3月8日礼拝式

礼拝式次第

 

「ただ今から、礼拝を始めます。

 

招きの言葉。新約聖書、マルコによる福音書1331節。

 

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

 

 

 

「開会の祈りをささげましょう」。

 

「父なる神様。過ぎ去った一週間、私たちには、様々な思い煩いがありました。身も心も疲れ果てるような厳しい戦いがありました。自分の罪を素直に認めることができない恥ずべき日々がありました。そうした思い煩いや罪の故の疲れや、未だにその理由さえわからないこの世の様々な悩みから、すぐにでも解放されたいと切に願い、そこで戦う新たな力を得たいと切に願って、今、私たちは御前に集ってまいりました。今から捧げる礼拝の中で、あなたが、思い煩いや悩みから私たちを解放し、力を与えてくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「罪の告白をいたしましょう。罪が無いというならば自分を偽っています。そして、真理は私たちの内にありません。しかし、罪を告白するならば、真実で正しい神は、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださいます。へりくだりと信仰をもって、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分)

 

 

 

「しばらく目を閉じて、悔い改めと赦しの願いに心を集めましょう。静思の時間をもちます」(40秒)。

 

 

 

「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。

 

一同「アーメン」。

 

 

 

「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。

 

一同「あなたにもありますように」。

 

 

 

「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。

 

「父なる神様。あなたの霊の力によって、私たちの心と思いを開いてください。聖書が朗読され、あなたの御言葉が説き明かされ、宣言される時に、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「詩篇の交読をいたします。本日与えられておりますのは、詩篇141編です。聖書の前の方、旧約聖書の981ページをお開きください。私の方で奇数節をお読みいたしますので、皆様の方で偶数節をお読みください。最後の節はご一緒にお読みしましょう。(5秒待つ)詩篇141編。

 

1【賛歌。ダビデの詩。】主よ、わたしはあなたを呼びます。速やかにわたしに向かい/あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。

 

2わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし/高く上げた手を/夕べの供え物としてお受けください。

 

3主よ、わたしの口に見張りを置き/唇の戸を守ってください。

 

4わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって/悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように。

 

5主に従う人がわたしを打ち/慈しみをもって戒めてくれますように。わたしは油で頭を整えることもしません/彼らの悪のゆえに祈りをささげている間は。

 

6彼らの支配者がことごとく/岩の傍らに投げ落とされますように。彼らはわたしの言葉を聞いて喜んだのです。

 

7「あたかも地を裂き、地を割ったかのように/わたしたちの骨は陰府の口に散らされている。」

 

8主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け/あなたを避けどころとします。わたしの魂をうつろにしないでください。

 

9どうか、わたしをお守りください。わたしに対して仕掛けられた罠に/悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。

 

10主に逆らう者が皆、主の網にかかり/わたしは免れることができますように。」。

 

 

 

「御言葉に聞きましょう。マタイによる福音書1116節から19節です。聖書の後の方、新約聖書の20頁をお開きください。お読みしてから、『まことの知恵』という題で説教をいたします」。

 

 

 

(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。

 

一同「主よ、感謝します」。

 


 

 

「まことの知恵」

 

                            真正的智慧

 

新約聖書・マタイによる福音書1116節から19節に基づくメッセージ

 

  新约马太福音1116-19

 

16今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。17『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、19人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 

  我可用什么比这世代呢?好像孩童坐在街市上招呼同伴,说:‘我们向你们吹笛,你们不跳舞;我们向你们举哀,你们不捶胸。’约翰来了,也不吃,也不喝,人就说他是被鬼附着的;人子来了,也吃也喝,人又说他是贪食好酒的人,是税吏和罪人的朋友。但智慧之子,总以智慧为是。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今の時代」はどのような時代か。

 

  “这世代”是怎样的时代呢?

 

この前の箇所では、洗礼者ヨハネの話。

 

  之前的内容说的是施洗约翰的事。

 

洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を授けて、人の心を神に向けさせた。

 

  施洗约翰给人施洗,让人悔改,心转向神。

 

人が神に向かう時代が始まった。

 

  人转向神的时代开始了。

 

しかし、そうするのは全員ではない。

 

  可是,并非所有人都这样做了。

 

イエスは15節で、「耳のある者は聞きなさい」と言った。

 

  耶稣在15节说“有耳可听的,就应当听。”

 

話を聞いて、一人一人が自分で決断しなければならない。

 

  聆听话语,每个人必须由自己来决断。

 

それが「今の時代」。

 

  这就是“这世代”。

 

 

 

 

 

イエスは例えて言う。

 

  耶稣打比喻说:

 

今の時代は、「広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている」。

 

  如今的时代,“好像孩童坐在街市上招呼同伴”。

 

どう呼びかけるのか。

 

  如何招呼的呢?

