3月29日の礼拝式次第と説教

礼拝式次第

 

 

 

「今日の礼拝は、インターネットを通してささげたいと思います。

 

私たちは今、それぞれの場所に居るわけですが、このような技術によって、離れたところにいてもつながることができることを感謝します。

 

新約聖書のローマの信徒への手紙では、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(121)ることが、真の礼拝であると言われています。礼拝は儀式ではなく、私たちの生き方そのものです。

 

そして、私たちは今、神と共にあって、一つです」。

 

 

 

「今から、前奏を流しますので、心を神様に向けてください」。

 

 

 

「ただ今から、礼拝を始めます。招きの言葉。新約聖書、マルコによる福音書1331節。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

 

 

 

「開会の祈りをささげましょう」。

 

「神様。私たちは今、あなたと出会いたいと願ってここに集まっています。どうぞ今、私たちのところにいらしてください。あなたの御心に触れさせてください。あなたの光を与えてください。私たちが、この世の暗闇の中でも、道を間違えることのないように、あなたが今、私たちを照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「罪の告白をいたしましょう。私たちは皆、神の前には罪ある者、神に逆らう者です。しかし、罪を告白するならば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます。今、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分・音楽)

 

 

 

「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。

 

一同「アーメン」。

 

 

 

「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。

 

一同「あなたにもありますように」。

 

 

 

「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。

 

「父なる神様。あなたの御力によって、私たちの心と思いを開いてください。今から聞くあなたの御言葉を、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「子どもたちと共に御言葉に聞きましょう。子どもさんたちは前の方にどうぞ」。

 

 

 

「御言葉に聞きましょう。マタイによる福音書1125節から30節です。お読みしてから、『イエスの平和』という題で説教をいたします」。

 

 

 

(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。

 

一同「主よ、感謝します」。

 

 

 

(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)

 

 

 

「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。

 

(献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は封筒だけでも構いません)

 

献金をおささげした後に、お祈りしていただきます」。

 

 

 

(説教者による祝祷)

 

 

 

「ご連絡をいたします。

 

今日の礼拝は、インターネットを通してささげました。

 

礼拝堂での礼拝の実施について、牧師と長老で何時間もかけて検討したのですが、神様から私たちに与えられている力で、可能な限りを尽くして、皆様と隣人たちのご健康と命を守るために、本日の礼拝堂での礼拝を中止させていただくことといたしました。二転三転しておりますこと、お詫び申し上げます。

 

今後のことは、また今週に会議を開き、決定いたします。

 

この状況がこれからどのようになっていくのかは、誰にも分からないことです。ただ、神様だけがご存じです。その神様に、事あるごとに祈りましょう。旧約聖書の詩編には、ダビデの詩が多く収められています。ダビデは、事あるごとに嘆き祈り、賛美して祈りました。ダビデと同じく私たちも、知っていることもできることも限られています。だからこそこの時こそ、心を合わせて祈りましょう。祈ってもどうにもならないようなどんな大きなこともなく、祈らなくても済むようなどんな小さなこともありません。この時が、ますます神様に心を向けて、霊とまことをもって神様を仰ぎ、祝福をいただく時に変えられますように。

 

これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように。

 

説教「神殿より偉大なもの」

 

 

比殿更大的

 

新約聖書・マタイによる福音書121節から8節に基づくメッセージ

 

  马太福音121-8

 

1そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。2ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。3そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。4神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。5安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。6言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。7もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。8人の子は安息日の主なのである。」

 

  那时,耶稣在安息日从麦地经过。他的门徒饿了,就掐起麦穗来吃。法利赛人看见,就对耶稣说:“看哪,你的门徒作安息日不可作的事了。耶稣对他们说:“经上记着大卫和跟从他的人饥饿之时所作的事,你们没有念过吗?他怎么进了神的殿,吃了陈设饼,这饼不是他和跟从他的人可以吃得,唯独祭司才可以吃。再者,律法上所记的,当安息日祭司在殿里犯了安息日,还是没有罪,你们没有念过吗?但我告诉你们:在这里有一人比殿更大。‘我喜爱怜恤,不喜爱祭祀。’你们若明白这话的意思,就不将无罪的当作有罪的了。因为人子是安息日的主。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安息日の出来事。

