
礼拝式次第
「今日の礼拝を、インターネットを通してささげたいと思います。
今回は賛美もいたしますが、音楽は、フリーに使えるものを用いています。賛美歌の歌詞は、画面に出てきます。今日賛美しますのは『球根の中には』と『キリスト・イェスは』と『今そなえる』の3曲です。
私たちは今、それぞれの場所に居るわけですが、このような技術によって、離れたところにいてもつながることができることを感謝します。
新約聖書のローマの信徒への手紙では、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(12章1節)ることが、真の礼拝であると言われています。礼拝はただの儀式ではなく、私たちの生き方そのものです。
そして、私たちは今、神と共にあって、一つです」。
「今から、前奏を流しますので、心を神様に向けてください」。(1分、音楽)
「ただ今から、礼拝を始めます。招きの言葉。新約聖書、マルコによる福音書13章31節。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。
「開会の祈りをささげましょう」。
「神様。私たちは今、あなたと出会いたいと願ってここに集まっています。どうぞ今、私たちのところにいらしてください。あなたの御心に触れさせてください。あなたの光を与えてください。私たちが、この世の暗闇の中でも、道を間違えることのないように、あなたが今、私たちを照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
「罪の告白をいたしましょう。私たちは皆、神の前には罪ある者、神に逆らう者です。しかし、罪を告白するならば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます。今、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分・音楽)
「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。
一同「アーメン」。
「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。
一同「あなたにもありますように」。
「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。
「父なる神様。あなたの御力によって、私たちの心と思いを開いてください。今から聞くあなたの御言葉を、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。
「子どもたちと共に御言葉に聞きましょう。子どもさんたちは前の方にどうぞ」。
「子どもたちと共に賛美しましょう。賛美歌575番『球根の中には』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください」。
「御言葉に聞きましょう。新約聖書・ルカによる福音書23章56節後半から24章12節です。お読みしてから、『復活の朝』という題で説教をいたします」。
(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。
一同「主よ、感謝します」。
(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)
「賛美しましょう。賛美歌325番『キリスト・イェスは』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください」。
「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。
お時間がある時に封筒をご用意いただいて、献金を入れて、保管しておいてください。
献金の方法については、追ってご連絡いたします。
献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は構いません。
献金をおささげした後に、賛美歌65-1番で賛美をささげ、その後に、お祈りをいたします。
賛美歌65-1番の歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください」。
(説教者による祝祷)(後奏10秒ほど)
「ご連絡をいたします。
今日の礼拝は、インターネットを通してささげました。
この状況がこれからどのようになっていくのかは、誰にも分かりません。だからこそ、心を合わせて祈りましょう。祈ってもどうにもならないようなどんな大きなこともなく、祈らなくても済むようなどんな小さなこともありません。お祈りをおささげいたします。
祈り
これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。
「復活の朝」(ルカによる福音書23章56節後半から24章12節)
《复活的早晨》 (路加福音23章56节后半-24章12节)
56婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。
她们在安息日,便遵着诫命安息了。
1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
