今週の説教「予告」(マタイによる福音書10章16節から25節)

第12回 チャリティー・演劇

 

2020年2月21日(金)19時から・22日(土)13時から

(開場30分前・上演時間45分間)

 

『お水のゆくえ』

 

作:能登千春 演出:斉藤可南子

舞台は難民キャンプ。そこで布教とボランティア活動をしている宣教師夫婦の元に、妻の妹である日本人女性がやって来る。彼女は訳あって日本にいられなくなったのだが、自分のミスで姉を死なせ、同時にキャンプの命とも言えるポンプも失ってしまう。四面楚歌の中、彼女のとった行動は?

 

兎団 練馬区を拠点に活動する劇団。80年代の、一番イキがいい小劇場に触れてきた経験を活かし、想像力全開で観る、映像には代えられない演劇を作り続けている。

 

劇団問合せ先

oukaissou@yahoo.co.jp

080-3323-9944

https://usagidan.amebaownd.com/

 

本イベントの利益はすべて福祉施設に寄付いたします。

皆様の善意に深く感謝いたします。

予約800円 ・ 当日1,000円 ・ 小学生以下500

 

【会場・お問い合わせ先】

光が丘キリスト教会

03-3577-1044

練馬区春日町4-37-26

📨info@shining-hill.org

ホームページhttp://www.shining-hill.org

ホームページ内に過去の演劇上演動画があります。

マタイによる福音書10章16節から25節 

  马太福音10章16节-25节

16「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。 17人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 18また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。19引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。20実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。21兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。22また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。23一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。 24弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。25弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」 

  “我差你们去,如同羊进入狼群,所以你们要灵巧像蛇,驯良像鸽子。你们要防备人,因为他们要把你们交给公会,也要在会堂里鞭打你们;并且你们要为我的缘故被送到诸侯君王面前,对他们和外邦人作见证。你们被交的时候,不要思虑怎样说话,或说什么话。到那时候,必赐给你们当说的话,因为不是你们自己说的,乃是你们父的灵在你们里头说的。弟兄要把弟兄,父亲要把儿子,送到死地;儿女要与父母为敌,害死他们。并且你们要为我的名被众人恨恶,惟有忍耐到底的必然得救。有人在这城里逼迫你们,就逃到那城里去。我实在告诉你们,以色列的城邑你们还没有走遍,人子就到了。学生不能高过先生,仆人不能高过主人。学生和先生一样,仆人和主人一样,也就罢了。人既骂家主是别西卜,何况他的家人呢?

  

 

小咄を一つ。 

  一个小故事。

一人の人が髪と髭を整えるために床屋へ行きました。 

  有一个人要修剪头发和胡子,去了理发店。

床屋が作業にかかると、彼らは会話をはじめ、様々なことについて興味深く話し合った。 

  剪头发的时候,他们聊了起来,各种事情都很感兴趣,聊得很投机。

とうとう、彼らは神の存在について触れたとき、床屋は言った。 

  终于聊到神是否存在的时候,剪头发的师傅说:

「俺は神の存在なんて信じないね。」 

  “我不相信神的存在。

「どうしてだい?」客は尋ねた。 

  客人问到:“为什么呢?”

「そうだな、出て行ってすぐ通りを見てみなよ、神なんていないってわかるさ。もし神がいるなら、どうしてそんなに多くの病んだヤツらがいるんだい。孤児だらけじゃないか。もし神がいるなら、悲しみも痛みもないんじゃないのかい。愛の神なら、どうしてこんな状況を放っておくのか俺には分からないね。」 

  “出去看看四周就明白没有神。如果有神的话,为什么有那么多生病的人,孤儿遍地不是吗?如果有神的话,就不会有悲伤与痛苦了。我搞不懂,爱人的神,为什么不管这些呢?”

客はしばらく考えたが、応えることはしなかった。彼は言い争いを始めたくはなかったからだ。 

  客人思考了下,没有回答。他不想争吵起来。

床屋が彼の仕事を終え、客は店を出た。ちょうど彼が床屋を去った後、彼はくしゃくしゃで汚い長髪と髭の男を通りで見かけた。 

  理发师完成了他的工作,客人就走出了店。正好在他走出理发店后,他看到一个头发很长蓬头垢面脏兮兮的男的经过。

彼は汚く、手入れしてなく見えた。客は振り返って、また店に入り、床屋に言った。 

  他看起来很脏,没打理过自己。客人回头又进了店,对理发师说:

「あのさ、この世に床屋なんていないだろ」 

  “那啥,这世上没有理发的吧?

