礼拝式次第
「今日の礼拝を、インターネットを通してささげたいと思います。
今回は賛美もいたしますが、音楽は、フリーに使えるものを用いています。賛美歌の歌詞は、画面に出てきます。今日賛美しますのは575番『球根の中には』と463番『わが行くみち』と65-1番『今そなえる』の3曲です。
自由に外に出られない現実があります。しかし、キリストは、家の中に閉じこもっている弟子たちのところにもいらしてくださいました。今、キリストは私たちの隣におられます。
新約聖書のローマの信徒への手紙では、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(12章1節)ることが、真の礼拝であると言われています。礼拝はただの儀式ではなく、自分自身を神にささげて生きる私たちの生き方そのものです。
そして、私たちは今、神と共にあって、一つです」。
「今から、前奏を流しますので、心を神様に向けてください」。(1分、音楽)
「ただ今から、礼拝を始めます。招きの言葉。新約聖書、ヨハネの黙示録3章20節。
『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう』」。
「開会の祈りをささげましょう」。
「神様。私たちは今、あなたと出会いたいと願ってここに集まっています。どうぞ今、私たちのところにいらしてください。あなたの御心に触れさせてください。あなたの光を与えてください。私たちが、この世の暗闇の中でも、道を間違えることのないように、あなたが今、私たちを照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
「罪の告白をいたしましょう。私たちは皆、神の前には罪ある者、神に逆らう者です。しかし、罪を告白するならば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます。今、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分・音楽)
「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。
一同「アーメン」。
「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。一同「あなたにもありますように」。
「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。
「父なる神様。あなたの御力によって、私たちの心と思いを開いてください。今から聞くあなたの御言葉を、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。
「子どもたちと共に御言葉に聞きましょう。子どもさんたちは前の方にどうぞ」。
「子どもたちと共に賛美しましょう。賛美歌575番『球根の中には』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。前奏を流しますので、その後から賛美してください」。
「御言葉に聞きましょう。新約聖書・マタイによる福音書12章38節から40節です。お読みしてから、『証拠を求めるよりも』という題で説教をいたします」。
(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。一同「主よ、感謝します」。
(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)
「賛美しましょう。賛美歌463番『わが行くみち』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。前奏を流しますので、その後から賛美してください」。
「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。
お時間がある時に封筒をご用意いただいて、献金を入れて、保管しておいてください。
お振込みでささげていただくこともできます。
献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は構いません。
献金をおささげした後に、賛美歌65-1番で賛美をささげ、その後に、お祈りをいたします。
賛美歌65-1番の歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください」。
(説教者による祝祷)(後奏10秒ほど)
「新しい状況の中で、新しい困難が皆さん様々にあると思います。
未来に対する不安もあると思います。
しかし、キリストは、私たちの苦しみを共に背負ってくださる方です。
そのキリストが、今、隣におられます。
そして、キリストは私たちに手を置いて力を与えてくださる方です。
キリストの力が、皆さんにあふれますように。
これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。
「証拠を求めるよりも」
比寻求证据更重要的
マタイによる福音書12章38節から40節
马太福音12章38-40节
38すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。39イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
当时,有几个文士和法利赛人对耶稣说:“夫子,我们愿意你显个神迹给我们看。”耶稣回答说:“一个邪恶、淫乱的世代求看神迹,除了先知约拿的神迹以外,再没有神迹给他们看。约拿三日三夜在大鱼肚腹中,人子也要这样三日三夜在地里头。
「証拠を見せてください」。
“给我们看证据”。
ずいぶん挑戦的?
很是挑衅?
