5/3 礼拝

礼拝式次第

 

 

 

「今日の礼拝を、インターネットを通してささげたいと思います。

 

今回は賛美もいたしますが、音楽は、フリーに使えるものを用いています。賛美歌の歌詞は、画面に出てきます。今日賛美しますのは575番『球根の中には』と55番『人となりたる』と65-1番『今そなえる』の3曲です。

 

自由に外に出られない現実があります。しかし、キリストは、家の中に閉じこもっている弟子たちのところにもいらしてくださいました。今、キリストは私たちの隣におられます。

 

新約聖書のローマの信徒への手紙では、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(121)ることが、真の礼拝であると言われています。礼拝はただの儀式ではなく、自分自身を神にささげて生きる私たちの生き方そのものです。

 

そして、私たちは今、神と共にあって、一つです」。

 

 

 

「今から、前奏を流しますので、心を神様に向けてください」。(1分、音楽)

 

 

 

「ただ今から、礼拝を始めます。招きの言葉。新約聖書、ヨハネの黙示録320節。

 

『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう』」。

 

 

 

「開会の祈りをささげましょう」。

 

「神様。私たちは今、あなたと出会いたいと願ってここに集まっています。どうぞ今、私たちのところにいらしてください。あなたの御心に触れさせてください。あなたの光を与えてください。私たちが、この世の暗闇の中でも、道を間違えることのないように、あなたが今、私たちを照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「罪の告白をいたしましょう。私たちは皆、神の前には罪ある者、神に逆らう者です。しかし、罪を告白するならば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます。今、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分・音楽)

 

 

 

「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。

 

一同「アーメン」。

 

 

 

「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。一同「あなたにもありますように」。

 

 

 

「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。

 

「父なる神様。あなたの御力によって、私たちの心と思いを開いてください。今から聞くあなたの御言葉を、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。

 

 

 

「子どもたちと共に御言葉に聞きましょう。子どもさんたちは前の方にどうぞ」。

 

 

 

「子どもたちと共に賛美しましょう。賛美歌575番『球根の中には』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。前奏を流しますので、その後から賛美してください」。

 

 

 

「御言葉に聞きましょう。新約聖書・マタイによる福音書1233節から37節です。お読みしてから、『力はどこから来るか』という題で説教をいたします」。

 

 

 

(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。一同「主よ、感謝します」。

 

 

 

(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)

 

 

 

「賛美しましょう。賛美歌55番『人となりたる』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。前奏を流しますので、その後から賛美してください」。

 

 

 

「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。

 

お時間がある時に封筒をご用意いただいて、献金を入れて、保管しておいてください。

 

お振込みでささげていただくこともできます。

 

献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は構いません。

 

献金をおささげした後に、賛美歌65-1番で賛美をささげ、その後に、お祈りをいたします。

 

賛美歌65-1番の歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください」。

 

 

 

(説教者による祝祷)(後奏10秒ほど)

 

 

 

「新しい状況の中で、新しい困難が皆さん様々にあると思います。

 

未来に対する不安もあると思います。

 

しかし、キリストは、私たちの苦しみを共に背負ってくださる方です。

 

そのキリストが、今、隣におられます。

 

そして、キリストは私たちに手を置いて力を与えてくださる方です。

 

キリストの力が、皆さんにあふれますように。

 

これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。

 


「自分の言葉」

 

                           自己的话

 

マタイによる福音書1233節から37

 

  马太福音1233-37

 

33「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。34蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。35善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。36言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。37あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

 

  “你们或以为树好,果子也好;树坏,果子也坏。因为看果子就可以知道树。毒蛇的种类!你们既是恶人,怎能说出好话来呢?因为心里所充满的,口里就说出来。善人从他心里所存的善就发出善来;恶人从他心里所存的恶就发出恶来。我又告诉你们:凡人所说的闲话,当审判的日子,必要句句供出来。因为要凭你的话定你为义;也要凭你的话定你有罪。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今のコロナウイルスの感染の状況をめぐって、政治家たち、専門家たちの間で熱心に議論がなされている。

 

  围绕着现在新冠病毒的感染状况,政治家、专家他们展开了热烈的讨论。

 

そうなのかもしれないと思うこともあれば、聞いている内に、いや、この前こういうことを聞いた、それとは違うんじゃないかと思うこともある。

 

  听到的内容中,或许觉得是这么回事,也有觉得和之前听到的不一样的。

 

きっと、どちらかが正しくて、どちらかが間違っている。

 

  肯定有人是对的,有人是不对的。

 

しかし、どの人も良いことを言おうとしている。

 

  可是,谁都想说好的。

 

ただ、時々は、これはこの人は自分のために言っているな、自分の立場を守りたいとか、自分を見てもらいたいとか、そのために言っているな、と思わされることもある。

 