 

「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」。

 

  “我们向你们吹笛,你们不跳舞;我们向你们举哀,你们不捶胸。”

 

「笛を吹く」のは結婚式のまねをする遊び。

 

  “吹笛”是模仿结婚仪式来玩。

 

「葬式の歌を歌う」というのも、葬式のまねをする遊び。

 

  “唱丧歌”是玩丧礼的游戏。

 

そして、自分は結婚式のまねをして遊びたいのに、相手が付き合ってくれない。

 

  自己想要玩结婚的仪式,对方却没有奉陪。

 

自分は葬式のまねをして遊びたいのに、相手が付き合ってくれない。

 

  自己想要玩过丧礼,对方却没有配合。

 

自分に合わせてほしいということしか考えない。

 

  只想要人家配合自己。

 

それが今の時代。

 

  这就是如今的时代。

 

 

 

 

 

続きを読むと、「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」とある。

 

  继续读下去,“约翰来了,也不吃,也不喝,人就说他是被鬼附着了;人子来了,也吃也喝,人又说他是贪食好酒的人,是税吏和罪人的朋友。”

 

洗礼者ヨハネは「食べも飲みもしない」。

 

  施洗约翰“不吃也不喝”。

 

断食を大事にしていた。

 

  把禁食看得很重。

 

イエスは飲み食いしていた。

 

  耶稣也吃也喝。

 

パーティーを開くこともあった。

 

  还开派对。

 

ヨハネは葬式らしい。

 

  约翰如办葬礼。

 

イエスは結婚式らしい。

 

  耶稣就像办婚礼。

 

だったら、葬式の遊びをしたい時、悲しい時にヨハネのところに行けばいい。

 

  所以,想玩葬礼,悲伤的时候就去约翰那里。

 

結婚式の遊びをしたい時、喜んでいる時にイエスのところに行けばいい。

 

  想办婚礼,喜乐的时候就去耶稣那里。

 

しかし、ヨハネを批判する。

 

  可是却批判约翰。

 

悪霊に取りつかれている、と。

 

  说是被鬼附着的。

 

イエスも批判する。

 

  还批判耶稣。

 

罪人だ、と。

 

  说是罪人。

 

そして、どちらも受け入れない。

 

  于是,谁都不接受。

 

要は、相手に合わせるということが嫌。

 

  总之,讨厌去应承他人。

 

ヨハネに合わせるのも、イエスに合わせるのも嫌。

 

  即讨厌陪约翰,也讨厌陪耶稣。

 

相手が自分に合わせてほしい。

 

  想要对方来应承自己。

 

それが「今の時代」の人だと言うこと。

 

  这就是“这时代”的人。

 

自分が笛を吹く時に踊ってほしい。

 

  自己吹笛的时候希望有人跳舞。

 

自分が葬式の歌を歌う時に悲しんでほしい。

 

  自己唱丧歌的时候希望有人哀伤。

 

自分中心。

 

  以自我为中心。

 

イエスは「耳のある者は聞きなさい」と言ったが、今の時代には、自分中心で耳のない人たちがたくさんいる、と言っている。

 

  耶稣说“有耳可听的,就应当听”,就是说如今的时代有很多人以自我为中心,不长耳。

 

 

 

 

 

「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」。

 

  “但智慧在行为上显为是。”

 

突然、「知恵」。

 

  突然说到了“智慧”。

 

しかし、「知恵」とはそれ自体働くものではないはず。

 

  可是,“智慧”本身不可为。

 

神の知恵のことを言っている。

 

  说的是神的智慧。

 

神の知恵が、まず最初にヨハネを人々の元に送った。

 

  神的智慧,首先把约翰送到人们那里。

 

人の心を神に向けさせるために。

 

  为了让人心转向神。

 

そして、実際に、ヨハネから洗礼を受けて、神に心を向ける人がたくさん現れてきた。

 

  实际上,有很多人从约翰那里受了洗,归向了神。

 

それがヨハネの働き。

 

  这是约翰的做工。

 

次に、神の知恵がイエスを人々の元に送った。

 

  然后,神的智慧将耶稣送到了人们那里。

 

イエスの働きとは何か。

 

  耶稣的做工是什么呢?

 

「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(5節)。

 

  “瞎子看见,瘸子行走,长大麻风的洁净,聋子听见,死人复活,穷人有福音传给他们。”(第5节)

 

イエスが神の元から来たことは、神の救いの働きが証明している。

 

  耶稣从神而来证明了神的救赎。

 

自分がどうしたいかではなく、イエスがどんな働きをしておられるか。

 

  不是自己想做什么,而是耶稣如何做工。

 

神でなければできない働きを、あなたは見ることになる。

 

  让你看到惟有神才能做成的事。

 

 

 

 

 

人の知恵では思いつかないようなことを、神の知恵は実現する。

 

  神的智慧成就了人的智慧不能想像的事。

 

「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。

 

  “瞎子看见,瘸子行走,长大麻风的洁净,聋子听见,死人复活,穷人有福音传给他们”。

 

これが主の救いの業。

 

  这就是神救赎的大业。

 

イエスは人を救い、福音を告げ知らせている。

 

  耶稣拯救人,传福音给他们。

 

 

 

 


 

(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)

 

 

 

(司式者は1分後に再び講壇に)

 

「主の祈りをささげます。主の祈り。天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」。

 

 

 

(説教者による祝祷)

 

 

 

「報告をいたします。

 

今日は、今日の朝録画した映像で礼拝を守りました。

 

いつもより簡単な礼拝式になりましたが、このような技術があることを主に感謝いたします。

 

明日からもできる限り毎日、10分説教を録画して、2時までには配信したいと思います。

 

御言葉の力が皆さんにあふれますように」。

 

 

 

「それでは、今月の御言葉をご一緒にお読みして、礼拝を閉じましょう。

 

ローマの信徒への手紙55節です。聖書の後の方、新約聖書の279頁をお開きください。

 

今月の御言葉。

 

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 

ローマの信徒への手紙55

 

これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。