今週の説教「イエスの働きとは」(新約聖書・マタイによる福音書9章32節から35節に基づくメッセージ)

イエスの働きとは

 

                         耶稣的做工

 

新約聖書・マタイによる福音書932節から35節に基づくメッセージ

 

  新约圣经马太福音932-35

 

32二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。33悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。34しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

 

 他们出去的时候,有人将鬼所附的一个哑巴带到耶稣跟前来。鬼被赶出去,哑巴就说出话来。众人都希奇说:“在以色列中,从来没有见过这样的事。”法利赛人却说:“他是靠着鬼王赶鬼。”

 

 

 

35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 

   耶稣走遍各城各乡,在会堂里教训人,宣讲天国的福音,又医治各样的病症。

 

 

 

 

 

二人が出て行った。

 

  两人出去了。

 

この二人は、目が見えなかった二人。

 

  这两人是眼睛看不见的那两人。

 

見えるようになった。

 

  变看得见了。

 

「わたしにできると信じるのか」。

 

  “你们信我能做这事吗?”

 

「はい、主よ」。

 

  “主啊,我们信。”

 

信じている通りになった。

 

  正如他们所信的那样成了。

 

 

 

 

 

その二人が出ていくと、今度は入れ違いで、口の利けない人が連れて来られた。

 

  那两人刚出去,与他们擦肩而过,这次被带来的是哑巴。

 

悪霊が取りついて、口が利けないようにさせていた。

 

  被鬼所附,说不了话了。

 

悪霊が追い出された。

 

  鬼被赶出去了。

 

イエスが追い出した。

 

  耶稣把鬼赶出去了。

 

今までにも、イエスは悪霊を追い出したことがあった。

 

  这之前,耶稣也赶过鬼。

 

今回の場合は悪霊が原因で口が利けないということだが、病気を追い出したこともあった。

 

  这次是因为被鬼附说不了话,也有把疾病驱除的。

 

嵐を叱りつけて静めたこともあった。

 

  还有斥责暴风雨使风平浪静的。

 

言わば、嵐を追い払った。

 

  可以说是把暴风雨赶走了。

 

人間を支配するどんなマイナスの力よりも、イエスの力は強い。

 

  无论和什么支配人的负能量相比,耶稣的大能都更强大。

 

どんな方法で追い出したのかは書かれていないが、この人は話ができるようになった。

 

  虽然没写用什么方法赶的,但是那两人能说话了。

 

 

 

 

 

ここには、それを見ていた人の反応も書かれている。

 

  这里还写了看到这事的人的反应。

 

「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言って驚く人がいた。

 

  有人很惊讶地说:“在以色列中,从来没有见过这样的事。”

 

「イスラエルで起こったためしがない」。

 

  “在以色列没有发生过”。

 

「イスラエル」は神様が選んだ人々。

 

  “以色列”是神的选民。

 

神様が御手の内に置いてくださっている人々。

 

  是神放在手心中的百姓。

 

その人たちの中でも、起こったことのないようなことが起こった。

 

  即使在这百姓当中,也发生了从未有过的事。

 

このイエスという人こそ、聖書に書かれている救い主メシアではないか。

 

  正是这位叫做耶稣的,才是圣经中所写的救世主弥赛亚不是吗?

 

 

 

 

 

その一方で、全く逆の反応をする人もいた。

 

  另外也有反应完全相反的人。

 

「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」。

 

  “那男的是靠着鬼王赶鬼。”

 

イエスが悪霊を追い出せるのは、悪霊の頭の力がイエスにあるからだ。

 

  耶稣把鬼赶出去是因为耶稣有鬼王的能力。

 

イエスは神の元から来た救い主ではない。

 

  耶稣不是从神那里来的救世主。

 

悪霊の頭だ。

 

  是鬼王。

 

そういうふうに理由をつけることはできる。

 

  可以这样强加理由。

 

そもそも、目に見えない世界の話なのだから、何とでも言える。

 

  因为原本就是眼不能见的世界,所以什么都可以说。

 

 

 

 

 

イエス様を信じなかった人はファリサイ派だった。

 

  不相信耶稣的是法利赛人。

 

ファリサイ派は聖書を一生懸命読んでいた。

 

  法利赛人拼命读圣经。

 

聖書に従って生活して、他の人々にもそうするようにと教えていた。

 

  遵从圣经律法生活,教导他人也要如此。

 

しかし、どうしてそのような人々が、イエスを悪者だと決めつけるのか。

 

  可是为什么这样的人断定耶稣是坏人呢?