七日的头一日,黎明的时候,那些妇女带着所预备的香料来到坟墓前,看见石头已经从坟墓滚开了。他们就进去,只是不见主耶稣的身体。正在猜疑之间,忽然有两个人站在旁边,衣服放光。妇女们惊怕,将脸伏地。那两个人就对他们说:“为什么在死人中找活人呢?他不在这里,已经复活了。当纪念他还在加利利的时候怎样告诉你们,说:‘人子必须被交在罪人手里,钉在十字架上,第三日复活。’”他们就想起耶稣的话来,便从坟墓那里回去,把这一切的事告诉十一个使徒和其余的人。那告诉使徒的,就是玛大拉的玛丽亚和约亚拿,并雅各的母亲马利亚,还有与她们在一处的妇女。她们这些话,使徒以为是胡言,就不相信。彼得起来,跑到坟墓前,低头往里看,见细麻布独在一处,就回去了,心里希奇所成的事。
婦人たちは安息日の土曜日には休んだと書かれています。
写着妇人们安息日周六休息。
安息日というのは仕事を休んで心を神様に向ける日ですが、その通りにしたということですね。
安息日就是休工将心转向神的日子,按照这样做了。
しかし、安息日というのはもともとそういう日ですので、わざわざそんなことをここに書かなくても良いわけです。
可是,因为安息日原本就是这样的,所以不用特地把这事写在这里应该也可以。
そんなことをわざわざ書いているのは、婦人たちにはしたかったことがあるからです。
特地把这事写在这里,是因为妇人们有想要做的事。
次の日、日曜日に、婦人たちは香料を持って墓に行きます。
第二天周日,妇人们拿着香料去了坟前。
イエス様の墓です。
是耶稣的坟墓。
婦人たちはイエス様の体に香料をぬってあげたかったんですね。
妇人们想要给耶稣的身体涂香料吧。
遺体に香料をぬるというのが、この時代のお葬式の仕方でした。
在遗体上涂香料,是那个时候的葬礼仪式。
イエス様はもうすでに、金曜日に、十字架から降ろされてお墓に入れられていたんですが、遺体に香料をぬる時間がなかったんですね。
耶稣星期五已经下十字架进了坟墓,没有时间涂香料。
イエス様が十字架で命を落としたのは午後3時のことです。
耶稣在十字架上丧命是下午三点。
今日の場面の直前の場面ですが、その後、ヨセフという人がイエス様の遺体を引き取る許可をもらって、ヨセフはそれから十字架の場所に戻ってイエス様の遺体を降ろして、布でくるんで、お墓まで運んで、お墓の中に入れたわけですが、ヨセフはこの仕事を午後6時までにしなければならなかったんですね。
今天前面的内容中写到,后来,有个叫约瑟的人获得了收回耶稣遗体的许可,于是回到十字架那里将耶稣的遗体取了下来,用布裹好,运到墓地,放进墓中,这一切必须要在午后6点前完成。
この場面はちょうど今の季節のことですから、午後6時くらいになると日が沈みます。
这场景正好是现在的季节,所以下午六点左右太阳就落山了。
そして、この地方では日が沈んだら一日が終わって、新しい一日が始まります。
而且,在那里太阳一落山一天就结束了,新的一天开始。
つまり、日が沈んだら新しい日になって、土曜日、安息日になってしまうんです。
就是说,太阳一落山新的一天就开始了,也就是星期六安息日到了。
安息日には仕事はしてはいけませんから、ヨセフは6時までに、とにかくイエス様の遺体をお墓の中に入れなければならなかったんです。
因为安息日不可以工作,约瑟无论如何要在6点之前必须把耶稣的遗体放进墓中。
ヨセフには香料を持ってきて、遺体に香料をぬる時間はなかったのでしょう。
约瑟应该没时间拿香料给遗体涂吧。
しかし、イエス様にずっと従ってきた婦人たちは、イエス様を墓に納める様子を見ていました。
可是,一直跟着耶稣的妇女们,看到了耶稣下葬的情形。
それで、安息日が終わったらイエス様のお体に香油をぬってさしあげようと考えて、香油を準備したのです。
于是,安息日一结束,想着要给耶稣的身体涂香油,把香油准备好了。
けれども、安息日の間にそういう仕事をすることはできません。
可是,安息日不能做这事。
婦人たちも安息日には休みました。
妇女们在安息日也休息了。
その日、婦人たちはどんな気持ちで過ごしたでしょうか。
那天,她们是以怎样的心情度过的呢?
何しろ、自分がずっと従ってきたイエス様が死んだのです。
毕竟是自己一直追随的耶稣去世了。
もう自分がイエス様のためにできることは何もありません。
自己已经不能为耶稣做什么了。
それこそ、遺体に香料をぬってあげることくらいしか、できることはないのです。
正因为如此,能做的只有给遗体涂香料这么点事了。
そして、遺体に香料をぬってあげたとしても、イエス様が死んだことに変わりはないのです。
况且,就算给遗体涂上香料,耶稣已死这件事是改变不了的。
婦人たちはこの日、自分の力のなさを一日中悲しんでいたのではないかと思います。
我想,妇女们那天一整天都在为自己的无能为力而伤心难过吧。
そんな一日が終わって、朝になりました。
那样的一天过去了,到了早上。
婦人たちは朝早くにお墓に向かいます。
妇女们一早就去了墓地。
もう何の希望もなくなってしまいましたが、これだけはできる、ということをするために、朝早くにお墓に向かいました。
已经没有什么希望了,只有这可以做,为此,她们一大早去了墓地。
しかし、お墓にはイエス様の遺体が見当たりません。
可是,坟墓里没有看到耶稣的遗体。
その時の婦人たちの気持ちはどんなだったでしょうか。
当时她们的心情是怎样的呢?
