今週の説教「平和があるように」(新約聖書・マタイによる福音書10章5節から15節に基づくメッセージ)

第12回 チャリティー・演劇

 

2020年2月21日(金)19時から・22日(土)13時から

(開場30分前・上演時間45分間)

 

『お水のゆくえ』

 

作:能登千春 演出:斉藤可南子

舞台は難民キャンプ。そこで布教とボランティア活動をしている宣教師夫婦の元に、妻の妹である日本人女性がやって来る。彼女は訳あって日本にいられなくなったのだが、自分のミスで姉を死なせ、同時にキャンプの命とも言えるポンプも失ってしまう。四面楚歌の中、彼女のとった行動は?

 

兎団 練馬区を拠点に活動する劇団。80年代の、一番イキがいい小劇場に触れてきた経験を活かし、想像力全開で観る、映像には代えられない演劇を作り続けている。

 

劇団問合せ先

oukaissou@yahoo.co.jp

080-3323-9944

https://usagidan.amebaownd.com/

 

本イベントの利益はすべて福祉施設に寄付いたします。

皆様の善意に深く感謝いたします。

予約800円 ・ 当日1,000円 ・ 小学生以下500

 

【会場・お問い合わせ先】

光が丘キリスト教会

03-3577-1044

練馬区春日町4-37-26

📨info@shining-hill.org

ホームページhttp://www.shining-hill.org

ホームページ内に過去の演劇上演動画があります。

新約聖書・マタイによる福音書10章5節から15節に基づくメッセージ 

  新约圣经马太福音10章5节-15节

5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」 

  耶稣差这十二个人去,吩咐他们说:“外邦人的路,你们不要走;撒玛利亚人的城,你们不要进。宁可往以色列家迷失的羊那里去。随走随传,说‘天国近了!’医治病人,叫死人复活,叫长大麻风的洁净,把鬼赶出去。你们白白地得来,也要白白地舍去。腰带里不要带金银铜钱。行路不要带口袋,不要带两件褂子,也不要带鞋和拐杖,因为工人得饮食是应当的。你们无论进哪一城,哪一村,要打听那里谁是好人,就住在他家,直住到走的时候。进他家里去,要请他的安。那家若配得平安,你们所求的平安就必临到那家;若不配得,你们所求的平安仍归你们。凡不接待你们、不听你们话的人,你们离开那家或是那城的时候,就把脚上的尘土剁下去。我实在告诉你们,当审判的日子,所多玛和蛾摩拉所受的,比那城还容易受呢!

  

 

  

 

十二人。 

  十二个人

イエスに選ばれた。 

  被耶稣选中了。

「使徒」、原文では「遣わされた者」とも呼ばれる。 

  “使徒”在原文中被称作“被派遣者”。

イエスに選ばれ、イエスに遣わされる。 

  被耶稣拣选,被耶稣委派。

そのために、神の力も与えられている。 

  为此也赐予了神的大能。

8節でイエスは彼らに言う。 

  8节耶稣对他们说:

「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」。 

  “医治病人,叫死人复活,叫长大麻风的洁净,把鬼赶出去。”

こんなことは人間にはできない。 

  这些事人做不到。

神の力の現われ。 

  是神的大能显现。

神の子イエスが行っていたこと。 

  是神子耶稣所行的事。

神の子イエスと同じ力が使徒たちに与えられた。 

  和神子耶稣一样的大能赐给了使徒。

  

 

イエスはここから、本当に大きな仕事を始めようとしておられる。 

  耶稣这里要开始做真正的大事了。

そもそも、どうしてこの時、十二人が選ばれたのか。 

  到底为什么这时候选十二个人呢?

イスラエル人の最初の先祖はアブラハム。 

  以色列人的先祖是亚伯拉罕。

その孫がヤコブという人。 

  其孙子是雅各。

このヤコブという人が、神様からイスラエルという名前をもらった。 

  雅各就是从神那里得了以色列的名字。

そのヤコブには十二人の子どもがいた。 

  这雅各有十二个孩子。

そして、ヤコブの子どもの十二人が神の民イスラエルの十二の部族になっていく。 

  而雅各的十二个孩子组成了神的子民以色列人的十二个部落。

つまり、イエスが十二人の弟子を選んだというのは、この十二人から始まって、新しいイスラエル、新しい神の民を作り出そうとしておられるということ。 

  也就是说,耶稣选十二个门徒,就是要从这十二人开始,重新建立新的以色列,新的神的子民。

だからイエスも、最初はイスラエル人のところに行きなさいと言った。 

  所以耶稣说先要去以色列人那里。

  

 

