4月19日の礼拝式次第と説教

礼拝式次第

 

「今日の礼拝を、インターネットを通してささげたいと思います。

 

今回は賛美もいたしますが、音楽は、フリーに使えるものを用いています。賛美歌の歌詞は、画面に出てきます。今日賛美しますのは『球根の中には』と『やすかれ、わが心よ』と『今そなえる』の3曲です。

 

私たちは今、それぞれの場所に居るわけですが、このような技術によって、離れたところにいてもつながることができることを感謝します。

 

新約聖書のローマの信徒への手紙では、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(121)ることが、真の礼拝であると言われています。礼拝は儀式ではなく、私たちの生き方そのものです。

 

そして、私たちは今、神と共にあって、一つです」。

 

 

 

「今から、前奏を流しますので、心を神様に向けてください」。(1分、音楽)

 

 

 

「ただ今から、礼拝を始めます。招きの言葉。新約聖書、マルコによる福音書1331節。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

 

 

 

「開会の祈りをささげましょう」。

 

「神様。私たちは今、あなたと出会いたいと願ってここに集まっています。どうぞ今、私たちのところにいらしてください。あなたの御心に触れさせてください。あなたの光を与えてください。私たちが、この世の暗闇の中でも、道を間違えることのないように、あなたが今、私たちを照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「罪の告白をいたしましょう。私たちは皆、神の前には罪ある者、神に逆らう者です。しかし、罪を告白するならば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます。今、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分・音楽)

 

 

 

「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。

 

一同「アーメン」。

 

 

 

「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。

 

一同「あなたにもありますように」。

 

 

 

「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。

 

「父なる神様。あなたの御力によって、私たちの心と思いを開いてください。今から聞くあなたの御言葉を、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「子どもたちと共に御言葉に聞きましょう。子どもさんたちは前の方にどうぞ。今日は、スパーリンク先生にお話をしていただきます」。

 

 

 

スパーリンク先生による説教

 

 

 

「賛美しましょう。賛美歌575番『球根の中には』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。一度、曲を流しますので、二度目から賛美してください」。

 

 

 

「御言葉に聞きましょう。新約聖書・イザヤ書2620節です。スパーリンク先生にお読みいただき、『神の怒りが過ぎ去るまで』という題で説教をしていただきます」。

 

 

 

スパーリンク先生による説教

 

(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。

 

一同「主よ、感謝します」。

 

 

 

(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)

 

 

 

「賛美しましょう。賛美歌『やすかれ、わが心よ』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。一度、曲を流しますので、二度目から賛美してください」。

 

 

 

「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。

 

お時間がある時に封筒をご用意いただいて、献金を入れて、保管しておいてください。

 

献金の方法については、追ってご連絡いたします。

 

献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は構いません。

 

献金をおささげした後に、賛美歌65-1番で賛美をささげ、その後に、お祈りをいたします。

 

賛美歌65-1番の歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。一度、曲を流しますので、二度目から賛美してください」。

 

 

 

(説教者による祝祷)(後奏10秒ほど)

 

 

 

「ご連絡をいたします。

 

今日の礼拝は、インターネットを通してささげました。

 

この状況がこれからどのようになっていくのかは、誰にも分かりません。だからこそ、心を合わせて祈りましょう。祈ってもどうにもならないようなどんな大きなこともなく、祈らなくても済むようなどんな小さなこともありません。お祈りをおささげいたします。

 

祈り

 

 

 

これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。

 

 

 説教

聖書:イザヤ書2620(新共同訳、旧約聖書 p. 1100){予めイザヤ24-27章を読もう}

 

圣经:以赛亚书2620

 

説教題:神の怒りが過ぎ去るまで

 

讲道题目:到神的愤怒过去为止

 

参照:ハイデルベルク信仰問答問 Q. & A. 9-11525658

 

説教者: ローレンススパーリンク(キリスト改革派日本伝道会宣教師)

 

 

 

中心的主張点: イエス様は聖なる神の罪に対する怒りを全て私たちに代わって受けてくださった。悔 い改めてイエス様に依り頼めば、激しい憤りの時にも守られて、イエス様の命に与る。

 

主要观点:神对我们所犯的罪而生的愤怒,耶稣全部替我们领受了。如果我们悔改信靠耶稣,即使神忿怒的时候我们也会得到守护,得着耶稣的生命。

 

イザヤ書2620(新共同訳)さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ、 激しい憤りが過ぎ去るまで。

 

以赛亚书2620节:我的百姓啊,你们要来进入内室,关上门,隐藏片时,等到愤怒过去。

 

 

 

序説:このイザヤ2620節は「新型コロナウィルスのための聖句」ではないか!

