4月26日礼拝@光が丘キリスト教会

礼拝式次第

 

 

 

「今日の礼拝を、インターネットを通してささげたいと思います。

 

今回は賛美もいたしますが、音楽は、フリーに使えるものを用いています。賛美歌の歌詞は、画面に出てきます。今日賛美しますのは575番『球根の中には』と361番『この世はみな』と65-1番『今そなえる』の3曲です。

 

私たちは今、それぞれの場所に居るわけですが、このような技術によって、離れたところにいてもつながることができることを感謝します。

 

新約聖書のローマの信徒への手紙では、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(121)ることが、真の礼拝であると言われています。礼拝はただの儀式ではなく、私たちの生き方そのものです。

 

そして、私たちは今、神と共にあって、一つです」。

 

 

 

「今から、前奏を流しますので、心を神様に向けてください」。(1分、音楽)

 

 

 

「ただ今から、礼拝を始めます。招きの言葉。新約聖書、ヨハネの黙示録320節。

 

『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう』」。

 

 

 

「開会の祈りをささげましょう」。

 

「神様。私たちは今、あなたと出会いたいと願ってここに集まっています。どうぞ今、私たちのところにいらしてください。あなたの御心に触れさせてください。あなたの光を与えてください。私たちが、この世の暗闇の中でも、道を間違えることのないように、あなたが今、私たちを照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「罪の告白をいたしましょう。私たちは皆、神の前には罪ある者、神に逆らう者です。しかし、罪を告白するならば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます。今、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分・音楽)

 

 

 

「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。

 

一同「アーメン」。

 

 

 

「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。一同「あなたにもありますように」。

 

 

 

「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。

 

「父なる神様。あなたの御力によって、私たちの心と思いを開いてください。今から聞くあなたの御言葉を、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「子どもたちと共に御言葉に聞きましょう。子どもさんたちは前の方にどうぞ」。

 

 

 

「子どもたちと共に賛美しましょう。賛美歌575番『球根の中には』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。前奏を流しますので、その後から賛美してください」。

 

 

 

「御言葉に聞きましょう。新約聖書・マタイによる福音書1222節から32節です。お読みしてから、『力はどこから来るか』という題で説教をいたします」。

 

 

 

(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。一同「主よ、感謝します」。

 

 

 

(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)

 

 

 

「賛美しましょう。賛美歌361番『この世はみな』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。前奏を流しますので、その後から賛美してください」。

 

 

 

「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。

 

お時間がある時に封筒をご用意いただいて、献金を入れて、保管しておいてください。

 

お振込みでささげていただくこともできます。

 

献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は構いません。

 

献金をおささげした後に、賛美歌65-1番で賛美をささげ、その後に、お祈りをいたします。

 

賛美歌65-1番の歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください」。

 

 

 

(説教者による祝祷)(後奏10秒ほど)

 

 

 

「今日の礼拝は、インターネットを通してささげました。

 

この状況がこれからどのようになっていくのかは、誰にも分かりません。だからこそ、心を合わせて祈りましょう。祈ってもどうにもならないようなどんな大きなこともなく、祈らなくても済むようなどんな小さなこともありません。お祈りをおささげいたします。

 

祈り

 

 

 

これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。

 


 

力はどこから来るか

 

                          能力从何而来

 

マタイによる福音書1222節から32

 

  马太福音1222-32

 

22そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。23群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。24しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。25イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。26サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。27わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。28しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。29また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。30わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。31だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。32人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

 

  当下,有人将一个被鬼附着,又瞎又哑的人,带到耶稣那里,耶稣就医治他,甚至那哑巴又能说话,又能看见。众人都惊奇,说:“这不是大卫的子孙吗?但法利赛人听见,就说:“这个人赶鬼,无非是靠着鬼王别西卜啊!”耶稣知道他们的意念,就对他们说:“凡一国自相纷争,就成为荒场;一城一家自相纷争,必站立不住;若撒旦赶逐撒旦,就是自相纷争,他的国怎能站得住呢?我若靠着别西卜赶鬼,你们的子弟赶鬼又靠着谁呢?这样,他们就要断定你们的是非。我若靠着神的灵赶鬼,这就是神的国临到你们了。人怎能进壮士家里,抢夺他的家具呢?除非先捆住那壮士,才可以抢夺他的家财。不与我相合的,就是敌我的;不同我收聚的,就是分散的。所以我告诉你们:人一切的罪和亵渎的话,都可得赦免;唯独亵渎圣灵,总不得赦免。凡说话干犯人子的,还可得赦免;唯独说话干犯圣灵的,今世、来世总不得赦免。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界中でウイルスという目に見えない敵との戦いが繰り広げられている。