もうこれだけしかできることがない。
能做的只有这了。
でも、できることをしてさしあげたい。
但还是想做。
そんな思いでお墓にやってきたのに、イエス様の遺体がなくなっているのです。
这样想着去了墓地,然而耶稣的遗体却不见了。
この時、婦人たちは絶望に突き落とされた気分だったのではないかと思います。
我想当时妇女们的心情该陷入了绝望吧。
婦人たちは「途方に暮れてい」たと書かれていますが、もう本当に何もできることがなくなって、ただただ下を向いて立っていたのでしょう。
经上写着说她们“束手无策”,真的已经什么都做不了了,只能低头站着。
这是复活节的早晨。
イースターの朝は、自分には何もできることがないと思わせられる朝だったのです。
复活节的早晨,是一个让我们觉得自己无能为力的早晨。
喜びにあふれる朝ではありません。
不是充满喜乐的早晨。
自分にできることが何もなくなって、下を向いてしまうしかない朝だったのです。
除了低头什么都做不了的一个早晨。
しかしそこに、輝く衣を着た人が現れました。これは天使ということでしょうね。
可是有人出现在了那里,衣服放光。这就是天使没错吧。
神様からの使いです。
是从神那里来的使者。
天使は語りかけました。
天使说话了:
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。
“为什么在死人中找活人呢?他不在这里,已经复活了。”
復活の知らせです。
是复活的通告。
復活なさったんだから、もうお墓の中にはいないんだと知らされたのです。
通知说因为复活了,所以已经不在墓中了。
ここで婦人たちは大喜びしても良かったはずです。
这时妇人们本该是大大欢喜的。
ですが、婦人たちはそういう反応をしなかったようです。
可是,她们似乎不是这样的反应。
ですので、天使は話しつづけます。
因此,天使继续说。
「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。
“当纪念他还在加利利的时候怎样告诉你们,说:‘人子必须被交在罪人手里。钉在十字架上,第三日复活。’”
これは以前にイエス様が予告しておられたことですね。
这是之前耶稣预言的事。
イエス様はご自分が十字架にかけられることと、その後に復活することを前々から予告しておられました。
耶稣前面就预言说过自己将被钉十字架,之后复活。
それも、イエス様はそのことを三度も予告しておられたんですね。
这耶稣也预言过三次。
それを聞いて、婦人たちはイエス様の言葉を思い出したと書かれています。
经上写着,听到这,妇女们就想起了耶稣的话来。
しかし、これは不思議です。
可是,这有点不可思议。
自分がずっと従っているイエス様が殺されて、その後で復活するなんていうのは、大変な話です。
自己一直追随的耶稣被杀,之后复活这事,是不得了的大事。
イエス様でなくても、誰かがそんな話をしたとしたら、そんな話、簡単に忘れられるはずはありません。
就算不是耶稣,任谁说了这样的事,都不该被轻易忘记。
けれども、婦人たちはここで思い出したと書かれているんですね。
但是却写着妇女们这时想起来了。
逆に言うと、今までは忘れていたということです。
反而言之就是说,之前忘记了。
こんな大変な話を、忘れようとしても忘れられないような話を、今まで完全に忘れていたんです。
这么大的事,想忘也没法忘记的事,却忘得一干二净。
どうして忘れてしまうんでしょうか。
为什么忘了呢?