 

引言:以赛亚书2620节不就是“为新型冠状病毒而预备的经文”吗?

 

最近、ある人はこの聖句を引き出して、この頃の新型コロナウィルスの流行の実態に対する前例で、今の状 況に対する最高のアドバイスのではないかと指摘しています。

 

  最近,有人引用这句经文,就现在新冠病毒的蔓延情况,指出这是对于目前状况的最好的建议。

 

はるか昔の言葉ではありますが、今日的な響 きがあります!同時にもう一つのもっと昔の出来事の響きもあります。それは出エジプトの出来事です。

 

  虽然是很久以前的话语,对今天依然有影响。还有一件更早之前发生的事,也同样深有影响,是出埃及记中的事。

 

 

 

1、受難週と復活祭の背後にある過越祭を思い出しましょう。

 

   让我们回忆一下受难周和复活节背后的逾越节吧。

 

イ、旧約聖書に親しみましょう:新約の背後にあるからです。天地創造、罪への堕落、創造主のご自分の 民を救う計画、救い主の到来の予言など、これら全部が紀元前に記された旧約聖書にあります。今は、出エ ジプトの出来事の一部を確認しましょう。

 

让我们重温一下旧约:因为是新约背后的故事。创造天地、犯罪堕落、创造主对自己子民的救赎计划、救世主到来的预言等等,这些都被记录在公元前的旧约中。现在一起确认一下出埃及记的故事。

 

ロ、紀元前15世紀のエジプトの出来事が出エジプト記11-12章に記されています。エジプトの国に 奴隷とされていたイスラエルの民を神様が顧みて、彼らが解放されて神様が約束してくださったカナアンの 地に導くところです。心のかたくななエジプトの王は解放しないところ、神は、10の災害をエジプトに下 すことにします。その最後が最も恐ろしくて、ある夜の間、天から降って、エジプトを行き巡り、全ての家 の長子を殺害する滅ぼす者が現れると神はあらかじめ注意します。その滅ぼす者の手から救われるために、 各家庭はその長子の身代わりとして小羊を屠り、その血を門柱に塗りなさいと命じておきます。滅ぼす者は その血を見たら、何の害を加えることなく、過ぎていくとのことでした。

 

公元前15世纪埃及的故事记录在出埃及记11-12章中。神看顾在埃及为奴的以色列子民,将他们从埃及脱离出来,带领他们入应许之地迦南圣地。心刚硬的埃及法老不放他们走,神就在埃及降下了十灾。最后最可怕的是,神预先告诫他们说在某天半夜将有杀手显现,他从天而降,巡行埃及遍地,击杀所有的长子。为了免遭杀害,神命令每家杀一只小羊替代长子,将血涂在门框上。杀手一见这血就越过,不加害了。

 

ハ、要するに、神の怒りが現れる時に逃れ場に入り込み、身代わりの小羊の血に守られたわけです。エジ プトの国中にこれが実現すると、エジプトの王はイスラエル人の解放を命じて、イスラエルの民は奴隷状態 から自由にされ、約束の地に旅立ちます。この時もやはり、「逃れ場」があって、悪いものが過ぎ去ってい くまで、そこで隠れていました。イザヤの言葉を確認しましょう:「さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅 く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ、激しい憤りが過ぎ去るまで。」

 

就是说,神的愤怒显现的时候,躲进避难所,由所替代的小羊的血守护了。击杀长子在埃及地应验后,埃及法老命令解放以色列人,以色列子民从奴隶之身获得了自由,启程奔向应许之地。当时也有避难所,直到坏事过去为止,都躲在那里。确认一下以赛亚书的话:“我的百姓啊,你们要来进入内室,关上门,隐藏片时,等到愤怒过去。”

