今週の説教「収穫のために」(新約聖書・マタイによる福音書9章36節から10章4節に基づくメッセージ)

36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 

  他看见许多的人,就怜悯他们,因为他们困苦流离,如同羊没有牧人一般。于是对门徒说:“要收的庄稼多,作工的人少。所以你们当求庄稼的主,打发工人出去收他的庄稼。

1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。 

  耶稣叫了十二个门徒来,给他们权柄,能赶逐污鬼,并医治各样的病症。这十二使徒的名:头一个叫西门,又称彼得,还有他兄弟安得烈,西庇太的儿子雅各和雅各的兄弟约翰,腓力和巴多罗买,多马和税吏马太,亚勒腓的儿子雅各和达太,奋锐党的西门,还有卖耶稣的加略人犹大。

  

 

  

 

人々は「飼い主のいない羊」のようであった。 

  人们如同“没有牧人的羊”一般。

「飼い主のいない羊」は生きていくことができない。 

  “没有牧人的羊”无法活下去。

それを見たイエスは「深く憐れまれた」。 

  看到这的耶稣“怜悯他们”。

「憐れむ」という言葉は、聖書では、神が人を憐れむということでつかわれる言葉である。 

  “怜悯”一词在圣经中用于神怜悯人。

そして、聖書では、神が飼い主で神に従う人々のことが羊であるとされる。 

  而且在圣经中,把神比作牧人,跟从神的人比作羊。

イエスは、羊である人々の飼い主として、人々のことを憐れんだ。 

  耶稣作为羊即人的牧人,怜悯他们。

それは、高い所から見下ろしてかわいそうだなと思ったということではない。 

  这并不是说神高高在上,觉得人好可怜。

「憐れむ」という言葉は「内臓」という言葉が元になっている。 

  “怜悯”一词原来是“内脏”的意思。

イエスにとっては人々の苦しみが自分の苦しみなのである。 

  在耶稣看来,人的苦难就是他自己的苦难。

  

 

イエスが今の時代をご覧になられても、同じように思うのではないか。 

  耶稣即使察看如今的时代,也是这么认为吧。

「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」。 

  “百姓困苦流离,如同羊没有牧人一般。”

羊が自分では生きていけないように、人間も一人では生きていくことができない。 

  如同羊无法自己生存那般,人也不能一个人生存下去。

人間は自分が他の生き物よりも強いと思っているが、たった一人取り残されてしまったら、人間らしく生きることはできない。 

  人自认为比其他生物强,但是如果只留下一个人的话,就没办法向人那样活着。

むしろ、人間は一人で生きていくことを求めない。 

  更何况人也不希望一个人生存下去。

人が集まって、言葉でやり取りをして、心を通わせて、集団で生きている。 

  人们聚在一起,相互交流,心灵交通,共同生活。

人間は群れで生きる生き物。 

  人是群居动物。

だから、その群れが何によって導かれているのかはとても大切なこと。 

  因此,这群人被什么引领是非常重要的。

しかし、今の時代は10年後にどうなっているのかも分からない時代。 

  可是,如今的时代是一个无法知晓十年以后会变成什么样的时代。

何に導かれているのか分からない時代。 

  是一个不知道被什么所引领的时代。

別に神でなくても、他の時代の人たちでも、今の時代の人たちを見たら、「弱り果て、打ちひしがれている」と言うだろう。 

  就算不是神,其他时代的人看如今这时代的人,也会说“困苦流离”吧。

  

 

そのような時、イエスはなにをなさるか。 

  那时候,耶稣做了什么呢?

弟子たちに言った。 

  对门徒说:

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。 

  “要收的庄稼多,作工的人少。所以你们当求庄稼的主,打发工人出去收他的庄稼。”

「収穫」とは何か。 

  “收庄稼”是指什么呢?

値打ちのあるものを集めること。 

  是指把有价值的东西集中起来。

どこに集めるのか。 

  集中到哪里去呢?

神の元に。 

  神那里。

そうして、神にその人たちの羊飼いになっていただく。 

  那样神就可以变成那些人的牧羊人。

  

 

ただ、そうなるためには働き手が必要になる。 

  不过,要这样的话必须要有干活的人。

働き手が多くなるほど、集められる人は増える。 

  干活的人越多,集中的人就会增多。

そのためにイエスは十二人の弟子を呼んだ。 

  为此,耶稣呼召十二门徒。

私たちもイエスの弟子だが、弟子というのは、「収穫のための働き手」。 

  我们也是耶稣的门徒,所谓门徒就是指“为收庄稼而干活的人”。

そしてそれは、自分の力で働けということではない。 

  这不是单靠自己来做。

イエスは十二人の弟子に「汚れた霊に対する権能をお授けになった」。 

  耶稣教给十二门徒“驱逐污鬼的权柄”。

「弱り果て、打ちひしがれている」状態は、イエスとしては、「汚れた霊」に支配されている状態。 

  “受打压,软弱无助”的状态,在耶稣看来,是被“污鬼”支配的状态。

「あらゆる病気や患いをいやす」とあるが、「弱り果て、打ちひしがれている」のは、私たちはこういう世の中だから仕方がないと思っていたとしても、イエスとしては、「病気」の状態。 

