礼拝式次第
「今日の礼拝を、インターネットを通してささげたいと思います。
今回は賛美もいたしますが、音楽は、フリーに使えるものを用いています。賛美歌の歌詞は、画面に出てきます。今日賛美しますのは575番『球根の中には』と441番『信仰をもて』と65-1番『今そなえる』の3曲です。
自由に外に出られない現実があります。しかし、キリストは、家の中に閉じこもっている弟子たちのところにもいらしてくださいました。今、キリストは私たちの隣におられます。
新約聖書のローマの信徒への手紙では、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(12章1節)ることが、真の礼拝であると言われています。礼拝はただの儀式ではなく、自分自身を神にささげて生きる私たちの生き方そのものです。
そして、私たちは今、神と共にあって、一つです」。
「今から、前奏を流しますので、心を神様に向けてください」。(1分、音楽)
「ただ今から、礼拝を始めます。招きの言葉。新約聖書、ヨハネの黙示録3章20節。
『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう』」。
「開会の祈りをささげましょう」。
「神様。私たちは今、あなたと出会いたいと願ってここに集まっています。どうぞ今、私たちのところにいらしてください。あなたの御心に触れさせてください。あなたの光を与えてください。私たちが、この世の暗闇の中でも、道を間違えることのないように、あなたが今、私たちを照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
「罪の告白をいたしましょう。私たちは皆、神の前には罪ある者、神に逆らう者です。しかし、罪を告白するならば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます。今、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分・音楽)
「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。
一同「アーメン」。
「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。一同「あなたにもありますように」。
「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。
「父なる神様。あなたの御力によって、私たちの心と思いを開いてください。今から聞くあなたの御言葉を、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。
「子どもたちと共に御言葉に聞きましょう。子どもさんたちは前の方にどうぞ」。
「子どもたちと共に賛美しましょう。賛美歌575番『球根の中には』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。前奏を流しますので、その後から賛美してください」。
「御言葉に聞きましょう。新約聖書・マタイによる福音書12章41節から45節です。お読みしてから、『私たちは神の家』という題で説教をいたします」。
(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。一同「主よ、感謝します」。
(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)
「賛美しましょう。賛美歌441番『信仰をもて』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。前奏を流しますので、その後から賛美してください」。
「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。
お時間がある時に封筒をご用意いただいて、献金を入れて、保管しておいてください。
お振込みでささげていただくこともできます。
献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は構いません。
献金をおささげした後に、賛美歌65-1番で賛美をささげ、その後に、お祈りをいたします。
賛美歌65-1番の歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください」。
(説教者による祝祷)(後奏10秒ほど)