 

ニ、この出来事を毎年記念するのは「過越祭」です。ちょうどイエス様の受難の時に回ってきていました。 イエス様もあらかじめ、ご自分がこの時に民のために十字架にかかることになると弟子たちに予告しました が、ついに実現しました。

 

逾越节就是为了每年都要纪念这件事。正好是耶稣受难的时候。耶稣也预先告知了门徒,自己到那时会为了百姓而被钉十字架,最后应验了。

 

 

 

 

 

ホ、ですけれども、今度はほふる身代わりが子羊ではなく、「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれてい たイエス様ご自身です。この方こそが本当の身代わりです。私たち人間の罪を担ってその償いの代価として ご自身を捧げます。でも弟子たちはこの時に、自分自身も滅ぼされるのではないかと恐れて、皆は隠れ場に 逃げ込みます。

 

不过,这次不是被宰的替身小羊,而是被叫做“除去世间罪恶的神的小羊”耶稣自己。担负我们人的罪作为偿还献出了自己。但是门徒们当时害怕自己也会被杀害,都逃进了避难所。

 

 

 

2、旧約時代にたまたま現れる神の怒りと今日の試練の共通点と相違点を考えまあしょう。

 

   让我们一起来思考一下,旧约中神偶尔显现出来的神的愤怒和今天的试练之间的相同点及不同点。

 

イ、この世界に色々な災害によって、神の罪に対する怒りが現れてくるとローマの信徒への手紙118 節が語ります。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒り を現されます」と。つまり、古くからこの世界において創造主に背く人間の罪によって、神様の怒りと裁き を招くと言います。今日もそうです。反逆、不義、弱いものを圧迫すること、種々の罪、これらがあって不 幸なことがいろいろやってくると聖書から理解します。

 

通过这世上各种各样的灾害,来显现神对罪的愤怒,罗马书118节说到:“神的愤怒,从天上显明在一切不虔不义的人身上,就是那些行不义阻挡真理的人。”就是说,自古以来,人背离这个世界的创造主而犯的罪,会招致神的愤怒和审判。今天也是如此。我们从圣经中可以了解到,行不义,压迫弱者,各样的罪,这些会导致各样的不幸临到。

 

ロ、イザヤは神の民を圧迫する者たちに対する神の厳しい裁きを述べます。同時に、神様のことを知り ながら無視して、自分勝手な道に出て行く人々もいます。このようなものに対して現れるのは、「神の憤り」 です。恐ろしい言葉ですね。私がこのように話すとおそらく、「分かり難い、」つまり納得がいかないとい う人が大勢いますが、これが聖書の教えです。思い出します。東日本大震災が起こった時に、その当時の東 京都知事石原慎太郎さんは、「これが私たちの傲慢の罪のせいです」と言い出しました。

 

以赛亚对压迫神子民的人讲述了神的厉害。同时也有人知道神却无视神,任意我行我素。对这些人所显现的就是“神的愤怒”。这话挺吓人的。我这样说,恐怕有人“难以理解”,就是说有很多人接受不了,但这是圣经的教导。回想一下,在东日本大地震的时候,当时的东京知士石原慎太郎说,“这是因为我们骄傲的缘故。”

 

ハ、今日にも悪の世と不誠実な民がおり、イザヤの攻めの言葉を聞くと耳が痛いです。そして、その裁か れた地と民の姿を読めば、まるで無人となった私たちの都会のような様子があります。けれども、私たちは 罪を認めるよりは神様を攻め、「愛の方ではなかったか。」と反発し、「神などいない!」とさらにひど い状態に陥りがちです。

 

现在也有罪恶的世道和不诚实的子民,以赛亚富有攻击性的话,听起来有点难受。并且看了被审判之地和子民的样子,简直就如同我们的城市变成死城那般。但是,比起认罪我们却攻击神,反驳道“不是爱人的神吗?”容易陷入“神不存在”这样更遭的地步。

 

二、神の裁きが下される時に、神の民はどうするのでしょうか。「自分の敵をやつけてくれた。」とほくそわらうでしょうか。それは人間くさい反応ですが、神の裁きは今度は自分がその対象になれば、と恐れ 多く、へりくだって、自分の罪を悔い改めるべきではないでしょうか。

 

神的审判临到的时候,神的子民该如何是好呢? 是暗自窃喜“打中我的敌人。”了吗?

