
新約聖書・ヨハネによる福音書3章5節から8節
5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
新しい一年を、新しく。
「新しく生まれなさい」。
生まれ変わりたい気持ちは、皆どこかにある。
今の自分に完全に納得している人はあまりいないだろう。
もし今の自分に完全に納得していたら、望むこと、願うこともないはず。
そういう人はあまりいない。
しかし、今日の話はそういうことを言っているわけではない。
神の国に入るには、という話をしている。
聖書では神という言葉は天という言葉と同じ。
神の国とは一般的な言葉で言うと天国。
天国に入るには新しく生まれなければならないと言っている。
天国というと、死んでから行くところだと思われているが、イエスは、生きている間に新しく生まれた人が入るところだと言っている。
生きている間に入るところ。
生きている間に、もっと素晴らしい生き方ができる。
しかし、そのためには新しく生まれなければならない。
霊によって生まれる必要がある。
しかし、霊によって生まれるとはどういうことなのか。
とにかく、今のままでは望みがない。
6節「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。
私たちは肉から生まれたことに間違いはない。
「肉は肉で、霊は霊だ」と、並べられて言われているのは、肉と霊とは全く別物ということ。
だとしたら、私たちの望みはどこにあるのか。
5節に「水と霊とによって生まれなければならない」とある。
水は聖書ではまず、罪を洗い清めるもの。
ノアの箱舟の大洪水。
そうして罪を洗い清められた時に神の霊が降る。
そうなると、新しく生まれるために私たちの側でできることは何もないということになる。
私たちは、ただ待つだけなのか。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(8節)。
風という言葉は霊とも訳すことができる。
音という言葉は声とも訳すことができる。
「霊は思いのままに動く。あなた方はその声を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」。
霊の声は聞くことができる。
神の霊が私たちに語りかける声を聞くことができる。
超能力ではない。
「霊から生まれた者も皆そのとおりである」。
私たちは、人と話す中で神の声を聞くことがある。
全てを理解することはできなくても、声は聞ける。
何より、「霊から生まれた者」とはまずキリストのこと。
キリストの言葉に聞くこと。
聖書を読むこと。
キリストは肉から霊への架け橋となった。
罪から神への架け橋となった。
望みのないはずのところに橋を架けてくださった。
私たちに天国に入ってほしいから。
神様と一緒に生きて行ってほしいから。
この世の現実に支配されて苦しめられる生き方はしてほしくない。
そのために、キリストは神の子であるのに、私たちのところに来てくださった。
私たちに何かたいそうなことをしろと言うのではない。
私があなたを新しくする。
あなたが肉の人であるところから、あなたを霊の人にする。
まずその声を、しっかりと聞きたい。
キリストは私たちを本当の意味で立ち上がらせようとしておられる。