
礼拝式次第
「今日の礼拝を、インターネットを通してささげたいと思います。
今回は賛美もいたしますが、音楽は、フリーに使えるものを用いています。賛美歌の歌詞は、教会ホームページのこの動画のすぐ下にあります。
私たちは今、それぞれの場所に居るわけですが、このような技術によって、離れたところにいてもつながることができることを感謝します。
新約聖書のローマの信徒への手紙では、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(12章1節)ることが、真の礼拝であると言われています。礼拝は儀式ではなく、私たちの生き方そのものです。
そして、私たちは今、神と共にあって、一つです」。
「今から、前奏を流しますので、心を神様に向けてください」。(1分、音楽)
「ただ今から、礼拝を始めます。招きの言葉。新約聖書、マルコによる福音書13章31節。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。
「開会の祈りをささげましょう」。
「神様。私たちは今、あなたと出会いたいと願ってここに集まっています。どうぞ今、私たちのところにいらしてください。あなたの御心に触れさせてください。あなたの光を与えてください。私たちが、この世の暗闇の中でも、道を間違えることのないように、あなたが今、私たちを照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
「罪の告白をいたしましょう。私たちは皆、神の前には罪ある者、神に逆らう者です。しかし、罪を告白するならば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます。今、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分・音楽)
「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。
一同「アーメン」。
「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。
一同「あなたにもありますように」。
「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。
「父なる神様。あなたの御力によって、私たちの心と思いを開いてください。今から聞くあなたの御言葉を、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。
「子どもたちと共に御言葉に聞きましょう。子どもさんたちは前の方にどうぞ」。
「賛美しましょう。賛美歌459番『飼い主わが主よ』です。歌詞は、教会のホームページのこの動画のすぐ下にあります」。
1
飼い主わが主よ、まよう我らを 若草の野べに ともないたまえ。
我らを守りて 養いたまえ、 我らは主のもの、主の群れなれば。
2
良き友となりて 常にみちびき、 まよわば尋ねて つれ帰りませ。
我らの祈りを 受け入れたまえ、 我らは主のもの、ただ主に頼る。
3
赦しのみちかい、救いのめぐみ、 きよむる力は ただ主にぞある。
我らをあがない 生命をたまう、 我らは主のもの、主に在りて生く。
4
主よ、いつくしみを 我らに満たし、 今よりみむねを なさしめたまえ。
我らをあわれむ み恵みふかし、 我らは主のもの、ただ主を愛す。
「御言葉に聞きましょう。新約聖書・マタイによる福音書〇章〇節から〇節です。お読みしてから、『〇〇〇〇』という題で説教をいたします」。
(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。
一同「主よ、感謝します」。
(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)
「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。
お時間がある時に封筒をご用意いただいて、献金を入れて、保管しておいてください。
献金の方法については、追ってご連絡いたします。
献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は構いません。
献金をおささげした後に、賛美歌65-1番で賛美をささげ、その後に、お祈りをいたします。
賛美歌65-1番の歌詞は、教会のホームページのこの動画のすぐ下にあります。」。
いまそなえるささげものを主よきよめておうけください。
(説教者による祝祷)
「ご連絡をいたします。
今日の礼拝は、インターネットを通してささげました。
この状況がこれからどのようになっていくのかは、誰にも分かりません。だからこそ、心を合わせて祈りましょう。祈ってもどうにもならないようなどんな大きなこともなく、祈らなくても済むようなどんな小さなこともありません。お祈りをおささげいたします。
祈り
これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。
説教「わたしの心に適った愛する者」
合我心意蒙我爱的人
マタイによる福音書12章9節から21節
马太福音12章9-21节
9イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。10すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。11そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。12人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」13そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。14ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
耶稣离开那地方,进了一个会堂。那里有一个人枯干了一只手。有人问耶稣说:“安息日治病,可以不可以?”意思是要控告他。耶稣说:“你们中间谁有一只羊,当安息日掉在坑里,不把它抓住拉上来呢?人比羊何等贵重呢!所以,在安息日作善事是可以的。”于是对那人说:“伸出手来!”他把手一伸,手就复了原,和那只手一样。法利赛人出去,商议怎样除灭耶稣。
15イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、16御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。18「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。19彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。20正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。
耶稣知道了,就离开那里,有许多人跟着他。他把其中有病的人都治好了。又嘱咐他们,不要给他传名。这是要应验先知以赛亚的话,说:“看哪,我的仆人,我所拣选、所亲爱、心里所喜悦的,我要将我的灵魂给他,他必将公理传给外邦。他不争竞,不喧嚷,街上也没有人听见他的声音。压伤的芦苇他不折断,将残的灯火他不吹灭。等他施行公理,叫公理得胜,外邦人都要仰望他的名。”
安息日に病気を治していいか。
安息日治病可以吗?