 

这是人惯有的反应,但神的审判对象这次是自己的话,难道不该是谦卑悔改认罪吗?

 

3、イエス様が私たちに代わって世の罪を負い、裁きを受けたなら、どうして今も災害があるでしょうか。

 

如果耶稣代替我们背负世人的罪,接受了审判的话,为什么如今还会有灾难呢?

 

イ、今も人間の悪はなお盛んにあり、世界に対する神の怒りの表れもある。一般論ですが、神の掟を破り、 預言者の忠告を無視し、自分の良心の声に耳を塞(ふさ)げるなら、天国を期待することができると思うでし ょうか。厚かましい思いですね。

 

如今人的罪愈加盛行,神的愤怒对全世界显现。一般而言,破了神的戒律,无视先知的忠告,不听自己内心的声音的话,还能期待去天国吗?是厚颜无耻的想法吧。

 

ロ、でもグッドニューズがあります:キリストは実にその信じる民の罪を全て背負ってくださり、これを 完全に贖って、信じて依り頼む人を赦してくださいます。

 

但是有好消息:基督真的背负了信他的子民全部的罪,全部偿还了,赦免了信他依靠他的人。

 

ハ、先日、ある英語の新聞によく登場する漫画家の作品を見ました。旧石器時代を生きるある人は仲間に、 「グッドフライデー(Good Friday=『嬉しい金曜日』、受難日に相当します)という表現が嫌い」と言 い出します。「どうして『グッド』なのだろうか?」そうしたら仲間は、「イエス様が十字架につけられて 死んだのは何曜日だったか。」と聞きます。答えは、「金曜日でした。」「その通り。ではもし、自分に払 いきれない大きな負債があって誰かが代わってその負い目を全部完済してくれたなら、どんな気持ちになり ますか。」と聞くと、「グッドな気持ちですね!」「正解。イエス様の死はこんな効力があるわけですから、 この上もない喜びの日ですね。」私たちも「受難日」に変えて「グッドフライデー」と呼びましょうか

 

前几天看了英语新闻上经常刊载的漫画家的作品。活在旧石器时代的人对朋友说“讨厌good Friday(快乐星期五,就是受难日)这一说法”。“为什么快乐呢?”于是朋友问到:“耶稣被钉十字架而死是星期几?”回答说“星期五”。又问到:“正是。那么如果自己有无法支付的大笔债务,由谁代替全部还清了的话,会是什么心情呢?”“好心情”。“对,因为耶稣的死有这样的作用,再也没有比这更欢快的日子了。”我们也把“受难日”改成“Good Friday”吧!

 

二、神に忠実に仕える民はこんな時にどうするべきでしょうか。弟子たちはその時点、理解力が鈍くて、 起きた次第によっておびえて、逃れ場に隠れています。まるで、イザヤ26:20に従っている通りです!けれどもついに、「激しい憤り」が過ぎ去って、完全な救いの時がやってきます。それは三日目に主イエス は死者の中から復活なさり、すべての怖れを取り除いて、彼らに平和をくださいます。「シャローム!

 

忠心侍奉神的子民这种时候该如何做呢?门徒们当时反应迟钝,事情一发生就害怕得躲了起来。简直就如以赛亚书2620节说的那样。但是最终,“愤怒”过去,完全的拯救就会来到。就是第三天主耶稣从死中复活,去除了所有的恐惧,给他们带来了平安。“平安!”

