3月15日礼拝式

説教「神に立ち返る」

 

                         回到神那里去

マタイによる福音書11章20節から24節 

  马太福音11章20-24节

20それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。21「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。22しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。23また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。24しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」 

  耶稣在诸城中行了许多异能,那些城的人终不悔改,就在那时候责备他们说:“哥拉汛哪,你有祸了!伯赛大啊,你有祸了!因为在你们中间所行的异能,若行在推罗、西顿,他们早已披麻蒙灰悔改了。但我告诉你们,当审判的日子,推罗、西顿所受的比你们还容易受呢!迦百农啊,你已经升到天上,将来必坠落阴间,因为在你那里所行的异能,若行在所多玛,它还可以存到今日。但我告诉你们:当审判的日子,所多玛所受的比你还容易受呢!”

  

 

  

 

イエスが町を叱る。 

  耶稣斥责诸城。

イエスは嵐を叱ったことがあったが、今日は町を叱る。 

  耶稣斥责过暴风雨,这次是斥责诸城。

嵐を叱った時には嵐が静まった。 

  耶稣斥责暴风雨的时候,暴风雨停了。

イエスの言葉には力がある。 

  耶稣的话语中有大能。

神の言葉の力。 

  神话语的大能。

どんなものよりも上にある力。 

  比任何东西都厉害。

だから、町を叱ることもできる。 

  所以可以斥责诸城。

  

 

今日、イエスが叱りつけているのは、悔い改めなかったから。 

  今天斥责是因为不悔改。

「悔い改める」というのは、もともとは「立ち返る」という言葉。 

  “悔改”原来是回归的意思。

神に立ち返る。 

  归向神。

神の元に戻る。 

  回到神那里去。

今までは神を思わずに生きていたが、神の元に戻る、ということ。 

  就是说,至今活着都没想到神,现在要回到神那里去。

  

 

人が神から離れてしまうこと自体が問題だが、イエスは、もともと町の人たちが神から離れてしまっていたことは問題にしていない。 

  人远离神其本身就是个问题,而耶稣并不把城里的人原先远离神看作是问题。

聖書は、人間とはそういうものだと言う。 

  圣经上说人就是这样的。

神から離れて生きていこうとするのが人間。 

  想要离开神而活。

だから、今日、イエスが叱るのは、奇跡が行われたのに神の元に戻ってこなかったということ。 

  因此,今天耶稣斥责是因为行了神迹还不回到神那里去。

奇跡とは、神が生きて働いておられるというしるし。 

  神迹就是神做工的见证。

それを見たのに神の元に帰ってこないから、叱っている。 

  因为看到这却不回到神那里去,所以斥责。

  

 

そして、この奇跡は、嵐を静めたとか病気が治ったというようなことだけを言っているのではない。 

  神迹并不只是让暴风雨平息或者病得医治这样的事。

「奇跡」は原文では、「力ある業」。 

  “奇迹”在原文中是“有大能的做工”。

イエスは、嵐を静めたり病気を治したりしただけではない。 

  耶稣并不只是平息暴风雨、医治疾病。

神の言葉を語った。 

  他讲述神的话语。

神の言葉を人々に伝えた。 

  向人们传讲神的话语。

これも「力ある業」。 

  这也是“有大能的做工”。

これこそ、「力ある業」。 

  这才是“有大能的做工”。

神の言葉を語るからこそ、目に見える形でも奇跡が起きる。 

  讲论神的话语才能行肉眼所能见的神迹。

しかし、人々は悔い改めなかった。 

  可是,人们没有悔改。

結局、神の言葉を聞いても、奇跡を見ても、神に立ち返ることはなかった。 

  结果,即便听了神的话语,见了神迹,依然没有回到神那里去。

その時は喜んでいたかもしれない。 

  当时或许很开心。

しかし、今まで自分が神を思わずに生きていたことを反省して、神の元に戻った人はいなかった。 

  可是却没有人反思自己至今活着都没有想到过神,想要回到神那里去。

  

 

そこで、町を叱る。 

  于是,斥责诸城。

町の名前を挙げて、「不幸だ」。 

  列举诸城的名字,说“有祸了”。

しかし、この「不幸だ」という言葉は、原文にはない。 

  可是,这“有祸了”一词,在原文中是没有的。

原文では、「ああコラジン、ああベトサイダ」。 

  原文中是“哥拉汛哪,伯赛大啊”。

イエスは、この町を不幸にしてやるぞ、と言っているのではない。 

  耶稣没有说让这诸城受祸吧。

イエスはこの町のことを悲しんでいる。 

  耶稣为诸城哀痛。

  

 

