
礼拝式次第
前奏(CD)
「ただ今から、礼拝を始めます。招きの言葉。新約聖書、マルコによる福音書13章31節。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。
「開会の祈りをささげましょう」。
「神様。私たちは今、あなたと出会いたいと願ってここに集まっています。どうぞ今、私たちのところにいらしてください。あなたの御心に触れさせてください。あなたの光を与えてください。私たちが、この世の暗闇の中でも、道を間違えることのないように、あなたが今、私たちを照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
「罪の告白をいたしましょう。私たちは皆、神の前には罪ある者、神に逆らう者です。しかし、罪を告白するならば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます。今、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分・音楽)
「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。
一同「アーメン」。
「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。
一同「あなたにもありますように」。
「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。
「父なる神様。あなたの御力によって、私たちの心と思いを開いてください。今から聞くあなたの御言葉を、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。
「子どもたちと共に御言葉に聞きましょう。子どもさんたちは前の方にどうぞ」。
「御言葉に聞きましょう。マタイによる福音書11章25節から30節です。お読みしてから、『イエスの平和』という題で説教をいたします」。
(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。
一同「主よ、感謝します」。
(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)
「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。
(献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は封筒だけでも構いません)
献金をおささげした後に、お祈りしていただきます」。
(説教者による祝祷)
「週報に従って報告をいたします。週報裏面の光が丘ニュースをお読みいたします」。
(光が丘ニュースの最後に)
(「欠席の連絡をいたします」。)
「何かご連絡のある方はいらっしゃいますでしょうか」。
次の礼拝の準備と教会内の清掃と換気を教会役員で行いますので、なるべくお早めにお帰りいただけますよう、ご協力をお願いいたします。
これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。
説教「イエスの平和」
耶稣的平安
新約聖書・マタイによる福音書十一章二十五節から三十節に基づく説教
新约・马太福音十一章25-30节
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
那时,耶稣说:“父啊,天地的主,我感谢你!因为你将这些事向聪明通达人就藏起来,向婴孩就显出来。父啊,是的,因为你的美意本是如此,一切所有的,都是我父交付我的。除了父,没有人知道子;除了子和子所愿意指示的,没有人知道父。凡劳苦担重担的人,可以到我这里来,我就使你们得安息。我心里柔和谦卑,你们当负我的轭,学我的样式,这样,你们心里就必得享安息。因为我的轭是容易的,我的担子是轻省的。
イエスが父である神を賛美した。
耶稣赞美父神。
これらのことを知らせてくださった。
让人知晓这些事。
それも、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになった。
而且,向聪明通达人藏起来,向婴孩就显出来。
これは、普通の感覚とは逆。
这和一般所认为的不一样。
「これらのこと」とは、前までのところで語られていたこと。
“这些事”是指前面所说的那些。
イエスが神の働きをなさっているのを見たのに、神に心を向けようとしない人々がいた。
有人看到耶稣的做工,却没有归向神。
その人たちのことが、今日は、「知恵ある者や賢い者」と言われている。
这些人,今天被叫做“聪明通达的人”
知恵ある者や賢い者には、神の真実は見えない。
聪明通达的人,看不到神的真实。
神の真実は幼子のような者に示される。
神的真实显现给如婴儿般的人。
そして、そのような人は神に心を向けていく。
于是,那样的人心转向了神。
知恵ある者や賢い者は、自分の頭の中に物事を収めようとする。
聪明通达的人将一切了然于胸。
しかし、それでは、心を神に向けることにはならない。
可是,心却没有转向神。
大事なのは心を神に向けること。
重要的是心转向神。
自分の頭の中に物事を収めようとしていたのでは、心を神に向けることにはならない。
想将一切都装在自己的头脑中,心却没有转向神。
神の真実は知恵ある者や賢い者には隠されて、幼子のような者には明らかにされる。
神的真实向聪明通达人藏起来,向婴孩就显现出来。
そしてそれが、「御心に適うこと」。
这就是“神的美意”。
神は幼子のように神を信頼する人に、ご自分を現わしてくださる。
神将自己显现给如婴孩般信赖神的人。
そして、それはイエスを通して示されるのだというのが27節。
这点通过耶稣显现,在27节。
「すべてのこと」を任せられているイエスが、私たちに神を示してくださる。
神将“一切所有的”都交付给耶稣,耶稣向我们显现神的真实。
「すべてのこと」を任せられている方がなさること、それは、神を知らせること。
将“一切所有的”都托付的那一位,他所做的,就是让我们知道神。
今まさに、イエスはそれをなさっている。
现在更是,耶稣正在做这事。
私たちに神を知らせようとなさっておられる。
想要让我们了解神。
ということは、今ここにいる私たちのことを、イエスは、「あなたがたは幼子だ。私はあなたがたに神を示そう」と思っておられるということ。
就是说,耶稣想要对此刻在这里的我们说:“你们是婴孩,我要向你们显现神”。
その私たちに、イエスは呼びかける。
耶稣招呼我们。
神の御心を示してくださる。
向我们显示神的美意。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」。
“凡劳苦担重担的人,可以到我这里来”。
私たちは疲れている。
我们很疲惫。
何年か前、牧師たちが集まってボイストレーニングを受けた時、「体が凝っている人がいるか」と聞かれた。
几年前,牧师们聚集在一起参加发声培训的时候,被问到:“身体酸痛的人有吗?”
