに、人の罪をすべて引き受けて、自分が身代わりになって、罰を受けてくださる。

 

 什么都没有说,承担人所有的罪,亲自代替人受罚。

 

 

 

 

 

「まず自分の目から丸太を取り除け」ということが言われているが、これは、神の子が自分の罪を代わりに背負ってくださったということを見つめなさい、ということである。

 

 虽说“先去掉自己眼中的梁木”,这是指要专注于神子代替我们背负罪孽这件事。

 

「そうすれば、はっきり見えるようになる」と言われているが、これは、神の子が身代わりにならなければならないくらいに自分の罪が大きいということが私たちにも分かってくるということである。

 

 说“然后才能看得清楚”,是指我们也明白了自己的罪大到必须由神子亲自来偿还。

 

それだけでなく、そのような大きい罪でもゆるしてくださる神様の愛の大きさが分かってくるということである。

 

 不仅如此,也明白了如此大的罪神都原谅了,神的爱是何等的大。

 

そうなると、「兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。

 

 那样的话,“就能去掉弟兄眼中的刺”。

 

私たちを通して、その人にも神様の愛が届けられる。

 

 通过我们,神的爱也能临到那人。

 

自分が神になったつもりで「おが屑を取らせてください」というのではなく、自分がいただいている神様の愛で、その人を愛する。

 

 不是仿佛自己是神那般说“容我去掉你眼中的刺”,而是用自己收获的那份神的爱去爱他人。

 

そうするときに、その人のおが屑が取り除かれる。

 

 那样做的时候,那人眼中的刺就被去掉了。

 

神様が働いてくださるということである。

 

 神做工了。

 

だから、私たちにはそうすることができる。

 

 因此,我们可以做这样的事。

 

 

 

 

 

6節には、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」という話がなされている。

 

 第六节说了这样的话:“不要把圣物给狗,也不要把你们的珍珠丢在猪前,恐怕它践踏了珍珠,转过来咬你们。”

 

この話は、私たちが今すでに神聖なものを持っている、真珠のような値打ちのあるものを持っているから言えることである。

 

 说这话是因为我们现在可以说已经有圣物在手,有如同珍珠般价值连城的东西。

 

ただ、私たちがその神様の愛を他の人にも受け取ってほしいと思っても、相手が嫌がるということはあるのだということなのだ。

 

 不过,即使我们希望他人也能得到神的这份爱,有时对方也会嫌弃。

 

むしろ、それは当然のことである。

 

 这也是正常的。

 

神様から見たら、人間の目にはみんな丸太が入っている。

 

 在神看来,人的眼中都有梁木。

 

分からない人はいる。

 

 有不明白的人

 

「犬」とは、この時代の言葉で、異邦人のことである。

 

 “狗”在当时是外邦人的意思。

 

神様を知らない人のことである。

 

 

 

「豚」とは、この時代には汚れたもののことであった。

 

 ”在当时是污秽的东西。

 

つまり、神様の愛を伝えても、その値打ちが分からない人というのはいる。

 

 就是说,即便传达了神的爱,也有不知道其价值的人。

 

だから、私たちは相手を選ぶ必要はある。

 

 因此,我们必须要有所选择。

 

ただ、愛することを止めないこと。

 

 不过,爱是无止境的。

 

足で踏みにじられたり、かみつかれたら、殴ってやれ、とは言われていない。

 

 被脚踩,被咬,也没有说要去打。

 

相手を選びなさいということなのだ。

 

 而是说要有所选择。

 

 

 

 

 

もっと大事なことがある。

 

 还有更重要的事。

 

イエス様ご自身、足で踏みにじられて、かみつかれて、十字架にかけられた。

 

 耶稣自己,也被脚踩,被咬,被钉十字架。

 

それでも、イエス様は、愛することを止めなかった。

 

 即使这样,耶稣也没有停止爱。

 

最後まで一言も文句を言わずに、愛しつづけた。

 

 直到最后也没有说一句怨言,而是继续爱。

 

私たちに与えられているのは、そのような愛である。

 

 我们所得到的是这样的爱。

 

だからこれは、「相手に合わせた仕方で愛しなさい」という話である。

 

 因此,这是在说“要用适合对方的方式去爱”。

 

それを考えていきたい。

 

 希望大家能思考这一点。

 

 

 

 

 

とにかく、私たちには神聖なものが与えられていると言われている。

 

 总之,这里是说我们得了圣物。

 

真珠が与えられていると言われている。

 

 说得了珍珠。

 

それは間違いない。

 

 这没有错。

 

そして、その真珠を、私たちが誰かに与えるようにと言われている。

 

 还说我们要把这珍珠给其他人。

 

与えたらなくなるのかな、とは考えなくていい。

 

 给掉了会不会就没有了,无需考虑这种事。

 

神様がもし、「この人は他の人にたくさん与える人だ」と思ったら、もっとたくさんくださるはずである。

 

 如果神觉得,“那人给了别人很多”的话,应该会有更多的恩赐。

 

とにかく、与えるように言われているのだから、私たちの手から真珠が無くなることはないのである。

 

总之,因为说了是赐予所以我们手里的珍珠不会消失。