そうとも言えない。
也不能这样说。
私たちも、同じ思いを抱きながら生きている。
我们也抱有一样的想法。
何か新しいことを聞く時。
听到什么新事物的时候。
それを自分で判断できない時。
无法自己判断的时候。
「証拠を見せてください」。
“让我看一下证据”。
私たち皆の言葉。
我们大家都会这样说。
私たちは今、そのような状況の中で生きている。
我们现在活在这样的情形之下。
コロナウイルスのことがあちこちでいろいろ言われている。
对于新冠病毒到处说法不一。
何が正しくて何が間違っているのかも分からない。
不知道什么是对什么是错。
もしかしたら、全部の意見が少しずつ間違っているかもしれない。
或许所有的意见都有些许错误。
私たち自身には、一つ一つの言葉を確かめる力はない。
我们自己没有能力去一一确认。
そうなると、同じ思いになる。
如此,就会有同样的想法。
「証拠を見せてください」。
“把证据给我看”。
そういうふうに言える理由はどこにあるんですか。
这样说的理由在哪里?
信じる人はイエスについてはそんなことを考えない?
信耶稣的人对待耶稣就没这么考虑吗?
十二弟子の一人のトマスは復活を信じなかった。
十二门徒中有一个叫多马的不相信耶稣复活了。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。
“我非看见他手上的钉痕,用指头探入那钉痕,又用手探入他的肋旁,我总不信。”
私たちは、聞いたことのないことを聞く時、それが自分の常識に収まらないような話だったら、証拠がない限り信じない。
我们听到未曾听闻过的事情时,如果是自己的常识无法接受的事情,没有证据就不会相信。
それが私たちの常識。
这是我们的常识。
イエスは言った。
耶稣说。
「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。
“ 一个邪恶、淫乱的世代求看神迹,除了先知约拿的神迹以外,再没有神迹给他们看。”
「しるしを欲しがる」のは、「よこしまで神に背いた時代の者たち」。
“求看神迹”的是“邪恶、背弃神的世代的人们”。
時代が悪いのか。
是时代不好吗?
証拠を求めるのは私たちだけではない。
寻求证据的不只是我们。
いつの時代でもそうだろう。
不管什么时代都是。
「時代」という言葉は「生まれる」という言葉が変化したもの。
“时代”是“出生”变化过来的。
私たちは、「よこしまで神に背いた生まれの者」。
我们是“因罪恶背离神而生的”。
聖書で言うと、アダムとエバが神に背いて以来、ずっとそう。
经上说,自亚当夏娃背弃神以来,一直都是这样的。
時代のせいではない。
不是时代的问题。
私たちの問題。
是我们的问题。
「神に背いた」という言葉は、偶像崇拝を意味する言葉。
“背离神”是偶像崇拜的意思。
しかし、律法学者やファリサイ派の人々が神でないものを神にして拝んでいただろうか。
可是,文士和法利赛人是将不是神的东西当神来拜了吗?
そういうことはないだろう。
不是这样的吧。
だとすると、この人たちが「しるしを欲しがる」ことが、神でないものを神にしていることだと言われていることになる。
那么,那些人“想看神迹”意思就是,说耶稣将不是神的东西当神了。
考えてみると、「証拠を見せてください」というのは、自分と相手が対等か、自分の方が上である場合に言えること。
仔细想一想,“给我看证据”是在自己和对方是平级或者说自己处于上级的情况下可以说的话。
私たちは、政治家に対して、証拠を見せてくださいという気持ちになることがある。
我们对于政治家有时会想索要证据。
それはある意味で、政治家よりも有権者の方が上だから言えること。
某种意义来说,因为比起政治家,有权利者在他们之上,所以可以说。
ただこの場合、律法学者やファリサイ派の人たちは、イエスに対してしるしを求めている。
不过,文士和法利赛人向耶稣求看神迹。
奇跡を見せろと言うこと。
说给我们看神迹。
あなたが神の元から来たという証拠を見せてみろ、と神の子に対して言っている。
对神子说,让我们看你是从神而来的证据。