 

 

 

 

 

4、復活のキリストは共にいてくださり、たとえ、苦しい中であっても、平安を備えてくださいます。イザ ヤ261-3節を読みます(p.1099)。「その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、 堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁(ほうるい)が築かれた。城門を開け/神に従い、信仰を守る 民が入れるように。堅固な思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。」イエス 様ご自身がこれを彼らに、私たちに備えてくださいます。

 

复活的基督与他们同在,即使在苦难中,也会预备平安。读以赛亚书261-3节。“当那日,在犹大地人必唱这歌说:“我们有坚固的城。耶和华要将救恩定为城墙、为堡垒。敞开城门,使守信的义民得以进入。坚心倚赖你的,你必保守他十分平安,因为他倚靠你。”耶稣自己为他们、为我们预备了这些。

 

イ、「悔い改めて福音を信じる」こと。いつも、すべてがこれに依かかっています。へりくだって主に待 ち望みを託す民はとうとう救いが与えられます。必ず。完璧な救い!

 

“悔改相信福音”。永远、全部信靠它。谦卑下来将希望交托于主的子民最终必定会得救。将会是完美的拯救。

 

ロ、世にいる限りは艱難があるが、イエス様は世のあらゆる悪に勝っていると弟子たちに話しました通り です。私たちをキリストイエスによって示された愛から引き離すものは何かあるだろうかと使徒パウロか 聞きます。「いいえ。何もありません!」と。有名なローマの信徒への手紙8章ですね。読みます: p.285 です。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。 飢えか。裸か。危険か。剣か。... これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくだ さる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するも のも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどん な被造物も、わたしたちの主キリストイエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは できないのです。

 

只要在世上就会有艰难,正如在耶稣战胜世上所有的罪恶时,对门徒说的那样。保罗问到,谁能使我们与基督的爱隔绝呢?“什么都不能!”是著名的罗马书8章的内容,对吧?读一下P285。“谁能使我们与基督的爱隔绝呢?难道是患难吗?是困苦吗?是逼迫吗?是饥饿吗?是赤身露体吗?是危险吗?是刀剑吗?……然而,靠着爱我们的主,在这一切的世上已经得胜有余了。因为我深信无论是死,是生,是天使,是掌权的,是现在的,是将来的,是有能的,是高处的,是低处的,是别的受造之物,都不能叫我们与神的爱隔绝,这爱是在我们的主基督耶稣里的。

 

ハ、ですから、今日も大変な事態になった時に、常識的に逃れ場に逃げ込みながらも、救いの道を固く信 じ、できる限りこの道を語り伝え続けましょう。これは世の初めから、エジプトにいた時も、イエス様のこ の地上にいた時も、様々な迫害があった時も、困難にあった時も、また、今日のウィルス流行の今も、私た ちの喜びと平和を保つ道です。そればかりか、昔の主の民がなさったように、私たちも困窮にある方々に 隣人愛をもって関わり、助けの手を伸べるのです。たとえ、自分の命の危険が伴っても、病院や施設で働き、 困った人々の力になっていきます。

 

因此,今天也发生重大事情的时候,虽然习惯性地逃入避难之地,但是让我们坚信救赎之道,尽可能把这条道一直传扬下去。这是从创世开始,就保守我们喜乐和平安的道路,无论是在埃及的时候,耶稣在这世上的时候,遭受各样迫害的时候,遇到困难的时候,还是今天病毒盛行的时候。不仅如此,还要像以前神的子民所做的那样,我们也要对困难的人施以邻舍之爱,伸出援助之手。即使自己冒生命危险,也要帮助在医院、养老院工作的人和有困难的人,助他们一臂之力。

 

 

 

決論:私たちが最も暗闇のただ中にあって苦しみを味わっても、「インマヌエル(我らと共におられる神)」 でいらっしゃる主は共にいてくださる。この方が光を与える。そして、その福音を言葉と行動をもって伝え る、知らせる機会を備えてくださる。

 

结论:即便我们在黑暗中尝尽疾苦,以马内利(与我们同在的神)主与我们同在。他赐予我们光明。并且,用语言和行动传讲福音,预备传福音的机会。

 

 

 

最後に詩篇30編の助言に聞きましょう。「主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御 名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣き ながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(詩篇305-6 )。アーメン。

 

最后一起听一下诗篇30篇的忠告。“耶和华的圣民哪,你们要歌颂他,称赞他可纪念的圣名。因为,他的怒气不过是转眼之间,他的恩典乃是一生之久。一宿虽然有哭泣,早晨便必欢呼。”(诗篇305-6节)(中文圣经4-5)。阿门。