今週の説教「イエス誕生の予告」(新約聖書・ルカによる福音書1章25節から38節)

「イエス誕生の予告」

 

ルカによる福音書125節から38

 

25六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。26ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。27天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」28マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。29すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。30あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。31その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。32彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」33マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」34天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。35あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。36神にできないことは何一つない。」37マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

 

 

 

 

イエス・キリストの誕生が予告される場面です。

 

たくさんの画家がこの場面を絵にしましたので、今日の場面を読んでいてもなんとなくイメージがわいてくるところではないかと思います。

 

ただ、ここで最初に申し上げておきたいんですが、この時、マリアは何歳くらいだったでしょうか。

 

聖書にはマリアの年齢は書かれていないんですが、当時、女性が結婚する年齢というのは何歳くらいだったでしょうか。

 

絵のイメージとは違うんじゃないかと思いますが、14歳くらいだったのだそうです。

 

今でいうところの中学生ですね。

 

中学生の女の子。

 

取り立ててどうということもない、ごく普通の女の子。

 

それも、ナザレというのはエルサレムから遠く離れた田舎町です。

 

マリアはごく普通の田舎の女の子だったんです。

 

これがまず、今日、びっくりするところだと思いますね。

 

マリアは神様が選んだ人ですが、その人は、権力のある人だったりお金を持っている人だったり特別な能力を持っている人だったわけではなくて、どこにでもいるようなただの女の子だったんです。

 

私たちはこのことをしっかり心に収めるべきです。

 

私たちは、神様が人を選んで人を立てる、なんて聞きますと、それはもう誰が見ても立派な人に違いないと思ってしまいがちですけれども、そうじゃないんですね。

 

今回選ばれたのはごく普通の人です。

 

私たちと何の変わりもないんです。

 

どこにでもいる普通の人にしか見えないような人を神様が選ぶことがあるんですね。

 

ですから私たちは誰も、自分はそんな神様の働きのために選ばれたりはしないだろうなんて考えるべきではないんですね。

 

というよりも、私たちも選ばれていると思った方がいいと思うんです。

 

私たちはこうして今、聖書の言葉、神の言葉を聞いている。

 

そして、今日の話は、イエス・キリストのことを知るために、絶対に必要な話でもないわけです。

 

何しろ、イエス・キリストが生まれる前の話ですから。

 

でもその話が聖書に書かれている。

 

それも、こんなインパクトのある話になっている。

 

私たちに向けて語られているんです。

 

神様が人を選んで人を立てるなんて聞きますと、自分は関係ないだろうなんて思ってしまいそうになりますけれども、もうこうして聖書の言葉を聞いている時点で、人を愛する神の思いが私たちにも及んでいるわけで、聞いてるっていうだけでもう、無関係じゃないんですね。

 

 

 

だから、私たちだって、自分が置かれているそれぞれの場所で、何か大きな働きをすることになるかもしれません。

 

私たちが考えもしなかったようなことをすることになるかもしれません。

 

考えてみれば、この時、マリアだって、自分はこれから何か大きなことをするなんて、思ってもいなかったんじゃないですか。

 

ただ、幸せな結婚生活になればいいなと、それだけだったんじゃないですか。

 

でも、こういうことになった。

 

だったら私たちも、自分では何も考えていなくても、神様に選ばれて、神様の大きな働きのために用いられるということがないとは言えない。

 

ですから、今日の聖書の言葉を聞いている私たちは、いつその時が来てもいいように、準備をしておきたいですね。

 

 

 

神様が人を選んで人を立てる時、どんな形でそういうことが起こってくるんでしょうか。

 

今日の御言葉から言いますと、天使がやってきてそれを知らせた、ということですね。

 

これはちょっと困ったことですね。

 

天使なんて聞きますと、何か一気にリアリティーがなくなってしまうような気がします。

 

でも、そういうふうに思うのは、私たちが天使というものをイメージする時、背中に羽が生えているとか、空から舞い降りてくるとか、そんなふうに思っているからなんですね。

 

でも、今日の聖書の箇所にそんなことが書かれているでしょうか。

 

そんなことは書かれていません。

 

ですから、今日の場面に登場してくる天使も、見た目はごく普通の人だったかもしれないですね。

 

聖書の他の場面にそういうことがあるわけなんですが、ある時、天使が、旅人の姿である人のところを訪ねてきた、なんていう話もあるんです。

 

相手が天使かどうかは見た目ではわからないっていうことですよね。

 