 

  是讲安息日的事。

 

安息日は週に一度、仕事を休む日。

 

  安息日是一周一次,休工的日子。

 

心を神に向ける日。

 

  是将心转向神的日子。

 

神は、すべてのものを6日間で造り、7日目に休まれた。

 

  神在六天里造好了一切,第七天休息。

 

その神にならう。

 

  我们效仿神。

 

仕事を休むことが目的ではない。

 

  目的不是为了休工。

 

心を神に向けることが目的。

 

  将心转向神才是目的。

 

 

 

 

 

しかし、何が「仕事」に当たるのか。

 

  可是,什么可以看作是“工作”呢?

 

農業をしている人だったら、田んぼや畑を耕すことは仕事になる。

 

  从事农业的人,耕作是工作。

 

それは分かりやすい。

 

  这很好理解。

 

しかし、仕事をしないことが目的ではない。

 

  可是,目的不是不工作。

 

心を神に向けることが目的。

 

  目的是心转向神。

 

そう考えると、ただ、仕事をしなければそれでいいということでもない。

 

  这样想的话,不只是不工作就可以了。

 

その日に、イエスと弟子たちは、麦畑の中を通った。

 

  耶稣和门徒那天从麦地经过。

 

歩いた。

 

  是走路。

 

この日には、歩いていい距離も決められていた。

 

  这天连走路的距离都规定了。

 

900メートル。

 

  900米。

 

長い距離を散歩したりはしない。

 

  不能长距离散步。

 

ただ歩くだけなら仕事とは言わないが、心を神に向けるために静かにしているのが安息日だから。

 

  光走走路虽称不上是工作,但静下心来转向神,这才是安息日。

 

 

 

 

 

今日の場面では、ファリサイ派の人が、安息日のことで、イエスを攻撃している。

 

  今天的内容中,法利赛人借着安息日攻击耶稣。

 

「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」(2節)。

 

  “看哪,你的门徒作安息日不可作的事了。(第2节)

 

何をしたのかと言うと、弟子たちは「麦の穂を摘んで食べ始めた」(1節)。

 

  作了什么呢?门徒“掐起麦穗来吃。(第1节)

 

これが仕事に当たる。

 

  这等同于工作。

 

食事は仕事ではないのではないか。

 

  吃饭不是工作啊。

 

食事はしていい。

 

  吃饭可以。

 

食べるのは構わない。

 

  吃是没关系的。

 

では何が良くないのか。

 

  那么不好的是什么呢?

 

他の人の畑の麦を勝手に取ったということか。

 

  在别人的麦田里随便掐。

 

これは実は良い。

 

  这实际上是可以的。

 

お腹がすいている人は、他の人の畑の麦を勝手に取っても良かった。

 

  饿肚子的人,在别人的麦田里随便掐也可以。

 

畑を持っている人は、お腹がすいている人を助けなさいということ。

 

  有麦田的人,要帮到饿肚子的人。

 

問題なのは、麦の穂を「摘んだ」ということ。

 

  问题是“掐”麦穗。

 

そして、麦の殻を取って実を取り出したということ。

 

  并且,将麦壳去掉,将果实取出来。

 

それが仕事に当たる。

 

  这就是工作。

 

麦を摘んだのは「収穫」という仕事。

 

  掐麦穗是“收割”的工作。

 

殻を取って実を取り出したのも仕事。

 

  去壳取子也是工作。

 

ファリサイ派の人たちは、それが良くないと言った。

 

  法利赛人说这不好。

 

 

 

 

 

このファリサイ派の人たちは、一生懸命に、聖書の言葉をそのまま守って生きようとしていた人たち。

 

  法利赛人照着圣经上的话语一板一眼努力遵守如此过活。

 

「ファリサイ」という言葉は「分離する」という言葉が元になっている。

 

  法利赛这词原来是“分离”的意思。

 

この世から、自分たちを分離する。

 

  从这世间,把自己分离出来。

 

罪深い世の中から、自分たちを分離する。

 

  从罪孽深重的世间,把自己分离出来。

 

そして、聖書の言葉に文字通りに従って生きる。

 

  并且一字一句遵从圣经上的话过活。

 

そういう人たち。

 

  是这样的人。

 

だから、人がルールを破っているのを見ると、我慢できない。

 

  因此,看到别人破坏规则,便无法容忍。

 

そもそも、この時、イエスと弟子たちは、麦畑の中を歩いていた。

 

  当时耶稣的门徒走在麦田里。

 

どうしてここにファリサイ派の人がいるのか。

 

  为什么那里会有法利赛人呢?