 

  和病毒这个眼睛看不见的敌人的斗争在全世界范围展开。

 

ウイルスは非常に小さい。

 

  病毒非常的小。

 

ウイルスというものが最初に発見されたのは1935年。

 

  病毒最早发现是在1935年。

 

もちろん、それまでにも存在していたが、見ることができなかった。

 

  当然,这之前就已存在,但是看不见。

 

昔の顕微鏡(マイクロスコープ)では見ることができなかった。

 

  以前的显微镜看不到。

 

もちろん今でも顕微鏡で見ることはできるが、人間の目で見ることができないことには変わりがない。

 

  当然现在显微镜虽然看得见,人眼依然看不见。

 

もし、この世に顕微鏡というものが無かったら、私たちは今回の「新型コロナウイルス」の感染が広まっていることを意識することもなかっただろう。

 

  如果世上没有显微镜的话,这次“新冠病毒”的感染扩大,我们也意识不到吧。

 

14世紀半ばにヨーロッパでペストが流行した時には、ヨーロッパの人口の三分の一くらいの人が命を落とした。

 

  14世纪中叶欧洲黑死病流行的时候,欧洲三分之一左右的人丢了性命。

 

そのようになると誰が見ても分かるということになるが、今、私たちの周りはそのようにはなっていない。

 

  这样一来任谁见了都明白,但是现在我们周围还没成这样。

 

しかし、ウイルスというものの存在を知っているから、これがどこまで広がるか分からないので何とかして広がるのを止めようということで戦いになっている。

 

  可是,因为知道病毒的存在,而不知道会扩散到什么地步,无论如何要制止住扩散,于是就展开了斗争。

 

 

 

 

 

今日の聖書の言葉を読むと、「目が見えず口の利けない人」をイエスがいやした。

 

  读今天的圣经,耶稣治好了“又瞎又哑的人”。

 

これも、目に見えない敵との戦い。

 

  这也是和眼睛看不见的敌人斗争。

 

この人が「目が見えず口の利けない」のは、「悪霊に取りつかれて」いたから。

 

  因为那人“又瞎又哑”是因为“被鬼附着”。

 

医者が目を治療した、口や喉を治療したというのとは違う話。

 

  和医生医治眼睛,医治口、喉不一样。

 

悪霊という目に見えない敵との戦い。

 

  是和鬼这个眼睛看不见的敌人的战争。

 

そして、イエスの敵であるファリサイ派の人々(聖書を研究して、それを生活の中で熱心に実行していた人たち)も、この人が「目が見えず口の利けない」のは、「悪霊に取りつかれて」いたからだということを認めている。

 

  而且耶稣的敌人法利赛人(研究圣经,生活中积极遵守圣经律法的人)也承认那人“又瞎又哑”是因为“被鬼附着”。

 

イエスがこの人をいやした後で、イエスのことを、悪霊の頭の力で悪霊を追い出している、と言った。

 

  耶稣医治那人之后,说耶稣是靠着鬼王赶的鬼。

 

体の問題ではなくて、目に見えない敵との戦いであると認めている。

 

  承认不是身体的问题,是和眼睛看不见的敌人的战役。

 

ファリサイ派の人々は、ベルゼブルという悪霊の頭の力がイエスにあるので、イエスの言うことを聞いて、悪霊が出ていく、と言った。

 

  法利赛人说耶稣有鬼王别西卜的能力,鬼听了耶稣说的话,就出去了。

 

とんでもない話。

 

  是胡说八道。

 

他の人たちは、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言っていた。

 

  其他人说“这不是大卫的子孙吗?”

 

「ダビデの子」とは救い主のこと。

 

  “大卫的子孙”就是救世主的意思。

 

たくさんの人たちが、イエスのことを良いように見ていた。

 

  很多人视耶稣为好。

 

もちろん、それが正しい。

 

  当然这是对的。

 

人をいやしたわけだから。

 

  因为治好了人。

 

しかし、ファリサイ派の人々はイエスを認めたくないので、悪霊の頭の力で悪霊を追い出している、と言った。

 

  可是,因为法利塞人不想认可耶稣,所以说他是靠着鬼王赶鬼。

 

目に見えない敵との戦いなので、何とでも言える。

 

  因为是和眼睛看不见的敌人的争战,所以任凭怎么说都可以。

 

そして、目に見えない敵との戦いなので、それを聞いた人も確かめることができないので、本当かもしれないと思ってしまう。

 

  而且,因为是和眼睛看不见的敌人的战争,听到的人也无法辨别,所以有可能会觉得这是真的。

 

新型コロナウイルスの問題でも、いろんなことを言う人がいる。

 

  新冠病毒的问题也是,众说纷纭。

 

悲観的(ペシミスティック)な意見もあれば、楽観的(オプティミスティック)な意見もある。

 

  有悲观的意见,也有乐观的意见。

 

どれが正しいのか、私たちには確かめることができない。

 

  哪个是对的,我们无法辨明。

 

では、どうすれば良いのか。

 

  那么该如何是好呢?

