今週の説教「狭い門から入りなさい」(新約聖書・マタイによる福音書7章13節から14節)

狭い門から入りなさい

 

要进窄门

 

マタイによる福音書713節から14

 

  马太福音71314

 

13狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。14しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。

 

  你们要进窄门。因为引到灭亡,那门是宽的,路是大的,进去的人也多;引到永生,那门是窄的,路是小的,找着的人也少。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「狭い門から入りなさい」と言われていますが、こういうふうに言われますと、どんな気分になりますか。

 

  说到“要进窄门”,要是被这样说的话,会是什么心情呢?

 

できることなら楽をしたいと誰でも考えますから、これは厳しいことを言われてしまったという思いになりますね。

 

 可以的话当然想轻松点,谁都这样想。所以,这个说法会觉得比较苛刻。

 

このイエス様の言葉を、今では誰でも口にしますね。「狭き門」という言葉です。

 

  耶稣所说的“窄门”这词现在谁都会说。

 

この言葉はもう、ひとつの日本語になっています。

 

  这词现在已经是一个日语单词了。

 

私が使っているパソコンでは、「狭い門」と入力しても正しく漢字に変換されないんですが、「狭き門」と入力したら正しく変換されるんですね。

 

  我用的电脑上,输入“窄的门”不会确切地变换成汉字,但是输入“窄门”的话就能正确地变换成汉字。

 

誰でも知っている言葉であるということです。

 

  是谁都知道的单词。

 

 

 

 

 

「狭き門」というのは、いわゆる難関のことですね。募集されている人数の何倍もの人が押し寄せてくるものだから、誰もがそこに入れるわけではない。

 

  “窄门”就是所谓的难关。因为有应征人数的好几倍蜂拥而来,所以并非谁都能进。

 

と言うより、入りたい人の何分の一の人しか入れない。

 

  就是说,只有想进的总数的几分之一才能够进。

 

世の中の例で言いますと、アナウンサーになるのが一番の狭き門だと言われたりしますね。

 

  举个社会上的例子,就好比想做播音员,听说是最难的。

 

千人が押し寄せても、一人しか入ることができないと言われています。

 

  据说一千个人只能进一个。

 

文字通り、狭き門です。

 

  如字面意思,就是窄门。

 

 

 

 

 

では、今日の話もそういう話なんでしょうか。

 

  那么,今天的话题也是这个吗?

 

人を押しのけて、入りにくいところに入りなさいという話なんでしょうか。

 

  把竞争对手挤掉,进到难进的地方,是这话题吗?

 

違いますよね。

 

  不是的。

 

今日の話は、広い門には人がたくさん入るけれども、狭い門は見出す人が少ないという話です。

 

  今天的话题是,进大门的人很多,而发现窄门的人却很少。

 

入りにくいということではなくて、見つけにくいということです。

 

  不是难进,而是难发现。

 

ですから、一般に言われている「狭き門」という言葉は、もともとの意味とは違った意味でつかわれてしまっているわけです。

 

  因此,我们一般所用的“窄门的意思已经和原来的不一样了。

 

イエス様がおっしゃっているのは、みんなが入る門からではなく、狭い門を見つけ出して、そこから入りなさいということです。

 

  耶稣所说的是,不要从大家都进的那地方进,找到窄门,从那里进。

 

 

 

 

 

でも、私たちは、「狭い門から入りなさい」と言われると勘違いしてしまうんですね。

 

  但是,我们一听到“要进窄门”就会误会。

 

周りの人と競争して、勝ち抜いたら入れるというふうに考えてしまうわけです。

 

  和周围人竞争,胜出的话就能进去,会这样以为。

 

神さまは一度だってそんなことをおっしゃったことはないのに、そう考えてしまうんですね。

 

  神一次都没有这样讲过,大家却都这样认为。

 

私たちの心が神さまに向かっていないからです。

 

  因为我们的心没有向着神。

 

私たちの心は神さまに向かわずに、自分自身を愛することに向かっているんですね。

 

  我们的心没有向着神,只想着爱自己。

 

それが罪だというのが聖書です。

 

  圣经说这就是罪。

 

罪という言葉はもともとは的外れという言葉ですが、心が神さまに向かっていないから、今日のこの、とても短い御言葉であっても的外れな考え方をしてしまうんですね。

 

  罪一词原来是指偏离靶心,因为心没有向着神,今天这词虽然是很短,也完全想偏了。

 

 

 

 

 

日本語の国語辞典を見てみますと、「狭き門」という言葉は、「キリスト教で、救いに至る道のりが困難であることをたとえた言葉」であると書かれていました。

 

  翻看日语国语辞典的话,“窄门”被解释成“基督教中,比喻救赎之路之艰难”。

 

これはどうなんでしょうか。

 

  这解释如何?