「新しい状況の中で、新しい困難が皆さん様々にあると思います。
未来に対する不安もあると思います。
しかし、キリストは、私たちの苦しみを共に背負ってくださる方です。
そのキリストが、今、隣におられます。
そして、キリストは私たちに手を置いて力を与えてくださる方です。
キリストの力が、皆さんにあふれますように。
これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。
説教「私たちは神の家」
讲道“我们就是神的家”
マタイによる福音書12章41節から45節
马太福音12章41-45节
41ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。42また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
当审判的时候,尼尼微人要起来定这世代的罪,因为尼尼微人听了约拿所传的,就悔改了。看哪,在这里有一人比约拿更大。当审判的时候,南方的女王要起来定这世代的罪,因为她从地极而来,要听所罗门的智慧话。看哪,在这里有一人比所罗门更大。”
43「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。44それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。45そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
“污鬼离了人身,就在无水之地过来过去,寻求安歇之处,却寻不着。于是说:‘我要回到我所出来的屋里去。’到了,就看见里面空闲,打扫干净,修饰好了,便去另带了七个比自己更恶的鬼来,都进去住在那里。那人末后的景况比先前更不好了。这邪恶的世代也要如此。”
先週の話の続き。
是上周话题的延续。
今日は、裁きの時の話。
今天是审判之时的话题。
世の終わりの話。
末世的话题。
世の終わりには、すべての人が神の前に立ち、裁きを受ける。
末世的时候,所有的人都要站在神的面前,接受审判。
ずっと昔に地上での人生を終えて、お墓の中で休んでいた人たちも、世の終わりの時には神の前に立つことになる。
很久以前就已经结束地上的人生,在墓中安歇的人也要在末世站到神的面前。
我昨天在网上出席了葬礼。
オーストラリアの教会での葬儀。
是澳大利亚教会的葬礼。
私の妻のいとこの葬儀。
是我妻子表兄的葬礼。
妻のいとこは60才だった。
妻子的表兄60岁。
ガンが全身に転移して、治療らしい治療もできないまま、ホスピスに入り、そのすぐ後に天に召された。
癌细胞转移到全身,连治都没办法治,进了重症患者医院,之后不久就回天家了。
今の状況のために、親戚たちは誰もオーストラリアに行くことはできず、私たち家族の写真とメッセージだけを届けて、インターネットで葬儀に出席した。
因为现在的状况,亲戚们谁都无法去澳大利亚,我们只送去了家人的照片和问候,在网上出席了葬礼。
妻のいとこは、牧師に対して、自分の葬儀で4つのことを話すように言った。
妻子的表兄让牧师在自己的葬礼上说了四点。
救い、罪の赦し、人生の意味、永遠の命。
救赎、罪的赦免、人生的意义、永生的生命。
自分が天に召されるに当たって、最後の最後に、のこされた人たちに、そのことを改めて伝えたかったのだろう。
在自己即将归天的最后时刻,想要郑重地传达给留在世间的人。
人生の最後の最後に、伝えたいこと。
人生的最后想传达的信息。
救い、罪の赦し、人生の意味、永遠の命。
救赎、罪的赦免、人生的意义、永生的生命。
これは、ある意味で、今、イエスが伝えたいことも同じではないか。
这从某种意义来说和现在耶稣想要传达的内容一样,不是吗?
罪に定められないように、ということで、今日イエスは話をしている。
耶稣今天在跟我们讲述不要被定罪。
それは逆に言って、救い、罪の赦し、人生の意味、永遠の命といったことを伝えたいと思っておられるということ。
这反过来说就是想要传达救赎、罪的赦免、人生的意义、永生的生命。
イエスが語り、また、人が最後の最後に、残される人たちに伝えたいと思うこと。
耶稣述说的,以及人在最后的时刻想要传达给尚在世上的人的话。
それを私たちは今、聞いている。
我们此刻正在聆听。
裁きの時には、ニネべの人たちが、今の時代の者たちを罪に定める。
当审判的时候,尼尼微人要定这世代的罪。
ニネべの町の人々はヨナの説教を聞いて悔い改めた。
尼尼微人听了约拿的讲道悔改了。
ヨナが神様の言葉を伝えて、「このままではニネべの町に神様の怒りがくだる」と言ったところ、悔い改めた。