「何言ってるんだ?」床屋は驚いて尋ねた。 

  “说什么呢?”理发师很惊讶地问到。

「俺がここにいるだろ、俺は床屋だ。たった今お前の髪を切ったばかりだろ。」 

  “我在这呢,我就是理发的。刚剪过你的头发。”

「違うね」客は説明した。 

  “不对”,客人说明到:

「床屋は存在しない。なぜなら、もし床屋がいるなら、この世に汚い髪と髭の人なんていないはずさ、あの外の男のようなね。」 

  “不存在理发师。为什么这么说呢?如果有理发师的话,这世上应该不会有像外面那个头发胡子都脏兮兮的人了。”

「床屋はいるだろ。それはそいつが俺のところに来ないから起こるんだよ。」 

  “理发师当然有。那是因为那家伙不来我这里才这样的。”

「そのとおり!」客は賛同した。 

  “就是这么回事!”客人赞同道。

「問題はそれさ。神も同じく、存在するんだ。人々が神に助けを求めないから、この世に多くの痛みと悲しみがあるのさ。」(作者不詳) 

  “问题就在这。神也是一样存在的。因为人们不求助神,所以这世上有那么多的苦痛和伤悲。” (作者不詳)

  

 

物の見方を変えなければいけないことというのはある。 

  必须要改变对事物的看法。

ある考え方をすれば、神はいない、しかし、別の考え方をすれば、神はいる。 

  某种思考方式觉得没有神,如果换另外的思考方式,就有神了。

イエスは弟子を遣わす。 

  耶稣差门徒去。

それは、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(16節)。 

  这是“如同羊进入狼群”(16节)。

行ったら大変なことになる。 

  去的话会有大麻烦。

相手のためにしているのに、相手はそれを理解しない。 

  虽然是为了那些人,然而他们却不理解。

理解しないどころかこちらの命まで危ない。 

  岂止是不理解,甚至连命都要搭上。

何しろ、自分は羊で、相手は狼……。 

  因为自己是羊,对方是狼……

  

 

不思議なこと。 

  这里有点搞不明白了。

イエスが弟子を遣わすのは、人々が「飼い主のいない羊」(9章36節)のように弱っていたから。 

  耶稣差门徒去,是因为人们如同“没有牧人的羊”一般软弱。

イエス自身がそう言っていた。 

  耶稣自己这么说的。

今日のところでは全然違う話。 

  今天的内容完全相反。

人々は弱っている羊ではなく、狼。 

  人们不是软弱的羊,是狼。

羊は、弟子たちの方。 

  门徒是羊。

  

 

イエスは何を言おうとしているのか。 

  耶稣想要说什么呢?

イエスの目には、人間は羊。 

  在耶稣眼里,百姓是羊。

羊が一人では生きていけないように、人も一人では生きていけない。 

  如同羊不能独自生存一般,人也无法一个人生活。

羊飼いが必要だし、羊飼いがいないから弱っている。 

  必须要牧人,因为没有牧人所以软弱。

これが一つの考え方。 

  这是一种想法。

  

 

しかし、世の中の人は自分が弱っているとは思っていない。 

  可是,世人不觉得自己是软弱的。

あるいは、弱っていることを認めない。 

  或者说,不承认自己软弱。

これでいいんだ。 

  没有问题。

自分は自分一人の力で生きていくんだ。 

  可以凭自己的力量生存下去。

これが当たり前なんだ。 

  这是自然的。

そういうものなんだ。 

  就是这样的。

どれだけ苦しい時でも神を求めることはしない。 

  不管多么痛苦,也不求告神。

羊飼いが必要だと思っていない。 

  觉得不需要牧羊人。

そういう考え方しかできない。 

  只是这种想法。

世の中の人は、自分が羊であることを忘れている。 

  世间的人,忘记了自己是羊。

だから、イエスの弟子たちがやって来ても、受け入れない。 

  因此,即使耶稣的门徒来,也不接受。

お前は私を羊だと言うのか、と怒り出すかもしれない。 

  你们说我是羊?或许会很生气。

そして、弟子たちを傷つけるかもしれない。 

  而且可能会伤害门徒。

こうなると、狼。 

  这样的话他们就是狼了。

本当は羊なのに、やっていることは狼。 

  原本是羊,然而所做的却像狼。

イエスは人々をそういうふうにも見ておられる。 

  耶稣也这样看百姓。

イエスが「羊の皮をかぶった狼」というたとえ話をしたことがあったが、今日の話はその逆。 

  耶稣说过“披着羊皮的狼”的话题,今天的内容相反。

「狼の皮をかぶった羊」の話。 

  “披着狼皮的羊”。

本当は疲れて弱ってしまっているのに、それに気づかない、それを認めない。 

  明明又累又弱,却没有意识到,不承认这一点。

そのまま一人で生きていこうとしている。 

  就这样想要自己一个人活下去。

自己責任で。 

  自己负责。

自分を認めることの、何と大変なことか。 

  认同自己,是多么严重的事啊。

そう考えると、私たちの中にも、狼の皮をかぶった羊がいるかもしれない。 

  这样想的话,我们中间,或许也有披着狼皮的羊。

  

 

しかし、羊が狼の皮をかぶっても、何かいいことがあるだろうか。 

  可是,羊就算披上了狼皮,又有什么好的呢?