安息日とは、週に一度仕事を休む日。
所谓安息日,就是一周一次休工的日子。
休むことが目的ではない。
休息不是目的。
神は、6日間かけてすべてのものをつくり、7日目に休んだ。
神花了6天造了一切,第七天休息。
それにならって、一週間を7日間とし、7日目に休む。
仿照这个, 一周七天,第七天休息。
仕事を休んで、神に心を向ける。
停下工作,将心转向神。
問題は、「仕事を休む」と言っても、何が「仕事」に当たるのか。
问题在于虽说“停下工作”,那么“工作”是什么呢?
仕事を休むことが目的ではなくて、神に心を向けることが目的だから、神に心を向けること以外のことは、ほとんど何もできないというのが決まりになっていた。
停下工作不是目的,目的是将心转向神,所以规定心转向神之外的事情基本都不可以。
聖書にあれをしてはいけない、これをしてはいけない、とたくさん書かれているわけではない。
圣经中并没有写很多这个不可以,那个不可以。
しかし、その決まりを守ることを目的にしてしまっている人がいた。
可是却有人把遵守规定当作了目标。
本当の目的は、神に心を向けること。
真正的目的是将心转向神。
それなのに、決まりを守ることを目的にしてしまっていた。
然而却把遵守规定当成了目标。
人間は本当の目的を見失ってしまうことがある。
人有时会迷失了真正的目标。
本当の目的は見失いやすい。
真正的目标容易迷失。
学校で勉強するのは知恵を身に付けるため。
学校学习是为了汲取智慧。
しかし、他の人よりもテストで良い点を取ることを目的にしてしまうことがある。
可是却有人把比别人取得更高的分数当作目标。
本当の目的は忘れてしまいやすい。
真正的目标容易忘记。
安息日に病気を治していいか。
安息日治病可以吗?
それを、人々は「イエスを訴えようと思って」(10節)質問する。
人们“想要控告耶稣而质问他这个问题。(第10节)
「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」。
“安息日治病律法允许吗?”
律法は旧約聖書の一番大事な部分のこと。
律法是旧约最重要的部分。
神の言葉は、安息日に病気を治すことを許しているかどうか。
神的话是否允许在安息日治病。
病気を治すことは治療という仕事になる。
治病是工作。
イエスは答えた。
耶稣回答说:
「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」。
“你们中间谁有一只羊,当安息日掉在坑里,不把它抓住拉上来呢?人比羊何等贵重呢!所以,在安息日作善事是可以的。”
「安息日に善いことをするのは許されている」とあるが、原文では「許されている」は「正しい」という言葉。
“在安息日作善事是可以的”,原文“可以的”用的是“正确的”。
安息日に善いことをするのは正しい。
在安息日作善事是正确的。
「だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか」。
“你们中间谁有一只羊,当安息日掉在坑里,不把它抓住拉上来呢?”
しかし、手で引き上げても、それも救助という仕事をしたことになりそう。
可是,用手拉上来,这似乎也是救助的工作。
聖書の専門家たちはそのことを一生懸命議論していた。
文士他们拼命研究讨论这事。
羊がすぐに死んでしまうなら、すぐに助けても良い。
羊如果马上要死了的话,可以立即救助。
でも、一日くらいはそのままでも大丈夫なら、そのままにしておいたほうがいいんじゃないか。
但是,如果一天之内不管也没关系的话,最好就让它去。
ただ、ここで気を付けたいのは、イエスが今伝えたいのは羊のことではない。
不过,这里要注意的是,耶稣现在想要传达的不是羊的事。
人間のこと。
而是人的事。
「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて」と言った。
说到“你们中间谁有一只羊”。
この話は、一匹の羊しか持っていない人の話。
说的是只有一只羊的人。
貧しい人の話。
是穷人的事。
その人に対して、「今日は安息日だから羊を引き上げてはいけない」と言えるのか。
能对那人说:“今天是安息日,所以不能把羊拉上来”吗?