半分よりも少ないくらいの人が手を挙げた。
大约少于半数的人举手了。
私は手を挙げなかった。
我没有举。
しかし、言われた。
可是却被说到:
「手を挙げていない人の方が問題です。それは自分の体が凝っていることに気づいていないだけです」。
“不举手的人才有问题。只是没有意识到自己身体酸痛而已。”
確かにそうかもしれない。
或许是这样的。
私たちは皆、疲れている。
我们大家都很疲惫。
また、私たちは、重荷を負って生きている。
我们背负重担而活着。
生きている限り、それぞれに、しなければいけないことがある。
只要活着就有这样那样必须要做的事。
子どもであっても、大人であっても。
不管小孩还是大人。
また、場合によっては、病気になってしまって、病気が重荷になるということもあれば、年をとって体が弱ってしまい、それが重荷になるということもある。
另外,根据不同情况,生了病就有病痛的负担,上了年纪身体变弱,这也会成为负担。
そして、自分のことでなくても、愛する人の死が重荷になるということもある。
而且就算不是自己的事,所爱之人的死也会成为重担。
私たちが皆、いくつもの重荷を背負っているということは間違いなく事実。
我们大家都背负着好多重担,这是不争的事实。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
凡劳苦担重担的人,可以到我这里来,我就使你们得安息。
イエスから見ると、私たちは疲れている。
在耶稣看来,我们都很疲惫。
重荷を負っている。
背负重担。
私たちはもうそれに慣れてしまって、それが当たり前になってしまっているかもしれないが、私たちは皆、疲れている。
或许我们已经习惯了,觉得理所当然了,但是我们大家确实很疲惫。
また私たちは、いくつもの重荷を背負って生きてきたから、重荷を背負うことが当たり前のことだと思われるかもしれない。
因为我们总是背负了好多重担,所以可能会觉得背负重担是理所当然的。
しかし、たとえ私たちがそれを当たり前だと思って、それが普通になってしまっていたとしても、イエスは私たちを休ませたい。
可是,即使我们觉得这是理所当然的,很正常,耶稣也想让我们休息。
イエスにとって私たちは愛する幼子だから。
因为对耶稣来说,我们是他所爱的婴孩。
しかし、その後に言われていることは不思議。
可是,后面所说的就有点难理解了。
結局、「わたしの軛を負いなさい」と言われている。
最后说“当负我的轭”。
軛とは、牛の首に付ける木。
轭就是架在牛脖子上的木头。
軛の後ろの方には地面を掘り返すための鋤が付いている。
后面拖着耕地用的锄头。
「イエスの軛を負う」ということだと、結局、大変な仕事をすることになりそう。
“负耶稣的轭”就是说,最后似乎要承担很重的工作。
しかし、それなのに、「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われている。
可是,即便如此,还是说“这样,你们心里就必得享安息。”
どうしてかと言うと、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
为什么呢?“因为我的轭是容易的,我的担子是轻省的。”
私たちは、背負いきれないほどの重荷を負わされてきた。
我们背负着难以承受的重担。
負いきれないほどの重荷が、私たち幼子の肩に食い込んでいる。
难以承受的重担,落在我们如婴孩般的肩膀上。
イエスはそう見ている。
耶稣看到了。
いや、見ていられないくらいの思いになっておられる。
他觉得看不下去。
イエスは、言う。
耶稣说:
あなたが一人で重荷を背負うことはない。
你不要一个人背负重担。
私も一緒に背負って歩こう。
我也一起背吧。
実は軛とはそういうもの。
事实上轭就是这样的。
重荷という言葉をイエスはつかわなかった。
耶稣没有用重担这一词。
軛は、牛が、2頭で引くもの。
轭是两头牛一起拉的。
先輩の牛が後輩の牛をリードして。
老牛领着小牛。
だから、29節で、「わたしに学びなさい」と言われている。
所以,29节说,“学我的样式”。
そして、同じ29節でイエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから」とも言っている。
同样的,29节,耶稣还说,“我柔和谦卑”。
普通、自分でこんなことは言わない。
一般自己不会说这样的话。
わざわざそう言うのは、私も一緒だ、私と一緒に頑張ろう、という気持ちで。
特地这样说,是要表明“我也在,和我一起努力吧”,这样的心情。
私たちは、今、招かれている。
我们现在被呼招。
あなた一人で重荷を負うことはない。
你不用一个人背重担。
わたしと共に軛を負っていこう。
和我一起负轭吧。
わたしはあなたを一人にはしない。
我不会让你一个人的。
あなたに、安らぎがあるように。
愿你得享安息。
それがイエスの御心。
这是耶稣的美意。
神の御心。
神的美意。
私たちは、幼子として、この御言葉に聞きたい。
我们作为婴孩,要听这话语。
苦しい時、イエスが共にいてくださることに心を向けたい。
劳苦的时候,要留意到耶稣与我们同在。
私たちの苦しみを、イエスも負ってくださっていることに心を向けたい。
心里要想到耶稣也担负了我们的劳苦。
苦しみであったとしても、イエスは、それを私たちと共にしたい。
纵使劳苦,耶稣与我们共同担负。
それほどに、イエスは私たちを愛しておられる。
耶稣如此这般爱着我们。