狼が羊の皮をかぶるという話をイエスがしたことがあったが、それだと利益がある。 

  耶稣讲过狼披羊皮是有利可图的。

狼が羊の皮をかぶったら、相手をだますことができる。 

  狼披上羊皮的话,就可以欺骗对方。

しかし、羊が狼の皮をかぶっても、弱ってしまうだけ。 

  可是羊就算披上了狼皮,也只是软弱。

イエスはそのように世の中の人を見ておられる。 

  耶稣如此看世人。

だから、イエスは弟子たちを遣わす。 

  因此,耶稣差遣门徒去。

神を求めない人のところに、人を派遣する。 

  差人到不求告神的那些人那里去。

求めないから、ということであきらめない。 

  因为不呼求,所以不能放弃。

求めない人のところにも人を送る。 

  连不呼求的人那里也要派去。

その点では、最初の床屋の話よりも、今日のイエスの話の方が深い。 

  这一点比起一开始理发师的故事,今天耶稣的更加深刻。

床屋の話では、世の中に苦しみがあるのは、人々が神を求めないからだ、ということだった。 

  理发师的故事中,世间有苦难是因为人们不求告神。

それはイエスの考え方でもそう。 

  这一点耶稣也是这么认为的。

ただ、そこからもう一歩進んで、今日のイエスの話では、苦しみがあるのは、まだ人が送られていないから。 

  不过,从这里更进一步,今天耶稣的故事中,有苦难是因为还没有差人去。

その、送られる人は私たちの中の誰かかもしれない。 

  这被派去的人可能是我们中间的一个。

  

 

心を決めて行かなければならない。 

  下定决心必须要去。

「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16節)。 

  “所以你们要灵巧像蛇,驯良像鸽子。”(16节)

蛇のように「賢く」は「注意深く」とも訳すことができる言葉。 

  “灵巧”像蛇,也可以翻译成“高度小心”。

イエスは弟子の知恵には期待していない。 

  耶稣对门徒的智慧没什么大期待。

19節、20節を見ると、あなたは何も考えなくていいと言われている。 

  19、20节,说到不要思虑。

何も考えなくても、神の霊が語ってくださる。 

  什么都不用考虑,神的灵会说话。

ただ、17節で、人々を警戒しなさいと言われていた。 

  不过在17节说要防备人。

人々が弟子を捕まえて裁判所に連れて行くから。 

  因为人们会把门徒交给公会。

その意味で、注意深くなければならない。 

  因为这层意思,所以必须要高度小心。

注意深く人を見分けなければならない。 

  必须要特别小心,注意分辨人。

ただ、疑ってばかりでは何もできない。 

  不过,一个劲怀疑的话什么都做不了。

神様を信じて、神様の守りと導きを求めて歩む。 

  相信神,求神的保守和引领前去。

それが「鳩のような素直さ」。 

  这就是“驯良像鸽子”。

  

 

私たちもそうありたい。 

  我们也要如此。

私たちも、世の中の人の中にいる。 

  我们也身处于世人当中。

それは、イエス様の目には、「狼の皮をかぶった羊」と私たち「羊」が一緒に暮らしているということ。 

  这在耶稣眼里,就是“披着狼皮的羊”和我们这些“羊”在一起生活。

こちらの考えを分かってもらえないこと、受け入れてもらえないこと、それどころか攻撃されることも、普通にいくらでもあること。 

  不明白这种想法,不接受,甚至遭受攻击,再普遍不过,要多少有多少。

そこでイエスは、自分も狼になって相手を攻撃しろとは言わない。 

  可是耶稣没有说自己也要变作狼去攻击他们。

注意深く、相手を見なさい。 

  高度小心,看清对方。

注意深く、危険を避けなさい。 

  高度小心,避开危险。

ただ、本当に大変なことになっても、神の霊があなたを助ける。 

  不过,真有大事的话,神的灵会救助你。

  

 