  不过,有时候也会觉得这是那人为了自己的利益这么说的,为了捍卫自己的立场,希望大家关注自己,才这么说的。

 

いろんな思いが入り込んで、言葉が出てくる。

 

  夹杂着各种想法说出来的。

 

言葉を判断するのは難しい。

 

  判断言语的真伪是很难的。

 

だから私たちは、人の言葉をそれほど信用しない。

 

  因此我们不要如此相信人的话。

 

 

 

 

 

しかし、今日、イエスは、「言葉によって」裁きが行われると言う。

 

  可是今天,耶稣说要“根据所说的话”来审判。

 

私たちは、言ってはみたが、後から間違っていたことに気づくことはいくらでもある。

 

  我们说过的话,后来意识到错了的情况是如此之多。

 

何の気なしに言ってはみたが、後から人を傷つけていたと気づくこともある。

 

  也有无意识所说的,后来伤到了他人。

 

そして今、インターネットの世界では、まさに「言葉によって」裁きが行われている。

 

  如今,在网络世界,真的是“根据言语”在判断。

 

そういう専門家の言葉や政治家の言葉が取り上げられて、「あれは間違っていた」とか、「この人の言いたいことは分かるけれども、この言葉は良くない」と批判されたりもしている。

 

  提到这些专家、政治家的话,大家评论说“这是错的”,“虽然明白这人想说的,可是这话不大好”

 

あるいは、良いことを言っているけれども、この人は本当は自分のスポンサーのためにこういうことを言っていて、それは結局は自分のためなんだ、というような批判もある。

 

  又或者评判说,这人虽然说了好话,其实是为了自己的支持者才这么说的,其结果也是为了自己。

 

 

 

 

 

ただ、イエスの話はそれ以上。

 

  不过耶稣所说的远在这之上。

 

「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」と言われる。

 

  “我又告诉你们:凡人所说的闲话,当审判的日子,必要句句供出来。

 

これではたまらない。

 

  这可受不了。

 

しかし、イエスが本当に問題にしているのは何か。

 

  可是,耶稣真正要说的是什么问题呢?

 

「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」。

 

  “心里所充满的,口里就说出来。”

 

言葉は心の現われ。

 

  言语是内心的体现。

 

だから、本当に問われているのは心。

 

  所以,真正要问的是内心。

 

「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」。

 

  “树的好坏,看所结的果子就能明白。

 

それはそうだろう。

 

  不就是这样的吗?

 

良い実を結ぶのなら、それは悪い木とは言わない。

 

  结好果子的话,就不会说这树不好。

 

悪い実を結ぶのなら、それは良い木とは言わない。

 

  结坏果子的话,就不能说这是好树。

 

しかし、イエスは実だけを見ているのではない。

 

  可是,耶稣不只看果子。

 

木を見ている。

 

  也看树。

 

心を見ている。

 

  看内心。

 

心がないのに、言葉だけ良いことを言っていても仕方がない。

 

  没有用心只说漂亮话是没有用的

 

だから、「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい」という話になる。

 

  因此说“树好,果子也好;树坏,果子也坏。”

 

良いことを言っているように聞こえても、大事なのは木だ。

 

  即使听起来说的是好话,重要的还是树本身。

 

大事なのは心だ。

 

  重要的是内心。

 

人間同士の間では、ほんの少しの言葉を取り上げて裁くということがある。

 

  人与人之间,人家的一两句话都要拿出来说三道四。

 

そして、私たちはそれに慣れている。

 

  而且我们习惯这样。

 

実際、私たち自身、少しの言葉で傷つくこともあれば、腹を立てることもある。

 

  实际上,我们自己稍微被言语伤到就会生气。

 

しかし、神の裁きはそうではない。

 

  可是,神的审判不是这样的。

 

本当に見られているのは心。

 

  真正看重的是内心。

 

 

 

 

 

良いことを言うことで、自分が良いように思われたいという人がいれば、良いことを言うかもしれない。

 

  说好话就会被认为自己是好的,或许有人会因此而说好话。

 

しかしそれは、神の前には良い言葉ではない。

 

  可是这在神面前就是不是好话了。

 

「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」。

 

  “善人从他心里所存的善就发出善来;恶人从他心里所存的恶就发出恶来。”

 

心の中にある時から、まだ言葉になる前から、良いものは良いもので、悪いものは悪いもの。

 

  从在心里的那一刻起,尚未出口之前,善就是善,恶就是恶。

 

イエスはただ言葉だけを取り上げているのではない。

 

  耶稣不只接受所说的。

 

私たちは言葉遣いに気を付けることもあるが、そのような表面的な話ではない。

 

  我们会注意言辞,但耶稣注重的不是这类场面话。

 

 

 

 

 

まして、イエスはこう言っている。

 

  况且,耶稣说:

 

「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」。

 

  “毒蛇的种类!你们既是恶人,怎能说出好话来呢?”