约拿传讲神的话语,一说到“这样下去,神的愤怒将要临到尼尼微城”,人们就悔改了。
今の時代の人たちはと言うと、「よこしまで神に背いた時代の者たち」だと言われていた。
如今这时代的人被说成是“因罪恶背弃神的时代的人”。
しるしを求める。
求神迹。
証拠を求める。
求证据。
イエスに対して、あなたが神の元から来たというのなら、証拠を見せてください、という感覚。
如果你从神而来的话,就把证据给我们看,对耶稣是这种感觉。
イエスが本物かどうか、私が判断します、という気持ち。
耶稣是不是真的,由我来判断,是这种想法。
イエスより自分が上。
自己在耶稣之上。
悔い改めるつもりなど最初から無い。
一开始就没打算要悔改。
ニネべの人たちは、ヨナの話を聞いて悔い改めた。
尼尼微人听了约拿的话悔改了。
今の時代の人たちは、イエスの話を聞いても、悔い改めない。
如今这世代的人,即使听了耶稣的话,也不悔改。
南の国の女王の話も、旧約聖書の話。
南方的女王也是旧约的故事。
南の国の女王は、ソロモンというイスラエルの王様の知恵を聞くために、アフリカから旅をしてきた。
南方的女王为了要听以色列王所罗门的智慧话,从非洲赶来。
そのソロモンの知恵は、神から与えられたもの。
所罗门的智慧来自于神。
神の知恵を聞くために、何日もかけて旅をした。
为了聆听神的智慧,历经长途跋涉。
しかし、今の時代の人たちは、イエスが神の元から自分たちのところに来てくださっているのに、話をまともに聞こうとしない。
可是,现如今的人们,虽然耶稣从神那里来到我们这里,却不想正经听耶稣的话。
だから、ニネべの人たちは今の時代の人を裁く。
所以,尼尼微的人要审判这世代的人。
南の国の女王も今の時代の人を裁く。
南方的女王也要审判这世代的人。
イエスは言っている。
耶稣说。
神の言葉を聞いて、悔い改めなさい。
要听神的话语,要悔改。
それだけが正しいことだ。
只有这是对的。
43節からは、別の話に変わっているように聞こえる。
43节开始听起来像是改变了话题。
しかし、この話はつながっている。
可是,和这话题是有关联的。
45節の最後でイエスは、「この悪い時代の者たちもそのようになろう」と言っている。
45节的最后说“这罪恶世代的人也要如此。”
では、神の言葉を聞いても悔い改めない時代の人たちは、どうなるのか。
那么,听了神的话语也不悔改的世代的人,会怎样呢?
汚れた霊が人から出ていくという話。
将污鬼从人的身体里面赶出去的故事。
イエスは、この少し前の場面で、汚れた霊を追い出した。
在这稍前的内容,是耶稣赶鬼。
汚れた霊は休む場所を探すが、見つからない。
污鬼寻求安息之处,却寻不着。
そこで、「出て来たわが家に戻ろう」と言う。
于是说,“我要回到我所出来的屋里去。”
恐ろしい話。
太可怕了。
汚れた霊にとって私たちは、「わが家」。
对污鬼而言我们是“家”。
汚れた霊にとって私たちは、一番落ち着く場所。
对污鬼来说我们是最安心的地方。
そして、驚いてしまうこと。
并且,惊讶的是。
戻ってみると、家は空き家になっていた。
回来后发现,家已成空屋。
悪霊が出て行くと、私たちは空き家になる。
恶灵一出去,我们的里面就空了。
私たちとは一体何なのか。
我们到底是什么呢?
空き家になってしまったら、誰かが勝手にそこに住んでいても、分からない。
空屋的话,不管谁随意进来住,都不得知晓。
私たちは、まったく守られていない状態。
我们完全无法守护的状态。
今は、コロナウイルスの影響で、ずっと家にいる人が多い。
现在,因为新冠病毒的影响,很多人一直都在家。
泥棒が困っている。
小偷很为难。
家の中に人がいるから、家の中にこっそり入ってお金や物を盗むということができない。
因为家中有人的话,就不能偷偷溜进家中盗取财物。
しかし、イエスは、私たち自身を家の建物にたとえている。
可是,耶稣把我们比作房子。
家の中にいる私たちではなく、家そのものが私たち。
不是在家中的我们,而是家本身就是我们。
悪霊は私たちという家の中から追い出された。
恶灵从我们的里面被赶了出去。
しかし、私たちという家の中には、誰もいなくなった。
可是,我们的里面谁都没有。
私たちは、私たちという家の中に、誰かに住んでいただかなければならない。
我们的里面必须要有人住。
それは私たち自身ではない。
这不是我们自己。
私たち自身は、家の建物。
我们自己是建筑物本身。
私たちは、誰かが住む場所。
我们是要有人来住的地方。
イエスは、私たちの中に住んでいた悪霊を追い出してくださる。
耶稣住到我们的里面将恶灵赶出去。
ただ、その後に私たちは、誰に住んでいただくのか。
可是这之后谁住到我们的里面呢?