そんなことは言えない。
不能。
「人間は羊よりもはるかに大切なものだ」。
“人比羊何等贵重!”
神の目に。
在神的眼中是这样的。
神は人を大切に思っておられる。
神把人看得很重。
人が悲しむ、苦しむ、というのは、神にとっても悲しみ、苦しみ。
人的劳苦愁烦对神来说就是他自己的劳苦愁烦。
安息日は神に心を向ける日。
安息日是把心交给神的日子。
その神は、私たちのことを大切に思ってくださる方。
那神是把我们看得很重的那一位。
だから、神に心を向ける時、私たちの心に平安がある。
所以,心向着神的时候,我们的里面就有平安。
安らぐ。
心境平和。
それが安息日。
这就是安息日。
それに対して、イエスを訴えようとしている人たちはどうか。
对此,想要控告耶稣的那些人又如何呢?
すぐそばに片手の萎えた人がいる。
边上有一个人枯干了一只手。
片手が動かない。
一只手不能动。
しかし、その人を利用して、イエスに質問する。
他们利用那人质问耶稣。
「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」。
“安息日治病,律法允许吗?”
この人たちは、手が動かない人の悲しみ苦しみを考えようともしない。
那些人根本没有考虑手动不了那人的愁苦。
この人の手が治ったとしても、治らなかったとしても、どうでもいい。
那人的手能治不能治,他们根本无所谓。
ただ、イエスがこの人を治したら、イエスを捕まえてやろう。
只想着,耶稣如果医治了那人,就把耶稣抓起来。
それだけ。
只想着这点。
しかし、イエスはこの、片手が動かない人を見ている。
可是,耶稣看向那个手动不了的人。
その心の中を見ている。
看向了他的内心深处。
「手を伸ばしなさい」。
“伸出手来!”
そうすると、治った。
于是就医治了。
人々が見ている前で、神が人を大切に思っておられることを示した。
在众人面前,神表明了对人的重视。
しかし、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」。
可是,“法利赛人出去,商量怎样可以除灭耶稣。”
しかし、イエスに何か良くないことがあっただろうか。
但是耶稣有做什么不好的事吗?
「手を伸ばしなさい」と言っただけ。
只说了“伸出手来”。
医者がするような治療をしたわけではない。
没有像医生那样治疗。
この人が手を伸ばすと、それだけで治った。
那人一把手伸出来,只是这样就治好了。
イエスは安息日の決まりを破ってはいない。
耶稣没有破了安息日的戒律。
ただ、神の御心を示しただけ。
只是显明了神的心意。
それなのに、イエスを殺そうとする。
然而他们却要杀耶稣。
安息日の本当の目的を見失ってしまっている人たち。
那些人完全迷失了安息日原本的目标。
本当の安息が一人の人に与えられたのを見たのに、イエスを殺そうとする。
明明看到耶稣赐给了一个人真正的安息,却想要杀耶稣。
「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」。
“耶稣知道了,就离开那里。”
しかし、隠れたわけではない。
可是他并非藏起来了。
「大勢の群衆が従った」。
“有许多人跟着他。”
そして、「イエスは皆の病気をいやし」た。
并且,“耶稣把大家的病都治好了。”
神の平安を与えた。
赐予了他们神的平安。
こうして、昔々に言われていたことが実現した。
如此应验了以前所说的。
旧約聖書の言葉。
旧约的话。
「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける」。
“看哪,我的仆人。我所拣选、所亲爱、心里所喜悦的,我要将我的灵赐给他。”
これは、イエスが洗礼を受けた時のことが思い出される。
这就想到了耶稣受洗时候的情景。
イエスが洗礼を受けると、神の霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。
耶稣一受洗,神的灵降下,听到从天上有声音说“这是我的爱子,我所喜悦的。”
そのイエスは何をするのか。
这耶稣作了什么呢?
