
救い主の誕生を知らされた羊飼いたちは、出かけて行って、その目に幼子イエスを見て、それをイエスに知らせた。
しかし、聞いた者たちは信じなかった。
……その時代、羊飼いは裁判での証言能力を持たないとされていた。
そもそも、戸籍を持たない者であった(それゆえ、ローマ帝国による住民登録がこの時行われていたのに、彼らはそれに応じていない)。
聞いた者たちが信じないのはむしろ常識的である。
しかし、聖書は私たちに言う。
神の言葉が、誰から私たちに語りかけられるのかは分からない。
羊飼いたちが真実を語ったように、私たちも、自分がどのように見なしている人から神の真実を聞くことになるかは分からない。
この時、マリアだけはこれらの出来事を心に納めて、思い巡らしていた、とある。
マリアは、文字通り何者でもないはずの羊飼いの言葉と向き合った。
私たちも、同じようにすることができるだろうか。
神の言葉は自分の言葉(それがたとえ常識と言われるものであっても)に沈黙することを求める。