それが大事。
这很重要。
ここで、家は「掃除をして、整えられていた」と言われている。
这里说,家里“打扫干净,修饰好了。”
どうして空き家になっていたのに家の中がきれいになっていたのか。
为什么空空的家里却很干净呢?
これは、イエスが前に悪霊を追い出した時のことを思い出す。
这就想起了耶稣之前赶鬼时的事。
イエスは悪霊を追い出したが、そこにいた聖書の専門家たちは、イエスの力は悪魔の力だと言った。
耶稣赶鬼,那里的文士说,耶稣的大能是魔鬼之力。
その、聖書の専門家たち。
那些文士。
この人たちはイエスを認めないが、聖書をしっかり読んで、聖書に従って生きていこうとしていた人たち。
他们不认可耶稣,却拼命读圣经,想要遵循圣经的戒律而过活的人。
言ってみれば、自分の心をきれいに掃除して、整えようとしていた人たち。
说起来就是将自己的内心扫除干净,好好修饰的人。
それはそれで良いこと。
这是好事。
しかし、聖書を読んで、聖書に従うだけでは、家は空き家なんだとイエスは言う。
可是,耶稣说只读圣经,遵从圣经的话语,家就成了空屋。
聖書を読んで聖書に従うなら、家の主人は神ではないのか。
读圣经,遵从圣经,家里的主人就是神了吗?
そうではない、とイエスは言う。
耶稣说并不是的。
今の時代の人たちはどういう人たちだったか。
现时代的人是怎样的人呢?
イエスに対して、あなたが神の元から来たというのなら、証拠を見せてください、という感覚。
你若是从神而来的话,把证据给我们看,对耶稣是这种感觉。
判断するのは私です、という感覚。
判断在我,是这种感觉。
これでは、イエスも神も、家の主人にはなれない。
这样的话,耶稣也好,神也好,都不能成为家的主人。
聖書をいくら読んでいても、聖書の通りに生活していても、それは、家の中を掃除して、整えて、というくらいのことにしかならない。
不管圣经读多少,照着圣经过活也好,这也只能是将家中打扫干净,修饰好这程度而已。
そして、それでは意味がない。
而且,这是没有意义的。
戻ってきた悪霊は、家の中がきれいになっているのを見て、ああ、もうこの家には住めないなと思ったかと言うと、そうは思わなかった。
回来的恶灵看到家中变干净了,不会觉得这家已经不能住了。
それどころか、掃除して、整えられているから、もっとたくさんで住むことができる。
而且,因为打扫干净,修饰好了,可以住更多的人。
自分よりも悪いほかの七つの霊を連れてきて、住むことになる。
便去另带了七个比自己更恶的鬼来,住了进去。
聖書で心を整えても、家に主人がいなかったら、悪霊にとっては良いことしかない。
圣经说即便将内心收拾好了,里面没有主人的话,对恶灵来说只会是好事。
これは気を付けたいところ。
这是希望大家注意的地方。
私たちも自分の心を整えるということをするが、私たちがその時、自分はきちんと真面目に生きている、と思うなら、それは、悪霊にとっては一番都合がいい状態。
我们大家休整身心,但是如果觉得这时候自己是好好地认真过活的话,对恶灵来说是最好的状态。
聖書の専門家たちがそうだった。
文士就是这样的。
この人たちは、聖書に従って生きている自分たちは神の前に正しい者だと思っていた。
这些人觉得遵从圣经而过活的自己在神面前就是义人。
しかし、その状態は、悪霊にとって一番良い状態。
可是,这状态对恶灵来说是最好不过了。
自分の心を自分で整えても、私たちは悪霊に勝つことはできない。
即便自己调整身心,我们也无法胜过恶灵。
それだけでは、私たちの状態は前よりも悪くなると言われている。
说到只是这样的话,我们的情况会比之前更糟。
これは、本当に気を付けたいところ。
这真的是希望大家要注意的。
今、家にいる時間が長くなり、一人で自分に向き合う時間が増えたという人も多いだろう。