 

これは、イエスを攻撃しようとした人たちのことを言っている。

 

  这说的是想要攻击耶稣的那些人。

 

その人たちのことを、「悪い人間」だ、と。

 

  说那些人是“恶人”

 

しかしここで、「蝮の子」という言葉をつかった。

 

  可是这里用的是“毒蛇的种类”。

 

これこそ悪い言葉ではないかと思ってしまうが、意味がある。

 

  大家会觉得这才是坏话吧,但这是有含义在的。

 

蝮とは毒蛇。

 

  蝮蛇是一种毒蛇。

 

では聖書では蛇とは何か。

 

  那么在圣经里,蛇是指什么呢?

 

アダムとエバをだました蛇。

 

  哄骗亚当和夏娃的蛇。

 

神から食べてはいけないと言われていた木の実があったが、蛇はアダムとエバをだまして、その木の実を食べさせた。

 

  神说过不能吃的树上的果子,蛇哄骗亚当和夏娃,让他们吃了那棵树的果子。

 

蛇は嘘をついてだました。

 

  蛇撒谎哄骗。

 

まさに、イエスを攻撃しようとする人たちは、正しくないことを言って、イエスの周りにいた人たちをだまそうとした。

 

  简直就如同想要攻击耶稣的那些人,说不义的话,哄骗耶稣身边的人。

 

蛇と同じ。

 

  他们和蛇一样。

 

事実と違う話、間違っている話だけれども、本当かもしれないと思うようなことを言った。

 

  与事实相反的话,不对的话,却说得让人觉得像是真的。

 

そうなると、アダムの子である私たちも、だまされることがないとは言えない。

 

  这样的话,就不能说我们这些亚当的后代就不会被骗了。

 

 

 

 

 

だとしたら、私たちにとって大事なことは何か。

 

  要是那样的话,对我们而言重要的是什么呢?

 

神の言葉に従うこと。

 

  遵从神的话语。

 

神を見上げること。

 

  仰望神。

 

心の中に神にいていただくこと。

 

  心里装着神。

 

そうすれば、だまされることはない。

 

  这样的话,就不会被骗了。

 

 

 

 

 

蛇はアダムとエバをだます時、その木の実を食べると賢くなる、と言った。

 

  蛇骗亚当和夏娃的时候,说吃了这树的果子就会变得聪明。

 

誰が賢くなるのか。

 

  谁会变得聪明呢?

 

食べた自分が。

 

  吃的人。

 

自分中心の考え。

 

  想着自己。

 

それが罪。

 

  这是罪。

 

しかし、心の中に神にいていただくなら、自分中心にはならない。

 

  可是,如果心里想着神的话,就不会只想自己了。

 

私たちという木が良い木であるかどうか、私たちという倉に良いものが入っているかどうかは、そこにかかってくる。

 

  我们是不是好树,我们心里所存的是不是善,与这相关。

 

 

 

 

 

しかし、私たちはアダムの子。

 

  可是,我们是亚当的后代。

 

自分中心という罪に引っかかってしまう。

 

  被自我中心这一罪给连累了。

 

もしかすると、時には、蝮の子かもしれない。

 

  或许有时候就是毒蛇的种类。

 

事実でないことを言って人をミスリードすることもないとは言えない。

 

  不能说我们不会被假象误导。

 

だからこそ、心の中に神にいていただく必要がある。

 

  正因为如此,心里装着神是必须的。

 

いや、神にいらしていただきたい。

 

  不,希望神来到我们的里面。

 

神を求めたい。

 

  寻求神。

 

世の中が揺れ動いている。

 

  世间动荡不安。

 

本当かどうか、正しいのかどうかわからない人の言葉に揺り動かされる。

 

  被那些不明真伪,不知正确与否的话所动摇。

 

その人の言葉も、アダムの子の言葉かもしれない。

 

  这人的话也有可能是亚当的后人所说的。

 

もしかすると、蝮の子の言葉かもしれない。

 

  也有可能是毒蛇的后人说的。

 

この時こそ、永遠に変わることのない神の言葉を第一に求めたい。

 

  正是这种时候,要首先寻求永不变的神的话语。

 

神様こそ、良いものを入れた倉から、良いものを出してくださる方。

 

  神正是那位因为心里存着善而发出善来的善人。

 

神様の良いものをいただきたい。

 

  希望大家得着神的善。

 

それを自分の倉に納めたい。

 

  把这份善存到自己的心里。

 

そうする時、私たちアダムの子でも、良いものを出すことができる。

 

  到那时,即使我们是亚当的后人,也可以发出善来。

 

そうすることができると、今日、イエスは、私たちに言っている。

 

今天耶稣就在对我们说,我们可以做到。