実はこれには理由があります。
事实上是有理由的。
イエス様は前々から、ご自分が十字架にかかること、それから、復活することを予告しておられましたが、その場面を読みますと、弟子たちは理解できないようにされたということがそこに書かれているんですね。
耶稣在很前面就预言说自己会钉十字架,然后复活,读一下的话,那里写着门徒们没弄明白。
つまり、イエス様は予告はしました。
就是说,耶稣预言了。
予告はしましたが、弟子たちはそのことを理解できないようにされていたんです。
虽然预言了,但是门徒们没有搞懂。
ですので、こんな大事な話を忘れてしまっていたんでしょうね。
所以,这么大的事都忘了。
聞いた時にはとんでもない話だとは思ったでしょうけれども、何だか良く分からない話ですので、しっかりと頭の中に残ってはいなかったんです。
听的时候觉得是非常大的事,因为搞不大明白,所以没有很深刻地记在脑海中。
イエス様が弟子たちにそのことを理解できないようにされたのは、弟子たちがそのことを理解してしまうと、弟子たちが何とかしてイエス様を守ろうとするからでしょうね。
耶稣没有让门徒明白这事,是因为如果他们明白的话,是无论如何也要保护耶稣的。
それは当然のことです。
这是理所当然的。
自分がずっと従ってきたイエス様が殺されるなんてことがあるとするなら、弟子は当然何とかしようとします。
自己一直追随的耶稣被杀这样的事如果发生的话,门徒当然要想办法。
けれども、イエス様は、人間に対する神様の怒りをご自分一人で引き受ける覚悟です。
可是,耶稣决心由他一个人来领受神对人的愤怒。
人間が罪を犯している、つまり、神に背いている。
人犯了罪,也就是背弃了神。
その人間に対する裁きをイエス様はご自分一人で引き受けます。
对人的审判,耶稣要自己一个人领受。
私が罰を受けますから、命を投げ出しますから、神様、どうか罪人たちをゆるしてやってください。
因为我愿受罚,献出生命,神啊,请你无论如何原谅罪人。
イエス様はそういうおつもりです。
耶稣是这样打算的。
そこでもし弟子がイエス様を守ろうとするなら、それはイエス様のじゃまをすることになります。
如果门徒想要守护耶稣的话,就成了对耶稣的阻碍。
ですので、これからご自分が十字架にかかるということを弟子たちに理解させてはいけなかったんです。
因此,接下来自己要钉十字架的事不能让门徒们明白。
それだったら最初から何も言わなければ良かったのかもしれませんが、前もって言っていなかったら、弟子たちは、イエス様が復活したとしても、あの時十字架にかけられたのは実はイエス様ではなかったのではないか、他の人が十字架にかけられたのではないかと考えるでしょう。
这样的话,一开始就什么都不要讲或许更好,如果不事先讲的话,就算耶稣复活,门徒他们可能会觉得那时被钉在十字架上的其实不是耶稣,是其他人。
復活なんていうことを普通に信じろという方が無理です。
复活之类的事一般不可能轻易相信的。
前もって復活するということを言われていたからこそ、後になって弟子たちは、復活ということを信じたのです。
正因为事先说过复活的事,后来门徒们才会相信。
後になって弟子たちは、そういうふうに自分たちがイエス様に配慮されていたことが分かったでしょうね。
门徒们后来明白了自己是如此地被耶稣关爱着。
イエス様は弟子たちのためにそこまでのことを前もって考えてくださるんですね。
耶稣为了门徒事先就把一切都考虑好了。
復活なんていうことはそんなに簡単に受け入れられることではありませんから。
因为复活之类的事不会如此轻易地被接受。
婦人たちもそうでした。
妇女们也是如此。
婦人たちは天使の話を聞いて思い出したわけですが、思い出したのなら大喜びしてもよさそうなものです。
她们听了天使的话就想起来了,想起来的话即使大大欢喜似乎也不为过。
ですが、喜んでいません。
可是却没有欢喜。
どうしてそれが分かるのかと言いますと、「墓から帰って、十一人の弟子たちとほかの人皆に一部始終を知らせた」と書かれていますけれども、これは喜んではいなかったということです。
为什么会知道这点呢,写着“便从坟墓那里回去,把这一切的事告诉十一个门徒和其余的人”,这就说明没有欢喜。
「一部始終を知らせた」と書かれていますが、それは、最初から最後まで、全部説明したということです。
写着“告诉了一切”,这也就是说从最初到最后,全部说明了。
お墓に行ったら、お墓をふさいでいた石が転がしてあって、天使が現れて、こういう話をした、と、一から十まで全部を説明したのです。
去了墓地,堵着坟墓的石头开着,天使显现,把这些事一五一十全部做了说明。
もし喜んでいたら、そんな話し方はしません。
如果欢喜的话,就不会这么说了。
大喜びで、「イエス様が復活しました。前から言っておられた通りです」と叫ぶんじゃないでしょうか。
欢呼雀跃,大声叫喊“耶稣复活了,正如之前说的那样”,不该是这样吗?