「彼は異邦人に正義を知らせる」。
“他将公理传给外邦。”
異邦人というのはユダヤ人が自分たちと外国人を区別して言う言葉。
外邦人是犹太人区分自己和外国人所说的词。
自分たちは神の民。
自己是神的子民。
異邦人は罪深く、救われない。
外邦人罪孽深重,无可救药。
しかし、今日のところでは、外国人は出てこなかった。
可是,今天的内容中没有出现外国人。
ただ、片手が動かない人がいた。
只有手动不了的人。
そして、体に障害があるのは罪深いからだとユダヤ人たちは考えていた。
而且犹太人认为残疾是因为罪孽深重。
障害がある人は、異邦人のような扱いを受けた。
残疾人和外邦人一样对待。
しかし、神はそのような人にも、神の正しさを現わしてくださる。
可是,神将他的正义也向那些人显明。
ただ、どのようにして神の正しさを現わすのかというと、「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」。
不过,神的正义是如何显现的呢?“他不争竞,不喧嚷,街上也没有人听见他的声音。”
言葉で相手をやっつけるのではない。
不是用言语忽悠对方。
むしろ、「御自分のことを言いふらさないように」言う。
并且说“不要给他传名。”
その中で、「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」。
中间还有“压伤的芦苇他不折断,将残的灯火他不吹灭。等他施行公理,叫公理得胜。”
傷つき、弱っている人に守る、助ける。
守护、帮助受伤的、软弱的人。
だから、安息日でも、一匹しか羊を持っていない人が穴に落ちた羊を引き上げるのは当然だと言う。
所以,即便是安息日,只有一头羊的人把掉在坑里的羊拉起来是理所应当的。
安息日でも、片手の動かない人をその場で癒してくださる。
即使是安息日,也当场治愈了手不能动的人。
だから、「異邦人は彼の名に望みをかける」。
因此,“外邦人都要仰望他的名。”
イエスに希望がある。
在耶稣里有盼望。
聖書の専門家たちは、自分たちが正義だと思っていただろう。
文士他们大概觉得自己是对的吧。
だから、イエスを訴えてやろうと考える。
所以想着要控告耶稣。
自分が正しくて、イエスが間違っていると考えていた。
认为自己是对的,耶稣是错的。
自分は正義だ。
自己是正义的。
しかし、その人たちがしたことは何か。
可是,那些人做的又是什么呢?
片手が動かない人がいる。
有人一只手不能动。
その人の苦しみ悲しみは考えない。
却不考虑那人的悲苦。
その人を利用して、イエスを訴えてやろう。
利用他,想要控告耶稣。
最後には、訴えるどころか、殺してやろう。
最后岂止是控告,还想杀害。
どこにも希望はない。
完全看不到希望。
本当の目的を見失うと、そうなる。
真正的目标一旦迷失,就会如此。
しかし、イエスの正しさは、傷つき、弱っている人を守り、助ける。
可是,耶稣的正义是要守护、帮助受伤的、软弱的人。
あの人は違う、異邦人だ、そんなことを言って切り捨てたりはしない。
那人不一样,是外邦人,他不会说这样的话不管那些人。
それが御心。
这就是神的心意。
私たちがどのような人間であったとしても、イエスは私たちを切り捨てない。
无论我们是怎样的人,耶稣都不会丢下我们不管。
イエスは私たちに無理矢理話をして、無理やり納得させたりもしない。
耶稣不会说硬说一些话,强行让我们接受。
ただ、私たちに、神がこの私を大切に思ってくださっているという御心を現してくださる。
只向我们显明神的心意,他重视我们。
そこに希望がある。
在那里有盼望。
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尾崎幸夫・明子 (日曜日, 05 4月 2020 15:02)
イエス・キリストを、隙あらば群衆の中でやり込め、訴え、殺そうと企むファリサイ派の連中に対して、愛する民衆を救い励ます御心に満ちて発せられた御言葉に、改めて共感しました。
(新型コロナウイルスの状況に合わせた、日々の運営の工夫、大変ご苦労様。)
牧師 (日曜日, 05 4月 2020 15:39)
ご覧いただきありがとうございました。
教会堂に集まれないのは慙愧に堪えませんが、出来ることを出来る限りやっていきたいと思います。
御言葉の力が現わされますように。