それでは、よこしまで神に背いていることになる。
这就是因恶背离了神。
しかしそれでも、与えられるしるしがある。
可是即便如此,还是有神迹给他们看。
ヨナのしるし。
约拿的神迹。
旧約聖書に『ヨナ書』があるが、ヨナは預言者。
旧约有《约拿书》,约拿是先知。
ヨナは神様から言葉を預かる。
约拿得着神的话语。
このままではある町に神の怒りが及んで、その町が滅びることになるから悔い改めなさい、と伝えよ。
要他去传达:神的愤怒临到了一个城,这城要灭了,所以大家要悔改。
ヨナはそれをするのが嫌で逃げ出した。
约拿不想这样做就逃走了。
逃げ出して船に乗ったけれども、その船が沈んで、大きい魚に飲み込まれて、三日三晩、魚のお腹の中にいた。
逃出去上了船,但是船沉了,约拿被大鱼吞了,在鱼肚中三天三夜。
それから、陸地に吐き出された。
后来,被吐在陆地上。
それと同じように、イエスも三日三晩、「大地の中にいることになる」。
与这相同,耶稣也要三天三夜,“在地里头”。
つまり、死んで葬られる。
就是死后埋葬。
しかし、それは三日三晩。
但是,那可是这三天三夜。
その後に復活する。
之后复活。
復活は奇跡。
复活是神迹。
しるし。
是证明。
しかし、どうして「しるしは与えられない」と言いながら、復活の話をほのめかすのか。
可是为什么说“不给看神迹”,却又要暗示复活呢?
イエスが三日目に復活する、というのは、人が求めたしるしではない。
耶稣第三天复活不是人们所求的神迹。
復活してみせてくださいと求めた人はいない。
没有人说要看复活的神迹。
しかし、予告したとおりに復活してくださった。
可是,正如预言的那样复活了。
復活して「くださった」というのは、それが私たちのためであったから。
因为复活是为了我们。
私たちは、よこしまで神に背いている。
我们因恶背离了神。
その私たちに、ヨナの話にあったように、神の怒りが迫っている。
正如约拿书中写的那样,之于我们,神的愤怒临近了。
その神の怒りを、キリストが私たちの代わりに引き受けてくださった。
基督代替我们领受了神的愤怒。
その後に死の力に打ち勝って復活して、今もその力で、私たちを導いてくださっている。
之后战胜了死亡复活了,现在也是用这大能引领我们。
誰も求めなかったしるし。
谁都没有求看的神迹。
誰も求めなかったしるしが与えられた。
给我们看了这谁都没有求看的神迹。
イエスは、人がしるしを求めて、しるしを与えるという仕方で、人とつながりたいのではない。
耶稣并不是那种,人求看神迹,他就给看,以这种方法与人交通。
イエスの方からしるしを与えてくださる。
他给我们看神迹。
それも、この私のために死んでくださる。
这也就是为我们死。
この私のために復活してくださる。
为我们复活。
そして、この私を導いてくださる。
并且引领我们。
私たちが、そのイエスを信頼すること。
我们要信这位耶稣。
それが、私たちとイエスのあるべき関係。
这是我们和耶稣该有的关系。
私たちは、イエスを信頼してよい。
我们信耶稣就好。
しるしは必要ない、とイエスは言っている。
耶稣说,不需要神迹。
だから、しるしは与えられない。
所以,他没有给大家看神迹。
私たちのために命を投げ出してくださる方に、しるしを求める必要はない。
没有必要向为我们献出生命的那位求神迹。
このようなときだからこそ、イエスに信頼したい。
正因为是如今这样的时刻,希望大家信靠耶稣。
政治家や専門家が何を言ったとしても、実際にこれからどういう状況になっていくのかは分からない時代。
不管政治家专家说什么,实际上接下来会是什么情况谁都不清楚,如今是这样的时代。
そして、政治家や専門家は私たちに対する責任を完全に果たしてくれるわけではない。
而且,政治家、专家不会对我们完全尽责。
しかし、私たちには、完全に責任を果たしてくださる方がおられる。
可是,有人对我们完全负责。
その方を信頼しよう。
相信他吧。
しるしは与えられない。
不用给我们看神迹。
その方は、私たちの信頼を裏切らないから。
因为他不会辜负我们对他的信赖。