そうはならなかったんですね。
没有这样。
自分が見たこと聞いたことを信じていいのか分からない。
不知道自己所见所闻是否可信。
だから、最初から最後まで説明するんです。
因此, 从开始到结束一一说明。
これが人間なんですね。
这就是人。
神の言葉よりも、自分の常識を大事にしてしまう。
比起神的话,更看重自己的认知。
自分の常識と違うものを受け入れることがなかなかできない。
与自己的认知相违的东西很难接受。
それは、婦人たちから話を聞いた弟子たちも同じでした。
这一点那些听了妇人话的门徒也一样。
弟子たちにはこの婦人たちの話が「たわ言のように思われた」んですね。
门徒认为妇女们这些话是“胡话”。
まったくばかばかしい話だとしか思えなかったんです。
只觉得这完全是无稽之谈。
婦人たちから話を聞いた時、弟子たちも、イエス様から言われていたことを思い出していたはずです。
听到妇女们说的时候,门徒应该也想起了耶稣所说的。
けれども、まったく信じることができないんです。
可是,完全不能相信。
面白いことに、ここのところで弟子たちのことが「使徒たち」と書かれていますね。
有意思的是,这里把门徒写作了“使徒”。
使徒というのは原文では「遣わされた者」という言葉です。
使徒在原文中是“被差遣者”。
イエス様によって、いろいろなところに遣わされていく者。
被耶稣差遣到各个地方去的人。
それが使徒です。
这就是使徒。
実際、弟子たちは、後になって世界中に出かけていって、世界中に教会を建て上げていくんですね。
事实上,门徒们后来去到世界各地,在全世界建立教会。
けれども、この時には、弟子たちは、こうだったんです。
可是在那个时候,门徒们却是如此。
イエス様から前もって話を聞いていたのに、復活したという話を聞いても、まったく受け入れられなかったんです。
原先就从耶稣那里听到过,即便听过复活的事,却完全不能接受。
けれどもここで、ペトロが走り出しました。
可是在这里,彼得跑了出去。
走ってお墓に向かいました。
跑到坟墓前。
そして、お墓の中をのぞくと、イエス様の遺体を包んでいた布がありました。
往墓中一看,包裹耶稣遗体的布还在。
布しかなかったのです。
只有布。
イエス様はおられなかったのです。
耶稣不在。
ペトロは驚きました。
彼得惊呆了。
しかし、驚いたということはどういうことでしょうか。
可是,吃惊是怎么回事呢?
そもそも、ペトロが墓に向かって走っていったというのはどういうことでしょうか。
原本,彼得向墓地跑去是为什么呢?
ペトロは婦人たちから話を聞いています。
彼得听了妇女们说的。
婦人たちは最初から最後まで全部、話をしました。
她们从头到尾全部都说了。
ということは、天使たちがした話も、全部、婦人たちが伝えてくれたはずです。
也就是说,妇女们将天使的话也应该全部传达了。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない」。
“为什么在死人中找活人呢?他不在这里。”
この天使の言葉をペトロは聞いていたはずです。
彼得应该听到了天使的这话。
それなのにどうしてペトロはお墓に行こうとするんでしょうか。
然而他为什么要去墓地呢?
イエス様を探すというのなら、どこか他の場所に探しに行くべきです。
要是想找耶稣的话,应该去其它地方找。
それなのにお墓に行こうとするのは、ペトロとしては、婦人たちの話が本当かどうか確かめたかったからです。
却去了墓地是因为彼得想要确认一下妇人们说的话是不是真的。
ということは、イエス様が復活したということを心から信じていたというわけでもなかったのです。
也就是说心里面并没有相信耶稣复活了这事。
だからこそ、実際に婦人たちが言ったとおりだと知って、驚いているのです。
正因为如此,知道了事实真如妇人们所说的一样后,很吃惊。
もしペトロが婦人たちの話を信じていたのなら、驚きません。
如果彼得相信妇人们的话,就不会吃惊了。
驚くよりも喜ぶはずです。
比起吃惊更应该是欢喜。
と言いますか、婦人たちの話を信じていたのなら、そもそも、お墓には行きません。
说起来,要是信妇人们所说的,也就不会去墓地了。
どこか別の場所にイエス様を探すでしょう。
该去其它地方寻找耶稣,对吧。
しかし、ペトロは走ってお墓に向かったのです。
可是,彼得跑去了墓地。
どうしてペトロはここでお墓に向かって走り出したんでしょうか。
为什么彼得跑去墓地呢?