その後のところでも、大変なことが言われている。 

  后面的内容也说到了很严峻的情况。

「わたしの名のために」と言われているが、イエスを信じることで、家族の間でも大変なことが起こる。 

  说到“为我的名”,就是因为信耶稣,在家人中也会引发大事。

それどころか、「あなたがたはすべての人に憎まれる」。 

  岂止如此,“你们要被众人憎恨”。

弟子たちは、そこまで憎まれたわけではない。 

  门徒不至于被人恨到如此地步。

ただ、私たちは、イエスに従っているのに苦しむことがあると、あってはならないことが起こったように思ってしまう。 

  不过,我们要是因为跟随耶稣而受苦,那会是意想不到的事。

しかし、イエスに従う時には必ず苦しみを受けるものなのだ、とイエスは言っている。 

  可是耶稣说跟随他必定会受苦。

「狼の皮をかぶった羊」のところに「羊」が行くのだから。 

  因为“羊”要去“披着狼皮的羊”那里。

苦しまないはずはない。 

  不可能不受苦。

それなのにどうしてイエスは私たちを「狼の皮をかぶった羊」のところに行かせるのか。 

  那么耶稣为什么要让我们去“披着狼皮的羊”那里去呢?

私たちを通して人を助けたいから。 

  因为想要通过我们去帮助那些人。

  

 

そして、私たちがイエスに従って働くときには、イエスは私たちを放っておかない。 

  而且,我们跟从耶稣做工的时候,耶稣不会放任我们不管的。

私たちは羊。 

  我们是羊。

羊には羊飼いが必要。 

  羊需要牧人。

羊飼いイエスは私たちを守ってくださる。 

  牧人耶稣会保守我们。

「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という約束。 

  约定了“忍耐到底的必然得救“。

耐え忍ぶ、というのは、苦しみつづけなさいということではない。 

  忍耐不是说苦难不断。

ある場所で神様の働きをして、でもそれが受け入れられないんだったら、他の場所に移ってもいい。 

  在某处为神做工,但是如果不被接受的话,可以去其它地方。

そして、私たちが予定していたことを終える前に、「人の子は来る」。 

  并且在我们完成所定之事之前,“人子会来”。

「人の子」は「私」という意味にもなる言葉。 

  “人子”也的是“我的意思。

イエスが来てくださる。 

  耶稣会来。

私たちがイエスから与えられた仕事を終える前に、イエスが来てくださる。 

  在我们完成耶稣交给的工作之前,耶稣会来。

完成させてくださる。 

  让事完成。

  

 

イエスは師、私たちは弟子。 

  耶稣是老师,我们是门徒。

イエスは神の元から来られた。 

  耶稣从神那里来。

それはもう、人の間で苦しめられた。 

  这已经是因人而受苦了。

だったら、私たちも苦しむ。 

  所以我们也要受苦。

「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」(25節)。 

  “人既骂家主是别西卜,何况他的家人呢?”(25节)

ベルゼブルは悪霊の頭。 

  别西卜是鬼王。

イエスはそう呼ばれることもあった。 

  耶稣也被这么叫过。

だとしたら、私たちもそう言われる。 

 这样的话,我们也会被这么叫。

ここでイエスは私たちのことを「家族の者」と呼んでくださっている。 

  这里耶稣把我们称为“家人”。

弟子は家族。 

  门徒是家人。

イエスは私たちをご自分よりも下の者だとは見ておられない。 

  耶稣不把我们看作比他自己低下的人。

家族として扱ってくださる。 

  而是当作家人对待。

考えてみれば、イエスこそ、狼の群れの中を歩んだ羊。 

  仔细想想,耶稣才是走在狼群中的羊。

だから、私たちがイエスに従って狼の群れの中で苦しむ時、イエスが私たちを放っておくはずはない。 

  所以,我们跟随耶稣在狼群中受苦的时候,耶稣不可能丢下我们的。

今日の話は恐ろしい話だが、あなたがたはそういう目にあうけれども、私イエスがあなたがたを守るという話。 

  今天的内容虽然有点令人害怕,你们虽然会有这样的遭遇,我耶稣会保守你们,是这信息。

「狼の皮をかぶった羊」のためにも働いてくださるイエスが、羊のために働いてくださらないはずはない。 

  “披着狼皮的羊”做工的耶稣,不可能不为羊做工的。

もしかすると、私たちの心の中にも、どこか一部分、狼の皮をかぶっている部分があるかもしれない。 

  或许我们的心中也有一部分是披着狼皮的。

でも、大丈夫。 

  但是不要紧。

その私たちのところに、イエスが来てくださる。 

  耶稣会来到我们这里。

私たちはそう信じていい。 

  我们只要如此相信就行。

イエスに対して、「鳩のように素直に」なろう。 

对于耶稣,要“驯良像鸽子”。