そして言う。 

  并且说:

ティルスやシドンの方がまだましだ。 

  推罗、西顿的人要好些。

ティルスやシドンというのは外国。 

  推罗和西顿是外国。

ティルスやシドンの人たちは、聖書を読んだこともなかっただろう。 

  推罗和西顿的人连圣经都没有读过。

しかし、イエスの力ある業を見たり聞いたりしたら、まことの神に心を向けるようになるだろう。 

  可是,他们看到听到耶稣所行的大能,就将心转向了真正的神。

聖書を読んだことがない、まことの神を知らない人たちでも、そうするだろう。 

  即使是没有读过圣经,不知道真正的神,也能如此。

  

 

23節からは、カファルナウムという町を叱る。 

  23节,训斥叫做迦百农的城。

この町は、イエスの弟子のペトロの家があった。 

  耶稣的弟子彼得的家在那城中。

イエスは、この町を中心にして力ある働きを他の町でもしていった。 

  耶稣以这城为中心也在其他城里行大能。

しかし、こう言われる。 

  可是却说:

「お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」。 

  “你已经升到天上,将来必坠落阴间。”

そして、ソドムという町の名前が出てくる。 

  并且还说出了所多玛城的名字。

ソドムの方がまだましだ。 

  所多玛的人要好些。

ソドムというのは聖書の中で一番評判が悪い町。 

  所多玛是圣经中评价最差的城。

全部神に逆らっているような町。 

  全部人都悖逆神的一座城。

聖書を読んだことがない人でも、この町の名前は知っているくらい悪い町。 

  即使没有读过圣经也都知晓的一个罪恶之城。

その町の方がまだましだ。 

  这城的人要好些。

イエスの力ある業を見たら、その町だって悔い改めただろうから。 

  因为如果见了耶稣所行的大能,这城的人会悔改。

  

 

しかし一体、どうしてそうなってしまうのか。 

  可是,到底为什么会这样呢?

コラジンやベトサイダの人は最初から神を知らなくて、神に心を向けることが全然なかったのか。 

  哥拉汛和伯赛大最初不知道神,心完全没有向着神吗?

そんなことは書かれていない。 

  并没有写这等事。

カファルナウムの人はソドムの人のように悪いことばかりやっていたのか。 

  迦百农的人和所多玛人一样尽做坏事吗?

そんなことは書かれていない。 

  也没有写这事。

しかし、イエスは、コラジンやベトサイダよりもティルスやシドンの方がましだ、とはっきり言っている。 

  可是耶稣很明确地说,相比哥拉汛和伯赛大,推罗和西顿的人要好些。

カファルナウムよりもソドムの方がましだとはっきり言っている。 

  比起迦百农,所多玛人要好些。

どうしてか。 

  为什么呢?

  

 

聖書を読んでいるか読んでいないか、ということをイエスが今言いたいのではない。 

  耶稣现在想要说的不是有没有读圣经。

悪いことをたくさんしているかそうでないか、ということを言いたいわけでもない。 

  也不想说是不是做了许多坏事。

大事なのは、悔い改めて、神の元に戻ること。 

  重要的是,悔改,回到神那里去。

その点で、コラジンやベトサイダやカファルナウムは駄目なんだということ。 

  就这点而言,哥拉汛和伯赛大不行。

ではどうして、聖書を知らないわけではないし、そんなに悪いわけでもない人たちが、神から離れてしまって、奇跡を見ても神の元に戻ろうとしないのか。 

  那么为什么那些知晓圣经,并没有那么坏的人要远离神,即使见了神迹也不愿回到神那里去呢?

  

 