 

イエス様の力が神の力なのか悪魔の力なのかは、目に見えない世界の話なので、分からないはず。

 

  耶稣的大能是神的还是魔鬼的,因为所说的是我们看不到的世界,所以应该是无从知晓的。

 

それなのに悪い力だと決めつけるのは、イエスのことが嫌いだったから。

 

  然而却因为讨厌耶稣,就断定是恶的。

 

人々が皆イエスの方に行ってしまう。

 

  百姓都去了耶稣那里。

 

イエスがいると、自分の立場がなくなる。

 

  要是耶稣在,自己就没了立场。

 

だから素晴らしい出来事が起こっているのに、悪霊の力だ、と決めつける。

 

  所以明明是非常了不起的事,却断定说是魔鬼之力。

 

普通に考えたら、素晴らしい出来事は素晴らしい力によって起こる。

 

  正常思维的话,了不起的事是因了不起的大能才发生。

 

それなのに、自分にとって嫌な相手だから、「悪霊の頭の力だ」と言う。

 

  然而因为是自己讨厌的对手,就说成是“鬼王的力量”。

 

こんなことを良く考え付いたものだと思う。

 

  这种事很容易想到。

 

悪霊を追い出した。

 

  鬼赶出去了。

 

それは、普通に考えたら神の力だが、実はイエスは悪霊の頭の力で悪霊に命令して、追い出したのだ。

 

  一般都会觉得这是神的大能,却说事实上耶稣是靠着鬼王,命令鬼出去。

 

こんなことは、普通は考えつかない。

 

  这种事,一般是想不到的。

 

 

 

 

 

聖書は私たちに教えている。

 

  圣经告诉我们:

 

イエスの奇跡を見れば信じるか、と言うと、そうではないのだ。

 

  见到耶稣所行的奇迹就会信吗?不是的。

 

奇跡を見ても、信じない人は信じない。

 

  即使见了奇迹,不信的人还是不信。

 

ファリサイ派のように、イエスを愛していない人は何があっても信じない。

 

  像法利赛人那样,不爱耶稣的人不管发生什么都不会信。

 

ファリサイ派の人はどうしてイエスを愛せないのか。

 

  法利赛人为什么不爱耶稣呢?

 

聖書を読んでいても、つまるところは自分を何よりも愛しているから。

 

  因为他们虽然读圣经,但归根结底还是最爱自己。

 

そして、罪というものは自分を何よりも愛することだと聖書は言っている。

 

  圣经上说,所谓罪就是爱自己胜过一切。

 

そして、その罪によって、人は神から離れると言っている。

 

  因为这罪,人离开了神。

 

自分を愛すれば愛するほど、神の働きは見えなくなる。

 

  越爱自己,就越看不到神的做工。

 

 

 

 

 

ある時、ある人が、電車に乗ろうとしたところ、電車から降りてきた人に突き飛ばされて、乗ることができなかった。

 

  某人在某时要上电车,却被下车的人撞了,没能乘上车。

 

それを悪霊の力だと言えるのかもしれない。

 

  这或许可以说是魔鬼的力量。

 

結局、その人は約束の時間に約束の場所に行くことができなかった。

 

  结果,这人无法在约定的时间到达约定的地方。

 

しかし、それで良かった。

 

  可这却是好事。

 

その電車は、脱線事故を起こして、その電車の1両目と2両目に乗っていた多くの人が亡くなった。

 

  那电车发生了脱轨事故,第一车厢和第二车厢的乘客大部分都死了。

 

もしその電車に乗っていたら、その人も命はなかっただろう。

 

  如果乘上那辆电车的话,那人也没命了。

 

その人は、1両目に乗ろうとしていたのだ。

 

  这人要乘坐的是第一车厢。

 

それにしたって、偶然だと言うことはできる。

 

  这可以说是偶然。

 

しかしそうなると、もしその時自分が死んでいたとしても、それも偶然だということになる。

 