最初に、ということであって、これはこの時の十二人だけの話ではない。 

  最初是这样的,但这不只是当时十二个人的事。

この後聖書をずっと読んでいくと、他の人たちも派遣されるということが起こってくる。 

  后面的圣经一直读下去的话,其他人也被委派出去了。

後から新しく弟子になった人たちも、派遣されていくということがある。 

  后面成为新门徒的人也被委派出去了。

ただ、聖書を読んでみると、その時には、必ずしも病気を治すとか死んでいる人を生き返らせるということが起こっているわけではない。 

  不过读了圣经的话,会发现在当时,未必就能医治疾病,让死人起死回生。

そもそも病気とは何なのかと言うと、病気はこの時代には、罪の結果だと考えられていた。 

  说起来病原本是指什么呢?生病在那个时代,被认为是罪的结果。

死も同じ。 

  和死一样。

つまり、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」というのは、罪に支配されている人や悪の力に支配されている人を解放してあげなさいということ。 

  也就是说,“医治病人,叫死人复活,叫长大麻风的洁净,把鬼赶出去”就是把被罪支配的人,被鬼支配的人解救出来。

だから、本当に大事なのはその前の7節の言葉。 

  所以,真正重要的是前面第七节的话语。

「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」。 

  “去宣传说‘天国近了’!”

聖書では天とは神と同じ。 

  圣经中天就等同于神。

国は支配とも訳すことができる言葉。 

  国可以翻译成支配。

神の支配が近づいた。 

  神的支配近了。

もう、罪に支配されて苦しむことはないんだよ。 

  被罪支配的痛苦不会再有了。

神の力が、あなたを、罪の支配から解放する。 

  神的大能把你从罪的支配中解放出来。

あなたは神の支配に入る。 

  你将会进到神的国度。

本当に大事なのは、病気が治ることではなくて、「天の国は近づいた」。 

  真正重要的是,不是病得医治,而是“天国近了”。

  

 

そして、私たちも、それを伝えるようにと言われている。 

  并且说我们也要去宣传。

私たち自身、神の力が私たちに及んで、私たちは新しい神の民になった。 

  我们自己也是,神的大能临到我们,我们成了神新的子民。

そして、私たちも神の力をいただいて派遣されていく。 

  并且我们也得着神的大能,被委派出去。

方法はこの時の十二人とは違うだろう。 

  方法可能和当时的十二人不同。

今の日本では、病気や死が罪の結果だと思っている人はまずいない。 

  如今的日本,可能不会有人觉得生病、死亡是罪的结果。

イスラエルでは常識だったが、今の日本ではそうではない。 

  在以色列这是常识,但在如今的日本并不是。

ただ、私たちは、私たち自身、罪の元にいたところから神の元に呼ばれた者として、人を神の元に招く。 

  不过,我们自己作为被神从罪中呼召出来的人,要邀请人到神那里去。

罪に支配されて苦しんでいる人は、いつの時代、どこの国でもいくらでもいる。 

  被罪支配而受苦的人,不管什么时代什么国家,都有很多。

私たちはその人たちのところに行く。 

  我们到那些人那里去。

  

 

それは大変だと思うかもしれない。 

  或许会觉得这很难。

しかし、8節の最後「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。 

  可是,第8节的最后,“你们白白地得来,也要白白地舍去”。

やってもらったことをしてあげなさい。 

  把所得到的东西施与他人。

見返りを求めないで、してあげなさい。 

  不求回报,要施与。

私たちがイエスからしてもらったと思っていること。 

  把我们认为从耶稣那里得来的东西。

それを今度は自分がする。 

  下次自己也这么做。

できるだろうか。 

  能做到吗?

神の力が及んでいるから大丈夫。 

  因为有神的大能临到所以可以的。

してもらったことをやっていきなさい。 

  将所得的奉献出去。

私たちがしてもらったことは何だろうか。 

  我们所得的是什么呢?

その、神の力が私たちに及ぶ。 

  神的大能临到我们。

私たちがイエスと同じことができるようになる。 

  我们可以变得和耶稣一样。

  

 

9節、10節で、何も持っていくなと言われている。 

  9、第10节说了带什么去。

「ただで与えなさい」と言われていた。 

  “要白白地舍去”。

だとしたら、自分で何か持って行った方が良いはず。 

  这样的话,应该自己带点什么去为好。

それなのに何も持たずに行くのはどうしてか。 

  然而什么都不用带去,为什么呢?