 

それをイエスに教わりたい。

 

  这要向耶稣请教。

 

 

 

 

 

まず、イエスは、内輪で争っていたら、その国は成り立たない、ということを言った。

 

  首先,耶稣说,凡一国自相纷争,就成为荒场。

 

悪霊の頭が悪霊を追い出すようでは、国が成り立たない。

 

  鬼王赶鬼的话,国就不能为国了。

 

それはそう。

 

  是这样的。

 

ファリサイ派の人々は他の人たちがイエスを認めるのを止めようとして、無理やり考えたようなことを言ったが、イエスはまず、合理的(ロジカル)な話をした。

 

  法利赛人想要制止其他人认可耶稣,说了胡编乱造的话,耶稣首先讲道理。

 

こういう話に興味がない世の人が聞いたとしてもその話自体は理解できるくらいに合理的。

 

  就算是对这话题不感兴趣的人听了,也觉得这话本身可以理解,合乎道理。

 

まず最初に、合理的かどうか。

 

  首先,是否合理。

 

 

 

 

 

次にイエスは、ファリサイ派の人々に対して質問した。

 

  接着耶稣质问法利赛人。

 

「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」。

 

  “我若靠着别西卜赶鬼,你们的子弟赶鬼又靠着谁呢?”

 

ファリサイ派の人々の中にも、悪霊を追い出す人がいた。

 

  法利赛人中也有人赶鬼。

 

その人たちにも、悪霊の頭の力で追い出していると言えるのか。

 

  那些人也可以说是靠着鬼王赶鬼。

 

もしそんなことを言ったら、「彼ら自身があなたたちを裁く者となる」。

 

  如果这么说的话,“他们就要断定你们的是非。”

 

悪霊を追い出している仲間が黙っていない、ということ。

 

  赶鬼者之间就无法保持默契了。

 

それこそ、内輪での争いになって、成り立たない。

 

  这正是,自相纷争,必站不住。

 

外の人たちに対してはこう言っているけれども、仲間に対しては言えないようなことを言っている。

 

  对外人说的这话,却不能对自己的人说。

 

ファリサイ派の人々は矛盾したようなことをしている。

 

  法利赛人行事矛盾。

 

こちらで言ったことがあちらでは通用しない。

 

  这里所说的那里却行不通。

 

これも合理的、ということと似ているが、話が矛盾していないかどうか。

 

  这也跟是否合理相似,说话是否矛盾。

 

 

 

 

 

そして、イエスは言う。

 

  接着,耶稣说:

 

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 

  “我若靠着神的灵赶鬼,这就是神的国临到你们了。”

 

これはこれで、確かめることのできない話。

 

  这也是无法确认的话。

 

神の霊というのも、目には見えない。

 

  神的灵也是眼睛看不见的。

 

その意味で、ファリサイ派の人々が言う「ベルゼブルの力」と同じこと。

 

  从这意义上说,和法利赛人说的“靠着别西卜的能力”一样。

 

しかし、ファリサイ派の人々の話は合理的でなかった。

 

  可是,法利赛人的话不合理。

 

矛盾した話だった。

 

  自相矛盾。

 

だとしたら、イエスは何の力で悪霊を追い出したのか。

 

  那么,耶稣要靠什么力量赶鬼呢?

 

神の霊の力。

 

  靠神的灵。

 

そして、私たちはそれを信じて、喜んで受け入れていい。

 

  我们大家要相信,接受为好。

 

それは、神の国が自分のところに来ているということだから。

 

  因为这就是神的国临到了。

 

そう。

 

  是的。

 

神の霊の力で悪霊を追い出したというのは、神の国がそこに来ているということ。

 

  靠神的灵赶鬼,就是神的国临到。

 

国という言葉は原文では、支配という意味にもなる言葉。

 

  国这词在原文中也有支配的意思。

 

悪霊を追い出すということは、神の支配がそこにあるということ。

 

  把鬼赶出就是那里有神的支配的意思。

 

29節では、強盗の話をしているが、この強盗はイエスのこと。

 

  29节,说的是抢劫的事,也就是耶稣的事。

 

イエスが強い人を縛り上げたから、家の中のものを略奪することができる。

 

  耶稣因为捆住了壮士,就可以抢夺他家里的东西。

 

イエスが悪の支配者ベルゼブルを縛り上げたから、悪霊に支配されていた人を取り戻すことができたということ。

 