ペトロは婦人たちの話を信じていたわけではありません。
因为他并没有相信妇人们的话。
けれども、ペトロは、どうしてもイエス様に会いたかったんです。
可是,彼得无论如何想要见耶稣。
三日前、イエス様が逮捕された時、ペトロは、引かれていくイエス様の後を遠く離れてついて行きました。
三天前,耶稣被捕的时候,彼得远远地跟在被抓走的耶稣后面。
そして、裁判が行われる場所にもぐりこみます。
并且混进了审判的地方。
しかし、その場所でペトロは、周りにいた人たちから、あなたはイエスの弟子ではないかと言われて、それを否定してしまうんですね。
可是,在那里,彼得被周围的人说他是耶稣的门徒时,他完全否认了。
三度も、自分はイエスの弟子ではないと言ってしまうんです。
三次都说自己不是耶稣的门徒。
その時、イエス様は振り返ってペトロを見つめました。
当时,耶稣转过身来看了彼得。
ペトロが三度、イエス様の弟子であることを否定してしまうことを、イエス様は前もって予告しておられました。
彼得三次不认主这事耶稣之前就预言了。
その通りになったんですね。
真是如此。
イエス様に見つめられた時、その時になってペトロはイエス様から前もって予告されていたことを思い出しました。
耶稣看他的那一刻,彼得想起了耶稣之前预言的事。
そして、外に出て、激しく泣きました。
于是他出去痛哭。
そのことがあった後、今日の場面まで、ペトロは姿を現しません。
这事之后直到今天的场景,彼得一直没有现身。
ペトロは自分自身に絶望して何もできなくなっていたのでしょう。
彼得对自己失望透顶不知该如何是好吧。
落ち込んでしまって、家の中にずっといて、食事も満足にしていなかったのではないでしょうか。
非常失落,一直待在家中,饭也吃不下,可能是这样吧。
何しろペトロはイエス様に対して、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と宣言していたのです。
因为彼得对耶稣宣告说“主啊,我就是同你下监,同你受死,也是甘心。”
それなのに、イエス様の弟子であることを三度も否定することになってしまったんです。
然而,却三次否认了自己是耶稣的门徒。
絶望して、死にたいくらいの気持ちだったのではないでしょうか。
绝望到想死的心情都有了吧。
普通に考えれば、ペトロはもう、イエス様に会う資格はありません。
一般会觉得,彼得已经没有资格见耶稣了。
それなのにどうして、ペトロは走り出したんでしょうか。
然而为什么彼得跑出去了呢?
ペトロがイエス様の弟子であることを三度否定した時、イエス様は振り向いてペトロを見つめました。
彼得三次不认主的时候,耶稣转身看了他。
そのイエス様のまなざしですね。
当时耶稣的眼神。
イエス様は怒ってペトロをにらみつけたんでしょうか。
是很生气愤恨地看向他吗?
そうではないでしょうね。
肯定不是的,对吧。
イエス様はそうなることを前もって分かっておられました。
耶稣之前就知晓了这事。
その上で、ペトロをそばに置いていてくださったんです。
而且,让彼得待在身边。
イエス様はそういう人間であるペトロを、前々から受け入れておられたんです。
耶稣之前就接受了这样的彼得。
イエス様のまなざしに、ペトロも、そのことが分かったんじゃないですか。
彼得也从耶稣的眼神中读懂了这点,不是吗?