 

後からついてきていた。

 

  在后门跟着。

 

何かまずいことを見つけて、文句を言うために。

 

  为的是发现他们的不良行为,好指责他们。

 

 

 

 

 

イエスはその人たちに答える。

 

  耶稣回复了那些人。

 

ファリサイ派の人たちは聖書の専門家。

 

  法利赛人是精通圣经。

 

聖書の言葉で答えた。

 

  所以耶稣用圣经的话回复到:

 

「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか」(34節)。

 

 “经上记着大卫和跟从他的人饥饿之时所作的事,你们没有念过吗?他怎么进了神的殿,吃了陈设饼,这饼不是他和跟从他的人可以吃得,唯独祭司才可以吃。”(34)

 

サムエル記上の21章の話。

 

  是撒母耳记上第21章的内容。

 

ダビデは後に偉大な王になった。

 

  大卫后来成了伟大的王。

 

しかし、この時は前の王のサウルに命を狙われていた。

 

  可是当时却被他之前的王扫罗追杀。

 

ダビデは逃げ出す。

 

  大卫逃了出来。

 

逃げていく途中で、ある町の礼拝堂に入って、神に供えられていたパンを食べた。

 

  逃跑过程中,进了镇上的一个礼拜堂,吃了供奉给神的圣饼。

 

盗んだということではなく、その場所の祭司から、パンをもらった。

 

  并不是偷的,而是那里的祭司给他的。

 

その日は安息日で、パンを新しいものに取り換える日だった。

 

  那天是安息日,是更换新饼的日子。

 

しかし、古いパンは、祭司だけが食べることになっていた。

 

  可是,陈设饼只有祭司可以吃。

 

祭司はダビデにパンを渡してはいけないはず。

 

  祭司本不该把饼递给大卫。

 

ダビデも食べてはいけないはず。

 

  大卫也不该吃。

 

しかし、聖書には、このことで神がダビデに罰を与えたとは書かれていない。

 

  可是,圣经并没有写因这事神惩罚了大卫。

 

むしろ、そういうふうにして神がダビデを助けたということになっている。

 

  反而是以这种方式帮了大卫。

 

 

 

 

 

ただ、ファリサイ派の人たちは、もちろんこの話は知っている。

 

  法利赛人当然知道这故事。

 

そして、ファリサイ派の人たちはこの話について、命の危険がある場合だけは、決まりを破っても仕方ない、と考えていた。

 

  就这故事,法利赛人觉得只有在生命危险的情况下,才可以破例。

 

しかし、弟子たちは今、命の危険があるわけではない。

 

  可是门徒此刻并没有生命危险。

 

だから、これだけではファリサイ派の人たちは納得しない。

 

  所以,就这事法利赛人不能认同。

 

 

 

 

 

イエスは続けて言う。

 

  耶稣继续说:

 

「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」(5節)。

 

 “律法上所记的,当安息日祭司在殿里犯了安息日,还是没有罪,你们没有念过吗?”(5)

 

祭司は安息日に神殿で何をするのか。

 

  祭司安息日在圣殿做什么呢?

 

礼拝する。

 

  礼拜。

 

いけにえをささげる。

 

  献祭。

 

それは祭司にとっては仕事。

 

  这是祭司的工作。

 

安息日は祭司にとっては仕事の日。

 

  安息日在祭司来说是工作日。

 

安息日の決まりを破っている。

 

  破了安息日的规定。

 

しかし、それは当然問題ない。

 

  这当然没问题。

 

安息日は神に心を向ける日。

 

  安息日是心转向神的日子。

 

祭司はそのために仕事をするのだから。

 

  祭司是为此而工作的。

 

安息日の決まりよりも、神に心を向けることの方が当然大事。

 

  比起安息日的规定,心转向神当然更重要。

 

イエスは、本当に大事なことは何か、という話をしている。

 

  耶稣在说真正重要的是什么。

 

 

 

 

 

イエスは続けて言う。

 

  耶稣继续说到:

 

「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」(6節)。

 

  “我告诉你们,在这里有一人比殿更大。”(第6节)

 

神殿とは、神の家。

 

  神殿就是神的家。

 

それよりも偉大なものは神しかない。

 

  比这更大的只有神。

 

では神は、どのような方か。

 

  但是神是怎样的一位呢?