 

狭い門というのは、困難かどうかではないですね。

 

  所谓窄门,并不是指其道路艰难与否。

 

見つけるのが簡単か難しいか、という話です。

 

  而是指发现之难易如何。

 

でも、見つけるのが難しいのなら、結局、救われるのも難しいということにならないか、と思ってしまいます。

 

  但是,要是难以发现的话,最终,被救赎不也很困难吗,会这么认为。

 

実際のところイエス様はどういうおつもりでおっしゃったんでしょうか。

 

  耶稣到底准备要说什么呢?

 

 

 

 

 

今日の御言葉では、2種類の門と道について言われていますね。

 

  今天的话语,说的是关于两道门和两条路。

 

広い門と狭い門、広い道と狭い道です。

 

  宽门和窄门,大路和小路。

 

これは普通に聞いたら、どちらかを選べということでしょうね。

 

  一般听到这,就知道是该选哪个的问题。

 

もちろん選ぶべきなのは、狭い門と狭い道です。

 

  当然应该选的是窄门和小路。

 

広い門と広い道は滅びに通じている。

 

  宽门和大路是通向灭亡的。

 

狭い門と狭い道は命に通じている。

 

  窄门和小路通向永生。

 

どちらを選ぶのか、迷う必要はありません。

 

  不会不知道选哪个。

 

 

 

 

 

ここで、命に通じる門と言われていますが、旧約聖書では、神の言葉に従うなら命が与えられ、従わないなら滅びに至ると繰り返し言われていました。

 

  这里说的通向永生之门,就是旧约中反复说到的,听从神的话语便得着生命,不听从的必至灭亡。

 

けれども、そう考えると不思議ですね。

 

  但是,这样想又觉得有点奇怪。

 

狭い門と狭い道は見出す者が少ないとイエス様はおっしゃっておられます。

 

  耶稣说窄门和小路发现的人很少。

 

ですが、この門を見出す者が少ないなんていうことはありません。

 

  但是,发现这门的也不算少。

 

神の言葉に従うなら命が与えられるということは、旧約聖書にはっきり書かれていることで、今、イエス様の話を聞いていた人たちも、みんな知っていたことです。

 

  旧约明确写着听从神话语的话将得着生命,现在听耶稣讲道的人大家都知道。

 

 

 

 

 

それに、「門」という言葉も不思議です。

 

  而且,“门”一词也有点怪。

 

「門」というのはどんな門でも、誰でも通れるわけではありません。

 

  “门”的话,不管什么门,都不是谁都能过的。

 

普通は門と言ったら、その人が中に入っていいのかいけないのかをチェックするところです。

 

  一般说到门,都要确认这人是否能进。

 

 

 

ですが、入っていいのかいけないのかをチェックされますよという話なんだったら、門と道が2種類あるという話をする必要はありません。

 

  但是,如果说要确认是否能进的话,就没必要说门和路有两类了。

 

一つの門があって、門のところでチェックされますよと言えばいいわけです。

 

  只要说有一道门,须在门口确认就行了。

 

そもそも、旧約聖書で、命を得るという話をするときに、門という言葉はまず出てきません。

 

  原本在旧约中,说到得着生命的时候,没有出现门一词。

 

命を得る道も当然1種類しかないんです。

 

  得生命之路自然也只有一种。

 

 

 

 

 

ではこの門は一体何なのかと言いますと、これはイエス様ご自身のことです。

 

  那么这里的门到底是什么呢?是耶稣自己。

 

新約聖書の186ページ、ヨハネによる福音書の109節で、イエス様はご自分のことをこういうふうにおっしゃいました。

 