自分はこんな情けない人間だと初めて知った。
才知道自己是这样无情的人。
しかし、イエス様は自分のことを前々から知っておられた。
可是,耶稣老早就知道了。
知った上で、自分をそばに置いていてくださっていた。
知道了还把自己安排在身边。
そうは言っても、ペトロは、取り返しのつかないことをしてしまいました。
然而,彼得却做了不可挽回的事。
その時には、ペトロは外に出て激しく泣きました。
当时,彼得跑出去痛哭了。
絶望して、家の中に閉じこもりました。
绝望地关在家里。
けれども、ペトロの頭の中には、イエス様のあのまなざしがあったんだと思うんです。
可是,我觉得在彼得的脑海中一直回想着耶稣的那眼神。
自分のことをすべて知った上で受け入れてくれていた、あのまなざしが頭の中にあったんです。
耶稣知道并接受自己的一切,这眼神一直停留在彼得的脑海中。
だから、ペトロは、とにかく墓に向かって走り出しました。
因此,彼得无论如何要跑去墓地。
婦人たちの話を信じていたわけではありません。
虽然不相信妇人们的话。
けれども、とにかくイエス様に会いたかった。
但是,无论如何都想见耶稣。
お墓でペトロは、婦人たちの話が本当だったと知ります。
彼得在墓地知晓了妇人们说的话是真的。
そのことに驚きます。
惊呆了。
喜びはしません。
并没有欢喜。
イエス様を見捨てたペトロは、たとえイエス様が復活したとしても、大喜びというわけにはいきません。
抛弃耶稣的彼得,即使耶稣复活了,也开心不起来。
ペトロはただ、家に帰ります。
彼得只能回家去。
イエス様を探そうとまではしません。
没想要去找寻耶稣。
これがイースターの朝の出来事でした。
这就是复活节的早晨所发生的事。
イースターの朝は、喜びの朝ではありません。
复活节的早晨,不是喜乐的早晨。
婦人たちにとっては、途方に暮れてしまって、自分には何もできることがないと思わせられる朝でした。
对妇人们来说,是感觉束手无策无能为力的一个早晨。
使徒たちにとっては、神の言葉よりも、自分の常識を大事にしてしまって、喜ぶことができなかった朝でした。
对使徒们来说,相比神的话语,更看重自己的认知,无从欢喜的一个早晨。
ペトロにとっては、確かめに行ったものの、喜ぶわけにもいかない朝でした。
对彼得来说,虽然确认了也开心不起来的一个早晨。
イースターは、自分の力のなさを思い知らされる日なのです。
复活节是知晓自己无能为力的一天。
神の言葉を受け入れることができない日です。
接受不了神话语的一天。
自分の弱さから抜け出せない日です。
无法摆脱软弱的一天。
しかし、イエス様は、人間がそのような者であることを前もって分かっておられます。
可是,耶稣之前就知道了人就是这样的。
その上で、行動してくださいます。
即便这样,还是行动了。
この後、イエス様の方から、弟子たちを訪ねてくださるのです。
后来,耶稣去见了门徒。
そして、途方に暮れている弟子たちを再び立ち上がらせてくださる、復活させてくださるのです。
并且,让迷失方向的门徒重新站立起来,让他们重获新生。
ですから大事なのは、イエス様が私たちのところに来てくださるということです。
因此,重要的是,耶稣会来到我们这里。
そのことが決定的に大事なことです。
这绝对是重要的事。
だから、教会では、毎週日曜日に礼拝をするのです。
所以教会每周都进行礼拜。
私たちは、イエス様が復活なさったこの日曜日の朝、イエス様に向かい合う礼拝の時を持つのです。
我们在耶稣复活的周日的早晨,有向耶稣礼拜的时间。
イエス様に出会うためです。
是为了见耶稣。
途方に暮れることがある私たちです。
束手无策的是我们。
神の言葉よりも自分の常識を大事にしてしまう私たちです。
比起神的话语更看重自己的认知的是我们。
弱さから抜け出せない私たちです。
无法摆脱软弱的是我们。
けれども、イエス様は、私たちのことを良く知っておられて、前もって考えてくださっています。
可是,耶稣很清楚我们,事先就为我们考虑好了。
そして、一番良い時に私たちに出会ってくださいます。
并且,在最好的时候来见我们。
それはいつになるでしょうか。
那会是什么时候呢?
今、弟子たちにそのことが分からないように、私たちもそれがいつになるのかは分かりません。
正如此刻门徒也不知道一般,我们也不知道会是什么时候。
ただ、イエス様は、一番ふさわしい時に私たちに出会ってくださって、ご自身が復活するだけでなく、私たちを再び立ち上がらせてくださるのです。
不过,耶稣会在最合适的时间来见我们,不仅自己复活,还要让我们重新站立起来。
そのイエス様に信頼して、イエス様が来てくださるのを待ちましょう。
相信耶稣,等候耶稣的到来吧。
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