今週の説教「権威による奇跡」(新約聖書・マタイによる福音書8章5節から13節に基づく説教)

「権威による奇跡」

 

新約聖書・マタイによる福音書85節から13節に基づく説教

 

5さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、6「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。7そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。8すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。9わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。10イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。11言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。12だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」13そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 

 

 

 

 

百人隊長とは何者なのか。

 

軍人であって、百人の部下がいる。

 

ただ、イスラエルの軍人ではなく、ローマ帝国の軍人なのである。

 

外国の軍隊にイスラエルは支配されていた。

 

外国の軍隊がいつも自分たちの国の中にいる。

 

そうなると、あまりいい気分にはならない。

 

 

 

ただ、この時、外国から来たこの百人隊長は、自分からイエスに近づいた。

 

自分のしもべ、自分の奴隷が病気で苦しんでいる。

 

イエス様、助けてください。

 

重い病気である。

 

中風というのは、脳出血などによって起こる、半身不随や手足のまひなどの症状のこと。

 

まして、助けを求めてイエス様のところまで来るということなら、症状は相当悪かっただろう。

 

 

 

しかし、これは大変なことである。

 

ローマ帝国の人間が、イスラエル人に助けを求めている。

 

支配者が、支配されている側に助けを求めている。

 

普通はそういうことは起こらない。

 

自分の立場というものを人間は重んじる。

 

そして皆、それに基づいて行動する。

 

それが常識と言うものであろう。

 

会社の中で、上司が部下に頭を下げるようなことがどれほどあるだろうか。

 

学校の中で、先輩が後輩に頭を下げることがどれほどあるだろうか。

 

そういうことが起こっている。

 

この百人隊長は常識を乗り越えた。

 

この百人隊長は、自分の立場にこだわらなかった。

 

この人の部下の中には、イエス様にお願いすることを良く思わない人もいただろう。

 

イスラエルの人たちも嫌な目で見たかもしれない。

 

しかし、この人は自分のためではなく人のために、自分の立場を捨てた。

 

そして、その結果、百人隊長の奴隷は病気が治った。

 

もしこの人が自分の立場にこだわる人だったらどうか。

 

おそらく、その病気は一生治らなかっただろう。

 

 

 

私たちもここで問われている。

 

あなたも自分の立場にこだわっていないか。

 

自分の常識にこだわっていないか。

 

私たちが自分のこだわりを捨てれば、私たちはもっと大きな恵みをいただけると、今日、聖書は私たちに語りかけている。

 

 

 

その意味で、この人の場合は自分の奴隷が倒れてしまったということだが、そのような、大変な出来事というのはチャンスかもしれない。

 

大変なことになればなるほど、私たちは自分の考えにこだわっていられなくなるから。

 

本当に心の底からイエス様に求めることができるのは、もうどうしようもないくらい大変な時だけかもしれない。

 

だとしたら、大変な出来事というのは、心を神様に向けなさいという、神様からのメッセージかもしれない。

 

 

 

イエスはこの人に答えた。

 

「わたしが行って、いやしてあげよう」。

 

これでもう安心である。

 

ありがとうございます、よろしくお願いします、と言うところだろう。

 

しかし、百人隊長は言う。

 

「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。

 

この人は、イエスの力を本気で信じている。

 

本気で信じるというのはこういうことだろう。

 

今までにもイエスが人をいやしたことはあった。

 

しかし、会ったこともない人をいやしたことはない。

 

しかし、この人は、本気で、それができると信じている。

 

イエスにはそれができると信じている。

 

この人は、イエスが病気を治せると知っていた。

 

それは、どこかで誰かから聞いていたのだろう。

 

病気の人に手を置いて治した、などと。

 

しかし、この人は、聞いていたこと以上のことを信じた。

 

だから、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言える。

 

そして、「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言える。

 

 

 

病気が治ったのはイエスの力であって、信仰の力ではない。

 

ただ、イエスは言っている。

 

「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」。

 

「あなたが信じたとおりになるように」。

 

「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」。

 

いやしたのはイエスである。

 