  耶稣把恶的支配者别西卜捆绑了,所以可以让被鬼附的人恢复正常。

 

神の支配がそうして実現する。

 

  神的支配就这样实现了。

 

悪の支配か神の支配かというのは、戦いによって決まる。

 

  恶的支配还是神的支配,由战斗来决定。

 

 

 

 

 

だから、イエスは呼びかけている。

 

  因此,耶稣呼吁说:

 

30節、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」。

 

  30节,“不与我相合的,就是敌我的;不同我收聚的,就是分散的。”

 

わたしに味方しなさい。

 

  和我相合吧。

 

イエスは、悪霊を追い出している。

 

  耶稣正在赶鬼。

 

悪霊を追い出して、悪霊に支配されていた人を取り戻している、集めている。

 

  赶出鬼,被恶支配的人恢复了正常,聚集在一起。

 

わたしたちは、神の国につくか、悪霊の国につくか、どちらかしかない。

 

  我们属于神的国,还是魔鬼的,只能属其中一方。

 

神の国と悪の国は戦っているのだから。

 

  因为神的国和魔鬼的正在争战。

 

神の国と悪の国が同盟する(手を結ぶ)、などということはない。

 

  神的国和魔鬼的联手结为同盟,这事不可能。

 

 

 

 

 

そして、ファリサイ派の人々に言う。

 

  并且对法利赛人说:

 

「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」。

 

  “人一切的罪和亵渎的话,都可得赦免。”

 

これは、ファリサイ派の人々がイエスを認めたくなくて、悪霊の頭の力だ、と言ってイエスを無理やり悪者にしようとしたことを言っている。

 

  这说的是,法利赛人不认可耶稣,说他靠着鬼王,硬把他当作坏人。

 

しかし、それは「赦される」。

 

  可是,这被“赦免”。

 

いや、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」。

 

 不, “人一切的罪和亵渎的话,都可得赦免。”

 

どんな罪でも赦される。

 

  不管什么罪都得赦免。

 

神の子イエスが赦してくださる。

 

  神子耶稣会赦免。

 

イエスが悪霊と戦って、勝利して、悪霊の国から取り戻してくださる。

 

  耶稣与魔鬼争战,并取得胜利,将人从魔鬼的国中收回。

 

どんな人でも。

 

  不管什么人。

 

 

 

 

 

ただ、「“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」。

 

  不过,“唯独亵渎圣灵,总不得赦免。凡说话干犯人子的,还可得赦免;惟独说话干犯圣灵的,今世、来世总不得赦免。

 

イエスは、神の霊の力で悪霊を追い出した。

 

  耶稣靠神的灵赶鬼。

 

その神の霊を無理に悪く言うことは赦されない。

 

  乱说神的灵,不能得赦免。

 

神の霊で悪霊を追い出すところには、神の国が来ている。

 

  靠神的灵赶鬼就是神的国临到。

 

だとすると、神の霊を悪く言うことは、神の国も否定することになる。

 

  那样的话,说神的灵坏话也就是否定神的国。

 

そうなると当然、その人は神の国の側についているのではなくて、悪霊の国の側についていることになる。

 

  这样的话那人当然不能进神的国,而是进了魔鬼的国。

 

これは厳しい言葉。

 

  这是很严厉的话。

 

しかし、イエスは今、戦っている。

 

  可是,耶稣现在正在争战中。

 

イエスは戦場にいる。

 

  耶稣在战场。

 

戦いの最前線にいる。

 

  在战斗的最前线。

 

そして、勝利しつづけている。

 

  并且连连胜出。

 

だから、厳しい言葉が出てくる。

 

  所以,说了很严厉的话。

 

私たちに、失われてほしくないから。

 

  因为不想失去我们。

 

私たちを取り戻したいから。

 

  因为想把我们救回。

 

私たちを取り戻すためには、命をかけて戦うおつもりだから。

 

  为了救回我们,打算拼了性命去战斗。

 

だから、ここまで一生懸命話をした。

 

  所以,在这里拼命说。

 

合理的で、矛盾のない話をした。

 

  合理的,不矛盾的话。

 

誰にでも分かるように。

 

  为了让谁都明白。

 

私たちはどうだろうか。

 

  我们呢?

 

私たち自身は、誰にでも分かるくらいに合理的だろうか、矛盾していないだろうか。

 

  我们自己,是否如人人都明白那样合理,不矛盾。

 

もしそうなら、私たちは神の側につくことができる。

 

  如果那样的话,我们就可以在神的一边。

 

いえ、その私たちを、イエスが取り戻してくださる。

 

  不,耶稣把我们带回。

 

そして、神の国に入れてくださる。

 

   并且带入神的国。