というか、天使という言葉は原文では「メッセンジャー」という言葉ですから、神様からのメッセージを伝える人という、それだけのことですから、普通の人とは見た目が違うとか、そういうことは大事ではないんですね。

 

要するに、神様からのメッセージを伝える役目をしているかどうかということなんです。

 

背中に羽が生えているかどうかなんて問題じゃないんですね。

 

ですから、もしかしたら、私たちは、それぞれの職場で天使に出会うかもしれない。

 

近所の人が天使かもしれない。

 

今ここにいるお互いがお互いにそうかもしれない。

 

そういう心づもりをしておく必要があるんでしょうね。

 

 

 

そして、今日、メッセンジャーが伝えた言葉がこれですね。

 

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。

 

それを聞いて、マリアは戸惑ったと書かれていますね。

 

この戸惑ったという言葉は原文では、「ものすごく不安になった」というくらいの言葉なんですね。

 

しかしどうして、この言葉にそんなに不安になったんでしょうか。

 

「おめでとう」と言っていますが、この言葉は実は普通のあいさつの言葉です。

 

「主があなたと共におられる」というのも、良くある祝福の言葉だったんです。

 

このあいさつの言葉は、何も特別なことは言っていないんです。

 

それなのにマリアが恐れるのは、この言葉を、神からのメッセージだと受け止めたからでしょう。

 

大事なのはここですね。

 

誰かから話しかけられた時、その言葉を、神の言葉だと考えることができるかどうか。

 

そういうアンテナを張っているかどうか。

 

 

 

そして、神の言葉を聞いた時、恐れることはないんです。

 

マリアに対して天使は何と言いましたか。

 

「マリア、恐れることはない」。

 

そもそも、今日の場面ですけれども、神様は何もマリアに前もってこんなことを伝えたりせずに、ご自分で勝手に事を進めることもできたわけじゃないですか。

 

でも、そうはなさらないんです。

 

マリアが納得してくれるように話をするんです。

 

神様は人を用います。

 

しかしそれは、無理やりではないんです。

 

話をしてくださる。

 

だから、私たちとしては、その話をちゃんと聞くことですね。

 

それは違う、それは困る、と思ったとしても、心を開いて話を聞くことです。

 

30節から33節まで、天使はマリアに言いますね。

 

まず、これは恵みなんだと言いますね。

 

そして、その子は偉大な人になる。

 

「いと高き方の子」、つまり、神の子と言われる。

 

その子には、父ダビデの王座が与えられる。

 

これは救い主であるということです。

 

救い主が生まれることは昔々から預言されていましたが、救い主はダビデの家系に生まれるとされていました。

 

だから、今日の27節でも、マリアの夫ヨセフのことがわざわざ「ダビデ家のヨセフ」と言われていました。

 

そして、天使の言葉の最後、33節は、救い主キリストは神が選んだ民を治めるということですね。

 

ヤコブの家、というのは神が選んだ神の民のことです。

 

その人々を、キリストは治めるんですね。

 

 

 

こういうことですから、14歳の普通の女の子にとっては、これはもう途方もない話です。

 

びっくりするというか、もう何も言えなくなってしまうような話です。

 

ただ、マリアにとっては、そもそもそういうことってあるの、という疑問がありました。

 

何しろこの時点ではマリアはまだ結婚していないんですね。

 

ですので、マリアは聞きます。

 

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。

 

素直に疑問を口にしたんですね。

 

ただ、このマリアの言葉はちょっと気を付けて読まなくてはならないと思います。

 

「どうして、そのようなことがありえましょうか」という言葉を聞きますと、何かこう、反発しているような感じに聞こえますよね。

 

ありえない、と言っているように聞こえます。

 

ですが、原文を見ますと、この言葉は、「どのようにしてそれが可能となるのですか」というふうにも訳すことができる言葉なんですね。

 

ありえない、と言っているのではなくて、もしそれが実現するとしたら、どういうかたちで実現するんですか、と質問しているように受け取ることもできる言葉なんです。

 

つまりこれは反発しているのではなくて、前向きに理解しようとしているということなんですね。

 

私はここのところはそういうふうに理解した方がいいと思います。

 

実際、この後、天使はその質問に答えて、どういうかたちでそれが実現するのか、という話をしています。

 

マリアが反発したんだったら天使はまずはマリアを落ち着かせようとするでしょうけれども、天使はマリアに説明をしているわけですので、この時のマリアの気持ちはもう前向きになっていて、これから起こる神の出来事を理解しようとしていると思うんですね。

 

これは、私たちも心がけたいことですね。

 

とんでもないと思うような話があっても、まず、理解しようとすること。

 