  可是如果当时自己死了,那也是偶然。

 

生きているのも偶然、死んでも偶然。

 

  生是偶然,死亦是偶然。

 

アインシュタインが言っている。

 

  爱因斯坦说:

 

「世の中には二通りの生き方しかない。奇跡など一つもないという生き方と、すべてが奇跡だという生き方である」。

 

  “世间只有两种生活方式,没有任何奇迹和一切都是奇迹。”

 

神は私たちのことを、偶然生まれて偶然死ぬような虚しい存在だとは思っておられない。

 

  神不认为我们生于偶然,死于偶然,如此虚无的存在。

 

神の目に私たちは価値のある者だと聖書は言う。

 

  圣经说在神的眼中我们是宝贵的。

 

神は私たちを、偶然などというような、寂しい所に置いておかない。

 

  神不会把我们随意放在孤独寂寞的地方。

 

御手の内に置いていてくださる。

 

  把我们放在他的手心里。

 

神は私たちを愛しておられる。

 

  神爱我们。

 

それに気づいた時、目には見えない神の働きが分かるようになる。

 

  意识到这一点,就能明白眼睛所不能见的神的做工。

 

 

 

 

 

最後の35節。

 

  最后第35节:

 

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。

 

  “耶稣走遍各城各乡,在会堂里教训人,宣讲天国的福音,又医治各样的病症。”

 

これと同じような言葉が423節にあった。

 

  和这相同的话语在423节。

 

そして、その423節から、イエスが福音を伝えて、人を癒す働きをしたことが書かれていく。

 

  423节开始写耶稣宣讲福音,医治百姓。

 

その締めくくりが935節。

 

  935节结束。

 

マタイはこういう書き方をする。

 

  马太是这样写的。

 

423節から始まって、935節が締めくくり。

 

  423结开始,935节结束。

 

その最初と最後に同じ言葉が出てくる。

 

  开始和结束都是一样的话。

 

最初の方で、「御国の福音」を伝えた。

 

  最初,宣讲“天国的福音”。

 

神は「あなたがたの天の父」であると繰り返し言った。

 

  反复说神是“你们的天父”。

 

天の父があなたを愛して、あなたを導いてくださる。

 

  天父爱你,引领你。

 

福音、良い知らせ。

 

  福音就是好消息。

 

その表れとして、癒しの奇跡が起こってくる。

 

  作为证明,有了医治的奇迹。

 

大事なのは、天の父があなたを愛して、あなたを導いてくださることを信じること。

 

  重要的是,相信天父爱你,引领你。

 

神が私を御手の内に置いていてくださる。

 

  神把我放在手心。

 

神は私を愛しておられる。

 

  神爱我。

 

そのことが真実であると証明するために、イエスは癒しをなさった。

 

  为了真正证明这一点,耶稣医治了。

 

体の癒しが大事なのではない。

 

  身体的医治不是什么大事。

 

体の癒しがメインなのではない。

 

  身体的医治不是主要的。

 

神はあなたを愛している。

 

  神爱你。

 

それこそ、何としてでも伝えたかったこと。

 

  这才是无论如何想要传达的。

 

神の子が一番言いたいのは、神はあなたを愛している。

 

  神子最想要说的是,神爱你。

 

そして、神の子は、私たちにも、神のことを父と呼んでもらいたい。

 

  神子希望我们也称神为父。

 

私たちにも、父を信頼して、愛してほしい。

 

  也希望我们信靠父,爱父。

 

そうする時、私たちは、自分が神様にどれだけ愛されているかを知る。

 

  到那时候,我们就知道神有多么地爱我们。

 

神様が私たちのためにどれだけ働いてくださっているか。

 

  神为了我们都做了些什么。

 

偶然など言うことは一つもない。

 

  没有一样可以说是偶然的。

 

すべて、神の奇跡。

 

  所有一切都是神的奇迹。

 

私ほど神に愛されている人はいないと思えるくらいに。

 

  像我这般得神所爱的人是没有的,甚至可以这样认为。

 

すべて奇跡。

 

  一切都是奇迹。

 

神の働き。

 

  是神的做工。

 

神は私たちに、そのことを知ってもらいたい。

 

神希望我们知道这一点。