イエスが「あなたが信じたとおりになるように」と言ったから治った。

 

イエスの言葉の力である。

 

ただ、イエスも、「あなたが信じたとおりになるように」と言った。

 

「病気よ、出ていけ」と言ったのではない。

 

「病気が治れ」と言ったのではない。

 

信じたとおりになるのだ。

 

イエスの力ならできると信じたとおりになる。

 

私たちが信じたことが、何が起こるのかを決める。

 

イエスの力で出来事が起こるのだが、何が起こるのかは、私たちがどれくらい神の力を信じているかにかかっている。

 

大事なのは、イエスの力は完全だと本気で信じることができるかどうか。

 

その上で、言う。

 

「ひと言おっしゃってください」。

 

 

 

この人は、イエスの言葉には権威があると信じていた。

 

この人は軍隊にいる人だから、言葉の権威というものが分かっている。

 

軍隊では、下の者は上の者に言われたとおりにする。

 

返事は「Yes, sir」だけ。

 

No」という返事は軍隊にはない。

 

この人は、言葉の権威ということを、もともと良く分かっていた。

 

現代は言葉に権威が無くなった時代かもしれない。

 

しかし、人の言葉に権威がなくても、神の子イエスの言葉には権威がある。

 

神の子イエスの言葉はそのまま実現する。

 

今日の出来事は私たちにそれを教えている。

 

だから、私たちもこの人と同じように祈る。

 

「ひと言おっしゃってください」。

 

その答えは、「あなたが信じたとおりになるように」。

 

 

 

救いはそこにかかっているとイエスは言う。

 

11節で「天の国」の話をする。

 

「東や西から大勢の人が来て」とあるが、これは、たくさんの外国人が天国に入るということ。

 

しかし、12節には、「御国の子ら」は追い出される、とある。

 

これは、自分は当然天国に入ると思っていた人たち、イスラエルの人たちのことを指している。

 

イスラエルの人たちは、自分たちは聖書を与えられている、神の言葉を持っている、自分たちは特別だと考えていた。

 

しかし、本当に大事なことは、その神の言葉の権威を心の底から信じているかどうかなのである。

 

 

 

私たちは、自分は聖書の言葉、神の言葉を聞いているから、それだけで大丈夫だと思っていないだろうか。

 

10節で、イエスは、今の話を、イエスに従っていた人たちに話した。

 

イエスに従っていた人たちというのは、私たちも同じである。

 

私たちも、同じ気持ちでこうして神の言葉を聞いている。

 

少なくとも、逆らうつもりならここには来ない。

 

しかし、イエスは、その私たちに語りかける。

 

あなたは、神の言葉の権威をどこまで信じているか、ということである。

 

そう言われると不安になる。

 

しかし、だからこそイエスは、従っていた人たちに話をしたのだろう。

 

 

 

ただ、私たちは信じられるようにされるのではないかと思う。

 

「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」と書かれているが、誰もその場にいないのに、どのようにしてそれが分かったのか。

 

もちろんイエスは分かっていただろう。

 

しかし、「あなたが信じたとおりになるように」と言われただけでは、百人隊長も、今どうなっているか分からない。

 

百人隊長も、家に帰ってから分かったのである。

 

そして、この百人隊長はその後どうしただろうか。

 

もう一度、イエスのところへ行って、直接お礼を言ったのではないか。

 

そして、だからこそ、病気が治ったということを皆が知ることになって、その結果、「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」と書かれることになったのではないだろうか。

 

 

 

同じように私たちも、信じられるようにされるのだ。

 

神の言葉の権威を、人を通して知らされるということがある。

 

そうなると、大事なことは、とにかくイエスに従っていくことである。

 

イエスの後についていくことである。

 

イエスの後についていった人たちは、だからこそ、神の言葉の権威を知ることができたのである。

 

 

 

「ひと言おっしゃってください」と祈ってみていただきたい。

 

自分の立場にこだわらずに、自分の常識にこだわらずに、自分の権威を捨てて、神の権威を信じて、祈ってみてほしい。

 

もしかすると、あなたが、神の言葉の権威を他の人に伝える人なのかもしれない。