いきなり反発するんじゃなくて、最初から認めない、そんなことは許さないということではなくて、まず、理解しようとすること。

 

とんでもないと思うようなことがあったとしても、そこにおいて神様が働いておられるかもしれないということなんです。

 

それが今日の場面ですよね。

 

ですので、まず理解しようとすること。

 

マリアはそのお手本を私たちに示してくれていると思うんですね。

 

そして、そのような態度で臨む時、神様は私たちを納得させてくださるんです。

 

 

 

天使は、マリアに、どういうかたちでそのことが起こるのかを説明します。

 

聖霊の力でそれが起こるということですね。

 

ただ、聖霊なんて言っても、目に見えないので良く分かりません。

 

なので、そのことを信じることができるように、しるしも与えてくださいます。

 

36節ですね。

 

ありえないと考えられていたことが起こった。

 

子どもを産めないはずの人が、子どもを身ごもった。

 

実際にそういうことがあるじゃないか、ということですね。

 

そして最後、37節で、「神にできないことは何一つない」。

 

これは原文では、「神においては、すべての言葉は不可能ではないからだ」という言葉です。

 

神において、すべての言葉は不可能ではない。

 

神様はご自分の語った言葉を実現させてくださる方なんですね。

 

約束を守ってくださる方であるということです。

 

人間相手に約束を守る、それが神様なんですね。

 

神様は人間のことをご自分と対等のパートナーだと思ってくださっている。

 

だからこそ、そう言ってくださるんですね。

 

 

 

それに対して、マリアは答えました。

 

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。

 

自分のことをはしため、と言いました。

 

はしためというのは女性の奴隷のことです。

 

自分は神様の奴隷です。

 

自分からそう言ったんですね。

 

神様とマリアは対等なパートナーですが、マリアは自分から、神様に従います、という気持ちでそういったんですね。

 

これはなにも、大変な覚悟をしてそう宣言した、ということではありません。

 

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。

 

これは落ち着いて、安らぎを感じているからこそ、こう言える言葉ではないかと思います。

 

 

 

しかし、このように言う、というのは本当に大変なことではないかと思います。

 

マリアはこれから、結婚前に子どもを身ごもることになります。

 

そうなったら、夫になるヨセフにどう説明すればいいんでしょうか。

 

聖霊によって身ごもるわけですが、そんなことを言ってもヨセフが納得してくれるでしょうか。

 

普通に考えたら、マリアがヨセフを裏切ったとしか考えられないことが、これから起こってくるのです。

 

思い描いていた幸せな結婚生活とは全然違うことになっていくかもしれない。

 

それなのに、マリアは、安らぎの中で言うんですね。

 

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。

 

これはマリアが、神の言葉というのが恵みの言葉である、神様は私たちに恵みを実現してくださるのだ、ということが分かっていたからこそ言えたことではないかと思います。

 

今日、天使はマリアに何度も恵みということを言いましたけれども、マリアはそのことを良く理解して、私たちの考えの及ばないことがあったとしても、それもいつかは神様の恵みだったと分かるようになっていくんだと信じて、こう言ったんだと思いますね。

 

このことを私たちも心に留めたいですね。

 

神様は私たちの常識に収まる方ではありません。

 

今日の場面なんてもう、言ってみたら最初から最後まで非常識です。

 

ですが、神様が実現してくださるのは恵みであると信じること。

 

その約束を信じること。

 

そのことが言われているんだと思います。

 

それは困ります、止めてください。

 

マリアはそう言っても良かったはずですね。

 

けれどもマリアは神様を信じた。

 

神様というのは恵みを実現してくださる方であるということを信じた。

 

 

 

そして実際、今日の恵みの御言葉は私たちに実現していますね。

 

私たちは、イエス・キリストという神の子に治められている神の民なんですね。

 

今日の途方もない御言葉は、私たちに、このように実現している。

 

その私たちだからこそ、今一度、28節の言葉に聞きたいですね。

 

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。

 

私たちはこの言葉を、自分に向かって語られた言葉として聞いていいんですね。

 

神様が私たちは用いないなんて、そんなことがあるでしょうか。

 

私たちだって、マリアのように、神様の働きのために選ばれて立てられるということはそれぞれにあるはずなんです。

 

その時、どうかそれを恐れないでください。

 

そこに実現するのは恵みの約束だからです。

 

どうかこう答えてください。

 

「お言葉どおり、この身に成りますように」。

 

大丈夫です。

 

私たちは一人ではありません。

 

神様が一緒に働いてくださいます。

 

私たちは今日、そのような約束の御言葉を聞いたのです。