现在在家的时候变长,一个人面对自己的时候也多了吧。
また、コロナ鬱という言葉もあるが、外に出られないストレスを抱えている人も多いだろう。
另外,还有新冠抑郁的词也出现了,不能出去而产生压力的人也有很多吧。
そうなると、私たちは、自分の心を整えるということをしないわけにはいかない。
那样的话,我们必须要调整自己的身心。
家族と過ごす時間が増えたという人も多いだろう。
和家人一起的时间也多了吧。
そうなるとなおさら、家族と良い時間を過ごすために、心を整える必要がある。
这样的话为了和家人共度好时光,也有必要调整身心。
しかし、私たちが心を整えても、それだけでは、悪霊を喜ばせるだけ。
可是,我们即便调整身心,只是这样的话,只会让恶灵欢喜。
大事なのは、私たち自身がニネべの人たちのようになること。
重要的是,我们自己要和尼尼微人一样。
南の国の女王のようになること。
和南方的女王一样。
神の言葉を自分自身よりも上に置いて、悔い改めること。
把神的话语放在自己之上,要悔改。
それが、神に自分という家の主人になっていただくということ。
这就是让神成为我们自己“这个家”的主人。
そのことを、心したい。
希望大家把这点放在心上。
神の言葉は掃除道具ではない。
神的话语不是清扫的工具。
私たちを悔い改めさせ、私たちに罪の赦しを与え、私たちを神のものとする力。
是为了让我们悔改,让我们罪得赦免,让我们归向神的力量。
在我妻子表兄的葬礼上,牧师说到:
父親は子どもたちに遺産(レガシー)を残したいと考えるが、妻のいとこは、家族に信仰を残していった。
父亲想着要给孩子们留遗产,而妻子的表兄留给家人的却是信仰。
最期まで、妻のいとこは取り乱すようなことはなかった。
一直到最后,妻子的表兄都没有失去理智。
むしろ、いつも通りに明るく振る舞った。
甚至可以说一直都很通透。
そして、家族がホスピスにやって来ると、家族を気遣って、「暗い顔をするな、これも神のご計画だから、神をうらんではいけない、明るく楽しく生きていきなさい」と言った。
而且,家人来重病患者医院的时候,担心家人,跟他们说“不要难过,因为这也是神的计划,不要憎恨神,要乐观向上地活下去。”
葬儀の中で牧師は、アウグスティヌスという古代の神学者の言葉を引用した。
在葬礼中,牧师引用了古代神学家奥古斯丁的话。
神は私たちをご自身に向けておつくりになった。だから、私たちの心は神のうちに安らぐまで、安らぎを得ることができない。
神想要我们归向他,所以直到我们的心安定在神的里面为止,我们都无法获得安宁。
妻のいとこは、神の内に安らいでいた。
妻子的表兄,在神的里面安息了。
その息子さんは、父の様子を見て、自分が父の死を見ることは何も悲しいことではないと知った。
他的儿子,看到父亲的样子,看到自己父亲的死,知道不是什么伤心的事。
父は息子に、信仰を残した。
父亲留给儿子信仰。
救い、罪の赦し、人生の意味、永遠の命。
救赎、罪的赦免、人生的意义、永生的生命。
すべて、神が与えてくださる。
所有一切神都恩赐。
心配することはない。
不用担心。
心を掃除して整えるなどという次元のことではない。
不是调整身心这等程度的问题。
神の内に生きる時だけが、私たちにとって本当に生きている時。
只有活在神的里面,才是我们真正活着的时刻。
私たちは、神を家の主人にする必要がある。
我们必须要让神成为我们的主人。
これからも、神の言葉に聞きつづけたい。
希望大家今后也要继续聆听神的话语。
神の言葉を、神の言葉として聞いていきたい。
希望大家把神的话语当成神的话语来听。
その度に悔い改め、罪の赦しをいただきたい。
那时要悔改,罪就得赦免。
私たちという家を、神の家にしよう。
让我们自身成为神的家吧。