  新约186页(新共同译),约翰福音109节,耶稣这样说他自己:

 

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」。

 

  “我就是门,凡从我进来的,必然得救”。

 

イエス様が門で、イエス様を通って命に至るわけです。

 

  耶稣是门,因耶稣得着生命。

 

 

 

 

 

そして、今お読みしたイエス様の言葉の直前のところでは、イエス様はご自分を羊飼いにたとえておられます。

 

  而且,现在所读的耶稣的话语之前,耶稣把自己比喻成牧羊人。

 

ヨハネによる福音書103節ですが、「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。

 

  约翰福音103节,“看门的就给他开门,羊也听他的声音。他按着名叫自己的羊把它带出来”。

 

羊が羊飼いの声を聞き分けることができるかどうかでチェックされるんですね。

 

  确认羊是否能听得出牧羊人的声音。

 

羊飼いは、自分の羊の名前をいちいち呼んで、自分の羊だけを連れて行くわけです。

 

  牧羊人一只一只叫自己羊的名字,只带走自己的羊。

 

イエス様は私たち一人ひとりをかけがえのない存在として愛してくださっているから、私たちをひとくくりにせずに、一人ひとりの名前を呼んでくださるんですね。

 

  因为耶稣把我们一个个都当成是不可替代的存在来爱,不把我们混在一起,一个一个叫我们的名字。

 

 

 

 

 

そういう意味で、今日の御言葉では、門は狭いんですね。

 

  按这个意思,今天话语中的这门确是窄的。

 

通りにくい門ということではありません。

 

  不是难以通过的门。

 

私たちは、自分の名前が呼ばれてから通るわけです。

 

  我们在被叫到自己的名字之后才能过。

 

名前を呼ばれた人だけが通ることができるんです。

 

  只有叫到名字的人可以过。

 

ですから、名前を呼ばれた人にとっては狭くはありません。

 

  因此,对被叫到名字的人来说并不窄。

 

ただ、ほかの人が勝手に通ることはできないということです。

 

  不过,其他人擅自过去是不行的。

 

 

 

 

 

けれども、そうなりますと、狭いか広いか、私たちが門を見つけ出すとか見つけ出せないとかいう話でもなくなってしまいます。

 

  但是,这样的话,就不是窄门宽门,也不是我们是否能发现门的问题了。

 

イエス様が私たちを見つけ出してくださるんであって、イエス様に見つけ出してもらえれば、呼ばれて入ることができるわけです。

 

  耶稣找到我们,被耶稣发现的话,就能被点名。

 

ではどうしてイエス様は今ここで、門を見つけ出しなさい、私を見つけ出しなさいとおっしゃっておられるんでしょうか。

 

  那么为什么耶稣今天在这里说要找到门,要找到我呢?

 

 

 

 

 

知識として知っているということと、心から信じてしているということは違います。

 

  作为知识知晓和心里相信是两回事。

 

イエス様こそ命に通じる門です。

 

  耶稣才是通向生命的门。

 

ですが私たちは、それを知識としては理解できても、本当に心から信じることができているでしょうか。

 

  但是,即使作为知识我们能理解,内心真的能相信吗?

 

 

 

 

 

イエス様のなさったたとえ話に、種まく人のたとえというたとえ話があります。

 

  耶稣所说的比喻中,有撒种的比喻。

 

御言葉を伝えるということを、種をまくことにたとえた話ですね。

 

  把传达神的话语比作撒种。

 

イエス様は御言葉を伝えてくださるわけですが、御言葉を聞くと喜んで受け入れるけれども、途中で試練に遭うと身を引いてしまう人がいる。

 

  耶稣传达神的话语,虽然人们听到神的话语欢喜领受,但是中间有人因遭受试探而离开的。

 

思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、結局は実が熟するまでに至らない人がいる。

 

  有的人被忧愁、富贵、享乐而蒙蔽,结果没有等到果子成熟。

 

知識として知っているということと、心から信じているということとは違うんですね。

 

  作为知识知晓和心里相信是两回事。

 

イエス様を命に通じる門として見出すということは、知識として受け入れるというだけのことではありません。

 