「ただで与えなさい」の「ただで」は「恵みとして」という言葉。 

  “白白地舍去”的“白白”是“恩惠”的意思。

神の恵み。 

  神的恩惠。

神の恵みがまず私たちに与えられた。 

  神的恩惠先赐予了我们。

今度はその恵みを、私たちが与えていく。 

  接下来我们要把这恩惠献出去。

恵みを与える。 

  施与恩惠。

それは神の働き。 

  这就是神的做工。

そうする時には、神からの恵みがまた私たちに与えられる。 

  这样做的时候,从神而来的恩惠还会赐予我们。

恵みを受けた者が、恵みを与えていく。 

  受恩惠者,要把这恩惠献出去。

その働きは神の恵みに支えられるということ。 

  这做工必神的保守。

「働く者が食べ物を受けるのは当然である」とイエスが言っているが、それは、神の働きをする時には神の恵みがあるということを約束してくださっている言葉。 

  耶稣说“工人得饮食是应当的”,这话是指神约定我们为神做工之时,自有神的恩惠。

神の恵みの中で生きて、恵みを広げていく。 

  活在神的恩惠中,将神的恩惠播撒出去。

それが、派遣された者がすること。 

  这是委派者要去做的事。

  

 

ただ、私たちがどこに行くべきかについてはよく考えなければならない。 

  不过我们必须要好好考虑该去哪里。

どこでもいいというわけではない。 

  并不是说哪里都可以。

でもそれも、私たちが一生懸命考えなければならないということではない。 

  但这也不是我们必须要拼命想的。

14節で、「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」と言われている。 

  14节说:“凡不接待你们、不听你们话的人,你们离开那家或是那城的时候,就把脚上的尘土剁下去。

だから、ふさわしい人とふさわしくない人を見分けるのは難しくない。 

  所以,要区分此人合不合适并不难。

自分に対する扱いで分かる。 

  根据对待自己的态度就能明白。

そして、行った先ですることも難しいことではない。 

  并且,所到之处所做的事也并不难。

「平和があるように」とあいさつすること。 

  问候说“愿你平安”。

平和という言葉は、神の恵みを表す言葉。 

  平安一词体现了神的恩惠。

神の恵みがその人にあるようにと伝える。 

  传达说希望神的恩惠临到此人。

何も、深刻な言い方でなくてもいい。 

  不是什么高深的说法也无妨。

これはあいさつの言葉だった。 

  只是问候语。

ということは、それくらいの感じで、短い言葉で、祝福する気持ちが伝わればそれでいい。 

  就是说只要这样的感觉,这么短的话,能传达祝福的心意就好。

それだけで、その「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」。 

  只要这样,“那家若配得平安,你们所求的平安就必临到那家;若不配得,那么所求的平安仍归你们。”

こういう言い方をしているということは、私たちはもう、神の恵み、平和を与えられているということ。 

  如此说法说明我们已经被赐予了神的恩惠和平安。

そしてそれは、人にも与えることができる。 

  而且也可以赐给他人。

難しいことをやるのではない。 

  不是去做什么难事。

ふさわしい場所で、ふさわしい人に対して、神の力が私たちを通して働く。 

  在合适的地方,对合适的人,神的大能通过我们做工。

大事なのは、私たち自身が、神様に与えられた神様の恵みの中に生きているかどうか、ということ。 

  重要的是,我们自己是不是活在神的恩惠中。

ただで受けたと分かっていれば、自然にただで与えることができる。 

  如果明白是白白得来的,就自然能白白地给与。

自分が神の恵みに生かされていると分かっていれば、神の恵みが相手の人にも与えられるように、自然に願う。 

  要是明白自己活在神的恩惠中,自然而然希望神的恩惠也能赐予对方。

私たちは、自分の力で神の恵みを勝ち取ったのではない。 

  我们不是靠自己的力量赢得了神的恩惠。

自分に資格があったから与えられたわけでもない。 

  不是因为自己有资格才被赐予的。

だから、人にも同じ恵みがあるようにと祈ることができる。 

  所以会祈祷他人也能拥有同样的恩惠。

私たちが神の恵みがどれだけ豊かに与えられているかを知っているかどうか。 

  我们是否知道自己被赐予了多么丰盛的恩典。

それがすべて。 

  这是全部。

イエスは私たちにチャレンジしている。 

  耶稣在试问我们。

あなたは、神の恵みの豊かさを知っていますか。 

  你们知道神丰盛的恩典吗?

もし本当に神の恵みを知っていれば、何も持たずに人のところに行って、ただ一言あいさつ程度の話をするだけで、そこにも神の恵みが現れる。 

  如果真知道神丰盛的恩典的话,什么都不用带,去到他人那里,只要说一句问候的话,这就能显现神的恩惠。

まずは、神の恵みを数え上げたい。 

  先要数算神的恩典。

人を通して与えられてきた、神の恵み。 

  通过人所领受的,是神的恩典。

そもそも、命があることがそう。 

  原本生命也是。

ということは、すべて、感謝すべきこと。 

所有一切都该感谢。