私たちは、聖書をよく読んでいることが大事だと思っている。 

  我们觉得经常读圣经是重要的。

悪いことをなるべくしないということも大事だと思っている。 

  认为尽可能不做坏事也是重要的。

もちろんそれは正しい。 

  这当然是对的。

ただ、イエスが今言っているのは、神の元に戻るということ。 

  不过,耶稣现在说的是回到神那里去。

自分が変わるということ。 

  要改变自己。

私たちは、今までの人生の中で、自分が変わることがあった。 

  我们改变一直以来的人生。

それまで知らなかったことを知った時。 

  知晓了一直不知道的事情。

悪いことをしてきたけれども、これは悪いことだと認めた時。 

  虽然做了坏事,如今认识到这是不对的。

そういう時に人は変わる。 

  这样的时候,人就变了。

だから、ティルスやシドンは神に立ち返ることができる。 

  所以,推罗、西顿能归向神。

ソドムは神に立ち返ることができる。 

  所多玛能归向神。

逆に言うと、自分は知っていると思っているところでは、人は変わらない。 

  反而言之,自认为自己知道,是不会有改变的。

自分は悪い人間ではないと思っているところでは、人は変わらない。 

  自认为自己不是坏人,也不会有改变的。

コラジンやベトサイダやカファルナウムは聖書を知っていた。 

  哥拉汛、伯赛大、迦百农的人知晓圣经。

そして、自分がそう悪いものではないと思っていただろう。 

  并且觉得自己并没有那么坏。

だから、イエスが来ても、変われない。 

  所以,即使耶稣来,也没什么改变。

自分が変わるほどのことはないと思ってしまう。 

  认为自己没到要改变的地步。

しかし、イエスの目で見て一番大切なことは、どれだけ今までの自分を変えられて、神の元に立ち返ったか。 

  可是,耶稣看来最为重要的是,有多想要改变自己,回到神那里去。

私たちも、変えていただきたい。 

  我们大家也想要改变。

私たちの力でするのではない。 

  不是靠我们的力量。

ティルスやシドンもソドムも、自分で立ち返るとは言われていない。 

  没有说推罗、西顿、所多玛的人是自己归向神的。

イエスの力ある業を見て、立ち返る。 

  见了耶稣所行的大能,归向了神。

イエスの御言葉と御業で立ち返る。 

  因着耶稣的话语和做工归向了神。

イエスが私たちを立ち返らせてくださる。 

  耶稣会让我们回归。

私たちが何も知らなくても、悪い者であったとしても、イエスが私を立ち返らせる。 

  即使我们什么都不知道,是坏人,耶稣也让我们回归。

そのことに心を向けたい。 

  希望大家留意这一点。

私たちは神の元に戻ることができる。 

  我们可以回到神那里去。

イエスはティルスでもシドンでもソドムでも立ち返らせるのだから。 

  因为耶稣让推罗、西顿的人都回归了。

神の言葉を聞かせていただこう。 

  让我们倾听神的话语。

神の働きを見させていただこう。 

  让我们眼见神的做工。

イエスは必ず、私たちを神の元に完全に取り戻してくださる。 

耶稣一定会让我们完完整整地回到神那里去。

礼拝式次第

 

「ただ今から、礼拝を始めます。

 

招きの言葉。新約聖書、マルコによる福音書1331節。

 

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

 

 

 

「開会の祈りをささげましょう」。

 

「父なる神様。過ぎ去った一週間、私たちには、様々な思い煩いがありました。身も心も疲れ果てるような厳しい戦いがありました。自分の罪を素直に認めることができない恥ずべき日々がありました。そうした思い煩いや罪の故の疲れや、未だにその理由さえわからないこの世の様々な悩みから、すぐにでも解放されたいと切に願い、そこで戦う新たな力を得たいと切に願って、今、私たちは御前に集ってまいりました。今から捧げる礼拝の中で、あなたが、思い煩いや悩みから私たちを解放し、力を与えてくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「罪の告白をいたしましょう。罪が無いというならば自分を偽っています。そして、真理は私たちの内にありません。しかし、罪を告白するならば、真実で正しい神は、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださいます。へりくだりと信仰をもって、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分)

 

 

 

「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。

 

一同「アーメン」。

 

 

 

「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。

 

一同「あなたにもありますように」。

 

 

 

「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。

 

「父なる神様。あなたの霊の力によって、私たちの心と思いを開いてください。聖書が朗読され、あなたの御言葉が説き明かされ、宣言される時に、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「御言葉に聞きましょう。マタイによる福音書1120節から24節です。聖書の後の方、新約聖書の20頁をお開きください。お読みしてから、『神に立ち返る』という題で説教をいたします」。

 

 

 

(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。

 

一同「主よ、感謝します」。

 

 

 

(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)

 

 

 

「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。

 

(献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は封筒だけでも構いません)

 

献金のご奉仕を金谷閠子長老にお願いいたします。献金をおささげした後に、金谷閠子長老にお祈りしていただきます」。

 

 

 

(説教者による祝祷)

 

 

 

「本日は、平和のあいさつに代えて、祈りの時を持ちたいと思います。

 

週報に従って報告をいたします。週報裏面の光が丘ニュースをお読みいたします」。

 

 

 

(光が丘ニュースの最後に)

 

(「欠席の連絡をいたします」。)

 

「何かご連絡のある方はいらっしゃいますでしょうか」。

 

 

 

礼拝が終わりましたら、次の礼拝の準備と教会内の清掃と換気を教会役員で行いますので、どうぞ皆さま、なるべくお早めにお帰りいただけますよう、ご協力をお願いいたします。

 

 

 

これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。