  不只是把找寻耶稣---通向生命之门作为知识来接受。

 

心からそれを信じて、呼ばれたときに、実際にイエス様の方に向かうこと。

 

  而是心里相信,被呼召的时候,真正能走向神。

 

そうでないなら、わたしたちは広い門の方に向かってしまうということですね。

 

  要是不这样的话,我们会走向宽门的。

 

イエス様が私たちを見つけ出してくださって、私たちの名前を呼んでくださっても、私たちがそれに応えて歩き出さなかったら、命を得ることはできないんですね。

 

  即使耶稣找到我们,叫我们的名字,我们如果不回应,不走出去的话,也无法得着生命。

 

 

 

 

 

私たちは今、イエス様を、命に通じる門として、リアルに見出したいんですね。

 

  我们现在真的想寻到耶稣这一通向生命之门。

 

イエス様を通らなくては、命を得ることはできません。

 

  不通过耶稣,就无法得着生命。

 

旧約聖書では、神の言葉に聞き従うなら命を得ると約束されていましたが、神の言葉に聞き従うことができないのが人間です。

 

  旧约里有约定说,听从神话语的人便得着生命,但是人没有听从神的话语。

 

滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多いと言われていますけれども、人間は罪人で的外れですから、間違えてしまうんですね。

 

  虽然说,通向灭亡的路是宽的,那条路很宽,从那里进的人很多,但是因为人是有罪的,会偏离靶心,所以会搞错。

 

滅びに通じる門なのに、広いから、通りやすそうだから、ここから通ればいいと考えてしまう。

 

  虽然是灭亡之门,因为宽,容易通过,所以都想从那里过。

 

一口に言うと旧約聖書は、神の民が滅びに通じる門に向かっていったという記録ですね。

 

  一句话来说旧约就是记录神的子民走向灭亡之门。

 

判断を間違って、行くべきでない方向に行ってしまったわけです。

 

  因为判断错误,走了不该走的方向。

 

けれども彼らにはその自覚がないわけです。

 

  但是,他们没有认识到。

 

自覚なく、歩きやすい道を歩いて行ってしまう。

 

  没有觉悟到,就走了一条好走的路。

 

正しいと思って間違った方向に行ってしまうのが人間なんだと聖書は言っているんです。

 

  圣经上说,人自认为是对的,却走错了方向。

 

 

 

 

 

私たちはイエス様を通して旧約聖書を読んでいますから、イエス様だけが命に通じる門であるということを知っています。

 

  我们因为通过耶稣读了旧约,知道唯有耶稣才是通向生命之门。

 

神の言葉に聞き従うなら命を得るというのは、イエス様以外に誰も通ることができなかった道であり、門です。

 

  听从神的话得着生命是指唯有耶稣才是这路,这门,其他谁都不行。

 

逆に言って、私たちにはできないからこそ、イエス様が来てくださって、道を通してくださって、門になってくださったわけです。

 

  反而言之,正因为我们不行,耶稣才成了通向这路的门。

 

大事なのはそれを実感することです。

 

  重要的是要真正感受到这一点。

 

そのようなイエス様、神の言葉に従っておられるイエス様をリアルに見出すこと。

 

  真正寻到这样的耶稣,遵从神话语的耶稣。

 

そのとき、イエス様は、私たち一人ひとりをその名前で呼んでくださるんでしょうね。

 

  到那时,耶稣会一一呼唤我们的名字。

 

イエス様は今、そのように、私たちを招いてくださっているんです。

 

  耶稣现在就是如此,他在呼召我们。

 

 

 

 

 

「狭い門から入りなさい」という言葉は、「わたしのもとに来なさい」という招きです。

 

  “要进窄门”,就是呼召说“来我这里”。

 

私たちは命へと招かれています。

 

  招我们走向生命。

 

イエス様は十字架で命をかけてまで、私たちを招いてくださったんです。

 

  耶稣甚至在十字架上舍命,来呼召我们。

 

その招きに気づくことです。

 

  我们定要觉察到这呼召。

 

私たちひとりひとりをその名前で呼んでくださるイエス様に、応えたいと思います。

 

  希望大家回应那一一呼唤我们名的耶稣。