  “受打压,软弱无助”虽然我们会觉得身处这样的世道没有办法,但是在耶稣看来这是“生病”的状态,所以“医治各样的病症”。

その状態を直す権能が与えられる。 

  授予门徒改变这种状态的权柄。

「汚れた霊に対する権能」と言われていることから分かるように、神の権能が与えられるということ。 

  “驱逐污鬼的权柄”就能明白,是赐予了神的权柄。

神の力が働く。 

  神的大能在做工。

そして、派遣される。 

  并且委派人。

  

 

「収穫のための働き手」は自分から手を挙げて自分でなるのではない。 

  “收庄稼的工人”不是自己举手就能成。

イエスから任命される。 

  是耶稣任命的。

そして、人間の力で働くのではない。 

  而且不是靠人的力量去做的。

神の力がその人に働く。 

  神的大能做工在人的身上。

そして、派遣される。 

  所以是委派。

イエスによって。 

  被耶稣委派。

「収穫のための働き手」ということにおいて、人間のものは何もない。 

  “收庄稼的工人”,就是说没有任何人的东西。

すべて、イエスの働き。 

  一切都是耶稣的做工。

私たちもイエスの弟子として、そのような働きへと召されている。 

  我们也是作为耶稣的门徒,被呼召要像那样去劳作。

そして、その「収穫は多い」ということが約束されている。 

  并且约定了“要收的庄稼多”。

神様の元に招かれている人は私たちの周りにたくさんいる。 

  我们身边有很多被神邀请到他身边去的人。

その人のところに、私たちは遣わされていく。 

  我们被委派到那些人那里去。

  

 

10章2節で弟子たちのことが「使徒」と呼ばれているが、「使徒」とは原文では「遣わされた者」という言葉。 

  10章2节,门徒被称作“使徒”,“使徒”在原文中是“被委派者”的意思。

ただ、その十二人は特別な人たちだったわけではない。 

  不过这十二人并不是什么特别的人。

十二人の中には聖書の専門家は一人もいない。 

  十二人中没有一人是研究圣经的专家。

それでよい。 

  这就好。

神の力が働くから。 

  因为神的大能会做工。

ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは漁師。 

  彼得和安得烈、雅各和约翰,他们是渔夫。

マタイは徴税人。 

  马太是税吏。

神の民イスラエルを支配しているローマ帝国のために働いている人。 

  是为统治神的子民以色列人的罗马帝国而工作的人。

そんな人も選んだ。 

  这样的人都选了。

熱心党というのは過激派。 

  所谓热心党就是过激派。

ローマ帝国の支配を打ち倒すためにテロを行っていた人。 

  为推翻罗马帝国的统治而进行恐怖活动的人。

そんな人も選んだ。 

  这样的人也选了。

熱心党のシモンと徴税人マタイは人間的には絶対に仲良くできなかった人たち。 

  热心党的西门和税吏马太,从人的角度,是绝对不可能成为朋友的人。

神の力は人間の思いを超えて働く。 

  神的大能做工超出人的思维。

そして、ユダ。 

  还有犹大。

ユダを選ぶということは、十字架の死を受け入れるということ。 

  选犹大,就是要接受十字架的受死。

イエスは、ご自分の命よりも、「弱り果て、打ちひしがれている」人を助けることを大事にしておられる。 

  比起自己的生命,耶稣把帮助“受打压软弱无助”的人看得更为重要。

ご自分が命を失っても、人に命を与えたい。 

  即使丢了自己的性命,也要赐予人生命。

この中に「弱り果て、打ちひしがれている」人がいたら、イエスに心を向けてほしい。 

  如果有人“备受打压,软弱无助”的话,希望他的心能够转向耶稣。

また、私たちは皆、「弱り果て、打ちひしがれている」人のために神の力をいただいて、ここから遣わされていく。 

  另外我们大家都是为了“备受打压,软弱无助的人,得了神的大能,从这里被委派出去。

多くの人が、何に従えば良いのか分からなくて、自分を養ってくれるものも持たなくて、「弱り果て、打ちひしがれている」。 

  大多数人不知道跟从什么为好,没有养活自己的东西,“困苦流离”。

私たちはその人たちのところに遣わされる。 

  我们被委派到那些人那里去。

何をすればよいのかは考えなくて良い。 

  无需考虑如何做好。

イエスが私たち遣わす時は、神の力が働く時。 

  耶稣委派我们的时候,就是神的大能做工的时候。

神の力はもう、私たちに働いている。 

  神的大能已经做工在我们身上。

だから私たちはここにいる。 

  所以我们聚在这里。

イエスに呼ばれた。 

  是受耶稣的呼召。

弟子たちも、同じ。 

  门徒们也是如此。

弟子になる時、イエスに呼ばれた。 

  成为门徒的时候,是受耶稣的呼召。

そして今日、もう一度、イエスは弟子たちを私たちを呼ぶ。 

  而今天,耶稣又一次呼召门徒,呼召我们。

神の力が私たちに働く。 

  神的大能做工在我们身上。

そして、派遣される。 

  而且委派我们。

「収穫は多い」。 

  “要收的庄稼多”。

神は、多くの人に神の力を現わしてくださる。 

  神要向很多人显现神的大能。