 

イエスは聖書の言葉で話す。

 

  耶稣用圣经的话说:

 

「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(7節・ホセア書66節)。

 

  “我喜爱怜恤,不喜爱祭祀。”(第7节,何西阿书66节)

 

神が最も大事にするのが憐れみ。

 

  神最看重的是怜恤。

 

私たちが心を向ける神は、憐れみの神。

 

  我们心所向的那位神,是满有怜悯的神。

 

安息日は決まりを守る日ではない。

 

  安息日不是墨守成规的日子。

 

だから、神は決まりを破っても、ダビデを憐れんで、ダビデを助けた。

 

  因此,神就算破戒律也要怜悯大卫,救大卫。

 

だから、イエスはファリサイ派の人たちに言う。

 

  所以耶稣向法利赛人说:

 

「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」(7節)。

 

  “‘我喜爱怜恤,不喜爱祭祀。’你们若明白这话的意思,就不将无罪的当作有罪的了。”(第7节)

 

イエスの弟子たちがお腹がすいて麦の穂を摘んだことで、ファリサイ派の人たちは文句を言った。

 

  耶稣的门徒肚子饿了掐麦穗吃这事,法利赛人有怨言。

 

イエスは言う。

 

  耶稣说:

 

わたしの弟子たちはお腹がすいていたんだ。

 

  我的门徒们肚子饿了。

 

憐れんでやりなさい。

 

  你们怜恤他们吧。

 

わたしの弟子たちには罪がない。

 

  我的弟子他们没有罪。

 

神は、この人たちを憐れんでくださっている。

 

  神怜恤他们。

 

だから、神の目には罪はない。

 

  所以在神的眼中他们没有罪。

 

 

 

 

 

そもそも、決まりを守っていれば良い、決まりを守れなければ罪だ、というのなら、神の子イエスが私たちのところに来て、十字架にかかる必要はなかった。

 

  原本,守戒律是好的,不守就是犯罪,只是这样的话,神子耶稣就不必来到我们这里,被钉十字架了。

 

私たちに対する神の御心は決まりを守って生きていけ、ということではない。

 

 神的心意并不是要我们守着戒律过活。

 

神は、決まりを守ろうとしても守り切れない私たちの罪を、私たちの代わりに背負ってくださった。

 

  想要遵守戒律却没能坚守的我们所犯下的罪,神代替我们背负了。

 

それこそ、憐れみ。

 

  这就是怜恤。

 

決まりを守れない時がある。

 

  有坚守不了的时候。

 

ダビデもイエスの弟子たちも、お腹がすいていた。

 

  大卫也好耶稣的门徒也好,都肚子饿了。

 

そのような弱い時が私たちにもある。

 

  我们也有如此软弱的时候。

 

神はそれを憐れんでくださって、罪があるとは見なかった。

 

  神心生怜悯,没有视为有罪。

 

決まりを破っても、人がそこに力を与えられて、そこからまた生きていくことができるようにしてくださった。

 

  即使破了戒律,也会赐予人力量,可以让人从那里获得新生。

 

それだけではなく、神の子は人の罪を、丸ごと背負ってくださる。

 

  不仅如此,神子完全背负了人的罪。

 

わたしたちのことを憐れんでくださっているから。

 

  因为怜悯我们。

 

最後に、「人の子は安息日の主なのである」(8節)とある。

 

  最后,“人子是安息日的主”。(第8节)

 

「人の子」とは「わたし」という意味にもなる言葉。

 

  “人子”也可以是“我”。

 

イエスは安息日の主。

 

  耶稣是安息日的主。

 

イエスは、神の憐れみそのもの。

 

  耶稣就是怜恤的化身。